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そう、虫の知らせ

 リビングのテーブルに置かれた朝食は、簡素だ。

 焼き過ぎて端が黒く焦げた目玉焼きと、固まった白身に沈んだまま身動きがとれないウインナー。ジャムはセルフサービスの食パン。

 朝は眠いし頭も働かないから、栄養バランスなんてどうでもいいのだ。奏多も、母親の意見には同意だ。作ってもらえるだけありがたい。

 少し冷めているそれを食べ終えて、支度をして、家を出る。

 休日明けの朝は憂鬱だ。

 夏の空が眩しい。白い制服が太陽光を反射して、それを着ている自分まで発光しているみたいだ。

 三叉路を進み、住宅街から出る。

 地下通路に入ると、


「……?」


 足が止まる。

 無意識にでも、迷わずに行けるはずの通学路。地下通路の、その陰に入ろうとした右足が、進入を拒んだ。

 蝉の声が背中を押す。日焼け止めを塗った肌がじっとりとして、汗でべたつく。今日は特に暑い。だから日陰の中に入るのは大歓迎のはずだけれど。

 どうしてだろう。

 奏多は右足を一旦下ろして、一呼吸置いて、再び足を上げた。

 影に入る。

 地下通路には人がいなかった。しいん、と静まり返っている。

 こつ、こつ、こつ――、靴の音がやけに響く。

 コンクールの絵画はまだ展示されている。絵はすでに見飽きていて、今更どんな感情を覚えることもないと思ったけれど、――どうしてだろう。

 右隣の絵を、通りすがりにちらりと見た。

 その人物が、どうしてだか、こちらを見ているように思えるのだ。……錯覚だ、わかっている。そんなはずない、そんなはずないのだ。

 だけどここの空気はどこかおかしい。この余所余所しい肌寒さを、奏多は知っている。

 通路を半分ほど進んだところで、


 ぶぶぶ、


 鞄の中で、スマートフォンが震えた。


「っ!」


 奏多は飛び上がりそうなほど驚いた。画面を見る。


『02-××××-××××』


 知らない番号が表示されていた。

 ぷ、と音がして、勝手に通話が開始される。


『わたしだよー! どうどう? 何か変化ない?』


 自分の声だ、と思った。

 覚えている。これはあの館での会話だ。相手はみやであるはずだ。

 だけど、奏多は「ぇ」と小さな声を漏らしたきり、そこに立ち竦むしかなかった。

 おかしい。

 これはありえない。

 あの日の会話ではないと思う。性格の悪い誰かがあの日の会話を録音して、編集して、こうして電話をかけてきたのだ。目的はわからないけれど。

 だって、だって。


 ――『     』

『そっかそっか。うーん、じゃあ失敗かなあ』

 ――『     』

『済んでないけど、まあ、試してみたかっただけだし。そっち戻るね』


 だって相手はずうっと、同じことしか言っていないのだ。


 おかけになった電話番号は、現在使われておりません。おかけになった電話番号は、現在使われておりません。おかけになった電話番号は、現在使われておりません。おかけになった電話番号は、現在使われておりません。おかけになった電話番号は、現在使われておりません。


 がちゃんっ


 スマートフォンを取り落とした。

 画面の片隅にぴしりと罅が入って、途端に通話が切れた。


 なに。

 何なの、これ。


 足が凍ったように動かない。心臓がずきずきと、痛いくらいに鼓動を刻む。

 思い出す。

 一昨日、土曜日の夜に起こったあの出来事を、忘れようと思っていたのに。だけど、この静けさは同じだった。左右に並ぶ絵画の中の人物が色とりどりに、しかし電灯の下褪せた色合いで、奏多を眺めている。硝子の中から、じい、と見ている。

