変なのに引っ掛からないでね
「お葬式には行かれないのですか?」
「許可が下りなかったから、行けないかな。うちは身内以外の葬儀に近づくのも難しい」
「……死は穢れですか」
「……本当は、行かなくちゃいけないんだろうけどね。俺に何か言いたいことがあったみたいだから」
今朝はそんな暗い会話をした。
今日はみやが学校に用事があるらしく、俺は屋敷の離れで絵を描くことにした。
パレットに出した絵の具を水で溶いて、小さな別紙に試し描きをして具合を確かめる。納得したところで、本紙に移った。
あらかじめ水で濡らしておいた紙に調節した絵の具をおくと、色が繊維を辿って、じわじわ広がっていく。この滲みが好きだ。油絵や不透明水彩の厚塗りも好きだけれど、透明水彩が好きだ。みやの絵がそうだったから。
――かた、と音がした。入口を見ると、見慣れた顔がお茶を持って入って来る。
「……ねえ名取」
「なんでございましょ」
「みやはどうして、あんなに俺を怖がっていたんだろう」
「ご両家の上下関係では?」
「それを叩き込まれたってことかな。……でも俺はみやにそんなに威圧的になった覚えはないし、あそこまで怖がられていたのは不自然だと思う」
違和感はあった。先日の膝枕の件で、疑念が増した。
俺が、彼女が倒れるほどの心労になるとは思えない。
――『忌み名を使わなくても、平気です』
先ず。
今のみやの頭には、両家周辺の知識がそのまま残っている。彼女の言動からもそれは明確だ。おそらく以前までの奴隷のような態度は、上下関係自体を恐れてのことではなかった。
次に。
以前と違うのは、彼女の中に偽物の恋情があることのみと考えていた。だが果たして、それだけでここまで変わるものか?
みやが俺に抱いていた恐怖とは、その理由は、恋情ごときで解消できるようなものだったのか?
考える。
彼女が屋敷に来て、彼女は倒れた。ストレスだ。俺に気を使いすぎていたし、望まない相手に嫁ぐマリッジブルーのようなものかもしれない。……けれどそれであれば、恐怖よりも憎悪に近い想いになるのではないか。あるいはぶつけようのない怒り、理不尽への苛立ちか無力感。そういった感情が先に立つはずなのに、以前の彼女にあったのは純粋な恐れだった。
――『どうして以前の私は、蓮見さまをあんなにも怖がっていたのでしょうね』
「名取」
「はい坊ちゃん」
「俺は、みやから色を盗ったよ」
「…………。」
忌み名を握る、それ自体が残酷で絶対的で野蛮な優位性である。さらにおまけとして、如月は形栖の人間の忌み名を知ると同時に、感覚を一つ奪うことがある。
俺はみやの色彩を奪った。それ以前、俺は色を知らなかった。
俺のせいで彼女は絵を描けなくなった。自由に生きられなくなった。この関係に付随する感情は、単純に考えれば、恐怖ではありえないはずなのだ。
「憎まれなければいけないはずだ」
彼女は俺の、何を恐れていたんだろう。
許嫁のこと。これからのこと。松野愛理が最期に渡してきた『手紙』のこと。気になることが多すぎて、今日も筆が乗ってしまった。
こんな様で、かつての彼女のような絵が描けるわけもなく。
「……酷い色だな」
俺の色は今日も汚い。
気付くと青の絵具がなくなってしまった。画材店で絵具を調達し、ついでに町の図書館にふらりと立ち寄って、続いて土産に菓子でも買おうかと考えて、
――ぶち。
履物の鼻緒が切れてしまった。こういう時は大抵何かがあるので、真っ直ぐに帰宅した。
「ただいま。……みや?」
遅くともお帰りなさいと返ってくるはずの声が、聞こえない。靴を脱いで取次に上がり、自分の部屋に歩いて行く間も、いつまで経っても反応がない。
まだ帰ってきていないのか。
いや、玄関の鍵は開いていた。
ぞ、っとする。
自分が屋敷を出る時に鍵をかけた。そして帰ってくるまでの間に、彼女は帰宅していたのだ。それならどうして反応しない?
嫌な感じがする。
松野愛理が飛び降りる前、かすかにあった不穏の気配。
「みや、居る?」
呼びながら、みやの部屋に向かう。道中、彼女の気配はしていたのに反応がなく、物音の一つも聞こえなかった。とうとう到着して「入るよ」と宣言した。返答にじゅうぶんな時間を与えたけれど、やはり声はない。
障子を開けると、みやはそこにいた。
俺に背を向けて、制服のまま、机の前に立っていた。呼びかけにも答えず、沈黙している。
眉を顰めて彼女に近づいていく。
やがて彼女の耳に、イヤホンが付いているのに気づいた。――みやは音楽機器なんて持っていたっけ?
