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うちの嫁がとてもかわいい

 長い縁側が主要通路で、家の端から端に向かうには想像以上の道のりがある。平屋の古式ゆかしい家屋である。

 縁側と言っても、内縁だとか廻縁だとか、名称は色々とあるらしい。

 私は建築の用語には興味がない。自室の障子を開けて、二歩ほど歩いて真正面の硝子戸を開けて、腰掛けてひなたぼっこができる空間とだけ認識している。

 二人で住むには大きな家だ。

 広さだけで言えば民宿を経営できる規模だけれど、ここに他人が入り込むことを考えるだけでもぞっとする。私は彼に気を配るので精一杯なのだ。


 晴れたけれど、昨日の雨のせいで湿気がすごいことになっている。私の癖毛にこの気候はとことん合わないから、いっそばっさり切ってしまいたい。だけど断髪の許可が下りない。それだけは断固として許してくれない。だからたぶん、今年もこのままなのだろう。

 エプロンを脱ぎ、結っていた髪を下ろして、蓮見さまの部屋に向かった。

 障子の前に立つ。


「蓮見さま、おはようございます」


 中から「おはよう。入っていいよ」と声が返ってくる。

 障子を開けると、中から微かに白檀の香りが漏れ出してくる。

 白檀。蓮見さまが好んでいるのか知らないけれど、彼といえばこの匂いだ。

 彼はすでに布団を出て、白いスクールシャツのボタンを閉めていた。白女と隣接する共学校の制服だ。

 白女は国内有数のお嬢様学校で、彼の高校は同じくらい有名な進学校である。両者は校舎の造りや趣、カリキュラムすら違う。

 彼のシャツ左胸にある学校エンブレムは、いつ見てもシンプルで洗練されている。


「今朝の体温は……」

「三十六度五分」


 彼は簡単に答えながら、締めたばかりのネクタイを緩くした。


「三十六度五分、ですね。わかりました。朝食はできていますので、支度が済みましたらお先にどうぞ」

「ありがとう」


 私は彼の部屋を辞して私室に向かう。

 この屋敷は基本的にどこも畳が敷いてあって、私の部屋も例に漏れない。

 落ち着いた色合いの木製机には、デスクトップパソコンと一冊のノートが置いてある。

『検温』とだけ書かれたノートに、黒ボールペンで今日の日付と彼の体温を記す。上の欄には『三十五度四分』とあった。前日と比べて一度以上高いけれど、この程度なら誤差だ。休みを促すほどではない。

 私はノートを閉じると、机の端に置いて立ち上がる。

 壁の時計を見た。七時六分だった。


 居間に行くと、蓮見さまが食後のお茶を啜っていた。

 テーブルには二人分の食事があって、彼の皿はすべて空になっていた。


「失礼します」

「うん」


 座布団に座った。

 彼と私の食卓に会話はない。

 いつものように手を合わせていただきますと言って、それきりだ。

 冷めつつあるお味噌汁に口を付けて、ご飯に海苔を乗せて、


「…………。」


 海苔でご飯を包むように箸で挟み、口へ運ぶ。ぱりぱりの海苔が少ししんなりとして、ご飯と相性抜群だ。

 続いてだし巻き卵を一切れ、――の前に。

 ちら、と前を見る。

 向かい側に座る蓮見さまが、じいいいいっと見てくるのだ。


「…………。」


 私が食事をしていると、時々こうなる。彼の視線が痛いくらいに突き刺さってくる。もう食べ終えていても、私が食事を終えるまでそこにいる。沈黙しているのにうるさいとはどういうことだ。

 やけに優しい瞳をしているから、なおさら居心地が悪くてしょうがない。正座を崩したくなってもぞりと動くけれど、食事中だと思い直した。

 勇気を振り絞る。


「私を見てて、楽しいですか?」


 いい加減にしてくれをオブラートに包んで言ってみた。


「楽しそうにしてるかな。……うん、楽しいよ。最初はなかなか食べてくれなかったから、ちょっとでも慣れてくれたのかなって」

「お腹が空くのは嫌ですので」

「いいよ、いっぱい食べて。……まあ作ってるのはみやなんだけど。食材が足りなければもっと用意させるから、遠慮しないでね」

「ありがとうございます」


 私が買い出しに行くのは、食材が足りなかったり、どうしても食べたいものがある時だけだ。食糧の大部分は如月家が用意してくれる。

 だから私も少し遠慮するべきなんだろうけど、授業中にお腹が鳴るのは避けたいところ、だったり……。

 ちょっと待って、なんの話をしていたんだっけ。彼に食事中の様子を見られて気になるって話だったはずでは。


「あ、お米は新しいのそろそろ届くってさ」

「……ありがとうございます」

「今度は前のよりも質がいいって。どんどんおかわりしてね」

「……ハイ……」


 こりゃダメだ、完全に私の食育に思考が向いてしまった。

 いっぱい食べるのは好きだけれど、見られているのは好きじゃない。けれどこれ以上の自己主張は無理だろう。彼は私の許嫁であり、天敵でもあるので、とことん腰が低くなる私である。

