あんなに綺麗だったのに
この屋敷には、幼馴染の男の子がいたの。
男の子はよく怪我をしてた。痣とか、生傷とか、会うたびに新しく増えててね。……まあ、つまりは虐待されてたわけね。愛人の子だって。あの時はよくわからなかったけど、今はなんとなく理解してる。
わたしね、あの子と夜にこっそり星を見るのが好きだった。
きっかけはなんだったかな。
夜遅くになっても帰ってこない両親に拗ねて、ちょっとだけ困らせてやろうって、外に出かけたんだったかな。
そして幼馴染の家に行った。
そこで夜空を見る彼を見つけて、……それで通い始めたの。
彼は色んなことを知ってた。
お父さんがそういう研究をしていたんだかなんだか、よく知らないけど。宇宙とか、星とか、そういうのが好きなんだって。
わたしは彼の話を聞くのが好きだった。
だから通ったの。毎週木曜日の夜。
双眼鏡とか、星図とか、少しでも彼に近づけるものはなんだって持ち寄った。
……あの夜のことは、よく覚えてる。
流星群を見た時。
夏の夜。
とっても暑かった。
あの子が死んだのは、その翌朝だった。
いつもあの子と座っていたベンチで。
あの夜に私を見送って、その場で数時間後には死んじゃっていたみたい。
「聞きたいことがあったの」
一つだけ、あの子に聞きたいことがあった。
会って確かめたいことがあった。
だから、だから。
「あたしね、なんでもやったの」
この場所で、幽霊と会える方法は、一通り。
「でもダメだった」
彼の幽霊なんて都合よく現れてくれるはずもない。
だから奏多はずっと、彼を忘れずにいた。
「もう忘れろっていうの」
それは両親の気遣いだったのかもしれない。
思えばあの夜以降、両親の帰宅は早くなった気がする。
心に傷を負った娘を気にして、以前よりも話す機会を増やして、優しく諭してきたのだ。
もう忘れた方がいい。
けれど奏多はそれを受け入れることなく。
「宇宙飛行士になろうと思ったの」
それって本当は、彼の夢だったの。
「宇宙飛行士にはね、身長制限があるんだけどさ、わたしってこうだからさ」
牛乳もいっぱい飲んだけど、だめだったからさ。
「もう屋敷に行っちゃだめって。もっと勉強しろって。宇宙には行けなくても、いい大学に行けるからって、……お父さんもお母さんも、先生も、そればっかり」
数えても数えきれないほどの、圧倒的な星。数では推し量れなかった。数に表すことこそ無粋と思えるほど膨大な光の粒。幼い日に二人で見上げたあの光景だけは、何者にも冒せない、崇高な輝きであったのに。
それに触れようとするほど、数字が見えてきた。
距離と、日にちと、角度と、光量と、宇宙に行くために必要なコスト、テストの点数、身長――。現実を見せつける無機質な数字に、無邪気な子供心は殺されていく。
その夢は知れば知るほど遠くて、理解するほど残酷だった。
奏多を先頭として、その三歩後ろを蓮見とみやが歩いた。
洋館の後ろに回れば、そのベンチはすぐに見つかった。子供であれば大冒険だった道のりは案外簡単で、高校生の足なら五分もせずに着いてしまった。
白のペンキは完全に禿げて、腐った木の色をしている。
「脳出血って、目が見えにくくなったりも、するのかな」
「そういうこともあるね」
「……そっか」
奏多はもう一度、「そっか」と呟いた。
「あの夜、一緒に流星群を見た日ね、とっても暑かったから、ラムネを持っていったんだけど、あの子はそれを落として、こぼしちゃった」
半分だけ飲んだそれを、後は全部飲んでいいよって手渡そうとしたら、彼の手が少しだけ震えていたのだ。
「もう、見えて、なかったのかな」
二人でいたのに。
「流星群、あんなに綺麗だったのに」
隣にいたのに。
「わたししか、見えてなかったのかな」
それを確かめて、何がしたかったのだろう。ちゃんと見えていたよ、綺麗だったよと言われて、それで何かが解決したのだろうか。
わからない。
それは一つの言い訳だったのかもしれない。彼に会いたかっただけなのかもしれない。後付けの理由に、自分でも納得してしまったのか。
わからないけれど。
奏多は振り返って、友人を見つめる。綺麗な有名人、形栖みや。お金持ちの男の許嫁で、世間知らずで、浮世離れしていて、弱い彼女。
「みやちゃん」
「はい」
守らなくてはいけないとさえ思っていた彼女を、自分は利用しようとした。夏休み明け、彼女が行き渋っていたのも解っていて、その上で無理に連れて行ったのだ。それがどれだけ危険かも知らずに。
「ごめんなさい」
奏多は頭を下げた。腰を曲げて、綺麗な直角になる。人生でこれほど深く頭を下げたことはない。
「不思議な力があるみやちゃんがいれば、あの子に会えるかもしれないって思って」
「はい」
「ごめんなさい」
これだけで許されたくもないけれど、今の奏多ができる精一杯がこれだけだった。
ごめんなさい。ごめんなさい。
貴女の力を羨ましく思ってしまって、ごめんなさい。