ぱたっ、
下の方から音がして、そちらを見る。みやの足元だった。
ぱたぱたっ、
赤く重い液体が、断続的に畳に落ちていた。いくつも落ち重なった液体は、どろりとした薄い水溜りを作り、い草の目に滲み、赤黒い平行な線が短く伸びる。
「――……。」
みやの前にゆっくり回り込むと、俯く彼女の手元がよく見えた。そして心臓が大きく跳ねる。
小さな手には、どこかで見覚えのあるウォークマンが握られていた。それにべっとりと付着した血液が彼女の白い手を汚し、伝って、また畳に落下する。
ぱたっ、
「みやッ!」
ウォークマンを引き奪う。彼女の耳に収まっていたイヤホンも抜け、長いコードが宙を掻いた。
彼女は一度瞬きして、今ようやく俺を視界に入れてくれた。
「これ、どうしたの? 誰かに渡された?」
「これ……?」
俺の手に渡ったウォークマンには、血など付着していなかった。
何年間も使いこまれて、薄ピンクの塗装がちらほら剥がれた小型のそれ。
――これは、遺品だ。
松野愛理と共に落下し、血の海に浸され、尚も壊れることなく曲を流し続けていた、立派な『曰く付き』だ。
畳に着いたイヤフォンからは、以前流行ったアイドル歌手の歌がかすかに聞こえた。諦めちゃだめ、もっとやれる、世界中の笑顔があなたを応援している、愛は偉大、恋をすると世界が変わる。――そういった歌詞だったと思う。
*
頭が痛い。脈に合わせて圧迫されているようだ。
朝食の席に着いて、彼女は心配そうにちらちらと見てくる。
普段から食の太くない俺だけど、今日はいつにもまして箸が進まなかった。みやが作ってくれた食事だ。残したくはない。けどやはり、手が止まりがちになってしまった。
今朝も蒸し暑いけど、あおさの味噌汁の温かさがやけにほっとする。
「蓮見さまは、何か、お好きな料理はありますか……?」
俺がお椀を置いたのを見て、みやが遠慮がちに訊ねてくる。
「好きな料理。…………、…………温野菜?」
「温野菜」
「普通に茹でて、マヨネーズで食べるのとか好きだな」
なんて創造性のないメニューだろうと我ながら思うけど、そもそも食事に関しては好きか大好きしかない。温めただけの野菜だって、マヨネーズやドレッシングでいくらでも楽しめるし、その選択の幅が好きだなとたった今思い浮かんだだけだった。
とはいえこのままだと、意外に尽くすタイプの彼女が慣れ始めたスマートフォンで「野菜 適度 茹で方」などと検索しかねない。みやの料理はどれでも好きだよと一言添えておいた。
納得してくれた彼女は、直後に何かを思い出して「そういえば」と会話が続く。
「おくりって漢字でどう書くんですか? というか漢字ってあるんですか?」
「おくり? いきなりだね。形栖家から何か手伝えとか言われたりした?」
「いいえ。私は形栖とはあまり関わりませんし……」
「だろうね。じゃあ、どうしたの」
現状、みやの身分はほぼ如月の人間だ。あちらが如月を通さずに仕事の話を持って来るわけもないことは、俺も重々承知していた。
「昨日、東都の方とお話したんです。あちらだとおくりがないとか……。今まで文字で見たことがなかったので、漢字にしたらどう書くのかと気になって」
その東都の方とやらは、松野愛理の葬式にでも参列したのだろうか。最近このあたりで葬儀の話が出そうなところといえば松野家しかない。
「んー……、御霊送りだね。それが簡略化していったやつ。おくりの漢字はそのまま、送りバントとか、緊急搬送の『送』で送り」
「なるほど。ありがとうございます」
おくりは、この地域における葬儀の一儀式だ。
元は御霊信仰――怨霊を鎮め慰めて「御霊」とし、繁栄を願う信仰――から成る。
名付けや祝い事に関わる如月家とは逆に、形栖家は「死」や「穢れ」、主に葬儀に関わっている。
みやは如月家に来ると早い段階から決まっていたから、そのあたりの教育はされなかったのかな。
食器類を片付けた後、
「今日もこの後、学校に行きます」
「そう」
学園祭の準備があるらしい。
白女の伝統ある祭の開催は、夏休み明けからそう経たない時期だ。絲倉学園の男子生徒もこぞって足を運ぶ。男子の侵入に厳しいお嬢様学校が、この日ばかりは喜んで迎え入れてくれるという。
「……変なのに引っ掛からないでね」
「変なの?」
「いや、なんでもない」
大きな瞳を瞬かせる彼女は贔屓目無しに見ても可愛いから、心配になる。
だけど、それにしても。
隣の学校の女子学生が一人死んだくらいでは、何も変わらないのだな、と。そうやって何でもかんでも鬱々と考える、頭の中の自分はいつ消えてくれるのだろう。
みやに対しての、人権無視とも言える所業のことすら、まだ決着がついていないのに。
頭痛がひどい。
朝食はやっぱり残してしまった。




