先に寝ててね
その夜、みやはほんの少しテンションが高かった。
夕食が多少豪華になった。
二人が足を伸ばしても余裕がある広い檜の浴槽に、奏多が浸かっていた。シャワーを浴びるみやの髪が白い背に張り付いて、毛先からぽたぽたと水滴が垂れていく様を理由なく見つめていた。
「みやちゃんさー」
「はい」
「聞いていいのかわかんないから答えたくなかったら答えなくていいけどさー」
「はい」
「好きな人とかいないのっ?」
「はい?」
泡を落とし終え、みやの手が蛇口を捻ってシャワーを止めた。
橙色の照明が、風呂場に柔らかな灯りを落としている。
「なんですかそれは」
「あ、あ、ごめん、忘れて! 無神経だったねっ」
「いえ、構いませんけど……、ただ驚いたというだけで。えっと、好きな人って、恋愛的な意味で、ですよね?」
みやは頭にタオルを巻いて、髪を纏め、浴槽に右脚から入る。湯が思ったより熱かったのか、爪先が少し跳ねた。
「あの人のことは好きじゃないなら、もしかしてって。……ていうかみやちゃん、恋とかってしたことなかったりするの……っ?」
「ないですね」
「ないんだ」
「そもそも機会がないので。そういった対象になりそうな年頃で、今までお話した方となると、蓮見さま以外に……、うーん、ざっと考えたところ一名は思い当たりますね。奏多さんより先に知り合った方です」
「えっ、初耳……」
「そうでしたか? でも、もう会ってもいませんので」
湯気がもうもうと立ち上る。
みやは湯にゆっくりと身を沈め、肩まで浸かった。途端「あ」と何かを思い出して、目を泳がせる。
「……恋愛感情、については……、あー……、えっと……、まったく知らないわけでも、ないんです」
「えっ、誰?」
恋バナには逆らえない流れがある。揶揄い混じりに問う声色には、しかし嫌味がないのだ。純粋な好奇心と、何かあれば応援できるしという前向きな好意すら含む、年頃のコミュニケーション。
みやは震える声で、
「……蓮見さま、に」
「…………。」
「とは言っても、その時のことはあまり思い出したくないというか、そもそもあまり覚えていないというか」
「…………。」
「…………なにか、言ってください……」
奏多はたっぷり間を置いて、夏のような笑顔で、
「お幸せに」
そして二人が風呂から上がり、縁側で涼み、奏多が布団に入って三時間が経った頃。
「……そろそろかな」
「はい」
みやと蓮見は屋敷の玄関にいた。
彼女の手で広げられた羽織に、彼が袖を通す。「お気をつけて」と恒例の文句に、蓮見も頷く。
「私としては嬉しいのですが、奏多さんを三日も留まらせる必要があったのですか?」
「決まりだから」
「……『秘匿』は、難儀なものですね」
「家から通達があった時から、めんどくさそうな予感はしてたよ」
取り壊す前に、あの館を掃除してほしい。
あの館を取り壊すと決まった時、如月家が請け負った仕事である。
もちろん依頼主は木沢奏多ではなく、別の人物だ。館を取り壊して、その土地に新たに建てる予定のマンションを取り扱う不動産の――と、詳しくは聞いていないけれど。
噂には懐疑的だが、如月家のお祓いが入ったという事実だけがあればいいと、そういう結論なのだそうだ。
蓮見にその仕事が回されたのは、病に臥せって学校を三日間休んだ時だった。
それから洋館の祓いは予定していたけれど、木沢奏多には伝えなかった。みやも、知ったのは昨日のことである。
「奏多さんには、祓われたことくらいは、お知らせできないものでしょうか。如月家のことは伏せて、」
「みやが言ったら勘付かれるでしょ。関りが如月か形栖くらいしかないんだから」
「……そうですね」
如月家の信条は秘匿である。
まじないは、それが重要であるほど情報が伏せられる。詳細な方法は元より、術を施す時間、可能であれば場所も、外部には決して知らせない。
