どうして以前の私は
夏休みにも部活はある。
他校との試合を控えているのか、どこかの運動部が足並み揃えて走り込む音がする。楽しそうに「えいおー!」やら「打倒ー!」「流南ーっ!」と声を上げて青春を満喫している。
朝日で溶けそうな俺の横を、また別の集団が走り過ぎていった。ほとんどが女子だった。あの顔ぶれは吹奏楽部だったと思うけど、吹奏楽って実はスポーツなのかな。
他と比べると、美術部は暢気なものだ。
自分の下駄箱を開けると、手紙が入っていた。簡素な封筒を開き、便箋を読む。
お伝えしたいことがあります。
午後七時に美術室に行きます。
文末に松野愛理と名前があった。本人のイメージよりも丸っこい文字だ。何をそんなに改まっているんだか。
日にちは書いていないけれど、今日でいいのかな。
「……んー……」
この学校は学生のモラルを信じている。自由という校風が、夏休み中にも適用されている。生徒手帳に明確な帰宅時刻が記されていないので、警備員が見回りに来る時間帯まで残っていることも校則違反には当たらない。
午後七時まで残ることも、吝かではないんだけど――。
手紙を封筒に戻し、その場で電話をかける。
みやは今日も家にいるはずだ。
「……あ、みや? 大したことじゃないけど、今日ちょっと遅くなるから、ご飯は先に食べてていいから。うん、大丈夫。戸締まりはちゃんとして」
という経緯で、俺は美術室に残っていた。
他の部員は、午後五時を過ぎた時点で大半がいなくなった。
――午後六時三十三分。
俺と残っていた部長も、俺に美術室の鍵を託して帰っていった。
ふと気になって、天井を見上げる。
「…………。」
なんだろう。
空気が少しざわついている。
耳を澄ませてみたけれど、今は運動部の声もしない。
――午後六時五十五分。
教卓には顧問の文字で、
『長期休み中だけのお楽しみ。
最初の人はお水を換えてコンセント差して、
最後の人はコンセント抜いてってね』
と書かれた紙が貼られたポットがある。ティーバッグの紅茶とドリップコーヒーが知らぬ間に補充される箱や紙コップと共に、夏休み一日目から置かれていたのだ。
俺は鞄から自分のマグカップを出して、紅茶を選ぶ。
気分を落ち着かせたい。
――午後六時五十六分。
神出鬼没の顧問教師に感謝しながら、ポットのお湯にアールグレイのティーバッグを浸した。
――午後六時五十九分。
ちょうど良い濃さになった紅茶の味を確かめる。約束通りであれば、松野愛理がそろそろ来るだろう。
――午後七時。
目が合った。
続いて、
ごシャっ
窓を隔てたすぐ外側で、重いものが地面に叩きつけられて弾けた音がした。
「…………、」
音には余韻があった。
一秒にも満たない落下音は、やけに湿っていて、重々しく、耳に残る。それが引いていった時、ようやく俺は声を発した。
「…………、…………は?」
しん、としていた。その中に響く俺の声は、虚しいばかりだった。
沈黙。美術室が重い静寂で埋め尽くされる。頭上の電灯が、ぱちぱちと点滅をし始める。
誰かいないだろうか。
当たり前のように、誰もいない。
ここに自分は一人。だから俺が『それ』を確かめなければならない。手に持っていたカップを落としてしまわないように、机に置いた。
俺の両足は信じられないほど滑らかに歩行を始め、速度を上げた。音がした方に向かう。窓際に寄っていく。
「――……。」
そして俺は、道路に落ち腐った柿の実を思い出した。
あの時、俺は松野愛理を見た。
松野愛理は俺を見ていた。
頭から落下するあの子が、地面に叩きつけられるその間際、たしかに視線を合わせたのだ。
*
予想していたよりもずっと遅い時間帯、パトカーに送られて帰宅した。
玄関に上がると、奥から慌てた様子のみやが飛んできた。
「蓮見さまっ!」
心配しましたと、その顔がありありと語る。
就寝時間はとうの昔に過ぎていて、彼女も寝間着姿だった。
彼女は俺の事情を、警察からの電話で聞いているのだろう。何を言えばいいのかわからないけれど、何かをしたい。――そんな顔で懸命に見上げてくる彼女の黒い瞳を、俺は見下ろす。
「……蓮見さま……?」
彼女の柔らかな声が聞こえる。
――ごシャ、
あの音も脳裏にこびり付いている。
目の前の美しい顔立ちの娘に、つい数時間前に見た光景が重なった。フラッシュバックする。全く似てもいないのに。
心に深々と負ってしまった傷口が化膿して、さらに別の闇を呼び起こす。
――彼女がもし、ああなってしまったら?
思考の中に、ぽつんと一滴、落ちた不安。
――あり得ないことだ。
ありえない。
――本当に?
