自殺なんてするはずがない
絲倉駅は白くてでかくて、ガラス張りの三角屋根がある。遠目で見れば、十字架のない教会みたいだ。ショッピングセンターと直通になるついでに駅舎を建て直すまでは、古き良き木造を保っていたらしい。
絲倉町はその町並みこそ近代化したものの、昔からの住民はほとんどそのまま残っている。歴史ある女子校と国内有数の進学校(しかも両校には寮があるらしい)の存在もあって、若者の出入りも絶えない。人の流入が多く、家も増えた。
「こうやって自然がなくなっていくんだねえ」
母さんが車内でぼやいた。
新幹線の改札から出て、慣れた東都の駅よりも簡素でわかりやすい構内を移動している間も、ガラス張りの屋根からきつい日差しが降り注いでいる。白い大判のサンシェードがかかっていたけれど、電灯も必要ないくらいに明るい。
一歩駅から出た途端、蝉の声がじゃわじゃわ降り注ぐ。
半年ぶりの絲倉だ。じりじりと照り付ける日差しで、肌はすでにひりついている。それでも、太陽光に晒されてビル群自体が熱を発しているような東都よりは、幾分かはマシだった。
今回は父親も揃っての移動である。
ただ前回とは違って、駅からバスでの移動がある。
ばあちゃん家がそのまま葬儀会場になったから、そんなところに家族みんなで泊まれないと、ホテルに一室借りたのだ。駅前のバス停で、二十分に一度の間隔でやってくる巡回バスを待った。人が四人入れるか入れないかの屋根の下に、一番乗りの古ヶ崎一家は綺麗に収まった。僕は一番後ろ。駅舎内の自販機で買ってもらったばかりの桃ジュースのプルトップに指をかけて、
よしひろ
呼ばれた気がして、振り返った。
道路の表面が揺らいでいた。日傘をさしたおばあさんが、ずっと向こうで歩いている。
「……?」
前に向き直った。
さっきのは誰の声だろう。アホっぽく間延びした声だった。
……気のせいだろう。
だって僕をああやって呼ぶアイツは、死んでしまったらしいから。僕はその葬式のために来たのだから。
葬式。
そう、僕はお別れに来たのだ。もう二度と会えないらしいあいつのために。
癖のある髪が元気に靡く後ろ姿を思い出して、う、と喉に何かが詰まった心地がした。たぶんそれは、言葉で表せない感情の痼りだ。
まったく。
なんで死んじゃったんだろう、愛理。
泣くとか、悲しいとか、そんなこともない。ただ周りがしんみりしちゃってるから、僕もそれに合わせておこうとしているだけだ。
僕はアイツが死んだなんて思えない。たぶん死体を見たってわからない。だって半年前は元気だったのだ。ちらっとしか聞いていないけれど、だって、だって、
自殺なんてするはずがない。
絲倉学園生。順風満帆じゃないか。金髪の不良から黒髪の優秀な女子高生へ、奇跡的な変身を遂げたんだ。まだ十代の僕らの間ではまごう事なきエリートだ。十分に将来を期待できそうな地位にいて、なんで、なんで。
『受験あったしね。ちょっと大人になっただけさ』
それとも、ちょっと大人になったから、僕にはわからない何かが見えてしまったってことなのだろうか?
