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印刷を開始した

みや

 ここしばらく、みやは考えていた。

 ――何かが違う。

 己の中の何かが決定的におかしいのだけれど、生活は自然に回っている。許嫁は優しいし、上の立場だからと無用の威圧を与えてこないし、みやの好きにさせてくれる。自分の意思で決めた関係ではないけれど、幸福だと言える。

 だからおかしいのは、こんなことを考えている自分の方なのだろう。

 何かを、忘れている?

 彼の側にいると、そんな気分になるのだ。喉に魚の小骨が引っかかるよりも存在感のない、一抹の違和感。そんなのは気のせいだと、みやは己の心に強く言い含めた。

 さしあたっての懸念事項は、近頃、自殺現場を目撃してしまった彼が沈んだ顔をしていることだけだった。それも、時間が解決してくれると思う。

 歩き慣れた通学路を進みながら、今朝のことを考えていた。今日も彼は、あまり食べてくれなかった。


 不意に。


 歌が聞こえてきた。

 民家が網戸になっていて、歌はそちらから聞こえてくる。ひと昔前に流行ったアイドル歌手の歌だった。


「……また……」


 昨日、聞いたばかりの歌だ。

 みやはその時のことを、よく覚えていなかった。自分の机にウォークマンがあって、それを不審に思ったところまでは覚えているけれど、その後はどうしたのだか自分でもわからない。ただ、気が付いたら目の前にいた許嫁の彼が、とても怖い顔をしていたことだけは印象的だ。

 そしてあの歌の曲調と歌詞は、今も頭の中に残っている。夢と希望と愛に溢れたアップテンポ。その歌と、縁が結ばれてしまったのだろうか。耳障りにも思える。

 歌は相変わらず聞こえる。

 みやは行儀が悪いと思いつつ、民家の網戸の方に目を遣った。


「……あれ」


 網戸を通して、室内は白く濁って見える。そのテレビ画面には、音楽番組など映されていない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「…………。」


 歌はたしかに、あのテレビから聞こえている。ニュースの音は聞こえない。にわか雨に注意という警告も、遠い国の地震のことも、すべてが同じ()にとって代わられているような――。

 みやは知らずのうちに唾を飲み込んで「よし、気のせい」ということにした。



 合唱部や吹奏楽部との兼ね合いもあり、毎年どうしてもステージの奪い合いとなるのが恒例だが、みやのクラスは学年で唯一ステージの使用権を獲得できた。厳正なるくじ引きの結果である。

 演劇を行う。

 役割も脚本も決まっていて、あとは練習するばかりとなった。

 広報だって生徒の仕事だ。チラシも、絵の得意な生徒がデザインした手書きである。

 みやはチラシ原本を手に印刷室に向かっていた。クリアファイルに入ったそれは、絶対に汚せない。

 印刷室は、この時期だけは解放されている。常ならば必要になる鍵も借りてくる必要がない。この時期の印刷室には大抵、数人の生徒がいると聞いた。


 しかし今日は、誰もいない。


 …………。

 外開きのドアを開けたみやは、その一瞬、室内に入るのを躊躇した。

 向かって左の壁にずらりと並ぶ低い棚には、印刷用紙やインクが整然と並んでいる。右はただただ、のっぺりと白い壁がある。

 肝心のコピー機は、突き当りの窓の下に、三台並んでいた。

 ――嫌だな。

 みやは、そう思った。

 窓にはベージュのカーテンがかかっていて、夏の熱気を閉じ込めていた。四角く固まった熱気の壁に阻まれて、みやは少し落ち着かない心地になる。

 けれど、頼まれた用事は完遂したい。

 入室する。ドアはわざと開け放したままにした。

 この空気はきっと電気系統にも良くはないだろうから、カーテンも窓も開けた。

 そしてようやく、印刷を開始した。


 二百枚。

 とりあえずはと頼まれた枚数だった。

 すぐに終わると思っていたけれど、両面印刷だからか、時間がかかっている気がする。

 みやが落ち着かない心地で、使用している中央コピー機を眺めている間も、他の生徒は一人も来ない。

 嫌な静寂がある。ドアと窓を開けて通した風も、慣れてしまったのか、涼しく感じない。またもや空気が閉じてしまったようだ。

 明るいはずの夏。

 けれどここは、不思議と薄暗い。

 早く終わってくれないかなと、みやが壁の時計を見上げて、


 誰かが、

 どこかから、

 こちらをじいっと眺めている気がした。


「っ……?」


 振り返っても、ドアがあるだけだ。――閉まっていた。


「……あれ……?」


 ぞく、

 背筋に、怖気が滑る。

 立ち尽くすみやの背後では、コピー機が変わらずしゃこん、しゃこん、と動いている。

 そこに新たな音が加わった。

 

 しゃこん、しゃこん、しゃこん、


 みやが使っているコピー機は、中央。

 その右のコピー機が、ひとりでに稼働を始めた。きゅいいい、と中の部品が動き出す音がする。その蓋の中にある何かを読み込んでいる。何を。誰が。どうやって。

 その機械は今から、何を量産しようとしているのか。


 しゃこん、しゃこん、しゃこん、


 みやが使っているコピー機からは、柔らかい印象のポップ体とイラストで賑やかなチラシが印刷されていく。

『眠れる森の英雄伝――。脚本は先生方も大絶賛! 主演は、演劇部の若きエース小鳥遊みのり。一晩の大降雪が明けた王都は、いつのまにか茨の森で囲まれていた。周囲の村は壊滅状態となり、』