怖くなって、彼女の身を引き寄せた。
びく、と震えて、彼女はそれでも拒否しなかった。細く柔らかい体が両腕に馴染んで、彼女の香りもする。
俺はこれまでみやに触れなかった。罪悪感があるし、何より自分の箍が外れてしまうからだ。けれど今回は、そんなことに気を配る余裕もない。
彼女の腕が、俺の背に回る。
「……今日は、眠れそうですか?」
眠れそうにない。小さく「ちょっと難しいな」と苦笑すると、彼女は言う。
「では一晩、お付き合いしましょう」
彼女ははにかんで「どうせ眠れないなら、いつもと違うことをしてみましょう」と提案した。就寝の支度を終えた俺の布団に横座りして、自分の膝を叩いて呼んでくる。
みやは、好意を持つ相手にはこんなことをするのか。まさに天地の差というか、わかりやすいというか。
呆けていると、みやはことりと首を傾げる。
「嫌、ですか?」
「嫌じゃないよ。少し恥ずかしいなって。膝枕って、子供みたいじゃない?」
「おかしいことではないでしょう。恋人ではないにしても、将来は夫婦になるんですから」
「積極的だね」
「からかうなら止めますけど」
「ごめんごめん。……じゃあ、失礼します」
誘惑に屈して、彼女の膝に頭を乗せた。
雨戸も障子も開けてある。仰向けになると、空がよく見えた。
彼女の艶やかな黒髪は、月光を浴びて光沢を帯びている。俺を見下ろす瞳は愛おしさを隠しもしない。男より細くても柔らかい太股の不思議な感触は、自分には持ち得ないものだ。
正直なところ、この体勢になって何が変わるわけでもないと思っていた。根本的な心労は解決しないし、見てしまったものを忘れられるはずがない。
――でも、慰めにはなるかな。
彼女の匂いが近い。好ましいと感じる。石鹸と彼女自身の香りが混じった、清楚で甘いものだ。香は儀式に使われる重要な要素だけれど、内腑に染み渡るこれは、なるほど人を麻痺させる。
しなやかな手が俺の髪を撫でた。
「眠くなったら、このまま寝てしまってもいいですよ。ご希望なら子守歌も歌えますし、おとぎ話も覚えています。如月家で教えられましたので」
「俺の家って何してるの……?」
ベビーシッター養成所じゃないんだから。
そう呆れはするけれど、もし如月家のお茶目な冗談ではないのなら――ねらいがあるのだとすれば、その意図もだいたいわかる。
仕事をする上で叩きこまれた心得の一つに、『隙を作ってはいけない』がある。祓うものに同情してはいけない。人の目に映らないものであろうと、己の目で見たものを信じなければいけない。呪詛の失敗の原因は、無知と心の弱さにある。何をするにも図太い精神力が必要な家業だ。
それを支えるのが、伴侶の義務である。
――とか。彼女がこうまで世話を焼くのは、そういう理由に違いない。
「耳かきでもしましょうか」と言われて、丁重にお断りした。本当に俺の実家は何を教えているんだ。
「では、しばらくこのまま?」
「そうだね。もう少しお願い」
「はい」
空に一筋、星が流れる。髪を丁寧に梳られて心地良い。頭が重くないかなと思っても、口に出すのは無粋だろう。
「……少し、話を聞いててくれる? 独り言みたいなものだけど」
「はい」
なんでもどうぞと、彼女は言った。
俺は今日のことを話した。如月家の名付け子がいたこと。顔見知りだったこと。その子が自殺をしてしまったこと。それを見てしまったこと。
あの音が聞こえる。頭蓋骨が壊れて、中身がつぶれて、骨が砕けて、水分が強く飛び散って、そのすべてがあの一瞬に凝縮されていた。
「色々な幽霊は見てきたけど、リアルタイムでやられると、さすがに……」
「……辛いですか」
「…………。」
無言の肯定だった。
言葉にしてしまえば、もっと辛くなりそうだった。
松野愛理は手紙を寄越してまで、俺をそこに留まらせた。そして見せつけるように自殺した。約束通り午後七時に、あれは俺に会いに来たのだ。
であれば。
「俺のせいかな」
「え?」
これ以上は話したくないと、口を閉じた。虫の声しか聞こえなくなる。
たとえ夫婦の真似事でも、彼女の体温は心が落ち着いた。
「蓮見さま」
「どうしたの?」
彼女は一瞬の間を置いて、唇を何度か開いては閉じる。そうして今から自分が言おうとしている内容を確かめて、躊躇っているようだった。
「……もし、もしも本当にお辛いようでしたら、……お慰め、できます。私は大丈夫です。忌み名を使わなくても、貴方になら従います。……一晩だけでも、忘れたいと仰るなら」
すごいことを言うな君は。
彼女は僅かな恥じらいと覚悟でもって、俺と目を合わせている。
こちらから彼女の頰に触れれば、滑らかで、柔らかで、そして熱い。
身を起こして向かい合うと、彼女の両手が小さく震えているのが見えた。
「俺を支えるためならなんでもしろーみたいなこと、家の誰かに言われた?」
「…………。」
「ありがとう。みやがそこまで言ってくれるのは嬉しいけど、……でも俺は、君を妻に迎えた日がいいかな。嫌なことを誤魔化すのも大切だけど、それと君の身は釣り合わない」
しーん、としてしまった。彼女の羞恥とか勇気とかそういうものを踏みにじったと捉えられてもおかしくない発言だったと、考えなくてもわかる。
ごめんそういうつもりはないんだけれどと言葉を尽くそうにも纏まらず、胸中で狼狽えること約十秒。「……ふふっ……!」無言だった彼女が突然、今まで聞いたこともない明るい笑声を上げた。
「みや?」
四つん這いでこちらに迫り、額を俺の肩にぽすりと預けてくる。そのままそろりそろりとしなだれ、徐々に体重をかけてきた。
顔は見えないけれど、機嫌は良いらしい。
「どうかした?」
「……どうして以前の私は、蓮見さまをあんなにも怖がっていたのでしょうね。それがとても不思議です」
彼女は「要らない気を回してしまってすみません」とくすくす笑う。俺の懐あたりをそうっと掴んで、甘えている。……甘えている? 以前、俺が傍にいるとストレスを感じていた彼女が。
思わず彼女を囲った俺の両腕だけが、利口で素直だった。
「怖くなんてないのに。初めて会った時から、貴方を慕っていたのに」
――私の旦那様。
みやは小さく声を落として、しばらくそうしていた。




