悪い意味で有名だからね
愛理視点
両親と呼ぶべき人たちは、あたしに興味がなかった。
間違って生まれてしまった子だから。
祖父母は、あたしはきちんと愛し合って作られた子であって、ただ結婚と妊娠の順序が間違ってしまっただけだと言う。まことしやかに、それが真実みたいに。
実際に祖父母は、そう思っているのだ。
だけどあたしは知っている。
彼らは割り切った遊びの関係だった。そこに間違ってあたしができてしまった。妊娠が発覚した時には中絶もできず、彼らは世間体を気にして一緒になったのだ。
定期的に会っていた事実さえあれば、嘘を吐くには十分だった。恋人でした。お互いをこれ以上なく愛しています。これからは夫婦になります、以後よろしく。あはは、くだらない。彼らは毎晩お互いへの不満を言い合っていたから、彼らの本当の関係を知ることは容易だった。
ただそんな二人の間に生まれたあたしでも、昔はそれなりに彼らが恋しかった。どうしたら他の子みたいにかわいがってもらえるのだろうと考えていた。小学校の「おなまえのいみを、おとうさんとおかあさんにきいてきましょう」という宿題に期待した。
『愛理はね、如月家に名付けてもらったのよ』
まあ、これが現実なんだけど。
あの人たちは、自分たちで子供の名前を考えるのが面倒くさかったようだ。
なまえをかんがえてくれたのはゆうめいなひとです。その嬉しいやら悲しいやらの事実を知って、納得しておけばよかったのに。
如月家に名付けられたら、如月家にお嫁に行けることがある。それを知ってしまった。
雪が降っていた。学校指定のコートとジャージで外をほっつき歩くには無謀かなという寒さだった。だけど家に帰る気にもなれない。
綺麗な駅の構内にいた。
冷えるけれど、雪が当たらないだけいい。自動販売機がある待合室の椅子に座って、ぼうっとしていた。ホームの喫煙所を兼ねた休憩所と違って、ここは煙草臭くない。
片耳にはめたイヤホンから、流行のアイドル歌手の声が聞こえる。諦めちゃだめ、もっとやれる、世界中の笑顔があなたを応援している、愛は偉大、恋をすると世界が変わる。そういった歌詞を嫌悪することも、ましてや元気付けられることもなく、聞き飽きた歌を惰性で流している。家のゴミ入れに捨てられていたウォークマンだ。入っていた歌はそのままにしておいたから、正直どれもあたしの趣味じゃないけど。
電車が一本来るごとに、上のスピーカーからアナウンスが聞こえてくる。ぴんぽんぱんぽん、間もなく電車が参ります。電車が参ります。ぼそぼそとした男の声だった。イヤホンを付けていない方の耳にだって、ぼんやりとしか聞こえなかった。
「……はあ」
死んでしまいたい。
あたしが今ここで凍死なんてしたって、あの人たちは面倒としか思わないのだろう。あたしの父親と呼ぶべき人と母親と呼ぶべき人は、十数年の育児を経て、開き直ってしまった。世間体を気にする可愛げもなくなった。もうご飯も作らない。あたしが髪を染めても何も言わない。我が子の葬式すら祖父母に任せてしまうかもしれない。
ここで本当にあたしが死んだら、お葬式には誰が来てくれるだろう。
きっとあたしが入った棺の前に、祖父母の二人分の席がある。あとは古ヶ崎一家の三人の分……席だけは用意されると思う。来てくれるかどうかは、別として。
待合室のすぐ横を、三人だか四人だかが通っていく。帰宅していく。きっと誰も彼もが、早く家に帰りたがってる。
なんかもう、どうでもいいな。
そしてまたアナウンスが聞こえてくる。今度は女声だった。ぴんぽんぱんぽん、間もなく鶴見浜行きの電車が参ります。その直後に電車が駅に滑り込んできて、乗客を降ろして去っていく。
ホームから下りて、待合室の横を過ぎていく乗客の中に、男子がいた。
「……?」
そいつは――今時着物なんて着ている、あたしと同い年くらいの男子は――ぴたりと足を止めた。ガラス越しに目を合わせてきて、何を思ったか、わざわざドアを開けて待合室に入ってきた。
「どうしたの?」
そいつはあたしに問う。
声とか顔とか雰囲気が柔らかくて、うっかり春風を感じてしまいそうなやつだった。
