ご容赦を
「じゃあ、行ってくるね」
身なりを確認し、襟元を指で撫で付けて直しながら、蓮見が言う。
「お気をつけて」
「君も。何かあったら観月に任せてね」
みやは、本当なら蓮見と片時でも離れたくない。けれどそんなわがままも言えないから、見送るのみである。「っしゃーせー(行ってらっしゃいませ)」とガラの悪い口調の観月にも、彼は「みやをよろしく」とにこやかに許嫁を案じる返答をする。
次に蓮見は、
「君はどうする?」
「えっ」
客人である義弘に尋ねた。
「中、行く? どっちでもいいけど」
「みやさんたちは行かないんですか?」
「はい。私はここまでです」
「形栖家の者がこの神社に入るのは、推奨されていないんだよ」
両家は区別される関係である。
いくら如月家に寄っていても、みやの苗字はまだ形栖だ。形栖は家業として死の穢れを負う一族であるとされ、昔からこの神社の敷地には入れない決まりになっている。だから蓮見がみやの傍を離れてもいいように、使用人を――今日は観月を彼女の護衛として連れてきたのだ。
みやと観月はここに残る。「じゃあ二人と二人の方がバランスいいんじゃないかな……」義弘がそう呟くのを、みやはたしかに聞いた。
「僕も神社に――、」
その瞬間、ざあ、と風が吹いた。神社からだ。山肌を滑り落ちてきた温い風が、一行に吹き付ける。
「…………。」
無言になった。
義弘は「えっと」考え込み、他の三人はじっと待っている。急かさず、不審にも思わず、ただただ待つ。
そして義弘は、答えを翻した。
「……やっぱり、止めときます。ここにいます」
行くつもりだったけれど、やっぱり止めた。
みやは、その急な変化を不思議とは思わない。むしろ「やはり」とも思った。
蓮見は「そう」と簡単に返事をして、一人で鳥居を潜る。彼は、まず一段、足を着けた。すると先より優しい風が、彼の前髪を払い上げた。湿気に混じって濃い緑の匂いがする、透明な夏の空気。
「……まったく」と蓮見が苦笑する声が聞こえて、みやも思わず微笑を落とす。彼はまるで、見えない神様に頭を撫でられているようだ。
ここで祀られている『神』は、如月蓮見のことが大好きで仕方がないらしい。蓮見が神社の敷地に近づくと人払いをして特別なもてなしをすると、みやは聞いたことがある。『大歓迎』と書かれた横断幕を垂らされている心地なのだと。「孫を可愛がるおじいちゃんじゃないんだから、もっと落ち着けないのかな」と不敬な小言を垂れながら、くすぐったそうな顔をしていたのは――三年ほど前の正月のことだっただろうか。
「どうして、残ることにしたんですか?」
「なんとなーく、入ってくんなって言われた気がして……?」
「なるほど、直感が鋭いのですね」
「……え?」
三人を置いて、蓮見は一段一段と、石段を踏みしめていく。みやは彼の背を見守るのみだ。
風が止んでしまえば、あるのは静寂だけだった。葉が擦れ合う音もなく、木の呼吸もない。この山一帯が全身全霊で如月蓮見を注視しているような、そんな感覚に――みやの背筋がぞくりとする。
神域に一人招かれる彼は、寒気がするほど神々しい。
彼が十段ほど進んだところで、さらに上の階段に黒猫がいるのを、全員が視認した。いつからそこにいたのだろう。きっと彼だけが知っている。
蓮見が足を止める。
無表情な猫の黄色い瞳は、ずっと下にいるみやに向いていた。
「……えっと……」
見られている。自分が何か粗相でもしただろうか。みやは、猫ごときをどうしてそこまで畏れるのか自分でもわからない。ただあの猫は、何かがおかしい。この威圧感は、あの猫が上段にいるからとか、そんな陳腐な理由ではない。猫は好きだけれど、あのもふもふとした毛皮を撫でたいとも、触りたいとも思えない――そんな不敬は赦されないと、眼の奥の神経から足元まで強制的に理解させられる。
居心地が悪くて、すぐにでもここを逃げ出したくなる。どうしよう、こんなことは初めてだ。
みやが一歩後ずさる。と、蓮見が猫に何かを言った。猫の瞳が蓮見に向けられたことで、みやはようやく詰めていた息をほっと吐き出せた。
みやには聞こえなかった蓮見の言葉は、これである。
「彼女はまだ、形栖の者です。ご容赦を」
猫に連れられて階段を上がっていく蓮見の項で、一本に結われた髪が、尻尾のように靡く。みやは彼の背が小さくなるまで見つめていた。
きゅうん、と引き絞られるように疼く胸を押さえて、
「……蓮見さま……」
あの美しい人が、私の旦那様になる人。夏でなくとも火照っていたのであろう頬に掌を当てると、とても熱い。
――だめ、はしたない。
みやははっとして、頭を振る。男性に見惚れて動けなくなるなんて、乙女のような反応ができたことに驚いた。こんなことでは嫁いだ時に大変だ。結婚式の時に照れてしまって無様を晒すことのないように、今のうちから彼に慣れておかなくては。
……結婚式?
