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聞いてもよろしいでしょうか

「えっと……」

『俺が神社に行ってる時、何かあったみたいだね。連絡があったよ』


 頭の中で観月が親指を上げながらこくりと頷いた。

 たしかに訊ねようとはしていたけれど、言葉にするにも難しい、感覚的な疑問である。何度か「えっと」を繰り返して、


「近頃、記憶がおかしいと思うのです」「どこかぼんやりとしていて」「今の私は本当の私ではないような気がするのです」


 以上を伝えた。優しい彼は根気強く聞き続けてくれて、こう答えた。


『うん。俺が関わってる。ごめんね』


 あっさりである。


『今の件が片付いたら、元に戻すよ。明日で全部終われそうな気がするし』


 明日、全部終われそう。

 彼の穏やかな声の中で、それが引っかかった。なんだろうか。事態が収束するというだけのことなのに、この生活そのものが終わってしまうような危機感がある。

 否。

 寂しさだろうか。

 自分の中の違和感がすべて解消されて、以前までの自分に戻る。――それは彼に、今のような甘え方ができなくなるということ。彼への恐怖、その根源を思い出してしまう。変わるのは生活でなくて、彼でもなくて、自分なのだ。

 みやは咄嗟に、


「聞いてもよろしいでしょうか」

『なに?』

「私の記憶や感情の異変に、蓮見さまが関わっていると言いましたね。私がそれを知ったら、また以前のように、私は……あなたを恐れなければいけないのでしょうか」

『そうなるだろうね』

「絶対に?」

『君の心次第だけど』

「……もう一つ、いいですか」

『なに?』

「どうして、私をこんな風にしたんですか」


 用意していたのかというほど滑らかだった返答が、ここで止まった。


『…………。』

「私の名前を使ったのでしょう。あなたでなければ、私の頭や記憶を弄ったりできないはずです。どうしてこんなことを?」


 沈黙した。みやは彼の答えを待つ。この違和感が彼の仕業だとしたら、現状こそが彼の望む生活であるはずだ。きっと彼は、許嫁から向けられる恐怖に嫌気がさしたのだと、みやは推測する。であれば、松野愛理の件がどうなったとしても、この操作を解く必要もない。

 彼は何を考えて、こんなことをしたのだろう。

 みやは、怒ってはいない。

 ただ寂しいと思った。

 天井の水滴が滴り落ちてくる。――ぽちゃん、


『ただ君が……、いや、なんでもない。無意味だった。意味なんて無い。理由も無いよ』

「……無意味」

『だからあの軽率な行いを反省している。君の心を弄んだ。正しくないことだ』


 その返答を聞いて、みやは腹を括った。ちょっとおかしな方向に。


 お湯を沸かす実験を、映像で見たことがある。ビーカーに水と味噌を入れたものを、三脚と金網とアルコールランプで加熱するのだ。火をつけて置いておくと、水の中で味噌が動く。下から送られる熱が水中で巡る様子を、溶けていく味噌の動きで伝えてくれた。――それでも水面は穏やかだった。

 それと似たものを、みやは腹の底で感じている。

 彼のことは大好きだ。もうこの際、自分の頭を操作していた事実については目を瞑ろう。

 ただ、この操作に意味はあると思う。

 無意味でたまるか。

 おまじないだか何だかに脅かされる自分は、今も彼に心から甘えて縋って、平穏を保っているのだ。

 みやの心の中に、これまでの小さな不満が沸いていった。お湯の中の味噌のようにぐるぐると。不満が溶けて、透明な心の中が濁っていく。

 そもそも彼は優しすぎる。ついでに女性に人気すぎる。


「上がります」


 うん、と返答があってきっちり三秒数えると、扉を開けた。みやは無言で体を拭き、下着を着けた。そして寝間着を着用――は、しなかった。

 そのまま、背を向けている蓮見の前に回り込む。


「みや?」

「目を開けてもいいですが、私はまだ着物を着ていません」

「は……?」


 こう言えば、彼は目を開けられないことは解っている。

 半裸状態のみやから距離を取ろうと、彼は一歩下がった。混乱はしていても理性的な行動だ。

 ――精々、紳士を貫けばいい。私はその間にも、好き勝手できるのだから。

 みやは遠慮なく、その距離を詰めた。目を閉じたままの彼の前に立ち、


「これから私にしか許されないことをします」

「君にしか? ……――ッ!?」


 彼の両肩に手を置いた。爪先立ちになって、こういうことですよと示した。彼の顔を見る。震える睫毛は動揺からだろう。彼がやんわり距離を離そうと伸ばした手が、みやの裸の腹部に触れた。「あ、ごめん……」「いえ」どう考えても加害者はみやである。

