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お友達か何か?

    おかけになった電話番号は、

    現在使われておりません。


 目の前に、壁が見えた。


「え?」


 暗い所にあった意識が突然ずるりと引き戻されて、奏多は呆ける。

 きょろりと、まずは瞳を動かした。

 視界の下に黒いものが見える。家庭用の電話機だ。電話台の上で、埃を被ったまま寂しく放置されている。奏多はこれを知っている。何度も見ている。


    おかけになった電話番号は、

    現在使われておりません。


 小さなホワイトボードがある。赤文字で書かれた九月一日だけが異様に鮮やかだ。

 ここはどこだっけ。――あの洋館だ。

 自分はどこにいたんだっけ。――そう、地下通路。

 登校途中だった。それで、どうしてこんなところにいるんだろう。自分で歩いてきた記憶も、連れ去られてきた記憶もない。

 身じろぐと、床と靴底の摩擦で細かな砂粒がじゃり、と鳴った。ろくに掃除もされていないこの床の感触は、すでに『慣れたもの』だ。

 振り返ろうとしたけれど、右腕にぐいんと引っ掛かる感触があった。

 右耳に当たっているものがあって、それから繋がった黒いコードのせいで動きが制限されたのだ。

 奏多はどこかに電話をかけていた。

 自分の手で、自分の耳に、それを――黒い受話器を当てて。少しも意識せず、当たり前のように、自分の意思のように、受話器から聞こえてくるそれをひたすら聞いていた。


 ――おかけになった電話番号は、

 ――現在使われておりません。


 思わず受話器を取り落とし、


「ひ……っ」


 ひゅっと酸素を吸い込むと、喉奥に細かい塵が張り付いてくる。しばらく咳込んで、最後に大きく息をする。あまり空気が良くない、停滞した屋内。ここの臭いも空気の悪さも、奏多は知っている。

 受話器は電話台に強く打ち付けられて、しばらく揺れて、やがて止まった。そのさらに下、目立たないコンセント近くの床。電話機のコードと共に、どこにも繋がっていない差込プラグが束ね置かれていることに、奏多は気付かなかった。

 激しい咳と、受話器がぶつかる音。自分が原因の騒がしさが止んでしまえば、ここは恐ろしいほど静かだった。

 得体の知れない不快感に、奏多は息を潜める。

 すう、と細く吐いた呼気が、白くなった。


「……?」


 ――寒い?

 いつの間に、こんなに寒くなっちゃってたんだろう。

 奏多は両腕を擦る。

 今度こそ振り返った。入口に続く廊下が、ずうっと先に続いている。

 寒い。

 どこかに穴が空いたのではない。前方の廊下、左の廊下、天井、階段――広い洋館のどこも、空気が動く様子がない。けれど気温は確かに低下していく。

 方向性のある冷気とは違い、この空間すべてが冷蔵庫になったような、何の前触れもない急激な冷え込みだった。

 最盛期を過ぎたとはいえ、まだ夏のはずなのに。

 緑の蔦に覆われ尽くした窓ガラスから、褪せた陽光が頼りなく射し込む。

 今は何時だろう。確かめようとして、奏多はポケットや鞄を探る。目当てのスマートフォンは無かった。どこかに落としたようだ。

 つまり。

 つまり自分は、この大きな館に一人きりなのだ。

 何の伝達手段もなく、どうしてここにいるのかもわからず。

 ――ひとり。


「……っ」


 ここを出たくなった。

 大人しい友人の落ち着いた声が聞きたくなって、あの重いものを知らない手をぎゅうっと握りたくて、たまらなくなった。学校はきっと遅刻だろうけど、教師や親に怒られるのも怖くない。とにかくここを出て、そして、