「……あっ」
思い出した。
――『今から式しろってわけでもないし、難しいことは考えないで、好きなの選んでいいよ』
白無垢。色打掛。刺繍の種類。それらを、みやは答えていない。彼の手で刺繍の見本を見せられて、半年も経ってしまった。あの当時の自分は何故か彼を恐れていて、結婚式のことを考えたくなくて、急かされないならとそのままにしていたのだ。
だけど彼はあの時から、きっと私の答えを待ってくれているのだ。花嫁が着飾るための、真っ白な衣装を。
「あのー、大丈夫ですか?」
「はっ、はいっ? 何が、えぇっと、大丈夫ですよ?」
「さっきから面白いくらい色々考えてるみたいですけど……」
みやは少々不審そうな目で見られて、居たたまれない。こんな時におめでたいことを考えていられるなんて、なんて不謹慎極まりない頭をしているんだろう。ぬふふんと気持ち悪い笑顔の観月には思考を察されているに違いないので、みやはますます赤面してしまう。
「だ、大丈夫です。私が自分で決めなければいけないこと、なので」
「そうなの?」
「ええ。結婚式に着る着物の柄を」――極力、平静を保って。何でもないことのように言ってしまう。そうすると、
「……あー、結婚式。大変です、ね?」
複雑そうな顔をされた。困惑だか驚嘆だか、あまり良くない類の表情だ。こういう時は「おめでとうございます」ではないのだろうか? みやは祝われたかったわけではないけれど、予想外の返答に面食らった。
けれど、この反応も仕方ないと思い直す。
みやは自分が世間知らずであることを自覚している。都会から来た現代っ子との感性のズレも、察してはいた。
「幼少の時から決まっていた婚姻とは、そんなに異質なものなのでしょうか」
おそらく義弘が引っかかったのは、この関係性だろう。恋愛婚が当然となった現代では、家の都合での婚姻など少数派だ。
けれどこの予想も、若干違っていたらしい。義弘の困惑顔は変わらず、「いやあ、異質っていうか」この関係が問題ではなくて、と言外に主張して、
「みやさん、初めにあの土手で会った時、如月さんのこと怖がってるみたいだったから」
「……、……ん?」
間の抜けた声である。まともに取り繕おうにも、みやは今度こそどう答えていいのかわからなかった。
彼が着せてくれた夏羽織の襟元を、無意識に掴む。白檀の香がした。
「だからおめでとうって言っていいのかわかんなくて……なんか、ごめん……?」
そこまで聞いて、ふいに思い出した。
自分は松野愛理がどうこうという事件以外に、もっと薄らとした、曖昧な疑問を――違和感を抱えていたのだ。
違和感その一。
己の両親が亡くなっていることを忘れていた時。――『……おくりを行ったのは、母ではないのですか?』近しい者が死んだ事実を忘れるなんて、常ならばありえない。悲しみのあまり、死を受け止めていない? ……これも違うと言える。墓参りにだって行ける。両親がもういないことなんて、ずっと昔に理解した。
違和感その二。
松野愛理の飛び降りを目撃した彼と、一夜を過ごした時。――『怖くなんてないのに。初めて会った時から、貴方を慕っていたのに』自分は穏やかな心地で彼に甘えて、傷心の彼に温もりを分け与えるつもりでいながら、その裏では考えていた。何かが違うと。
ある日を境に、心の中に後ろ暗い疑問がへばりついている。
そう、自分が心身共に無理をして、倒れたあの日から。
みやは急に喉が渇いた気がして、生唾を飲み込んだ。心臓が微かに、とくとくと鼓動を早める。
「私と蓮見さまは、美術館で出会いました」
脈絡のない切り返しに義弘と観月が口を開くが、みやは構わず続ける。まとまりのない記憶を整理するための、それは独り言のようなものだった。
「その時、私は彼を見て、何と思ったかわかりますか?」