 彼はその繊細な美貌で、私に柔らかく微笑んで、私一人に好意を伝える。蜂蜜みたいに甘くて、綿飴みたいにふわふわで、彼は私といると幸せそうにする。

 水飴に溺れてしまったみたいに息苦しい。

 この空気をなんとかできないかと、私は「そういえば」とちょっとわざとらしく声を上げた。


「お聞きしたいことがあるのですが」

「なに? なんでも聞いて」


 食い気味に反応された。

 私が話すのがそんなに珍しいだろうか。うん、珍しいな。


「昨日、行っちゃダメと言っていましたが、」


 その言いつけを私が無視してしまったわけですが。


「蓮見さまはあの時、私がどこに行くのかご存知でしたか?」

「あー、あれか」


 彼は少し考えて、


「知らないよ」


 なんと。

 唖然として箸を落としかけた私に、蓮見さまはくすりと上品に笑った。そして「今も知らない。君がどこに行ったのかとか、何をしたのかもね」なんて当たり前みたいに言う。


「あの時はちょっと、危ないなって思っただけだから」

「危ない、とは」

「なんだろうね。嫌な予感がしただけで、詳しくはまだわからない。こういう直感だけはよく当たるんだから、まったく嫌になるよ。……あ、気にしないで。みやを責めてるわけじゃないし、こういうことで大変なのはそっちもだし」


 私は彼の視界のど真ん中にいることを自覚しながら、再び箸を動かした。

 卵がふわふわに焼けていた。

 

「君の行動なんて、ちょっとすれば勝手に知れることだ。緊急性がないなら、君からの報告も特に要らないかな。本気で叱るかどうかは全部わかった時に決めるよ」


 本気のお叱りとは?

 少し気になったけれど、私はひたすら食べ進める。

 柴漬けの塩加減がちょうどよかった。


 今日は早帰りで、荷物も少ない。授業がお昼までで終わる。

 いつもより軽い鞄を持ちながら、私は長い石段を下っていった。

 裏口から続く裏道だ。造りが古く、階段の傾斜角度も急で、蓮見さまにはとても歩かせられない。

 頭上では、木々の枝葉が濃く重なっていた。足元にちらちら揺れる木漏れ日にすら焼かれているような心地だ。屋敷からさほど歩いていないのに、汗が滲んでくる。

 雨の浸み込んだ土の臭いがする。


『これ、持ってて』


 急にそんな言葉を思い出して、首元に下げたお守りを意識した。


『急ごしらえだけど、できれば肌身離さず持っていて。怪しいかもしれないけど、悪いものじゃないから』


 そう言って手渡されたそれは、白く光沢のある生地で作られていた。

 これを渡されたのは、蓮見さまをお見送りする時だった。

 毎朝正門までお迎えに来られるご友人が、門の外で息を潜めてこちらの会話を窺っているようだった。ちなみにこのご友人は毎朝来るけれど、常に門の内側に留まる私と顔を合わせたことはない。

 蓮見さまが、わざわざ人の気配のあるところで渡したもの。

 人に存在を知られても構わないもの。

 つまり彼の「悪いものではない」という言葉は本当だ。

 ()()()()()()()に関して、如月家はとことん厳しく、そして潔癖だ。悪意をもって本気の呪いを作るなら、その媒体すら悟られないように徹底するのが如月家である。――だから、これは善意の施し。

 私がそれを見越すことを期待しての、このタイミングだろう。

 蓮見さまを見ると、彼は目を細めた。


()()()()でしょ?』

『――はい。ありがとうございます』


 うんと頷く彼の手から受け取った。

 白いお守り。上部には丁寧に結われた紐が付いていて、どこの神社にも置いてありそうな見た目をしている。

 襟元からそれを引っ張り出して改めて見るけれど、お守りの表面に表記がない。勧学御守や安全祈願なんて書かれてもいない。この辺りにある神社は一つだけで、そこにはこんなものは売っていない。

 だからまあ、わかっていたけれど、


 ――『急ごしらえだけど』


 十中八九、これは彼が手ずから作ったもので違いないだろう。

 意味深だ。

 だけど、どんなに怪しくても持っているしかない。

 これが何であれ、どんな意味を持つものであれ、彼の言いつけを一度破ってしまった私にこれを手放す選択肢などないわけだ。

 彼の不興を買ってはいけない。


『いい子だね、みや』


 ……私の手にお守りが渡った瞬間の、彼の蕩けるような笑みを思い出す。


 怖い。


 率直に、そう思った。

 私はあの人が怖い。

 あの人はああやって私を懐柔して、いつかは私を食べてしまう。

 高校を卒業したら、私はあの美しい人の妻になる。

 あと一年と半年も経てば身も心も捧げてしまって、彼の子供を産まなければいけない。それが形栖のお役目とはいえ、不安すぎる先行に何度溜息を吐いたことか。

 彼の愛は、きっと重いのだ。


       *


 登校途中である。


「突然だけど聞いてほしい」

「なんすか」


 どうでもよさそうに返してきた友人に、蓮見が真顔で言う。


「うちの嫁がとても可愛い」

「置いてっていーい?」

「だーめ」


 他に聞いてくれる人間がいないのである。

 蓮見の話とあれば聞きたがる人間も聞かなければいけない人間も多くいるが、求める聞き手は気軽な友人だ。蓮見には信奉者も召使もいるが、ただはいはいと頷いて返してくるだけの人間はおもしろくない。

 蓮見の溜まりに溜まった想いの吐き出し口は、常にこの友人だ。

 友達が少ないというわけでは、決してない……と蓮見は思う。


「その嫁ってあれだろ、さっきしゃべってた女子……声しか知らないけど。学校が隣なのに一緒の登校拒否られたって言ってたやつ。その顔でそこまで嫌われるって、何したらそうなれるんだよ。才能じゃねーの?」

「そうかもね」

「ガチで、ガチでDVやってる?」

「やってないよ人聞き悪いな」

「聞いてると怖がられてんじゃん」

「それ……。慣れてくれないかな……。無理か」

「ど~~でもいいけどよ、こっから先は惚気話十文字につき罰金百円な」

「え、金払えばいくらでも語っていいの?」

「そっちの思考にいけるところがお前だよな。おい財布出すなこの金持ち」

「ありがとう」

「褒めてね~~~~~~~~んだけどさ~~~~~~?」

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