一方そのころ
ジャージの女が走っていた。急く足が地面を強く踏みつけると、水が跳ねて裾に飛ぶ。一刻も早く、屋根の下に入りたい。
絲倉学園の敷地内である。グラウンドや自然を残した庭以外、アスファルトで固められている。女は校舎の職員玄関から女子寮へ向かっていた。歩いて五分ほどの距離だからと、傘も持たずに出てしまったのがいけなかった。夕立なんてついてない。
女子寮は四階建てのアパートだ。一階は食堂やランドリールーム等の共同施設があり、個人の部屋は二階からである。
女は三〇五号室に用があった。
階段を上る。
三階の外廊下は、右側に各部屋の扉が並び、左側に二の腕ほどの高さの壁と、さらに手摺がある。屋根があるとはいえ、やはり外廊下は雨風が強い。
ぼたたたたたたた、
滝のような雨が樋の中に集まり、落ちていく。
肌寒い。夏なのに、急な雨のせいで気温がだいぶ下がっていた。
女は各部屋の番号を確認しながら進み、やがて到着する。
三〇五号室。
数日前に亡くなった、松野愛理の部屋である。
私物などはすべて置いたままで、明後日にでも遺族が荷物を纏めに来ることになっている。その手続きのために、女はここに来た、――わけではない。
女はここに、虐めの証拠がないことを確認しにやって来たのだ。
女は、松野愛理が在籍していたクラスの担任教師だった。三十六歳、まだ若い。教師の仕事には慣れて、生徒たちとはそれなりの分別と誇りを持って接してきた。
クラスに、虐めなどなかった。それは今もそう思う。自分のクラスに虐めなんて、影も形もなかった。
ただ時が経つにつれ、怖くなった。
虐めは無かった。――本当に?
自分がそれを見抜けなかっただけだと、なぜ言い切れる?
よりによって自分が受け持つ生徒が、飛び降り自殺なんて人目に付きやすい死に方をしたのだ。その死に、特別な意味がないわけがない。
――怖い。
もしも松野愛理の部屋に、遺書なんてものがあったら。そこに、クラスであった虐めの詳細だとか、主犯格なんて書かれていたら。警察の捜査すら掻い潜って、遺族がそれを発見したとして、世間に知られてしまったとして、そうしたら。
――私は、終わりだ。
だけど、憶測にすぎない。過剰に怖がっているだけかもしれない。
女は今日、その恐れと決着をつけるつもりでいたのだ。
寮を管理している同僚から借りた鍵を使い、開錠する。かち、と音がした。
ドアノブをひねる。
きィ、
鈍い音がして、ドアが開いた。
「…………。」
ドアを開けてまず目に入るのは、二股の暖簾だった。ポリエステルの薄い生地だけれど、ブラウンで透けにくい。玄関に入ってすぐに生活の場が見えてしまうことを気にしたのだろう。暖簾は長く、あちらは陰っていてほとんど見えない。
電灯は点いていないのに、時折ぴしゃりと一瞬だけ明るくなる。雷のせいだろう。先ほどからごろごろと、重たい稲妻の音がしている。
女は暖簾を潜って、手探りで電灯のスイッチを入れた。
ぱち、
照らされた部屋は、がらんとしていた。机とベッドと鞄と制服。小物すら置いていない。整然としていて、空気中には微かに女の子らしい柔らかな香りがある。
主はもういないのに、その気配を残す部屋だった。
「……ダメよ」
――考えてはいけない。
彼女は死んだとか、外は雨だとか、電気を点けたのに薄暗いとか、変に寒いとか。
そういうことを、考えてはいけない。
女はポケットからヘアゴムを取り出して、セミロングの髪を括った。
八畳の洋室を左側から見渡していくと、入ってすぐにクローゼットがあって、真正面の突き当りに机があり、その右に大きめの窓がある。右側の壁にはシングルサイズのベッドが配置されている。――見た限り、どれも備え付けのものだ。
女はまず机を見ることにした。木製の机には三段の抽斗があって、それを順番に見ていく。何もない。見事に空だった。
机の上には教科書類とノートと、数冊の文庫本。
ミステリ小説では、趣味の本に意味深な手紙があることが多い。本の趣味そのものが、その人間の考え方だったり、主張だったりするからだ。女は文庫本を開いて、ぱらぱらとめくってみた。何もなかった。
――本当に、何も遺していないのかもしれない。
女は安堵していた。