彼はあの幼い日に、一枚の風景画を眺めていた。声をかけなければ、いつまでもそうしていそうだった。
明るい茶色の髪をふわりと揺らして振り返った彼を見て、みやは。
「天使みたいだ、って思ったんです。あるいは神様と」
つい数分前に神域に入っていった如月蓮見にも、同じことを感じた。
「あの時からきっと、私は彼に惹かれ、想い続けている、はず、なんです」
――しかしそれが、そうはならなかった。
「でも、どうして私は、いつから、彼を怖がっていたんでしょう? あんなに優しい人を」
怖がる必要のない彼のことを。
「わからないんです。私、……私はストレスだか発熱だかで一度倒れてしまって、その前のことを、ぼんやりとしか覚えていなくて、どうして私は、彼を恐れていたのでしょう? 古ヶ崎さんにも見抜かれるほど、それは顕著な恐れであったはず、なのになんで私はその原因を思い出せないのでしょう? そしてその恐れを払拭させるほどの何かがあったはずなのに、それも思い出せない、どうして? 何をどれほど忘れているのか、私は、」
私は――?
事情を知る者以外にはまるで意味の通じない、破れかぶれな疑問を吐き出しながら、夏羽織ごと両腕を抱きしめた。みやは縋るように長い石段を見上げたけれど、もう彼の姿はなかった。
「疲れてるんっスねぇ」
「……疲れ」
「っす。坊ちゃんが帰ってこねーことにはどーにもなんねーでしょ」
「……そうですね」
観月の言う通りだ。仮にこの使用人が何かを知っていたとしても、主である蓮見を差し置いて、みやに答えを与えてくれはしない。
今渦巻いている胸中の疑問は、彼が帰ってきたら聞いてみよう。そう密かに決心して、しばらく。
背後でざり、と足音がした。
三人で弾かれたように振り返ると、一人の女子がいた。みやや義弘と同い年に見える。Tシャツとデニムのショートパンツという「ちょっとそこのコンビニまで」ファッションで、緊張した面持ちでこちらを見ていた。ごく、と唾をのみ込んだのが聞こえてきそうだ。
初手は女子からである。
「あのっ、……ここで、何してるんですか?」
観月が、みやを背に隠しながら答える。
「はァあああ? 人を待っとりゃすけど? 何か文句でもあるんスかァ?」
渾身の巻き舌を駆使してガンをつけるのは止めてあげてほしい。観月は外見に違わず、応接は致命的に不向きだし、身内と客人以外には愛想が悪いのだ。
やばい人間に関わってしまったと顔が真っ青になる女子を見て、みやと義弘が顔を見合わせた。「あーあ」と首を振って呆れてみせながら、どちらが仲裁に入るかをアイコンタクトで押し付け合った。無言のやりとりに負けたみやは、観月の背からしずしずと進み出て、軽く会釈をする。
「私たちはここで人を待っています。何か御用ですか?」
「いやっ、ご用っていうか、……だって此処は、……あのぅ」
女子はごにょごにょと口籠ってしまう。視線が下方を彷徨って、明らかに何かを案じている態度だった。
その様をじいっと見ていた義弘は、「もしかして」そろーっと手を挙げた。
「愛理を殺した、って言ってた人ですか?」
「ッ……!?」
女子はぎょっと目を見開く。
「なんでそれ……っ! 違う、殺してない! 殺してないもんっ!」
「えー、でも……、お友達二人で話してたの、聞き間違えじゃないって思うんだけど……」
「でも違うの! 仮にそうだとしても直接じゃないっていうかっ……、それも、ダメってわかってるけど、でも……でもぉ……っ」
彼女の目が潤む。もう少しで泣き出してしまいそうなところを、すんでのところで耐えている。ぐず、と洟をすする音が聞こえた。
みやが彼女にハンカチを差し出すと、濁点付きのお礼を言われたので「どういたしまして」と無難に答えた。
「お話、できますか?」
「……、…………ぃ」
