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誰かいる

 外壁は立派なものだけれど、元は閉じていたはずの門は人一人分の隙間を開けていて、その周辺に赤く腐った鎖が落ちている。何人もの怖い者知らずが肝試しに出入りしたのだと思う。ここまでくると観光地の一種じゃないかな。

 良い雰囲気ではなかった。


「本当に行くんですか?」

「とうぜんっ」


 奏多さんは、小さな体を門の隙間に滑り込ませていく。それを追いかけようとして、


「…………。」


 洋館を見上げた。蔦が絡みついていて、なるほどお化け屋敷の様相だ。

 十七時近いとはいえまだ陽があるけれど、あの内部は陽も入らずに薄暗いのだろう。気絶したままそこに立っているという風情の建物が、夏の日差しの下、亡霊のようにそこにある。足元に濃い影を作っている。

 まるで今の私みたいに。


「みやちゃーんっ!」

「……は、はいっ」


 一歩踏み出した。

 ――ダメだよ。

 ――行っちゃダメ。

 私を引き止める声を思い出したけれど、目の前で私に笑いかける彼女を放ってはおけなかった。だってなんだか、今の彼女を置いて帰ってはいけない気がするのだ。

 玄関には鍵がかかっていなかった。

 奏多さんはそれを知っていたみたいに勢いよくドアを開けて、ずかずかと歩いていく。私は追うのに精一杯で、周りに気を配っている余裕はなかった。

 ろくに掃除もされず曇りっきりのガラス窓からは、今にも死にそうな陽光が細く差し込む。その中に埃がちらちら輝いていた。

 廊下は一本道で、左右に等間隔でドアがある。その個々の部屋には見向きもせず、奏多さんは突き当りの電話に向かう。


「じゃあ、みやちゃんはこの電話を使ってね」

「奏多さんは、上のを?」

「うん。ちょっと行ってくるね」


 奏多さんは、この突き当りから右への廊下を行く。この館はL字型の構造をしているらしい。

 噂によれば、電話は一階と二階にある。

 階段を見つけたのか、きしきしと上がっていく足音がした。

 暇な私は周囲を見てみる。電話台の横の壁に小さなホワイトボードがかかっていて、そこには


 九月一日


 と書かれていた。赤いペンで書かれた文字はやけに目につく。

 九月一日。――今日の日付だ。

 そのボードにはもっと文字が書かれているようだけれど、掠れていて読めなくなっている。電話番号みたいだけど……。これは嫌なものだと確信する。

 電子音が鳴った。

 胃袋が裏返った気がした。肺から「ひぃ」だか「ひょう」だかわからない声を発して、ホワイトボードに向けていた意識を電話機に戻す。そうだ、私はこれを取らなければいけないのだ。どこどこと収まらない心臓の音のことはこの際開き直ることにして、この怪しげな活動を終わらせてしまいたい。

 受話器を取った。


「もしもし?」

『わたしだよー! どうどう? 何か変化ない?』


 特にありません。

 しいて言えば、私の内臓系統が現在進行形で慄いているくらいです。


「ううん……特にありませんけど……」

『そっかそっか。うーん、じゃあ失敗かなあ』

「そうかもしれませんね。気は済みましたか?」

『済んでないけど、まあ、試してみたかっただけだし。そっち戻るね』

「はい、お待ちしてます」


 それから三分もせず、奏多さんはこちらに合流した。


「なーにが足りなかったのかなー? いっそ呪いの人形でも電話機の近くに置いて試してみるとかしないとダメかなー?」

「奏多さんのそういう度胸ってどこから湧いてくるものなんでしょうね」


 まったく羨ましい限りだ。

 わたしは今とてもしょんぼりしているぞ! と全身で表す友人に、私は気の利いた言葉など返せなかった。

 スーパーの前で彼女と別れて、わたしはこのまま買い出しをする。今日の夕食の献立は何にしよう。多くの地元の奥様方に紛れて買い物をすると、制服の私は多少は浮いてしまう。