 みやの目は据わっている。


「ちょっと、落ち着こうか」

「嫌ですか?」

「そんなことないけど」


 即答だ。

 意思確認は済んだ。

 常よりもずっと様子のおかしいみやは、自分の様子がおかしいことなどまったく気づかず、己の感情のまま、彼に顔を近づけて、


「……ん」


 ふに、

 触れた。約二秒である。

 雰囲気もセオリーもへったくれもない脱衣所で、半裸で年下の許嫁にキスを強行された彼は、今度こそ沈黙した。

 腹いせ終了。

 なかなかの戦果だと、みやは思った。


「他の方とは、できない、でしょう」


 唇がまだ触れそうな距離で、ぽそりと囁いた。――その瞬間、彼の手がぴくりと動いて、みやにまた触れそうだったことには気づかない。理性で押さえつけられた情動など、微塵も知らない。

 みやは常日頃の慎ましい己を忘れたまま、あまつさえ異様に誇らしい気持ちにすらなって、彼から離れる。今度こそ寝間着を手に取った。


「ご存知ではないでしょうが、貴方を怖がっていた私も、心の底で蓮見さまをお慕いしていたのは事実です。ですから、私がこうして好意を主張できる今を、無意味とは仰らないでいただきたいです」


 答えはない。


「私の相手があなたであることを、幸せに思います」


 答えはない。彼はやっと手を動かして、自分の口を押えた。


「それに、私を好いてくれることも」


 答えはない。彼はぴくりと動いたけれど、ひたすら沈黙している。


「失礼をいたしました。もう目を開けて大丈夫ですよ」


 みやは寝間着を着付け終えた。

 目を開けた蓮見の顔は、少々赤い。自分の手を口に当てたまま、ぼそりと。


「君は意外と男前、というか……積極的というか」

「頑張りました」

「それに俺の気持ちがバレてたって、……隠してはいないし、駄々洩れだったとは思うけど、君の口から聞くと……、いやその前に、なんでいきなり?」


 まだ赤みの引かない彼に、みやは答える。自分なりに理由のある行動だった。


「以前までの私に戻ったら、嫌われてしまうかもしれません。もしかしたら蓮見さまは、他の女性を好いてしまうのかも。だからその前に、最初だけは、私がほしくて。だからこんな、大胆なことを……頑張って、しまい……」


 勢いがなくなっていく。徐々に思い出していく。自分の声で先の行動を振り返るうちに、やがてそれがとんでもなく身勝手な行いであると自覚する。

 何より、先の不満より圧倒的な熱量で、急速に煮え滾る感情があった。


 恥ずかしい。


 なんだこれ、恥ずかしい。

 己を取り戻したみやがおそるおそる彼を見ると、――笑顔だった。にっこりと、底の知れない笑みでもって、こちらを見つめている。

 逃げるしかない。


「……わ、忘れてください……!」


 そう言って出口へ向かうけれど、二歩も進まないうちに後ろからがっしりと捕まえられてしまった。とんでもない瞬発力である。


「ほら、不用意に一人にならないで」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」

「すごい慌てようだね」


 腰に右腕を回されて、左手首は彼の大きな左手に捕えられ、二進も三進もいかない。みやはひたすらごめんなさいを言うけれど、彼は許してくれる気はないらしい。あははと爽やかに笑う声を、みやは地獄の門が開いた心地で聞いた。

 こちらがどんなに強気に出たところで、ここでの強者は彼なのだ。


「やられっぱなしでいるのは嫌だな」


 世にも恐ろしい福音を聞いた心地だった。優しくて怖い。


「君から手を出したんだから、いいよね、今日くらい。さっき君が言ったとおり、こうしても許される関係なんだし」


 悲鳴を上げそうだった。

 彼の腕は、みやの腰に巻き付いている。彼の体が背中に密着している。放してくれない、どうしよう。どうしたらここから逃げられるんだろう。放してくれない。心臓がうるさい。彼に聞こえちゃう、あ、いま笑った、絶対に聞こえてる、恥ずかしい、顔が熱い、放してくれない。

