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『××××』

 祟りについて話してしばらく。みやが高校に進学して慣れた頃合いに、土日祝日の家事を彼女に任せることにした。

 男女平等が叫ばれる風潮に喧嘩を売っているようだが、俺が手伝おうものなら彼女が塩と砂糖を間違いかねないほど動揺してしまうので、仕方がないとも言える。


 許嫁とのぎくしゃくした関係に悩みながら、今日も部活動に励もうと旧校舎へ向かう。ショートホームルームを終えてそう経っていないけれど、美術室にはすでに何人かが来ているようで、中から声が聞こえた。

 ドアを開けようと手を伸ばし、


「きしゃらぎ先輩!」


 横から呼び止められた。十中八九俺のことなので、そちらを見る。


「結崎瑠香っていいます! 好きです! 付き合ってください!」


 美術室からの声が不自然にぴたりと止んだ。


「……俺?」

「はい! 好きです! なんていうかもう、あのっ、すごく好きです! 先輩に憧れて、ここ受験しました! 先輩はあのとってもおモテになるから無理だってわかってますけどダメならダメって言ってくれると楽になれるので一思いにずばっと切り捨ててくれたら幸いです!」


 潔すぎる。

 この女子生徒はどこかで見た覚えがある気もするので、きっと中学が一緒だったんだろう。「ごめんね」と「ありがとう」を駆使して答えて、去り行く後輩を見送り、当初の目的である美術室に入室した。視線が痛い。

「さすが」やら「おつかれ」やらの声に答えつつ、席に着く。

 美術室では常に、机を向かい合わせにしたものを二組付けて、計四つの机で一つの班になっている。その班が教室に六つだ。自由席だから、来ている人数が少なければ、四つの机をそのまま独占することもある。

 仲良しグループでまとまって座る生徒が大半の中、俺は空いていた窓際の一番奥の席に座ることにした。

 描きかけだった川面の絵に手をつけていると、斜め向かいの椅子が引かれた。


「おいこら如月蓮見」

「アポとって来て」

「一介の学生相手に何をアポる必要があるっつーんだよ」


 知っている女子生徒だ。

 二年前の冬に保護した、松野愛理。保護と言ってもあの日は一晩屋敷に置いただけで、あとは如月の実家に任せてしまったけど。それから今まで、目が合うことはあっても会話したのは久しぶりだ。

 金に染めていた髪を黒に戻して、同じ学校に合格してきたのには驚いた。


「顧問に用があんの。あの先生たまに消えるけど、ここにいりゃ来るっしょ」

「ふうん、意外と優等生してるんだね。そういえば久しぶり。二年ぶりだね」

「優等生だかんな。はいはいお久しゅうございます。……じゃなくてさ、アンタにも用あるわ。言いたいことあるんだわ」

「何かしたっけ。君には一宿一カップ麺を提供した覚えしかないけど」

「一宿一飯の恩は置いといて。あのさ、結婚相手がいるならいるって、はっきり言った方がいいんじゃねーかなーって」


 ぶっ飛んだ話をしてきたな。

 ただ歯に衣着せない物言いをする彼女は、彼女なりにこの手の話題に引け目を感じているらしい。消極的な態度で、自分の髪を弄っている。


「さっき告られただろ。来る時にそれっぽいのと擦れ違った」

「大丈夫そうだった?」

「友達二人がかりで慰められてたっつの」

「……そっか」


 筆を動かす手は止めない。


「将来結婚する相手がいるからって、初めは言ってたんだけどね」

「じゃあそのスタイル貫いとけよ」

「いや……、それまででもいいから付き合ってほしいっていう子もいるし、断るための嘘って言う噂も流れたし、相手の名前を教えてって言われたこともあるし、だからここしばらくは言わないようにしていただけなんだ」

「アンタの周りって肉食獣ばっかかよ」

「女難の相が出ているとは言われたかな、親に」

「くっそ笑うわ」


 真顔で言われても。

 細い筆に持ち替えて、パレットに青と少量の緑を置き、水で伸ばす。

 そろそろ青を切らしてしまう。一番好きな色だから、よく無くなる。筆先を紙に付けて、

 ――結崎瑠香っていいます!

 つい十分ほど前に名乗られた名前を思い出した。瑠璃色。青を連想する名前だ。


「如月家に子供が生まれると、その後五年間くらいは名付け子が多くなるんだよ。しかも異性のね」

「あー、まあ解かるわ」


 如月家は、名付けた子の中から伴侶を選ぶ場合がある。有名な話だ。

 純粋に縁起のいい名前を付けてほしいだけの親も間違いなくいるが、旧家との婚姻を狙う親だって、残念ながらいつの時代もいる。

 透明な川底に敷き詰まった、細かい石の影を描く。あまり鮮明にならないように気を付けて、筆先で点々と縁取りながら、


「さっきの子も、うちの名付け子だった」

「…………。」

「親からの刷り込みなのか、自分の意思なのかわからないけど、そういう色々なことを考えるとね。人気とかモテるとか、素直に喜べないな」

「二月十四日にチョコの一つも貰えない男子が聞いたら発狂して刺されんだろーな」

「あ、でも顔がいいのも告白される原因の一端ってところは受け止めているから安心して。そこまで無自覚じゃない」

「アンタもう惨殺死体で発見されても驚かねえよ。遺書でも書いとけ」

「では、俺の遺産はすべて『彼女』に相続させることとします」


 柔らかに、自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。遺産も何も、現状では彼女に遺せるものなんてあまり無いけど。