   きぃい、


 甲高い音がした。

 動きが悪い蝶番の音。――ドアが開いたのだ。どこか、この館の中で。


 こつ……、……こつ、……こつ、


 足音がする。

 上だ、と思った。奏多はこの屋敷の構造を思い出す。ここはL字型の館の一階で、廊下の突き当り。向かって左の廊下には二階への階段がある。階段はこの電話台の上を通って、上がりきると、一階と同じようにL字型の廊下があって、真正面に行くと四つのドア、左に行けば二つのドアが並んでいて、


 こつ、……ずっ、こつ、……ずっ、こつ、


 音が近づく。

 足音の合間に、重く湿ったものを引き摺る音も。

 どこのドアが開いたのかはわからない。


 こつ、……ずっ、こつ、……じゅりッ、ごつ、……じゅり、


 けれどそれは確実にこちらにきて、そして、


 じゅりッ、


 今、ちょうど、真上を過ぎた。


「ぁ……」


 来る。


 次は、階段だ。


「っ……!」


 奏多は弾かれるように走り出した。目の前の廊下。これまで何度も何度も行き来してきた廊下はいつもより何倍も長く感じられた。途中で何かに躓いて、けれど意地でも転んでなんてやらない。埃を踏みしめ、砂粒を磨り潰し、転げるように。

 あの足音の速度は一定のままで、このままいけば追いつかれずに出られるはずだ。

 あれが何なのかは知らない。

 けれど確実に『危ない』ものだ。

 やがて辿り着き、縋りついた扉は、


「……うそ……」


 開かなかった。


「……やだ、なんで……っ!?」


 両開きの、立派な扉。丸いドアノブは金メッキが剥がれて灰色が覗き、嫌に古ぼけている。それは既に鍵の機能を失っていて、強く押せば簡単に開くはずなのに。


 なんで? なんで開かないの?


 小さな手で何度も押した。ドアノブを反対方向にも捻ってみて、がちゃんがちゃんと大きな音を立てて。

 外側のドアノブに、鎖が固く巻き付いていることも知らないまま。


「なんで、なんでぇ……っ」


 出して出して、ここから出して。


 じゅご、


 背後から、一際大きな音がした。奏多はぴたりと制止して、ゆっくりと振り向いた。

 ずうっと遠くに、電話台が見える。その横の廊下から。

 白い指が五本、

 壁にぬるりとかかって、

 ぬう、と。

 白い顔が覗く。


 明るい色に染めて、乱れた髪。二つの眼孔はぽっかりと空洞で、けれど確実に、奏多を見ていた。喉は深く切り裂かれていて、そこから滴る血液が服を重く濡らしている。

 女だった。


 じゅっ、……こつ、


 頭はふらふらと揺れていた。首の半分以上が繋がっていないような動きだと思った。空洞の双眸だけは奏多を睨んだまま、血を足元に引き摺りながら、両手をぶらぶら遊ばせながら、けれどまっすぐに、

