聞きたいことはない?
「……――。」
「蓮見さま?」
彼が急に無言になるから、みやは不安になって名前を呼ぶ。
彼の呼吸も、一瞬止まった気がした。いつも穏やかな視線はテーブルの一点で固定され、じっと見つめる。どこか遠くの宇宙に意識を飛ばしてしまったのか、深い思考に陥っているのか、視線の先に何があろうと意味など無いようだ。
よく磨かれて綺麗な木目のテーブルを、紺碧の瞳がじっと注視して、
「あーあ」
ふ、と、彼は息を吐いた。
「何か、ありましたか?」
「あった。もうすぐ来るよ」
言った途端、彼のスマホが鳴った。彼はプリインストールの着信音をそのまま使用している。
蓮見は自分のスマホ画面を見て、
「ちょっと出てくる」
席を立った。
彼は律儀に外へ出て、軒下で通話を始めた。その様子は、みやがいる席からも窓越しに見えている。雨は弱まってきている。
彼は無表情のまま、三分ほどで通話を終えて戻ってきた。
「名取からだった。絲倉学園の教師が一人転落して、重体らしい」
開口一番、これである。
「現場は学園の女子寮。松野愛理が使っていた部屋の窓が開いていて、そこから。下に花壇がなければ危なかったかもしれない。現場の状況から、おそらく自殺未遂。それとこれは未確認だけど――」
一拍置いて、
「その教師のスマホが、ある歌を流していたらしい」
みやは絶句した。
――どうして?
どうしてその教師はそんな場所にいたのか。
その教師も、例のおまじないに呪われてしまったのか。
さして焦った様子もない蓮見の様子も気になるけれど、今はそれどころではないと思い直す。このままでは、この異変は自分では想像もできない場所にまで広がっていく気がする。
ゆめは あきらめない
こいだって いつだって
せかいは あなたの ためにある
だれでも ない あなたの ために
花壇の花々を圧し潰しながら横たわる女性の傍ら、画面に罅の入ったスマートフォンからあの歌が流れているのを想像して、嫌な気分になった。
どういう経緯でそうなったのだろう。
いや、そういうものに理屈がないことは、知識として知っている。
重要なのは、
――危ないのは、私だけじゃない。
ということだ。
そう考えて、みやははっと前を見た。
――もう被害に遭っている人が、ここにいる。
真正面にいる古ヶ崎義弘もまた、松野愛理を中心とした異変に遭遇しているのだ。元々、遺体が動いた気がすると先に相談されていたのは、自分だった。その後にも怖いことがあったから、彼はわざわざ如月家にまで相談しに行ったのだ。
「この教師がおまじないの対象にされていたかはわからないけど、あり得るとは思う。だけど君がそうとは思えないね」
みやの思考を引き継ぐように、蓮見が言う。義弘は「僕っすか」と呆けた顔をしていた。
「君は、絲倉学園どころかこの地域ともあまり関りのない、言い方は悪いけど、部外者みたいなものだよ。おまじないの対象になるとは考えにくい。それなのに君にも霊障が及んでいるということは、」
ということは?
全員の目が蓮見に向く。このテーブルの様子を窺っていたマスター含む。
「正直そんなに不思議じゃないね」
全員が固まった。蓮見はあははと悪びれずに笑う。
「…………え、不思議じゃないんです……?」
「その場にいた中で最も年が近いとか、テレビ番組風に言うと『波長』が合うとか、そういうことだと思うよ」
義弘がなるほどと頷いた。
窓の外で、傘を持っていない学生たちが濡れながら走って行く。絲倉学園のジャージだ。体育館で部活に精を出していたのを、無理やりに退去させられたのだろうか。
「じゃああの、葬式の時に動いたり歌ったりしたのは」
「それに意味はないね。強い感情が発露する場面に君がいただけ」
聴きながら微妙な顔をして黙り込んだみやは、大人しくアイスティーを飲んでいた。
「現に君は見聞きしただけで、明確な悪意を差し向けられてはいない。呪いの対象は別にいる。その対象こそみやだったり、転落した教師かもしれないけどね」
「それじゃ、もう僕に何かあったりはしないって思ってもいいんですかね? それなら東都に帰っても――、」
「それはどうだろう」
「えっ」
蓮見は、氷が解けかけたアイスコーヒーをストローで混ぜる。
「呪われはしなくても、憑いていかないとは限らない。特に近しい者にはね。だから君は、このままでは東都に帰れないと判断したんだよ。勘が良いんだ。だからこそ、こうなってるのかもしれないけど」