 その中に一つ、奏多の思考を動かす絵があった。

 水彩の部で金賞を獲ったそれ。『形栖みやのような』少女の後姿。


 ――そうだ、お守り……っ


 奏多は鞄を漁り、御守りが入った紙袋を手探りで取り出した。

 黒々しいカビにびっしりと覆われていた。保存状態も悪く、何年間も放っておかれたような惨状に、


「………えっ?」


 奏多は声を漏らす。

 おそるおそる、紙袋を覗いてみる。


 一昨日買った御守りは腐り果てていた。

 奏多の後ろからするりと、白い両手が伸びる。




「――?」


 みやは誰に呼ばれたわけでもないけれど、振り返った。


「形栖さん? どうかしたの?」


 不可解そうに、そして心配そうに歩いて来るのはクラスメイトの一人だった。もちろんクラスメイトの彼女はたまたまそこにいただけで、突然に後ろを向いたみやに驚いた様子だ。彼女がみやに倣って後ろを見るが、変わったところはない。同じ学校の生徒や、お隣さんの生徒たちの登校風景があるだけだ。

 みやも、それに違和を感じたわけではない。

 おかしなものが聞こえたのでも、妙なものを見たわけでもない。

 自分でも理由は判然としないけれど、ただそうしてみたくなったのだ。


「……学校、行かないの?」


 とうとう不審そうになってしまったクラスメイトに、みやはようやく「いえ、ちょっと誰かに声をかけられた気がしたのですけど、気のせいだったみたいで」と言い繕い、校門を潜った。


 クラスメイトはみやに優しい。

 学校は優雅で平凡で、年頃の女子らしい会話が弾む、温室のような空間だ。

 教室のドアを開いた時、みやの目はまず木沢奏多の机を見た。そこだけが、ぽつん、としていた。まだ早い時間で、教室の四分の三の生徒がいないのに、その席だけが――廊下側から三番目の前から二つ目の席だけが、不自然にぽっかりと空いているように見えた。

 みやは考える。

 校門前で、己の体が無意識に動いたこともきちんと忘れずに。


 ――蓮見さま風に言えば、これはきっと――


 みやは考える。


 ――ああ、そう、虫の知らせ。


 もしも、朝のホームルームが始まっても、木沢奏多がいなかったら。あの席が空いたままだったら。友人に何かがあったなら、自分はどうすればいいのだろう。


 そして四十分後。

 木沢奏多は、登校しなかった。


「…………。」


 相沢さん、飯塚さん、飯沼さん、宇井宮さん、江藤さん、――担任教師が生徒の名前を読み上げていく。みやの二つ後が木沢奏多の番だったが、


「……木沢さん?」


 教師が首を傾げる。奏多の返事がないのだ。

 高低様々な女声でテンポ良く流れて行った「はい」が、そこで途切れてしまった。


「誰か、木沢さんに何か聞いてない?」


 誰もが「自分は知らない」という顔をして、最終的にはみやを見た。

 みやは何も知りませんと首を振ると、教師は「そう」と一応は納得して、また名前を読み上げていく。きっとこの後、すぐに木沢家へ連絡が入るのだろう。

 一時間目は英語だった。

 二時間目は歴史だった。

 休み時間になると、


「形栖さん、呼んでる」


 とお呼び出しがかかって、みやは教室の前のドアに向かった。

 他クラスの女子生徒二人が、緊張した面持ちで立っている。この学校にしては珍しく制服を着崩した、みやよりも背が高い一人と、背が低くておどおどと落ち着かない様子のもう一人。


「ご用ですか?」

「ああ、うん。……ほれ」


 背の高い女生徒が、背の低い女生徒の背を小突く。


「あ、あの、すみません、お呼び出ししてしまって、今日ですね、登校してたら、……あ、私も地下通路通るんですけど、」


 話が右往左往しているが、要約すると、今朝の登校途中に地下通路で落とし物を拾ったので届けに来たということらしい。

 そして差し出されたのはスマートフォンだった。


「……これは……?」


 見覚えのある端末だった。


「形栖さんに、お渡しするのも悪いかなって思ったけど、ですけどっ」

「こいつが友達のだって言うんだけど、今日はその子休みっぽいから、仲良さそうな人に届けようってなったの。……もう、あんたなんでそんな緊張してんだよ」

「だってだってだってだって形栖さんだよぅ……っ」

「化物相手にしてんじゃないんだよ、ったく。……ってわけなんだけど、これ、奏多って子ので合ってる?」

「……はい、奏多さんので間違いないと思うんですが……」


 ――あれ?