 しゃこん、シャこん、しゃコん、


 右のコピー機から勢いよく吐き出された上質紙が、トレーの上に受け止められて溜まっていく。

 印刷されていたのは、黒い何かだ。明るいところと、暗いところがある。茫洋とした、輪郭のない影のようなもの。

 枚数が増えるにつれ、印刷がずれていく。

 影の位置が徐々に移動していく。判然としなかったそれは、徐々に何かの形を表すようになり――。


 遠目から、それは顔のように見えた。


 途端、中央のコピー機が印刷の終了を告げる。

 ぴぴ、と微かな音に反応したみやは、すぐさまトレーに重なったチラシを取り上げた。端を揃える間もない。

 一刻も早く、ここを出なければいけない。

 二百枚の紙束を抱えて廊下に飛び出すと、空気がずいぶん軽かった。

 何も追いかけて来ないように、ドアを乱暴に閉めた。そうだ、そうだった、印刷を始める前からずうっと、気持ちの悪い気配を感じている。

 はやく人気のあるところに戻ろうと、足を動かしていく。

 階段への角を曲がろうとした時、


           きいぃ、


 背後から、細い音がした。

 音の方向を見なくてもわかる。

 印刷室からだった。そのドアが開いたのだ。――自分が閉めた、ドア。

 みやの足が止まった。

 心臓が早鐘を打つ。あちらを見たくはないけれど、もし他の生徒だったら。あそこに誰かが入ろうとしていたのなら。

 微かな責任感に押されて、みやは印刷室の方を見た。


 ふ、と白いものが動いた。手だった。遠くてわからない。けれどそれは手だとわかった。外開きのドアが微かに開いて、その隙間から、ひたり、ひたり、と両手が覗いている。

 指が二本、ありえない方向に曲がっていた。


「――…………ッ」


 そしてその手がぐっと力を込めた気配がして、


 ――ずる、


 濡れた音が聞こえた。

 真っ黒な頭のようなものが現れる前に、みやはその場から駆け出していた。


 教室に帰ってくると、皆にちらちらと見られた。顔が青いよ、と言われた。どうしたの、とも。みやは印刷室で見たすべてを同級生たちに伝えるわけにもいかなくて、曖昧に笑っておいた。

 気のせいとか、見間違えとか、便利な言葉はいくらでもある。

 けれどあれは、そんなもので片付けてよいものだろうか。

 学級委員の女子に二百枚のチラシを束で渡すと、


「あれ、原本は?」

「……あ」


 忘れてきた。あの印刷室のコピー機の中に。

 自覚できるほど、ざっと血の気が引いた。青を通り越して白い顔をしたみやを気遣って、「あたしら手入れ行くついでに行くよ」と女子たち三人が名乗りを挙げる。彼女らは仲良しグループで、普段から一緒に行動しているのをみやも知っていた。


「だいじょーぶ。気にしないでねえ」

「ちょっと休んでるといいよ。印刷室ってたまに閉めきってるから、熱気こもってたりしたんじゃない?」


 印刷にも時間かかるし、熱中症かもしれないねと誰かが言う。

 彼女たちが教室を去って、十分ほどで帰ってきた。問題はなかったようだ。


 解散したのは、それから二時間後のことである。帰り際に教室の時計を見たら、まだ午後の二時半だった。

 校門を出て五歩ほど歩いたところで、隣の車道路肩に車が止まった。みやを意識した位置だ。

 見慣れた、黒の国産車。如月家のものだ。本邸とは別に、あの屋敷への送迎専用車として置いてある。驚いて足を止めるみやの前で、後部座席のドアが開いた。そこにいた許嫁が、朝に着ていた和服のまま、焦った様子で命令してくる。


「乗って」

「は、い」


 下校中の生徒たちの注目を集めたまま、みやは車内に入り込んだ。

 車はすぐに発進した。

 運転席には、今日も割烹着姿の名取がいた。「ほっ」と気合を入れながら、それなりのお値段がするマニュアル車のサイドレバーを握り、ハンドルを自在に操っている。


「何もなかった? あったね。ちょっといい?」


 みやが返事を返す間もなく、蓮見の手が背をぽんぽんと叩いた。満足した彼は、次にスマートフォンを取り出してタップし、受話口に耳を当てた。

 相手はすぐに応答したようだ。


「蓮見です。……はい、みやは回収しました。はい、これからそちらに……え?」


 みやは、彼の電話の向こうにいる相手が誰だかわかった。

 同時に、緊急を要する事態なのだとも。

「いやしかし、」最初は難を示していた彼の口調は、次第に「……はい」「はい」と相手の言いなりになっていく。やがて「失礼します」と括り、通話を切った。

なんだろうと心配そうに見ているみやに、蓮見はやや疲れた顔で笑う。


「自分の不始末は自分でなんとかしろってさ」

「不始末」

「現段階では何もわからないけど、後でわかったらちゃんと話すよ。……それより、よく聞いて」


 蓮見は固い声で、


「松野愛理の『おくり』に失敗した。形栖家の当主が軽傷を負っている」

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