 今度は赤みの強いオレンジ色を作る。淡い朱色で空を塗りたい。

 松野愛理は俺が指す『彼女』を察して、揶揄う口調で、

 

「……好きなんだ?」

「好きだよ」

「どんな子?」

「大人しくて、ちょっと意地っ張りで、可愛い子」

「ありがちだな」

「まあね。でも本当にそうなんだよ。……あと、髪がすごく綺麗なんだ」


 そんな彼女に嫌われているけど。

 いつか彼女にそれらしく触れたり、そうした時に「もっと」なんて彼女から甘えてくれる時が来るのだろうか。まったく想像もできない。


 ついにみやが倒れた。土曜日の昼だった。

 廊下に倒れ伏す彼女を抱え上げ、彼女の部屋まで運び、かかりつけの医者を呼んだ。

 昏倒の原因は、


「……ストレス?」

「ストレスだねえ」


 環境の変化で精神的な負荷がかかり、それによる免疫力低下からの発熱、そして身体が耐えきれず失神ということらしい。

 一通りの説明と薬をもらって医者を正門前で見送り、その場で電話をかけた。

 母屋に向かって歩いていく。

 相手はきっちり三コールで応答した。


「ごめん観月、いま大丈夫かな? いや出勤じゃなくて。ちょっと聞きたいことがあって。うん。氷枕はどこにある? いや俺じゃなくて。さっきみやが熱出して倒れ待て待て待て待て大丈夫、俺でなんとかする。今日は休みのままでいい。とりあえず氷枕の場所を、うん、医者も呼んで診て帰ってもらったところだから、うん、説明も受けたし薬もあるし、そうだねだから差し当たって氷枕の場所を教えてもらいたいんだけどいいかな?」


 周囲は過保護だ。大人の脳内では、俺は貧弱な小僧のまま。俺が広い屋敷に病人を抱えて一人でいるのは、四歳の幼女が首からコインケースを提げて一人てけてけ商店街まで駆けていくのと同レベルなのだろう。

 それを考えると、俺を信頼していないという点では、みやも大人も同じになる。否。みやにとっては俺が信頼に値するとかそういう次元の話ではなく、


 ーー警戒に値する人間。


「……うわあ……」


 自覚し直して、さらに切なくなった。

 通話を切ったスマホを片手に玄関に上がり、そのまま台所に向かう。氷枕は台所の戸棚のどこかにあるらしい。形状は知っている。使い方は見ればわかるだろう。

 嫌われていようと警戒されていようと、俺には彼女を守る義務がある。なんとかしてみよう。スマートフォンという便利なものがあれば、ネットや通話で色々と教えてもらえる時代なのだ。


 そして俺はこの日、お粥が焦げることを人生で初めて知った。

 火からおろした小鍋を呆然と見下ろしながら、


「どうせ俺は四歳女児」


 はじめてのおつかいならぬ、はじめてのおりょうり。大敗退である。



 お盆に薬やら水やら作り直したお粥やらを乗せて、作った氷枕を小脇に挟んで運ぶ。額に貼る冷却シートを見つけたから、それも一緒に。

 一声かけて入室すると、みやはまだ寝ていた。

 枕元に座り、彼女の額にかかった前髪を払う。冷却シートを貼り付けて、


「ちょっと、ごめんね」


 枕を氷のものに替えて、次は……どうしよう。薬を飲んでもらいたいけど、起こすのは憚られる。

 彼女は寝苦しそうにするばかりだ。

 熱を吐き出すためだけの呼吸を細く繰り返して、普段は生白い肌が火照っている。


「……みや」


 眺めているうちに、廊下で倒れていた彼女を見つけた時の焦りをぶり返した。あのまま何時間も発見できなかったら、彼女の症状はもっと重篤化していたかもしれない。


「情けないな」


 彼女が苦しんでいるのは俺のせいだ。

 いっそ恋人になってくれたら、彼女はこんなに苦しまなくて済む。俺の存在で毎日神経を擦り減らすこともなくなる。味付けが俺の舌に合うかびくびくして様子を窺ったり、埃の一つも落ちていないか気を配ったり、震えながら責務を果たそうと「お背中流しましょうか」と訊ねてきたり、そんなに無駄なことに気を遣わなくていい。

 ただただ普通の、気持ちが通じた、婚約者同士であったなら、


「――『××××』」


 そして。

 その直後。

 今、自分が声にしてしまったものを、自覚した。


「ッ……!?」


 はっと口を押えて、愕然とする。

 美術室で「彼女に遺産を」と言った時と同じく、不気味なほど穏やかな声色で彼女を呼んだ。俺しか呼ぶことを許されない、彼女の秘された名前を。

 恐ろしいことに。

 彼女の『なまえ』を使うのは、背筋が凍るほど簡単だった。


 一度逸らしていた目をみやに向けて、息をのんだ。


「……ーーっ」


 彼女は起きていた。海面を汚す廃棄油のように七色に濁った瞳が大きく見開かれ、瞬きもせず、俺を見る。

 十秒なのか三十分なのか、時間の感覚もなくなるほど冷え固まった室内で、俺の心臓の音だけが煩かった。


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