 けれど、夕食の買い出しをする顔ぶれなんてだいたい決まっているものだ。

 それに私は顔が知られている。


「ああ、形栖さま」


 その声に、私は牛肉を見ていた顔を上げる。

 私に恭しく頭を下げてくるご老人に会釈すると、相手も満足してくれたらしい。

 形栖は家名。みやは私を表す名前だ。

 さっきの老人の名前は知らないし、顔ももう忘れた。

 肉じゃがの材料をカゴに転がしていった。しらたき、にんじん、牛肉。……じゃがいもは家にあったからいいや。


 家に帰る途中、急な雨に降られた。

 夏は大雨が通りやすい季節だから不思議じゃないけど、今日は折りたたみ傘を持って来ていなかった。

 公園の滑り台の下に潜った。ゾウの形の大きな滑り台は、お腹の下がちょっとしたトンネルになっていて、幅もある。誰かが置いていったらしい小さな木の椅子をありがたく使わせてもらう。買い物袋を地面に置いてしまって、雨が過ぎるのを待った。

 夏の雨は強い。一粒一粒が当たると痛いくらいに大きくて、まともに浴びると大惨事だ。私の学校の制服は白いから、なおさら気を付けないと汚れたり透けたりしてしまう。


 ……。

 …………。

 何分経っただろう。

 雨の様子を見ていた視線を、前に戻した。


 ()()()()()()


 と気付いた時には、体は動かなくなっていた。

 視界の端に黒が見えた。

 さっきまで何もいなかったはずの至近距離。


「――……。」


 それはたしかに、私を見ていた。黒、……長い髪。そして真っ白な顔。

 まともに焦点を合わせなくたって、それが人の形をしていることなんて、容易にわかってしまうのだ。

 私の隣にいる。膝を抱えて、じいっ、と私を見ている。


 いつから?

 私が外の雨を眺めている間、ずっとそこにいたの?


 私は動けなかった。地面に落ちた視線をどうすることもできず、妙に下がった気温に震えた。

 雨が、長い間続いている。

 それは顔を近づけてくる。

 真っ白な顔色しか認識できなったそれの、ぽっかり空いた二つの穴と、軽く開いた口が認識できてしまって、それは私の方に――、


「このお馬鹿」


 誰かが私を詰った。

 数時間前にも聞いた声だった。

 隣から意識を逸らせるなら何でもよかった。

 おそるおそる声の方を見ると、私がよく知っている彼が傘を差して立っている。

 彼のチャームポイントは、日本人っぽくない茶髪だ。なんて本人は言うけれど、私は彼の紺碧の瞳が一番印象的と思う。

 学生服から和服に着替えてた彼は、ショッピングセンターで「行っちゃダメ」って言った時と同じく穏やかな声で、


「帰るよ、みや」


 私の許嫁様は、今日も今日とて麗しい。




 薄い。

 彼を表す言葉としては、それが適当だろうか。儚いとか、薄幸の美人とか、言い方はいろいろあるけれど。

 湿った風に揺れる髪は、陽の下にあれば透けるように明るいのに、雨雲の薄暗さと傘の影のせいで普段よりも濃く見える。紺碧の瞳は、穏やかな気性を表すように凪いでいた。私を見下ろすその視線に怒りは見えず、いつものように優しいだけだった。

 彼が口を開くのを見て、私は何を言うより先に頭を下げた。


「申し訳ございません! 蓮見さまの言い付けも守れず、お迎えまで……っ」


 とんでもないことをした。

 許嫁、如月蓮見の言うことは、私にとっての絶対だ。それなのに、彼の判断に背いた。

 友人に絆された私の、明確な失態だ。

 雨で濡れた砂に膝を着いて、私は俯いた。このまま土下座でもしてしまえば許してくれるだろうか。私が彼に従順でないと認識されてしまったら――。

 嫌な未来が容易に想像できる。

 制服の白いスカートを握り締めて、私は彼からの言葉をただ待った。

 ふ、と溜息を吐いたのが聞こえる。それは呆れだろうか。


「立って」

「え」


 目の前に差し出された手は、取らなくてはいけない。

 男性らしく節くれだった手に自分の手を重ねた。


「いいから、行くよ」


 傘に入って。有無を言わさない苦笑に、私はそろりと立ち上がって、そこを離れた。

 彼が差す赤い唐傘は大きいけれど、二人も入ったら方が濡れてしまう。やっぱり私が出て行くべきかと考えれば、彼は私の思考を読んだみたいに「傘から出ようなんて思わないでね」なんて言う。