「突然だねえ」
「そうだなあ。前に会った時は、まだ元気だったなあ」
「……まだ若いのにねえ」
僕の前にいる父さんも母さんも、いつもより口数が少なかった。頭文字に『まだ』を何度も付けながらぽつぽつ話して、やがて無言になった。
道の端っこで、蝉がひっくり返って動かなくなっていた。
ホテルに着いたのは午後二時だった。二時間くらい寛いだら制服に着替えて、もう移動だ。さっき乗ったばっかりのバスで、また絲倉駅前に戻った。
ばあちゃん家まで歩く。雪さえなければどうってことない道のりだった。全国展開のコンビニ前の電信柱には、絲倉町一丁目と書かれていた。「松野家葬儀場」なんて書かれた立て看板を一つも見つけられないまま、長い坂に差し掛かる。いよいよばあちゃん家の屋根が見えた。
熱された鉄板みたいなアスファルトを着実に進んでいく。坂の上を見ても着物の少女はいない。あの鈴の音がしないかと耳を澄ませても、鳴っているのは虫と、走る車と、どこかの家に吊るされた風鈴だけだった。
学生の正装は学生服だし、今は夏だから夏服でいいって言われたけど、今は白いワイシャツの輝かしさがちょっとだけ浮いている気がする。
ばあちゃん家は静かだった。葬儀だっていうから受付なんてあるのかなと思ったけれど、普通に通されただけだった。
「いいの? 受付とか、そういうの……」
「簡単な家族葬だけみたいだからね」
そういうものらしい。母さんがこっそり教えてくれたから、僕は曖昧に頷いた。
母さんと父さんに続いて玄関に入り、重いドアがゆったり閉じられていくのを後目に、ローファーを脱ぐ。取次に上がると、
――きし、
床板が軋む音に、足を止めた。
そして鼻腔から侵入してくる――お線香の匂い。
ばあちゃん家で嗅ぎ慣れたと思っていたそれが、今日は濃く感じる。とても嫌な特別感だった。今日はやっぱり日常とは異なるのだと、否応無く認識させられる。
背後でかちりと、ドアが閉まった。外の音が遮断される。夏の気配が遠ざかり、残ったのは、肌にじっとりとへばりつく湿気だけ。
「……――。」
廊下の先、母親の手で襖が躊躇なく開かれる。玄関から一番近い和室へ吸い込まれるように入っていく両親を追おうと、僕はようやく足を動かした。
その和室に、布団が一式敷かれていた。人が寝かされていた。顔に白い紙が被さっていて、僕はそれが愛理だとわかった。布団に広がる髪は癖があったはずなのに、まっすぐになっている。またイメチェンしたの。
五つばかり並べられた座布団は全部空いていて、僕は一番端っこに座った。
愛理の布団をじいっと眺めていると、胸部が上下しているように見えた。普通に眠っているみたい。だけどこれは目の錯覚だ。
愛理は、学校の屋上から飛び降りたのだそうだ。
転落死した死体の状態は、それはもう酷いものらしい。多くが頭から落ちるから、地面に打ち付けられて真っ先に潰れるのも――……止めよう。働こうとした想像力に待ったをかける。
遺体の前だ。それでなくても、死に様を勝手に考えて怖がるとか面白がるとか、そんなのは失礼だ。
「ちょっとおばあちゃんたちのお手伝いしてくるからね」
「あ、うん」
「一緒に来る?」
「……ううん、ここに居る」
「そう。じゃあどっか行くなら、こことおトイレくらいにしてね。他の部屋は何に使ってるかわからないし、お客様がいるかもしれないから」
「はーい」
何をお手伝いすることがあるのかわからないけど、母さんと父さんは行ってしまった。遠くで食器が擦れる音や、ほそぼそとした声も聞こえる。食事が出るらしいと聞いているから、その準備なんだろう。
襖が閉じられる。二人の気配が遠のくと、いよいよ部屋に一人になる。
遺体と二人っきり。
死んだ愛理は嘘みたいに静かだった。自分の心臓の音すらも、目覚まし時計みたいに部屋中に響いている気がした。
この喋らない人形みたいなのが、本当にあの馬鹿っぽい従兄なのだろうか。
あの白い紙をめくって確かめてやろうかと、腰を浮かした。いややっぱり止めよう、死に顔なんて誰だって確かめてほしくないだろうし、でも――。
迷っていた。その間はじっと落ち着かず、あいつを見ていた。
すう、と。
白い布団の合間から、生白い手が覗いた。
「……?」
親指だけおかしな方向に曲がった、血管が透けて見えそうな手だった。
「…………。…………?」
僕の目の前で、それが畳に爪を立て、
――ばり。
引っ掻いた。編み込まれたい草に、が、と爪先をめり込ませて、爪が割れそうになるのも気にせず、強く、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
ばりばり、ばりばり、ばりばりぶチばりばりばりばリ。
爪が剥がれて浮いてきたのが遠目にわかった。畳が解れてささくれ立つ。
「……――っ! …………っ、」
大声を発しようとした喉は引きつって、ひゅう、とか細い声しか出てこなかった。
腰を浮かせたまま、その異常から目が離せない。
あいつの頭も胴体も足も動かないまま、ただ手だけが機械みたいに動いている。爪と畳を犠牲にして鈍い音が掻き鳴らされる。聴きたくないのに、僕はぴくりとも動けない。耳を塞げない。
なんだ、これ。
死体がこんな風に動くのは『ありえない』ことなんて、僕でも知っている。
室内の空気が冷え込んで、部屋の形で固まっている。動けない。
あいつの爪が剥がれて、根元で繋がったまま、ぴたぴた揺れている。