如月家の助けが届かない東都で、部屋の一角に、『それ』を飼う? もしかしたら今この瞬間にも、部屋のどこかに。
みやがそろりと義弘を窺い見ると、彼は涙目になっていた。
この四人の中で、義弘は最も無防備だ。このまま絲倉町内の祖父母の家に帰宅しても、ろくに眠れないだろう。きっと対抗策もない。その上で夜を過ごすとなると、それはとても怖いことなのではないか。
みやは「あの」と改まった声を上げた。
「東都にお帰りになるのは言語道断としても、今日もこのまま古ヶ崎さんをお家に返すのは不安かと思うのです。あの、どこかに保護という形で泊まらせてあげることはできないのでしょうか? もちろん古ヶ崎さんが望めば、ですが……」
提案の可否を蓮見に問う。伝え方が下手なせいで伝わったか不安だったけれど、彼はそれもそうだねという顔で頷いてくれた。そして彼は本人に、軽く問う。
「君は、怖い?」
「怖すぎて無理です」
潔い即答である。それを受けて蓮見は、
「こちらの知り合いの家を、って言ったしね。観月の家って大丈夫?」
「っス」
「じゃあ彼を一晩いい?」
「っス」
「そういうわけで、君さえよければ観月の家にお世話になるといい。そういうものに無防備な家にいるよりは安心できると思うよ」
雨が止むと、四人は屋敷に戻った。
夕食を囲み、観月と義弘を見送ったところで、残る二人は玄関に鍵をかけた。すべての戸締りを確認しながら風呂に向かう。
各々の着替えを持ち、長い廊下を歩いていた。
「今更ですが、お二人とも、ここではいけなかったのでしょうか」
「さすがに使用人を住み込みで働かせるのは契約内容にないし、観月も同じ屋根の下に俺がいると休めないだろうからね。ここにはみやがいるから、あまり同年代の男を泊まらせたくもない」
「……なるほど」
非日常的な事態の最中に現実的な理由を交えられると、何と言っていいのかわからない。ともあれみやは彼の決定に反対する気はなく、とりあえず頷いて納得しておく。
引き戸を開けて、二人で脱衣所に入った。
左側には洗面化粧台がゆったりと二つ並んでいて、その下には抽斗がついている。中にはふわふわのタオルや洗剤類の買い置きが必要分揃えられていることを、みやは知っている。洗面台の並びのさらに向こうには、ドラム式洗濯乾燥機が鎮座していた。動いていれば多少暴れるけれど、動いていなければとことん静かなやつである。
そして右側には、肝心の風呂場がある。みやがぱち、とスイッチを入れると、摺りガラスの引き戸の向こうが明るくなった。
そして当然のように、一番風呂の譲り合いが始まる。
「では蓮見さま。昨日は私が先でしたので、今日はお先にどうぞ」
「ダメ」
「ダメじゃないです。今日も湿気がべたべたで、」
「ダメ」
「蓮見さまもさっぱりしたいでしょう? なのでお早く、」
「ダメ」
「家主ですし、やはりここはお先に、」
「ダメ」
「蓮見さま」
「ダメ」
全自動ダメ繰り返し機になってしまった許嫁に、みやは今日も敗北した。不承不承に一番風呂を受け入れて、蓮見に「着替えの様子は見ないこと」を恥ずかしそうにお願いしながら、自分の帯を解く。速やかに背を向けた彼を気にしつつ、下着まで脱いでいった。
鏡の存在に気付いて慌てたけれど彼はやっぱり紳士的に目を閉じてくれていた初日のことを、今日も思い出してしまう。
みやは体にボディタオルを当てて、ちら、と鏡を見る。彼が映っていた。こちらに背を向けている。だから彼の顔は鏡によく映る。
――やはり彼は紳士的だ。
みやは嬉しいような悔しいような気分になりながら、風呂場に入った。
引き戸を閉めて、
「もういいですよ」
『うん』と、向こうから声が聞こえる。
互いの入浴に付き添う生活は、今日で三日目だった。
この檜の香は、いつまで続くものなのだろう?
広々とした浴槽に浸かりながら、よくそれを考える。香りの成分とは、水やお湯で洗い流されてしまったりしないのだろうか。お風呂から上がったら調べてみようといつも思うものの、上がったらいつも忘れている。
洗った髪をタオルの中にまとめて、檜の浴槽の中で足を伸ばして、ぼうっと天井を見上げたところで、
『みや』
呼ばれた。みやは「はい」慌てて返事をした。
『俺に何か、聞きたいことはない?』
不気味なほど、穏やかな声だった。