「こんな時間にこんな所にいたら、危ないよ」
家にいた方が精神的に危ないから、放っといてほしい。
「どうしてここに?」
「…………。」
「親待ち?」
「…………。」
「でもやっぱり危ないから、帰った方がいいよ。夜の駅はいろいろと危ないんだ」
危ないが口癖なのか。どう危ないのか説明しろ。春の擬人化みたいなやつに微笑を込めて注意されたって、危機感ってやつが足りないんだよ。
「名前は?」
「…………。」
「俺は如月蓮見っていうんだけど、」
「女みたいな名前だな」
「うーん第一声がそれかぁ」
反省はしない。あたしは不機嫌だ。眉間にしわまで寄せて近づくなオーラを出しているのに、こいつはなんでこうも馴れ馴れしい。
「こんな時間に、子供がこんなところに居たらダメでしょ」
「あんたも子供だろ。うっざ。帰って」
「うん、寒いし帰りたいかなあ。……ねえ、名前は?」
「は? 通報でもしちゃう系? マジうぜえからそういうのやめてって。めーわくだからさあ、もう帰って?」
「残念だけど、そういうわけにもいかないんだよね」
「は?」
「わかった、名前は言わなくていいよ。ここには何時間くらいいるの?」
「ほんとさ、それ何か関係あんの?」
「もし俺の前、三十分以内に一度でも電車が停車したと思ったら、あとその乗客を見たら、気を付けた方がいいと思って」
そいつは朗らかに言う。
「今日は休日だし、この時間帯はね、電車は三十分に一本しか来ないんだよ」
――?
それがなんだっていうんだ。
妙なことを言わないでほしい。
だけどあたしの頭は律儀なもので、あたしがここに来てから何回、電車が来ていただろうと勝手に考えだす。時計も見ずにぼうっとして、時間の感覚がおかしくなっているにしても、三十分に一本ってほど少なくはなかったはずだ。あたしはアナウンスを聞いていた。それ以外何もなかったから。
だけど考えてみれば、こいつの言うとおりだ。
休日のこの時間、電車はそんなに過密に動いていない。あたしがアナウンスを聞いていたよりも、ずっと少ない本数であるはずだった。
ほら、と人差し指で示されたのは掲示板で、そこに貼り付けられた時刻表を目にした瞬間、あたしは席を立った。
あのアナウンスの中で、どれが『ないはずのもの』だったんだろう。
休憩所を出る。ふと見えた赤いものが気になって振り返り、
「…………ッ!」
肺から、冷えた息が漏れた。
ガラスに赤い手形がついていた。両手の平をべったりとくっつけて、その向こうの誰かをじいっと眺めてでもいたような。
そしてそれが、さっきまであたしが座っていた席の真横、それもちょうど顔の高さであったことに、冬の外気とは違う寒気を覚えた。
だってこれ、なにこれ。
なにこれ?
「は? 悪趣味っつか、普通にキモいんだけど……」
「うーん、まあこれで意味なんてわかったら凄い才能だと思うよ」
あははと一笑したこいつは余裕の相好を崩さず、
「松野愛理。帰りたくないなら一緒においで」
「…………………………は?」
「うちの名付け子を保護するくらい、家も許してくれるだろうし」
「なんで名前、」
「君は悪い意味で有名だからね」
奴は背を向けて歩き出す。あたしがついて行くことを疑いもせず、堂々と。
子供が長時間あんなところにいて、どうして駅員が声をかけてこなかったのか。どうして電車の行先を知らせないアナウンスがあったのか。そういう細かいことに気が回るようになったのは、奴の家で温かいお茶を出されてからだった。
――あたしがえらいひとのおよめさんになったら、おとうさんとおかあさんはよろこんでくれるかもしれない。
嘗てのあたしは、そんな結論に至っていた。
如月家に名付けられた子供はあたしだけではないけれど、異性で同世代という条件付きでなら、希望があるかのように思えてしまう。錯覚してしまう。選ばれし人間であるかのように。この少し歪んだ家庭こそが、幸福な未来へのお膳立てのように。
あたかも、そうであるように。
だっておとぎ話の始まりは、いつも不幸だ。
愛理。愛と理。愛を知る。ああ。
なんて安直で華々しく、希望に満ちた名前だろう。




