標的は君だね
それが絲倉固有の儀式であると、みやは今朝に知った。
御霊信仰から生まれた、葬儀中に行う一儀式である。
みやは、おくりの詳しい内容を知らない。
形栖家の大事な仕事であることだけは理解している。それを失敗したなんて聞いたことがない。そのおくりを任されているのが力の強い母親であれば、失敗するはずがないのだ。
「母さんが失敗? まさかそんな」
信じられないと声を上げた。
そんなみやに、蓮見は不可解そうに声を返す。
「『母さん』?」
「……おくりを行ったのは、母ではないのですか?」
途端、名取の運転がぐらついて、タイヤが車道外側の白線を踏んだ。すぐに持ち直した。
蓮見は困惑したように、
「みやのご両親は亡くなってるよね? それで今は、有紀さんが後を継いでいるはずだよ」
「…………。」
――?
みやは目を瞠った。「何を言っているんでしょうかこの人は」という目で蓮見を見つめ、そしてじわじわと理解していく――思い出していく。
両親は亡くなっている。みやが六歳の頃に。
おくりと、形栖家に任される仕事の手順は、形栖家に残された手記と共に兄が引き継いだ。
みやは自分の発言が信じられないと、口元を片手で覆う。車内に重い沈黙が落ちた。
「……そう、でしたね。兄さんが……、すみません、変なことを言って」
本当に大丈夫? と尋ねられて、本当に大丈夫ですと返した。
「とにかく。失敗というか、そもそも手を付けられなかったって。強烈な拒絶をされたらしい。車で向かう際に事故に遭って、腕を折ったって。車の後ろの窓に、外側から付けられた手形があった。ちょうど松野愛理の年頃の、おそらく女性の手形だ」
つまり松野愛理の手形である可能性が高い。
「有紀さんが言うには『嫌いな人間に成仏してってお願いされて、素直に従う人間もいない』とのことだよ」
「……おくるのを拒絶されたというより、形栖家が嫌われている?」
「かもしれない。理由はわからないけど、悪意が君にも及んでいることは自覚しているよね? しばらくは登校を控えてほしい」
「しばらくって、いつまでですか」
「解決するまで」
返事は端的で、絶望的だった。
「おくりを拒絶された上、人に怪我を負わされて、今も嫌な感じがしてる。俺も家も、もうただの浮遊霊とかそういうものじゃないなってことは承知してるよ。怨霊に近いものになっているかもしれない。……それが松野愛理かは断定できないけど、状況的にはそう言うしかないね」
車は走る。ただただ、二人の屋敷へ向かう。
車から降りる時は、しっかりと手を繋がれた。色めいた雰囲気はない。そこにあるのは危機感と不安だけである。
みやは玄関で靴を脱ぐ時も蓮見を待たせて、それから自室まで送られる。それで終わりかと思いきや、みやが制服から薄物の普段着に着替えようとしている今も、彼は障子の向こうに待機している。
覗きはしないだろう。
ただ彼の態勢は、現状の危うさを感じさせた。
鞄をフックにかけておくのも、制服をハンガーにかけて吊るすのも、いつも通りのはずなのに、今日は何をするのも心が騒ぐ。陽光が届かない部屋の隅とか、押し入れとか、布を被せた姿見とか、そういったところに目が向きそうになる。
「……――。」
こくり。唾をのみ込んで、みやは着物の襟元を整えた。
大丈夫、すぐそこに蓮見さまがいる。
許嫁自らが護衛の役を果たしてくれていると察しても、みやは遠慮の言葉すら出せなかった。己の無力を正しく理解しているから、下手なことを言っても困らせるのが関の山だ。
――私は彼を頼る。それがお互いのためだ。
深呼吸して、障子を開けた。
「お待たせしました」
「うん、入っていい?」
「はい」
みやの部屋に、蓮見が「お邪魔します」と入ってくる。彼は障子を開け放したまま、敷居を跨いですぐにぴたりと止まり、そこで室内を見渡した。普段は柔らかく細められがちの瞳は、今は静かに見開かれて、温度のない硝子玉のようだった。
みやが意識して目を逸らした部屋の隅、机の下、押し入れの方、天井、布を被った姿見の方を、特に注視している。
そして一言。
「……寒い」
「え?」
蓮見はみやを見ないまま、
「普段はここまで気温が低くはなかったし、影が多くはなかったはず。……ああ、今現在この部屋に何か特定のものが『いる』わけじゃないよ。ただね、誰かが何かに憑かれた時の共通点として、その人の自室もしくは家全体、職場が、やけに薄暗く、気温が下がる傾向にある」
みやは黙る。彼は真顔のまま、
