俺は今、『正しくない』ことをしているのだ。
瞼を開けると、目の前に手があった。こちらに触れようとしている。細い指先は滑らかで、ピンクの爪は瑪瑙のようにまろやかな色をしていて、舐めたら甘そうだ。見たことがある手だ。そして害意はない。
誘われるように掴んでみたら、
「ひゃ……っ」
か細い悲鳴が聞こえて、掴んだばかりのそれを反射的に放した。
犯人は布団の上で、解放された手首を庇いながら縮こまっている。
「蓮見さま、……あの、起きられて……?」
俺はどうやら、布団の傍で寝てしまっていたらしい。身を起こし、彼女を見る。
「……みや?」
「はい、私、です」
普段と変わらない怯えように見えるけれど、表情が違う。……恐怖がない。先日見たばかりの告白してくる女生徒と同じ、恥ずかしいとか、そういう顔だ。
夕日が射す室内だった。非日常的な雰囲気に相まって、熱で気怠そうな彼女が妖しく見える。ちらちらとこちらを気にしてくる瞳と視線が合えば、戸惑いと羞恥からか「そんなに、見ないでください」とあえやかに訴えられる。
こんなみやは初めて見た。
「体は平気?」
「はい。少し怠いですが、起きられます」
「起きないでね」
「でも今日は名取さんも観月さんもいらっしゃいませんし」
「俺がなんとかするから、明日までは布団の住人になってて」
「……お料理とか、大丈夫ですか…?」
これは煽りではなく、みやの純粋な心配だ。
「なんとかするよ。コンビニは便利だ」
「あ、はい。では、あの……」
「うん?」
みやは意を決した瞳で、
「お願い、いたします」
「うん。お願いされた」
久しぶりに見た彼女の笑顔は、桜が綻ぶようだった。小さな花のささやかさと、薄桃の喜色を帯びた可憐な微笑。
*
『おはようございます。蓮見さま、お目覚めですか』
「おはよう。開けていいよ」
失礼いたしますの声があって、直後に障子が開いた。
制服のネクタイを襟に通しながら、彼女の様子を見る。一時は高かった熱も月曜日には下がっていて、木曜日になる今日は完全に健康を取り戻していた。
「……あれ?」
いつもの彼女ならこの時間は着物のままだけど、今日はすでに白い制服に着替えている。制服の上にエプロンを着ているのは新鮮だ。
「もう制服、……って、日直だっけ」
「はい、今日は早く出ます。すみませんが、施錠をお願い致します」
日直だから朝早く登校すると昨日のうちに聞かされていたのに、一瞬でも不思議に思ってしまったから、俺の頭はまだ寝ぼけているらしい。
彼女は、まだ言いたいことがあるようだった。
「お願いがあるのですが」
「なに?」
「髪を、いつも結っていらっしゃいますよね。私にやらせていただけませんか?」
「……これ?」
髪を一房持ち上げて問うと、彼女は恥じらうように目を伏せて、小さく頷いた。これはなんのご褒美だろう。
俺の髪は肩甲骨まである。如月家の方針で、一定以上の長さに保たなくてはいけない決まりがあるからだ。現状では長さがあれば量は問われないから、俺は襟足を伸ばしている程度だけど。
術者の髪には霊力が宿る。――力。
髪は女性の命。――美。
髪を結うことが武士の誇り。――信念。
巫女は髪が長くなければいけないし、力のある術師の髪は御守りになるし、戦場に向かう兵士の髪は代表的な形見だ。髪にはあらゆる力が宿る。髪を切るはのっぴきならない事情がある時だけだと教えられている。
心理的に、髪に触れていいのは仲の良い者に限る。美容師にすら触られたくないという人間もいるし、みやもきっとそれを承知しているだろう。彼女のお願いは、なるほど勇気の要るものだ。――悪い気はしない。
「いいよ」
机の上に置いたままの櫛を手に、みやを呼ぶ。
「じゃあこっち来て」
すると彼女は嬉しそうに返事をして、躊躇いもなく近づいてくる。座布団に座った俺の後ろで両膝をつき、「失礼します」と緊張ぎみに囁いてきた。
「結ったことはある?」
「自分の髪でなら、何回も」
「そっか。慌てずにね」
「はい」
白く繊細な指が、俺の髪に櫛を通す。
彼女がこんなに長く俺の部屋にいるのは初めてだ。
「以前から思っていたのですが、蓮見さまの髪が長いのは、やはり如月家の方針でしょうか?」
「まあね。うちの全員ってわけじゃないけど。でもやっぱり今の時代、男がこれって変だよね」
「たしかに、街中を歩いていても髪の長い男性は見ませんね。似合わない方はとことん似合わないかと思いますし。でも蓮見さまは、このままでも……」
このままでも? 振り返ってみやを見るけれど「なんでもありません」と言い張られてしまった。前に向き直る。
「好きに切らせてももらえないのは少し、どうだろうね」
みやが「ふふ」と笑う。
「割と不便ですよね。洗うのにも乾かすにも、時間がかかりますし」
「不便といえばそうだね。でもみやの髪は綺麗だから、それは切らないでいてくれてよかったな」
「…………。」
「みや?」
彼女の手が止まった。すぐに「いえっ、失礼しました!」と慌てて再開する。丁寧に梳かれた髪が、黒いヘアゴムで纏められていく。
「結い終わりましたので、ご確認ください。……あと、蓮見さまのお言葉は心臓に悪いです」
「ありがとう、大丈夫だと思う。あと変なこと言ったつもりはないんだけど」
「慣れていないんです。どう答えればいいのかわかりません。緊張して、しまって……」
俺の後ろで赤い顔を隠そうとする彼女が、机上の鏡に映って見えた。とても可愛い。意外と好奇心旺盛なところも、良い許嫁であろうと尽くしてくれるところも、数日前と違って楽しそうにしてくれるところも愛おしくて、
心の底から自分を軽蔑した。
俺は今、『正しくない』ことをしているのだ。
*
――みやさんは今、悩んでいるのですか?
――いいえ。今はよく笑ってくれます。
――それでは、思い悩んでいるのは蓮見だけですね。
――はい。
――蓮見の選択で一度は安寧を与えておいて、蓮見一人の懊悩のためにそれを奪うというのは、それこそ自己満足というものでは?
蓮見は己の特権を用いて、彼女の精神を救っただけ。それは『正しい』ことでしょう?




