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でも形栖って悪いやつじゃん

「みや」


 声がして、彼女の肩が揺れた。

 横合いの細い路地から、ざり、ざり、とざらついた足音が近づいて来る。

 距離がなくなるにつれて見えてきたのは、僕より一つ二つは年上に見える男の人だった。平凡な僕の隣には並んでほしくない、端正な顔立ちをしている。項で一つに結った栗色の髪は、右肩に流せるほど長い。線の細さもあってか、男がするには抵抗のある髪型がよく似合っていた。

 この人もやっぱり和服だった。

 暗い色の和服に羽織を重ねて、首元にマフラーを巻いている。

 さっき彼女を呼んだのはこの人らしい。知り合いかな。それならもうお帰りの時間なのか。声をかけようと彼女に視線を戻したけれど、彼女の様子を見たら「じゃあ僕もう行きますさよなら」なんて言えなかった。


「は、すみ、さま」


 彼女は顔を引きつらせて、自分を庇うように胸前で両手を握る。

 それは怯えの仕草だって、この前テレビでやっていた。

 ――彼女は怖がっている。

 迎えに来た、明らかに優しそうなこの男が、怖いのだ。

『さま』って敬称からして兄妹ではないし、上下関係が窺える。

 ――この二人は何なんだ?


「あの」


 僕は咄嗟に声を出していた。


「うん?」

「……ええっと」


 だけど、何を言おうとしたんだろう。考えなく話しかけてしまった僕に、男はにっこりと笑う。男の態度は柔和で、学校の生徒会長を思い出した。

 と、男の背後にいた誰かが、ざっ! と前に出てきて、


「あらあらあらあらあら、まあまあまあまあまあまあっ」

「名取」

「んも~~っ! みやさんにご用があるならうちの坊ちゃんを通してもらわなきゃ~~も~~、ダメじゃないの~~~んもぅ~~っ!」


 おばちゃんだ。

 くるくるパーマで、コートの下からちらっと割烹着が見えて、エナメル長靴を履いた、絵に描いたようなおばちゃんだ。給食の配膳で三人は見かけそう。

 懐かしくも象徴的な出で立ちで憤るおばちゃんに、男は「坊ちゃんは止めてくれ」と苦言を呈す。おばちゃん、たぶん聞いてない。

 名取と呼ばれたおばちゃんに、彼女――みやさんが答える。


「道案内をしていただけです。あと落とし物を拾ってくださって……」

「落とし物?」


 反応したのは男の方だった。


「ハンカチが川向こうに飛ばされてしまったんです」

「それで今日は遅かったんだ。失くしたら新しいの買ってあげるから、そんなに気にしなくてもよかったのに」

「そんなわけには……。……いえ、遅くなってごめんなさい」

「怒ってないよ。君に何かあったらどうしようかと思っただけ」


 男が手招くと、彼女は慌ててそちらに向かう。三歩進んで、「あ」思い出したように僕を振り返って頭を下げ、今度こそ行ってしまった。

 男を先頭にして、次にみやさん、それからおばちゃん。最初から順番が決まっているようだった。一列に並んだ三人は、厳かに細い道に入る。暗い夜道に、ざりざりと、ひそひそと、闇に溶けていくみたいに。



 きっと大きなお屋敷の離れみたいなところで、監視されながら過ごしていたに違いない。小さな時から病弱で外にも出られず、高い窓から見える空を見て過ごして、通学は当然リムジンでの護送だ。だけど降り注ぐ真っ白な雪を見て、十数年間で積もりに積もった好奇心が溢れ、ついに決心してしまったのだ。これが最後のお出かけでもいい、いつ心臓の発作が出てもいい、死んでもいいから、自分の足で地面を歩きたいと。病院までの道以外の景色をその目で見てみたくて、それまで生まれ育った離れを脱走してしまったのだ。親に決められた、外面だけはいい婚約者の声も振り切って、いつもの着物に手近な羽織を引っ掛けて――。


「よしひろーごはーん」

「はーい」


 参考書を閉じて起き上がり、一階に降りていく。

 長いこと畳に転がっていた体はちょっと痛んだけれど、数歩も歩けば気にならなくなった。窮屈な人生に翻弄されている形栖みやさんの妄想は尾を引いたけど。

 一階のこたつがある部屋に、煮たかぼちゃと高野豆腐と焼いた肉と生のトマトが並んでいた。あと、ご飯と味噌汁が人数分。と、


「さっきぶり!」


 よっ! と片手を挙げる愛理。彼女の席は僕の隣らしい。

 こたつは四角形だから、じいちゃん、ばあちゃん、母さんで一辺ずつ使って、まだお子様である我々はまとめて一辺。この並びに異存はないけど、……なんで愛理がここにいるの?