消え入りそうな「はい」である。彼女は唇を噛み、何度か口を開けては閉じて、まず自己紹介をする。
「絲倉学園の、結崎瑠香と、いいます。わ、私が、松野さんを、ころ、殺しっ……のかも、しれな、って、ずっと、こ、怖ぐっでぇ」
殺したのかもと発言したあたりでまたこみあげてしまって、嗚咽がいっそう激しくなった。
よく見れば、彼女の目元には濃い隈がある。
みやは「……ん」と頷くと、後方の観月に訊ねた。
「この近くに、落ち着ける場所はありませんか?」
「貴女が松野愛理さんを殺したと。どうして、そう思われるのですか?」
喫茶店『イタリアンチーズ』に入って五分。各々がドリンクを注文し、店員が去って行った直後に、みやが訊ねた。
椿山へ向かう一本道を戻り、左折してすぐのチェーン店だ。テーブル席を一つ陣取る不良と高校生ほどの男子と女子と着物少女の四人組は、異色の集団である。
瑠香の涙は、さすがに止まっていた。
すう、と息を吸って、
「あの時、藁人形みたいなおまじないが流行っていたんです」
「藁人形って、五寸釘のですか?」
「それです。……釘は使わないけど、それと似たおまじないです。女子の間で、本当に短い間でしたけど、みんな軽い気持ちで。昔、こっくりさんって流行ったじゃないですか。それだって、みんな面白半分にしてたでしょう? そういうのと、たぶん同じくらいの、……本当に、遊びで」
瑠香は一息吐いた。
隣に座っているみやは、彼女の話を黙って聞いている。
「本当なら夜にって話だったけど、気にせずお昼でもやっちゃうくらい、真面目にはしてなかったの。……私は、友達の二人と一緒に、それをやりました」
私は――、
瑠香は一拍止まって、
「松野さんの名前を書いたんです」
それを聞いて、瑠香の真正面にいる義弘が衝動的に訊ねる。
「愛理が、結崎さんに何かしたんですか?」
「いいえ」
瑠香はゆるゆると首を振った。
もうどうにでもなれと、自暴自棄の気配すら感じられる。
「好きな人がいたんです。だけど告白したらフラれてしまって、そのすぐ後に、松野さんがその人と仲良さそうに話してるところを、見てしまって」
嫉妬して、呪った。
「それで、そのおまじないのせいで松野愛理さんが飛び降りたのではと?」
「はい」
「おまじないの効果は、どういうものですか?」
「その、相手が怪我をするとか、病気になるとか、よくあるものです。死んじゃうとか、そういうものではない、はずで」
「……なるほど」
みやが頷いたところで、ドリンクが来た。
みやの前にアイスティー、瑠香の前にアイスココア、義弘の前にオレンジジュース、観月の前には昆布茶だった。
アイスティーにガムシロップを混ぜながら、みやは「えっと」と質問を続ける。
「藁人形みたいなの、と言いましたね。普通の藁人形とは違うんですか?」
「はい。使うのは藁じゃなくて、フェルトなんです。フェルトを、ちょっと丸っこい人の形に切り取って、それを二枚作って、重ねて端を縫って、綿を入れて……それで簡単な人形を作って、人の名前を書いた紙を入れたり、縫い付けたりして、これって藁人形みたいじゃないですか?」
「……そう、ですね」
『形代』の類だ。みやは、頭に過った名称を口に出すことはしなかった。今はまじないの種別など話す時ではない。
人形に対象の名前や身の一部を仕込んで、本人の代わりとする――『形代』が世間一般にどれほど知られているのか、みやには分らない。だが「あっ」という顔をした義弘には、思い当るものがあったのだろう。おそらく漫画かゲームの知識で。
形代を知らない瑠香は、人形と名前のセットを藁人形と関連付けたのだ。
「その人形を、どうするんですか?」
「刃物で刺すんです。それで、」
それで。
「神社の木の根元に埋めるんです」
小さな棒読みだった。
アイスココアのグラスの中で、からん、と氷が動いた。