 みやは頭の中で数分前の自分に平手打ちしながら、真っ赤な顔を俯かせた。羞恥が極まって震える体を、彼は楽しんで押さえ付けてくる。

 みやの首筋に甘えるように耳を当てられて、腰にあった手もすすすと上に移動して、その手が胸に当てられた。妖しい意味はなく、純粋にそうして抱き込んで、みやの中の音を確かめているようだ。


「すごいな。脈が速い。緊張してる?」

「……もくひ、します」


 掴まれていた手首が、かり、と悪戯に引っ掛かれた。これはセクハラだと言ってしまうと、それなら先の自分の行動は何なんだということになる。

 みやは、だから何も言えなかった。

 この辱めに耐えようと、平静を保つ努力をしたい。


「一晩慰められるって前に言ってたけど、俺が応じていたらどうするつもりだったのかな? これくらいの接触でこうだと、大変だよね」

「それはだって、あの時は色々とあって、心配でしたし、ほ、本当にできると思って、」

「でも実際こうなってみて、どう?」

「……う」


 耳元で囁かないでほしい。

 身じろぐたびに、衣擦れの音がする。


「自分がやるのはいいけど、俺にされると恥ずかしいのかな?」

「自分でというのも、さっきのも、正気ではなかったと言いますか、」


 今さっき洗ったばかりの髪からシャンプーの匂いがして、まだ湯を浴びていない彼からは彼の匂いがして、それらが混じり合ってみやを苛む。息をするたび、彼の鼓動を感じるたび、激しい羞恥が断続的にやってくる。

 こんなに甘い接触は、今までに一度も無かった。

 彼を慰めようとしたあの夜は、まだ児戯だったのだ。

 自分から彼に迫るのは、少し箍を外してしまえば平気だったのに、彼がこんな風になってしまうと手が付けられない。

 まだ濡れている髪に、擦り付けるように頬を寄せられた。みやは耐える。また言葉が落とされる。


「本当に、俺が好き?」


 簡潔で、甘くて、ほの暗い。

 その声は春夜のように妖しくて、それでいて柔かった。


「えっと、以前にも言いました通り、私は会った時から、す、ではなくて、好意を」

「そう」


 くるりと体の向きを変えられて、眼前に蓮見が見える。彼に見下ろされながら、みやはやっぱり顔を上げられずにいた。

 何事にも限界がある。

 この恥ずかしい質問責めも、この至近距離にも、みやはそろそろ耐えられない。

 もしかしたらこれは、彼からのお仕置きなのかとすら思う。


「蓮見さま、怒っていらっしゃいますか……?」

「いや全然。ただ今日くらいは可愛がってもいいかなって開き直った。だけどこれ以上はみやが気絶しそうだから、俺が君にやり返せたら許してあげる」


 やり返せたらって、許してあげるって、やっぱりこれはお仕置きの部類ではないだろうか。

 怒っているに違いない。彼はこう見えてプライド高いのだ。

 格下の身分でありながら、如月家のご令息に軽率な破廉恥行為を強いてしまった罪への罰則として、現状の羞恥以上の何が思いつく?


「ごめんない、鞭打ちでも、石抱きでも、私、がんばります、から」

「江戸時代の拷問はちょっと趣味じゃないかな」


 だから、と彼は動く。

 みやの頬に、彼の片手が添えられた。顔を上げさせられて、


「嫌なら逃げて」


 そんな宣告の後に、唇が塞がれる。


「…………っ」


 彼はずるい。

 腰を拘束する腕には、簡単に逃げ出せる程度の力だけを込めていて、みやに選択肢を与えてくる。そうしてみやが逃げないことを、嗜虐的に確かめているのだ。

 湯に浸かって火照った体が、彼の体に冷やされる。

 彼の唇も少し冷たい。

 みやが選択するに充分な時間を与えた後、彼はもう容赦してくれない。みやが万が一にも離れて行かないように、腕に力を込め始める。

 微かな声を漏らし、最低限の息継ぎを挟みながら、正気ではなかったみやの口付け二秒間を軽く塗り替えてしまうほど、二人はしばらくそうしていた。


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