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さすが田舎

 雪を踏む感触は片栗粉に似ている。

 ぎゅ、ぎゅ、と細かい粒子を締め固めていく、この感触は数年ぶりだった。東都だと、まず雪が積もらない。積もったとしても大抵の場合、自分がその道を通る頃には、多くの人が情け容赦なく雪を潰し終えている。

 だから雪に憧れていた。

 両親から「新年の挨拶で絲倉に行くから」と言われた三ヵ月前から昨日の夜まで、天気予報を気にしていた。雪だといいなと思っていた。実際に雪だった。


 駅から下りて五分で、もう東都へ帰りたいと思った。

 今は止んでいるけれど、十センチの積雪。

 とっても寒くて白くて歩きにくくて、足の感覚が驚くほど急速に無くなっていく。今どこかで画鋲を踏んづけたってわからないと思う。


「バス……バスで行こう……?」

「馬鹿言わないでよこれくらい。駅からあっちまで十五分なんだから」


 すでに十五分だ。目的地のじいちゃんばあちゃんの家はまだ見えない。

 女性用のボストンバッグを抱えた母さん御年三十九歳は逞しく前を行く。結局こういう時は経験の差が物を言うのだな、と僕は知った。

 同じ都会っ子の父さんは、仕事の都合で二日後に来る。同じ轍を踏みますように。


 さらに十五分かけて目的地に着いた。

 築三十年、二階建て一軒家。『松野』と表札がある。本物の雪国なら屋根が急な斜めになったりしているらしいけれど、この家は緩やかな三角型だ。

 さもありなん。

 絲倉は東都と比べて田舎というだけで、雪国では決してない。東都から北上して山を二つ越えるついでに県境も二個跨ぎましたというだけだ。同県でも、雪で有名な地域はさらに北にある。

 つまり実際のところ、この程度の環境でひいひい言っているこの僕が、ただただ軟弱なのだろう。


 松野家は、コンクリートで舗装された緩い坂の中腹にある。立地特有の高低差を補って、門前には三段の階段がある――はずだけれど、雪で埋もれていた。母さんが足で探り探り段を踏みしめ先を行くから、僕も続いて、二段目に右足を置く。


     ちりん、


 冬には似つかわしくない音がした。

 硝子と硝子がぶつかったみたいな、夏の暑い盛りに聞きたい透明感だった。か細く、けれど真っ直ぐ、僕の耳に入り込む。

 無視をしようと思えばできたのだろうけれど、そうしなかった。

 呼ばれたみたいだったから。

 だから僕は視線を流した。右に、そっと、誘われるみたいに。


「――あれ?」


 二十メートル先の、坂の上。丁字路突き当りに見つけたのは、着物姿の女の子だった。右から左にすうっと歩いていく彼女は、たぶん同い年くらい。肩甲骨までの長い黒髪と、俯く横顔が印象的だった。


「さすが田舎」


 この歩くのもめんどくさい環境で、動きずらそうな和服を着て歩いているなんて、意識高いな。……着心地なんて実際どんなもんなんだか知らないけど。

 彼女の姿はすぐに見えなくなった。


「何かあった?」

「や、なんでも」


 玄関に到着していた母さんに急かされて階段を上りきり、家に入って、


「お邪魔しまーす」


 ドアを閉めた。

 温かく乾燥した空気が目に沁みた。


 虫の知らせというものがあるなら、きっとこの時すでに、それがあったのだと思う。予感があったのだと思う。




「よし君? あれ、ほんとに? おっきくなったねえ」


 はーこりゃ……はー立派になってまあ。

 ばあちゃんに会うたび同じ反応をもらうのだが、二人とも毎度本気で驚いている。僕はそのたびに返事に困ってしまう。


「いやあ、伸びたの身長だけなんで」

「いやいやまあまあそんなこと言って、こんな辺鄙なとこまで歩いてきたの? 大変だったでしょう」

「おう、来たか。おっきいなあ。もうじいちゃんを追い越したなあ」


 白髪に小さなリボンのヘアピンを着けたばあちゃんと、お経のように『七転八倒』がびっしり書かれたどこで売ってるのかわからない半纏を着たじいちゃん。どちらも七十代にしては腰も曲がらず、痴呆の気配もない。

 孫の成長を思う存分確かめたばあちゃんは「お茶を淹れてくるからね」とキッチンに向かう。じいちゃんは居間のこたつでテレビを見ているので、僕も足を休めようと、こたつの布団に手をかけた。

 母さんがそれを許さなかった。


「荷物持ってってくれる?」


 荷物類を二階に持って行けと。とっくにこたつに入ってる母さんの言葉に頷いて、母さんの分の荷物も持ちながら階段を目指した。母さんは時々ちゃっかりしている。

 ここの階段は急なので、手すりに摑まらなければ心許ない。学校の階段なら二段飛ばしで上がれるのに。

 松野家は、この地域ではよくある広さの、よくある間取りらしい。

 一階にキッチンや水回りと、カーペット張りの多目的室が一部屋と、和室が二部屋。二階には、旧子供部屋二つと、和室一つ。一階和室の仏壇から漂う線香の匂いが、そこかしこに染みついている。

 途中で九十度折れる階段を上り、短い廊下の先が旧子供部屋だ。じいちゃんばあちゃんの子供たち――僕の母さんとその兄――が家を出てから空き部屋になっている、二部屋。

 突き当りと、右側。

 僕らはいつも突き当りの部屋なので、今回も迷わず向かう。

 と、右側のドアが開いて、


「あー、来たんだ?」


 ひょっこり出てきた人が僕を見てそんな反応をする。


「……お、おお」

「久しぶり」


 赤いラインが入ったジャージの上下なんて自宅のような寛ぎっぷりの、同年代黒髪女子。緩い癖毛が華やかで、意思の強そうな瞳と口元がにんまりと弧を描いて、腕を組んで堂々とした立ち姿が堂に入っている。僕より十センチほど背が高く、ちょっとガラが悪い。