「……地下通路に、これが落ちていたんですか?」

「そう、です」


 こく、と控えめに頷く女子生徒。

 みやの顔から、さあっと血の気が引いた。


 木沢奏多は、登校しようとしていたのではないか。

 スマートフォンを落とすような何かがあったのではないか。

 もちろんそんなのは杞憂で、金曜日の下校時に落としたという線もなくはないけれど――と考えて、


 ――違う。


 即座に否定した。

 ありえなかった。

 だって最後に奏多とメールをしたのは、土曜日の夜だ。


 みやは「ぁ」と震える声を落とし、そこに硬直した。

 奏多はあのメールに『怖い』と書いていた。とにかく怖かった、これだけしかわからないが、みやにわざわざメールを寄こしてくるだけの何かがあったのだ。

 何か。

 何が?

 みやはそこに立ち竦んだまま、後方の空席を意識する。いつもなら元気な友人が座っている、今は座る者のいない椅子。


 不吉な予感に、背筋が凍る。

 

 突然フィルターがかかったように、周囲の物音が遠くなる。自分と、その他。

 けれど、


「形栖さんに頼むのも、悪いんだけど、……これ、渡しておいて、くれますか?」


 こうやって外から声をかけてくるから応えなければと、みやは理性を保った。硬直しそうな全身を動かし、普通の対応を意識する。


「……ありがとうございます。お預かりしておきますね」

「ん、お願い。じゃあ帰るよ司」

「ま、待ってぇ……っ、えっと、じゃあっ、お願いしますっ! 失礼しました!」


 凸凹コンビが嵐のように去って行くのを見届けたみやは、そのまま渡されたスマートフォンに視線を落とす。ごく一般的な機種である。名前が書かれているわけでもないし、パスワードも設定してある。

 この端末の持ち主を知る人物に拾われたのは幸運だ。司と呼ばれた生徒は、奏多と少なからず縁のある生徒なのだろう。奏多はその性格により、友人が多い。

 ――けど。


『名取が持ってきた。九年前の九月の記事』


 土曜日の日中、蓮見から渡された資料。


『この子供と木沢奏多は友人関係にあった』


 ――友人関係。


『宇宙飛行士になりたいんだ』

『虐待による脳出血』

『あとこぼれたラムネ』

『本当の本当に、大丈夫?』


 そして一番最初。

 九月一日に見た、あの瞳。


『お願いだよ』


 ――奏多さん。

 すとん、と胸に落ちた答えに、みやは唇を噛み締めた。


 木沢奏多はあちらに連れて行かれたのだ。

 どうすればいい。

 己が持っているのは、自分でも制御できない夢見――形栖家の才能。それと、曰く付きのものがわかるという、あまり便利さを感じない物見――自分特有の力。

 どちらも、霊視と呼ぶには曖昧な代物だ。


「もう……っ」


 苛立ちと共に噛み締めるのは、うんざりするほど思い知らされた現実――自分に物事を好転させる能力はないという、一つの事実のみ。

 救いも祓いもできない。既に起きてしまった事象に対して、形栖みやはあまりに弱い。

 今から地下通路に行って、何かが残っているだろうか。

 時計を見ると、授業まではあと三分だ。

 足を一歩出そうとして、戻す。それを二度も繰り返しながら、みやは迷っていた。

 あまりに無力で、決断力もなくて、こんな自分に何ができるのか。

 みやは奏多が最後に居たと思われる地下通路を頭に思い描き、その中にぽつりと知っている名前が、


 ――如月蓮見。


「……っ」


 迷わなかった。

 机に駆け戻り、教科書やノートを机の中に置きっぱなしで、机の横のフックから鞄だけをひったくり、スカートをはしたなくはためかせて、


「形栖さん!? ちょっ、授業もうすぐ……っ」


 そんな声に答えることなく、教室を出た。

 鞄からスマートフォンを取り出した。

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