あの松野愛理とかいう生徒は、普段から何を考えているのかわからなかった。常に一人で行動していて、教師としても扱いづらい女生徒だった。案外、本当に何も考えていなかったのかもしれない。
ふと。
どこからか、音楽が聞こえた。か細くてよく聞き取れないけれど、よくよく耳を澄ませれば、どこかで知っている歌だった。
女は音をたどって、クローゼットに目を向けた。その扉は観音開きで、たしか奥行きは浅い。長くても三年程度の付き合いの寮だから許される程度の、軽い収納スペースだ。音はここから漏れ出しているようだ。
女はクローゼットに手をかけた。
ひや、とした。
「っ!」
思わず手を離してしまう。木製のそれが、冷蔵庫のように冷たい。
「……何よ……」
なんだろう。湿気でべっとりとしていて、だけど冷たくて、これはまるで――死体の肌に触れたみたいな。
雷がどこかに落ちた音がした。
女はクローゼットを開けてしまう。ぐ、ぐ、ギィ――……、上下の金具が軋む。中身が見える。初めは暗かったクローゼットの内部が、部屋の電灯に照らされる。
段ボール箱があった。
ころころとしたフォントで、『有機きゃべつ』と印刷されていた。キャベツの頭をしたデフォルメキャラクターもいる。蓋部分にはガムテープを何度も剥がした跡もあった。くたびれたその箱は、よく見れば底の角が黒ずんでいる。
この箱、なんだろう。
年季の入った使用感が、怖い。有機的な不気味さがあった。箱は冷たく不気味な沈黙をもって、そこにある。――音楽も、そこから漏れ聞こえている。
「……なんなの……?」
女は直感的に、『これだ』と思った。
クローゼットが冷たかった原因はきっと、この箱なのだ。
今は封をされていない。段ボール特有の硬さから蓋が閉じきらず、うっすらと開いている。女はこくりと唾をのんで、蓋をそうっと――ことさらに優しく、開けてみた。
それが、見えた。
「…………、……は?」
女は呆けた声を発して、その一瞬、動けなかった。
箱の中には、大量の人形が詰まっていた。縫い目も色も形もばらばらな、フェルトの簡単なぬいぐるみ人形だった。人の名前が付けられている。おなかの辺りに刺繍されていたり、紙にペンで書いて縫い付けられたりしていた。
そしてどれも、乾いた土で汚れていた。
みんな笑っている。二つの目とにっこり笑った口が、糸で作られている。みんな奇妙に同じ顔をして、女を見上げていた。
音楽は、箱の底から聞こえている。
――なに?
――何よ、これは。
蓋に触れていた手が、ゆるりと離れる。女は一歩二歩と後退りながら、その光景から目が離せなかった。
じりじりと、足下から氷が這い上がってくる心地がする。顔からも脇からも冷汗が滲み出てきて、それを拭う余裕もない。
ここから出なければ、と思った。
本能がそれを命じるのだ。早くここから出なさい、そうでなければ――。
ひた、
足音がした。
「――……ッ!」
心臓がひっくり返って、肺が凍り付く。
裸足の足音が、この一室の中から聞こえた。すぐ間近で。おそらく、自分の視界にも映る範囲内で。
私じゃない、誰かがいる。
「……、……だれ……」
歯の根が噛み合わない。心臓の音だけが大きい。腹の底がぎゅうと引き絞られる心地がする。
女は、クローゼットから後退ったそのままの位置から、ゆっくりと、足音の方を見た。
玄関とこの洋室を遮る、長い暖簾。
その下に、女の脚が見えた。
それは、この学園のスカートを履いていた。
裸足の爪先は女に向いている。――こちらを見ている。呼吸もせず、余計な音も無く、ただただそこにいる。
見覚えのあるパーカーを着ていた。どこだっけ、どこで見たんだっけ、ああそうだ、松野さんが。あの子が。――それを着て、屋上から飛び降りたんだった。
腰の両脇にはしっかり揃えられた両手があって、ぶらり、ぶらり、揺れている。指先には微かに泥が付いていて、土気色の肌色をしていた。
「ぃ、」
悪戯なら止めなさい。そう怒鳴りつけようとしたのに、喉は動かなかった。女は目の前のあれが生きていないことを理解していた。
ひた、
それは、一歩足を踏み出した。
暖簾に触れる。薄い布地が押し上げられていく。
そして。
それの顔が、ぬう、と――。
――――。
箱に詰まった人形の中に、うすいピンク色のウォークマンが埋もれていた。イヤホンから流れていた歌が、ぷつり、と切れた。