「……なんで居るの」

「来ちゃったから?」

「そう」


 ほんの三時間前に自分の家に帰ったのに、よほど暇なのだろうか。


*


 じいちゃんはふむぅと意味ありげに頷いて、


「……形栖家か」

「やっぱ知ってんの?」


 知ってるんだろうなあ。

 マヨネーズがより多くかかったトマトを選んで取ったじいちゃんは「なるほど」「そうかぁ」「もうそんな年頃なんだなあ」と一人で訳知り顔を続けている。

 先の、未知との遭遇を語った結果だった。僕もあの三人はちょっとおかしい人たちだなと思ってはいたけれど、じいちゃんの中ではそれどころではない、相当に大変な――御大層な人たちだったらしい。


「坊ちゃんにもお相手がなあ」

「あの、どゆこと?」


 隣の愛理の箸が止まったことには、気づかなかった。


「如月家はたびたび、形栖から嫁を取る。逆もあるがね」

「如月……」

「この辺りじゃ有名な名士の家だ。おまえが見た少年が、きっと如月家の坊ちゃんだろうよ。坊ちゃんがわざわざお迎えに……ってこたぁ、その形栖の娘さんが嫁になるんだろうなぁ」


 そんなこと、本当にあるんだ。この現代で。さすが田舎。

 あの男のやけに整った顔を思い出して、なるほど如月……と思った。語感がなんかそれっぽい。何を着てもどんな髪型をしても違和感なさそうな、顔に許された男。

 だけどいくら如月さんが格好良くたって、恋愛婚って感じじゃなさそうだな。あの様子だし。


「許嫁ってやつ?」

「お家のことはまぁわからんが、そうなんだろうなぁ。あれくらいの年頃ではもう婚約が決まっていることが多いと聞くよ」


 聞いていると、どこをどうしたって本人たちの意思じゃないのに、じいちゃんは言葉を選んでいる。僕はふーんと適当な返事をして、お椀を持った。


「形栖からの候補がない場合は、名付けた子の中から候補を挙げるというが」


 冷めかけた味噌汁を飲みながら、名付けた子? と視線で訊ねると、


「如月家にお願いして、名を賜ることがあるんだよ。愛理もそうやって名をもらったんだ」


 その如月家のセンスで名前を決められた本人が名前の響きとは真逆にグレちゃったんだけど、それってどうなんだろう。横目で愛理を盗み見ると、何か文句あんのかコラァという視線で迎撃された。


「絲倉の人間は如月家に迎えられ、形栖家に送られる」

「形栖さんも何かするの?」

「葬式にお呼びするんだよ。そこできちんと成仏できるよう、まじないをかけてくれるから」

「でも形栖って悪いやつじゃん」


 愛理の声だった。

 僕はびっくりして、心なし静かにお椀を置いた。

 それまで静かに食事を進めていたばあちゃんと母さんも驚いた顔をしている。


「たくさん人殺しといて、今は更生しました心を入れ替えますみたいなの、あたしすごい嫌いなんだよな。なんで強い家の後ろにひっついて、自分偉いです清く正しく凄い家柄なんですみたいなことになってんの? その辺意味わかんないんだよね」


 悪意。

 愛理の口から暴言以外の悪口が出るところを、初めて見た。

 すっぱり切るか殴るかみたいないつもの強い口調とは真逆の、湿った悪意を滴らせる声。

 愛理の言い分をなんとか咀嚼した頭の中で、白いハンカチがひらひら揺れた。僕が拾ってきたハンカチを取る時の、頼りない手の白さが思い出される。

 彼女はそんなに悪いかな。

 自分強いって威張っていたっけ?

 僕はそれを知っている。真実はわからないけど、事実ならこの目で見ていたわけだから。


「……でもみやさんは、悪くないよ」


 思わず口に出していた。

 あの彼女の佇まいは、どちらかというと被害者だ。だから同情した。形栖家がずうっと昔に何かをしたとしても、やっぱりみやさんは悪くないのだ。

 形栖家の何かが絶対的に悪いのだとすれば、そしてその罪が現代に残っているのだとすれば、強いて言えば――血。罪状は形栖家の血に混じっている。それはみやさんの中にあるだけで、みやさん自身に罪はない。

 そんなの誰も裁けない。

 そこにある罪を裁けないっていうのも気持ち悪くてもやもやするんだろうけど、愛理の言うことはちょっと理不尽だ。

 愛理はきっとみやさんにも悪い感情を向けているから、もうちょっと考えてあげようよ! というのが僕の言い分なんだけど、


「はあ?」


 思いっきり不機嫌に睨まれて口を噤んだ。瞳の中には笑いごとではない苛立ちがあって、さすがの僕もこれ以上はまずいとわかる。

 愛理は、本気で形栖家が嫌いなのだ。昼に形栖家の話をした時は、どうでも良さそうだとすら思えた話ぶりだったのに。

 それからずっと、夕食は無言だった。



 三日目の朝。僕が東都に帰る直前、愛理が見送りにきた。

 一ヵ月後、僕は志望校に合格した。

 その年の夏休み、愛理が死んだ。


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