そのため仕事として請け負った祓いや呪いの類は、該当の敷地を、可能であれば一週間も借り切ってしまう。その誰も寄せ付けない空白期間のほとんど、祓いが行われる時間以外は、何も手をつけない期間ーー有り体にカモフラージュだ。そうして、実際の呪術や祓いがいつ行われたのか、正確な日時を外に漏らさないようにしている。今回奏多を三日も留め置いたのも、そのためだ。たった一日で安全を保証してしまえば、その晩に何かが行われたのだと知れてしまう。
如月蓮見の許嫁、形栖みやにさえ、落とされる情報は最低限だ。
みやは過去、蓮見から聞いたことがある。
『こういうものは、見たり知ったりって、禁忌なんだよ。超常的な力の低下に繋がる。とても感覚的なものだから、それはそういうものだって納得するしかないんだけど。例をあげるとするなら、丑の刻参りかな。これは見られたらいけない呪術だし。あと限定的なところだと、京で行われる『加茂の御生』。神をお迎えするけど、その神事の内容は今現在も不明のまま。一般に公開される行事の項目にも、これだけは載ってない』
どうしてだかサイトには載っているけど。と加えられた。
『そうやって、人に見られないように、知られないようにする『まじない事』は、聖俗かかわらず、世界中に何千年も前からある』
――知ることも見ることも、独特の縁が出来てしまってね。その不可視の繋がりが逃げ道となって、力の流出を招いて、効力も霧散してしまうから――。
がら、
玄関の引き戸が向こう側から開かれた。
こちらの灯りなど一寸で死に絶えてしまえるような、重々しい夜闇が見える。
「先に寝ててね」
その言葉だけを置いて、彼は仕事をしに行く。
からん、からん、履物の音が一歩ずつ、遠ざかる。
虫も鳴かない夜。みやは蓮見の背に頭を下げて、戸が閉まるまでそうしていた。
*
奏多に与えられたのは、みやの私室の隣にある空き部屋だった。
この配置にも、あの許嫁殿が渋った。「隣に誰かいて、君は眠れるの?」と、みやのみを対象にした憂慮だった。本当に過保護だな、自分は隣室どころか同じ布団で一緒に寝たくせにと呆れたけれど、奏多はそれを口に出す勇気はなかった。みやの「お客様のご案内役としても、近くに誰かいた方が良いのでは……?」という一言で妥結に至る。
少し狭いですが……、と案内されたけれど、それでも十分な十二畳。少なくとも自宅の私室よりは広く見えた。余計な家具がなくてがらんとしているから、余計にそう思う。
ここにあるのは、持ち込んだ自分の荷物と、あとは布団のみだ。折りたたみの机を持って来てくれたけれど、広げず壁に立て掛けたままにしている。
隣室の障子を閉めた音がして、奏多は暗闇の中で目を覚ました。足袋を履いて楚々とした足音が、遠ざかっていく。
「……?」
みやちゃん?
もそりと、上半身を起こした。
耳を澄ますと、ずっと遠くで話し声もする。あの二人だ。
声は玄関の方に向かっていって、やがて何も聞こえなくなってしまった。
訊いてもいいのかな。
顔を出してもいいのかな。
考えたけれど、
一、入ってはいけない部屋を覚えて、立ち入らないようにする。
二、家のことで余計なことを質問してはならない。
三、好き嫌いはしない。
四、異変があったらすぐに言うこと。
五、夜間二十二時以降は、あまり部屋から出ないこと。
上記五条のお約束を守らなければ叩き出されてしまうため、奏多は下手に動けなかった。
「…………。」
それにしても、健全な女子高生が同級生の家にお泊り会をするなら、深夜までトランプ大会と洒落込んでもいいのでは? まだまだこれからという時に、二十二時になったからと去って行く友人は潔すぎた。
ああやって従ってきたんだろうな。
なんだかちょっと、しんみりしちゃうな。
胸の中に、言葉にできない不快感が溜まっていく。
だけど奏多は、友人の扱いについてとやかく言う権利を失ってしまっている。元々そんなものは無かったのだろうけれど。自分がしでかしたことは、如月蓮見よりも悪いことだろうから。