「何も感じなかった?」
「……はい……」
寒いなんて。
だって今は夏だ。
けれど思い返してみれば、ずっと考えていた――何かがおかしいと。彼とのことや、突然何度も耳に入れることになった歌のこともそうだけれど、そういえば外が暑いと過剰に感じていた気もする。
どうしてそんなことを、彼に話していなかったのか。気付かなかったのか。如月家に嫁入りする人間として、これはとんだ失態だ。みやは己の間抜け具合が情けなくて、叱責を受けた心地でうつむいた。
頭に、ぽんと手が乗った。
「気にしないで。憑かれた自覚がないことはよくある。人間は順応してしまう生き物だからね。部屋の暗さにも寒さにも、慣れてしまうから」
「……でも」
「ところで問題。植物の南天と椿に共通するものは?」
「魔除けです」
「そう、正解」
よしよし、いいこいいこ、と頭を撫でられる。
彼に気を遣われたのだ。みやは俄然情けなくなったけれど、根性で顔を上げた。これ以上、彼を困らせたくなかった。
彼は「んーと」と考えをまとめて、みやにも分かりやすいように言葉を選んでくれて、
「屋敷の周囲は南天があるし、椿は言わずもがな。それらは魔除けとしてもちろん万能じゃないけど、意味が全くないものではない。それらを突破して、ピンポイントで君に向かってきたってことは――」
情け容赦なく、
「うん、標的は君だね」
そんなことを言った。
みやは心の底から失神したかったけれど、根性で意識を保った。
やっぱり、彼を困らせたくなかったのだ。
*
蓮見の私室――この屋敷で最も安全な場所に移動してほどなく、名取からお茶が出される。その際、
「みやは好きに動けないから、しばらく食事の支度をお願いするよ」
「はいはい、承知しておりますよ」
こんなやりとりをした。
みやが名取に「お願いします」と頭を下げると、「坊ちゃんの奥さんになるお人が、簡単に頭を下げちゃあいけませんよ」と言われた。
二人きりになると、蓮見が難しい顔で口を開く。
「君には、謝らなくちゃいけないな」
「謝る?」
何を。
「話さなくちゃいけないことは色々あるけど、とりあえず現状についてね。……俺に力があれば、こうなる前になんとかできたと思うから。そのことは不甲斐なく、申し訳なく思う」
「そんなこと……」
「そんなことあるよ。ごめんね」
みやは、彼に力がないとは思わない。彼が近くにいるだけで悪いものは祓われる。
けれど、退けるだけだ。消えてなくなるわけではない。
如月家の歴代当主は、霊体が接触するだけで浄化してしまえるような、強い神通力を備えていたらしい。常人離れした能力ゆえに現人神と崇められていたのは、しかし十数代も前のこと。
近親婚を禁忌としてから、血が薄まっている。代替わりを迎えるたびに力は弱まっていき、本家直系の蓮見も例外ではない。
如月の括りでいえば、彼の力は弱い。
もしかして彼のコンプレックスなのだろうか。――みやは、彼の弱さを初めて垣間見た。
「じゃあ、みや。今まで君が見てきた『おかしな』こと、全部話してくれるかな?」
「……はい。ええっと、……あの、部屋でウォークマンを見たところから、なのですけど……」
彼にすべて話すと、
「ありがとう。できるだけ一人にはならないでね」
と微笑みを交えて、けれど笑っていない目で言われた。
着替えや食事は、すべて使用人の二人が用意してくれた。
風呂は難しい問題だった。幽霊や怪奇現象の人気スポットとして挙げられるのが、水場――特に風呂場周辺である。ホラー映画やオカルト番組などでも、焦点が当てられることが多い。
みやは、一人で入浴するのは怖いと主張した。蓮見も「危ないからね」と同意した。けれど二人で入るわけにはいかない。使用人の誰かに付いてもらうことも考えたけれど、あの二人はやることがある。
さほどの時間もかけず、みやの中で結論が出る。
「じゃあ脱衣所までは、一緒にいてくれますか?」
風呂場は摺り硝子で遮られるから最低限のプライバシーは守られるし、脱衣所で着替える時は後ろを向いてくれればいい。何かあれば一秒で反応できる、絶妙な距離である。
みやは蓮見を全面的に信用しているので、覗きや暴漢行為の可能性など塵ほども疑わない。もしそうなっても構わないけれど。
みやがあっさり「そういうことで」と決めてしまった時、蓮見は非常に長い溜息を吐いて、両手で顔を覆った。
「うん、非常時だからね、うん」
「……?」
「……みやって誰にでもそうなの?」