 まるで知り合いのように声をかけてきたけれど、


「……誰?」


 名前が出てこない。


「うっわ何それ酷くなーい?」


 独特のけらけら笑いを見て思い出した。

 彼女は僕の母さんの兄の娘――従姉だ。

 絲倉在住、松野愛理。僕より一つ年上で、去年の春にどこかの高校へ進学したはず。

 だけど愛理は、もっとこう、


「髪めっちゃ染めてなかったっけ?」


 愛理なんて清純華憐な名前が似合わないほど荒んでいた覚えがある。


「んあー? あー、昔ね、昔」

「二年前のことを昔って言う?」


 中学生にして髪を金に染め、親の金を盗んで、この絲倉から東都の僕の家まで家出してきたのがつい昨日のことのようだ。だから現状、目の前にいる真っ当な体育会系っぽい女子があの愛理だとは信じがたい。

 烏が白だったみたいな衝撃に固まっていると、その女子は「うっさいな」と僕の頭頂部に重い手刀を落としてきた。愛理だ。


「人の黒歴史に触れるなんてセクハラかよ」

「すぐセクハラって言う世の中はどうかと思う」

「男ってそーゆーとこデリカシーないんだよなぁ」


 愛理はふんと鼻を鳴らし、


「まあ、高校生だしね。受験あったしね。ちょっと大人になっただけさ」


 前よりもずっと穏やかな瞳で、そう言った。

 まあ、人間生きていればそういうこともあるのかな。色々あったんだな。


「そっか」


 僕は曖昧に頷いて理解を示し、そんじゃ荷物置くからと、今度こそ部屋に向かう。と言っても短く狭い廊下だ。二歩で着いた。


「よしひろー」

「なーにー」


 古ヶ崎義弘とかいうちょっと仰々しいのが僕の名前である。

 呼ばれるのはもっぱらよし君、よっちゃん、よっしーなんてありがちなあだ名だが、愛理はそのままよしひろと呼ぶ。どことなく平仮名っぽいのは、発音がアホっぽく間延びしているからだ。


「聞いて驚け」

「何を」

「この愛理、去年から絲倉学園生です」

「……なんて?」

「だから、私立絲倉学園に合格したの。一年前に」


 恐れ敬え崇め奉れと天井を見上げるほどふんぞり返っている馬鹿っぽい従姉が、あの進学校に合格できたと。


「ちょっと待って聞いてない」

「あたしが口止めしといた。直接会える時に自分で言うからって。で、どーだ驚いただろう」


 これはなんの悪夢だろう。

 いや分類としては吉報には違いないのだけど、必死こいて都内の平均的偏差値の高校を狙っている僕の心情としては、信じたくない気持ちもあるわけで。


「お、おめでとうございます?」

「はっはー! ってわけだ、しがない従弟よ。わかんないとこあったら、あたしが教えたるからなんでも聞けよ。保健体育と家庭科以外ならいつでもいーぜ」

「えー、単語帳くらいしか持って来てないんで、遠慮しゃす」

「……あぁ?」


 愛理の声が一オクターブ下がった。

 二年ぶりの凄みだ。


「受験ナメてんの? 受験生の旅行一泊二泊がどんだけ命取りか解ってないよなほんとおまえそういう中途半端なことすんの止めな? 単語一個間違って覚えるだけで簡単に落ちっかんな」


 繊細な受験生に落ちるって言うの止めてほしい。


「元不良娘に受験について説教されるとは思わなかったんですけど」

「あたしは死ぬほど頑張った。いやむしろ一度死んだ」

「安らかに成仏してください」

「だからおまえも死ぬほど頑張れ。じゃなきゃ受からない。確実に」

「愛理さん僕の成績知ってましたっけ」

「知らない。だけど受験はみんな成績上げてくるもんだからね。あんたの今までの成績が良くたって試験で落ちりゃそれまでなんだよ」

「それ言われたら僕の中学校生活なんだったのって話になっちゃうんですけど」

「でも、そうじゃん」

「…………。」


 正論は人の神経を逆なですることもあるんだなあ。

 ちょっと大人になったらしい従姉に、僕も一つ教えられた。


「ちょっと待ってろ、あたしの家からちょっといい本持ってき」てやる。

 自分が言い切るのも待たず、愛理はどてててててと階段を駆け下りて行った。愛理の家はここから歩いて二十分ほどだ。

 話の流れからいって、ちょっといい本とは参考書か問題集だろう。女の人が水着でポーズを取っている類のものではないことだけは明らかだ。愛理は荒んでいたくせに変なところで純粋で、コンビニの成人向け本からさりげなく目を逸らす人種だ。


 嵐が去った心地である。

 暖房の電源をつけて、仰向けに寝転んだ。

 三十分の安寧は確保できたから、今から一階に戻って母さんたちの雑談に付き合うより、一人でいたい。でもばあちゃんがお茶淹れてくれるって言ってたっけ。

 どうせ愛理が戻ってきたら強制的に勉強会になるのだろうから、ここにばあちゃんのお茶を持って来て、飲みながらでもいいか。そう結論付けたら、次に気になったのはあの着物の少女のことだ。

 白い着物だった。

 えんじ色の羽織をかけて、ぽつんと一人歩いていた。

 楽しそうではなかった。

 というか、思いつめていたと思う。

 僕はごろんと九十度転がって、壁を見つめる。壁紙も張られていない、昔ながらの土壁。

 待っている間中、あの少女が頭を離れなかった。

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