 傘から出ないように、けれど彼の服には触れないように。胃に負担をかけるばかりの至近距離を意識しながら、スーパーの買い物袋を持ち直した。

 振り返った。

 滑り台の下の暗い空間に、おかしなものは見当たらなかった。


「何かいた?」

「いえ、何も」


 おかしなものがいたんです、なんて近況報告できるほどの仲ではない。

 幻覚ならばそれが一番いい。仮にもし何かがあったとしても、問題があると確信するまでは、彼に知らせるほどのことでもない。

 言いつけを破った末に、悪いものを見ましたなんて。

 ――言えるわけがない。


 彼と一緒に歩いていると、好奇の視線が刺さってくる。私と同じ制服を着た女生徒たちや、買い物帰りの主婦や、仲の良さそうな老人夫婦まで。「お似合い」「許嫁」「もう夫婦のよう」こそこそ好き勝手言ってくれるけど、この人たちは私たちの何を知っているんだろう。

 悪意はないのだろう。

 けれど彼らの称賛は、私にとって刃だった。


 地面ばかりを見て歩いていた。

 アスファルトの水溜りを踏まないようにしても、革靴の中にじわじわと雨水が侵入してくる。夏の雨はいつも激しい。癖毛が広がってしまうのを気にしながら、そういえば蓮見様の髪はいつも綺麗だと思う。湿気で広がってしまったりしないのだろうか。

 ちらりと、隣の彼を見る。


「…………。」

「…………。」


 目が合ってしまったので、逸らす。

 なんだろう。私が見るより前に、こっちを見ていたみたいだけど。

 もう一度見てみると、やっぱりばっちりと目が合ってしまった。


「どうしたの?」


 と聞かれても、それは逆にこっちが問いたい。だけどたぶん彼にだって大した理由はないのだろうから、気にしないでおこう。「いえ」といつものように返答をごまかす返事をして、別の話題を持ち出すことにした。