「そう、とは?」
「いいや、なんでもない。気にしないで。ただもうちょっと、警戒心を持ってほしい」
「私の警戒心は随一と自負しております」
「……ああそうだ、今の君は俺に甘いんだ……」
罪悪感に苛まれている蓮見の前で、みやは首を傾げていた。
みやの部屋から移された布団と蓮見の布団が、一部屋にきっちり並んだ。
電灯の電源は落とし、枕元の行灯を常夜灯とする。ゆらゆら柔らかい灯りは頼りないけれど、不思議と心が凪いでいく。
「おやすみなさい、蓮見さま」
布団に腰まで入ったみやがきっちり頭を下げて、
「おやすみ、みや。何かあったら叩き起こしてくれていいからね」
布団に潜りかけの蓮見が返した。
二人同時に仰向けになって布団に沈み、同じ天井を見上げる。
「…………。」
「…………。」
「……、……考えたのですが」
「うん」
「たとえば金縛りの時は動けませんね」
「そうだね」
「そうなったら、蓮見さまを起こせません」
「それは困るね。とはいえ真横にいるから、なんとか……できると思うけど」
「なんとか?」
「なんとか」
「…………よいしょっと」
「なんでちょっとこっち寄ったの?」
「少しでも近いところにいれば安心です」
「そっかあ」
そして夜を過ごした。みやは空をちらりとも見ていなかったけれど、この日は満月だった。
問題なく一夜が明けた。太陽が東からぬっと顔を出し、空をじわじわ上に移動して、容赦なく平屋の屋敷を照らす。
朝も早くから出勤していた名取が、柄杓で地面に水をぶちまけた。
ぱしゃん!
偶然にも同じ時に、寝ていた二人はむっくり身を起こした。
横髪が跳ねている蓮見がみやを見て、
「……おはよう」
頬に枕の痕を付けたみやも答える。
「おはよー……ございます……」
「起きる?」
「……はぁい……」
眠気が酷いみやは、蓮見の袖を掴んで洗面所に向かった。その様子を目撃した名取に「あらあらまあまあ」という顔をされているけれど、頭が寝ぼけている二人は知らずにのそのそ歩く。
この日、みやは言いつけの通りに、蓮見の私室から出ないように過ごしていた。蓮見は時折どこかに行ってしまうけれど、みやの傍にいてくれようとする。
午後一時頃。名取が昼食の配膳にやってきた。その際、
「坊ちゃん、ちょっとお話が」
「なに?」
二人はみやを残して行ってしまった。
十分ほどして、蓮見だけ戻ってきた。
「……蓮見さま……?」
その十分で何があったのか不思議に思うほど、彼の顔は強張っていた。
昼食に手を付けずに待っていたみやを見て、彼は「みや……」と呟いたきり、押し黙ってしまった。理由を教えてはくれなかった。
この日は、それだけだった。
また一夜が明けた、午前十一時頃。
みやは折り畳みのテーブルを運んでもらって、夏休みの宿題に手を付けていた。
蓮見は自分の机で、書庫から持ち出した小難しい専門書のようなもの――みやが表紙を見てもよくわからなかった――を読んでいた。
みやは、手元のプリントとにらめっこをする。以下の英単語を訳しなさい。
「……んー……」
――理由、可能性、過去のこと、もう一度、歴史、数学、操縦――
英単語の隣の丸括弧に書き込んでいると、正門のチャイムが鳴った。
この屋敷は広いので、どこにいても反応できるように、正門のチャイムが押されれば複数個所で鳴るようにしてある。その結果、屋敷中の音が重なってぴぴぴんぽぽぽぽーんん……――と聞こえてしまうので、お客様がびっくりしなければいいなとみやは毎度考える。
今日の昼食は観月が担当するけれど、足りない食材を買い足しに出かけてしまっている。そうすると、来客に立ち上がるのはみやだ。
「お客様でしょうか? ちょっと行ってきます」
「みたいだね。俺も行く」
今日も蓮見の警戒心が強い。
くすぐったい心地で、みやは彼の手を取った。
対応するのは自分だと当然のように考えていたみやそっちのけで、蓮見が正門の脇戸を開けた。
「はい、なんでしょう」
彼が言うと、客人が「ひっ」と肩をびくつかせた。てっきり正門が開くと思っていたらしい。盲点だった脇戸から出てくる蓮見を見て、客人はさらに固まった。
蓮見は目を細める。
「君は……、会ったことはあるね、一度だけ。川でみやと一緒にいた」
客人は恐々と、けれどしっかり頷いて、
「古ヶ崎義弘っていいます。松野愛理のことで、お話が」
数少ない知り合いがやって来たと知って、みやは
「えっ」
思わず声が出てしまった。