 来る。


「……っ」


 奏多の喉の奥が、ひくりと震えた。

 歯がぶつかってかちかちと音がする。合間に、あ、ぁ、と声が小さく漏れ出る。

 女は来る。一番向こうのドアを過ぎて、こちらに。

 奏多に恐怖を味わわせるように、ゆっくりと。――二番目のドアを過ぎる。

 奏多は少しでも逃げようと、開かない扉に背中を強く押し付けた。

 女は来る。そして、その白い手が触れようとした時。


「奏多さん!」


 声と共に背後のドアが開いて、奏多は外の光に目を眩ませた。


       *


「さて、行こうか」

「……え」


 黒目がちの目を大きく見開いたみやは、耳に受話口をつけたまま、茫然と蓮見を見ていた。信じられない。そう言いたげに半開きだった口元は、すぐにぎゅうっと引き締まる。


「来てくださるのですか?」

「まあね。みやを一人で行かせるよりはいい」


 そういった経緯で到着した館で、二人は扉に巻き付いた鎖を外した。

 蓮見が扉を開けて、


「奏多さん!」


 まろび出て来た奏多を、みやが支えた。

 扉に背を押し付けていた奏多は勢いを殺せず後ろに倒れかけて、みやも巻き込まれる形で膝を着く。

 それを見届けた蓮見の目は、静かに館の廊下へ向けられる。


「…………。」


 そこにはもう誰もいない。何もいない。

 扉は再び閉じられた。


「それで、何があったの」


 彼の口調はどこまでも冷ややかだが、今の奏多にそれを気にする余裕はない。見てきたものを途切れ途切れに話していく。その間にも、みやは奏多の背を撫で擦っていた。


「ホワイトボードの赤い文字。九月一日。みやも、それは見たことある? 赤かったんだっけ?」


 みやは微かに躊躇って、こくりと頷いた。


「みやがそれを赤と認識したなら、何かあったんだろうね」

「……なに? 赤だったらダメなの?」


 奏多が不安そうに問う。

 蓮見はみやに「言ってなかったんだ」と、さして意外そうにもせず言葉を振った。

 みやは沈黙する。じっと口を噤んでいたが、


「ごめんなさい。言いにくくて……。あの、奏多さんが、お土産とか、買ってきてくれるの嬉しかった、から」


 やがて告白した。


「色がわからないんです」


 諦めた声色だった。


「九歳の時から、白と黒だけしかわからないんです。私の視界では、いわくつきのものだけ色が付いている状態です」


 奏多も以前に聞いたことのある、みやの特別な力。訳あり、曰くつき。そういった物を見抜けるとは聞いたが、その視界がどのようになっているかは知らない。

『それ』以外は白と黒――ということはつまり。

 奏多は、夏休み明けに彼女に渡したマスコットを思い出した。ピンクと水色。それもきっと、彼女の視界では白と黒だったのだ。


「私の着物や小物類、文房具に至るまで、すべて蓮見さまが呉服屋などで見繕ってくださったものです。私に合うものは、自分ではわかりませんので」

「みやはなんでも似合うけど、白い着物にえんじ色の羽織を合わせたりするのも好きかな」


 つまりは許嫁の趣味である。


「着物を新調すると色名を教えてくださいますし、基本的な色なら九歳までの記憶で覚えていますので、その点は苦労していませんが……」


 なんとも言えない顔の奏多に、改めて蓮見の手が差し出された。そういえば地面にへたり込んだままだったと思い出した奏多がその手を取ろうとするけれど、蓮見が先んじて言う。


「椿山神社のお守り見せて」

「……はい」


 相変わらず、みや以外には冷たい男である。

 奏多はポケットから出したそれを蓮見の手に落として、自力で立ち上がった。大丈夫ですか? 怪我は? と甲斐甲斐しくしてくれるのはみやだけである。

 蓮見は、酷い状態の御守りをじいっと見つめて、「すごい」と感嘆した。


「一昨日買ったばかりにしては、すごいことになってるな」

「え、なんで知ってるんですか」


 そういえば、御守りを購入したことなんて言った覚えはない。一昨日の土曜日に椿山神社に行ったことだって。


「ああ、椿山神社の巫女から近況報告がきてね。ちょっとした世間話ついでに教えてくれただけ」

「お友達か何か?」

「ヒントあげようか。椿はうちの家紋だよ」

「え」


 つばきはうちのかもんだよ。……――おや?

 思考が固まった奏多の耳に、ほどなく友人からの助けが入る。


「あの神社が祀っているのは、如月家のご先祖様なんです。だから如月家は氏神様の直系ということになりますし、神社の運営にも関わっていますので……」

「うちの家紋とあれの寺紋が同じだから、すごくわかりやすいんだけどね」


 隣のみやから「ちなみにうちの家紋は菖蒲です」と注釈があった。

 緊張感に欠ける。似た者夫婦になるのかもしれないと、奏多はなんとなく思った。


「次は君の番だね」

「わたし……?」

「自覚してるはずだけど」


 見透かすような言葉に、奏多は息を飲んだ。

 自分が行ったこと。

 友人相手にしたこと。


「君は、ここで何がしたかったの?」


 奏多はそれらを、『正しく』理解していた。

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