「もう六時くらいでしょうか」

「俺が家を出たのが五時半くらいだから、たぶんそれくらいかな」

「そうですか……。ごめんなさい。お夕飯の材料は買ってあるのですが、準備が遅くなってしまうかと……」

「買ってきたの、今日食べなきゃいけないものとかある?」

「いえ。肉類を冷凍すれば大丈夫なはずです」

「じゃあその食材は明日に回して、今日はコンビニでお弁当でも買おう。……何にしようかな」


 二十四時間営業の庶民派小売店に思いを馳せながら「ふふ」と優雅に微笑む横顔は、素直に綺麗だなと思う。男性でありながら、女性も羨む美貌の人。

 コンビニエンスストアに入店した途端に、店内のお客さん数人にぎょっとした視線と。「らっしゃーせー」店員さんのやる気の無い声をもらった。

 私はいそいそとチルド食品の棚を目指す蓮見さまの二歩後ろを歩き、途中でカゴを取った。

 ガラスや蛍光灯や食品類のパッケージが囲む無機質な店内で、蓮見さまの着物姿は浮いている。


「…………。」


 彼は下段手前の丼ものに目を止めた。

『とろとろ卵のデミグラオムライス丼』

 独自の製法で仕上げた半熟卵の下には、鶏肉たっぷりのチキンライスだそうだ。新商品のシールが雑に貼ってある。


「みや、明日の夕食ってなに?」

「肉じゃがと納豆の卵とじです」

「たまご……、んー、微妙だな。今日は別のにしよう」

「卵は何にでも使えますので、後日でも、別のものにできますよ。今日はオムライス丼にしても、」

「みやの卵とじ、好きだから、今日は卵は止めとく」

「……ありがとうございます」


 前は「みやのカレー好きだから今日はシチュー止めとく。具材ほぼ同じだし」だった気がする。

 蓮見さまは悩みに悩み、『アボカドと海老のパスタサラダ(明太子ソース)』を手に取った。

 私は『チーズ入りハンバーグステーキライス大盛り』をカゴに入れ、蓮見さまが新たに目を止めた『濃厚チョコレートのトライフル』を一つ迎え入れ、レジに向かった。


 コンビニエンスストアは、十字路の一角を広く占めている。太い車道を一本挟んですぐに緩い坂があり、そこを上がっていけば、徐々に緑が深くなっていく。

 その先にあるのが、私達二人が暮らす屋敷だ。

 街の中央を陣取る小高い山一つが、如月家の私有地だ。

 屋敷一つのために、コンクリートで念入りに固められた道を歩いていく。

 この山道では、背の高い木に混じって南天の木が目立つ。野生のくせに、冬になれば毒々しいほど鮮やかな赤い実をつけるらしい。

 大人が横になって五人同時に潜れるほど大きな山門――の横に造られた脇戸を抜けて、中に入る。

 広大な敷地を、屋根のある築地塀で囲った、二人で暮らすには大袈裟すぎる家。


 風が嫌に生ぬるい。

 夕立にしてはしつこい雨だ。

 雨粒が跳ねる白い敷石を踏みしめて、屋敷の玄関に入った。

 大きな靴箱を見た。蓮見さまの学校用の革靴と、私の草履しかなかった。この靴箱が最大容量いっぱいになったところを見たことがない。


「観月と名取、もう帰ったんだね」

「そうらしいですね」


 白いスニーカーと履き古した草履がないから、そういうことだ。

 代わりに、取次ぎの床には二枚のタオルが畳んで置いてある。

 蓮見さまが出る前には、あの二人もまだいらっしゃったのだろう。……おや? 蓮見さまが家を出た、十七時半ごろまで居たということか。いつもは十六時頃には帰ってしまうのに。


「もしかして、私が帰らないから、残らせてしまいました?」


 あの二人は蓮見さまを一人にしたがらない。だから私が帰宅するまで待っていたのかもしれない。


「気にしないで。あの二人が勝手に居残っただけだよ」


 彼は当然のように言った。

 彼は私や外の人に向ける口調こそ柔らかいけれど、お身内の扱いはとことん雑なのだ。冷たいと思う。けれどそんな感想を言う資格も、私にはない。


「……今度二人にお会いしたら、声をかけておきますね」


私はタオルを一枚蓮見さまに手渡して、もう一枚で自分の髪を拭く。


「別にいいのに」


 彼は自分の髪を拭うのもそこそこに、私の手からタオルを奪って頭から被せてきた。私の長い黒髪を挟んで、水気をタオルに含ませて、そうしながら満足そうに目を細める。

 自分の髪よりずっと丁寧に扱ってくるから、困ってしまう。

 その優しさを他にも向けてあげればいいのに。

気まぐれに私のお世話を焼きたがるのは習性だと、以前に本人が言っていた。


「さて、みや」


彼の声に、私は「はい」と答えて、


「っ……!?」


タオルごと頭を押さえられて、息を詰まらせた。彼の大きな両手が、私を強く固定する。

 目を逸らすな。

 彼の瞳に命じられて、視線の一つも動かせない。


「は、すみ、さま」


 彼の紺碧の瞳孔に捕らわれて、私の奥の奥、速くなった脈拍、お腹の底すら見透かされているような心地になる。

 彼の言い付けを破ってしまったから、これは罰なのかな。

 何がしたいんだろう。私の何を見ているのだろう。

 硬直して動けない私は、呼吸をしているのかもわからない。


「――ふうん」


彼は得心したとばかりに微笑み、数秒の拘束を解く。


「前の件のこともそうだけど、みやは変なのに好かれやすいんだから気をつけなよ」

「変なの、って」

「言いたくなったら言えばいいから。……でも、できれば手遅れになる前に教えてね」


肩がびくついたのを、彼は見なかったことにしてくれた。

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