みやは脇戸から出て来たところで、前に立つ蓮見の横から顔を覗かせようとするけれど、彼が動いて遮られてしまう。身長は蓮見の方が高いから、彼に塞がれては客人とも会えない。「蓮見さま」と声を上げても、彼は退いてくれる気はないようだった。
こんな無害そうな少年を相手にして、なおも警戒は解けないのだろうか。今現在も解かれていない『悪いもの』のことで、彼は過敏になっているのかもしれない。
守られている。
みやはそのことに思い当たって、申し訳なくなる。
昨日も、その前も。迷惑はかけたくないのに。
けれど彼の大きな背中に隠されていると、自分の気持ちの奥に淡い温かさを見つけてしまった。心の奥で長い間封じられていた扉が、内側から叩かれたようだった。これはきっと、こんな状況で表に出してはいけない軽率な感情だ。
――彼は、私の旦那様になる人。
それは決められたこと。今更、それを意識する必要もないのに。
「……?」
自分の感情に戸惑うみやを背に、蓮見は客人に向かって貼り付けた笑みを浮かべていた。客人の義弘はへらりと愛想笑いで、どうにかこうにか蓮見に答える。
「愛理は僕の従姉です。それで気になることがあって、……色々調べて、如月さんって人のところに行ったら、ここに行けって言われて」
義弘が言う如月さんとは、蓮見の実家だろう。
蓮見は眉根を寄せ、視線を左下に落とし、すぐに持ち直した。その視線が強くなって、義弘は微かに怯えを見せる。緊張感あふれる二人の様子を察したみやは、自分のことのように固まっていた。
玄関から内廊下を進んですぐの座敷に、三人が座る。
みやの隣には蓮見がいて、座卓を挟んで反対側に義弘。十代半ばの若者が同じテーブルを囲んでいるけれど、学生らしい奔放な私語が無い。
みやはこの静けさに慣れている。
所在なさげな義弘に何度か声をかけていると、
「今いッスか!」
この場に一番相応しくないテンション――みやはもう慣れている――の男の声がして、
「?」
義弘が固まって、
「はい、どうぞ」
みやが穏やかに答えた。
襖が勢いよく開くと、
「茶ッス!」
どことなく褒めて欲しそうな、誇らしげな一言が飛んできた。
湯飲みを三つ乗せた盆を片手に、二十代の男が立っている。三白眼である。髪は赤に染めているらしい。眉毛は無く、服装はジーンズにTシャツで、この場で最もラフな出で立ちの――有体に言えばヤンキー風の男だ。漫画であれば、主人公に一話で倒されてしまうタイプである。
みやは彼と初めて対面した時、本当に如月家の使用人かと三度見してしまったことを覚えている。
「…………。」
義弘は無言で瞬きをした。
男は最初に、座卓の中央に栗饅頭を置いた。続いて、
「お熱いんで!」
「うん、ありがとう」
「温めにしときましたんで!」
「ありがとうございます」
それぞれ好みの温度で淹れた煎茶を、繊細な手つきで置いていく。
「どーぞ!」
「あ、どうも」
義弘は呆気にとられるままだった。
その男は廊下に下がり「そんでは!」とはきはき挨拶をして、ぶぉんと音がするほど勢いよく頭を下げ、そのまますぱんっ! と襖を閉めて行った。
この先のお話は、きっと集中しなければいけないものだ。
みやはお茶で喉を潤そうと、一口飲んだ。
「……ふう」
観月のお茶はいつ飲んでも美味しい。
そうして全員が一息を吐いて、誰も声を発さない間が置かれる。沈黙の中で蓮見はただ微笑み、みやは自分から言葉を発さない。客人からの『相談事』をあからさまに促しているのだ。
みやは義弘と目が合った。緊張しながらも、これ話していいんですかね? と訊かれている気がしたので、一度頷いて答えた。
義弘は居住まいを正して、
「愛理のお葬式は終わりました。本当は僕も今日の朝に帰るつもりだったけど、ちょっと気になって、それで僕だけここに残ったんです」
「気になる?」
「前に、みやさんには言ったことがあると思います。愛理の遺体が動いたって」
蓮見にちらりと目で問われて、みやは頷いた。
「それだけなら良かったんですけど、いや良くはないんですけど……とにかくそれだけだったら、夢かもしれないし、僕は両親と一緒に東都に帰ってたと思います」
「だけどそうはいかない事情ができたってことだね。どうしたの?」
「……お葬式の時、」
言い淀んだ義弘は、また「……あの時、本当に」と自分に確かめるように呟いて、
「愛理の棺桶の中から、歌が聞こえた気がして」
蓮見は笑みを深めて、みやは膝の上で拳を強く握った。




