まっててね
行灯の光が満ちる部屋の中で、お馴染みの体温計が鳴った。布団の住人である蓮見本人が画面を確認した後、体温計はみやに手渡された。
三十六度五分。
明日には学校に行けるだろうと、みやは予想する。
蓮見が学校に行けるならば、自分も学校に行けるだろう。彼の看病にかこつけて彼の庇護下にいなければいけなかった三日間は、とても長かった。
文机の黒い液体はもう回収されてしまっている。結局あれが何なのか、みやにはわからない。
「木沢奏多にどこまで話したの?」
「忌み名と、如月家と、形栖家のことを」
四時間前に奏多を見送ってから一度も布団に戻らなかった蓮見だけれど、今日は体力が余って仕方がないらしい。上半身を起こしていて、まだ眠る気がないようだ。
とはいえ、今は夜中の十一時近い。
みやもそろそろ自室に下がらなければと思い、挨拶をしようと口を開いた。
瞬間、遠くで電話が鳴った。
居間の白い電話機だ。
電話機特有の、細かく波打つ高い音。人間の耳には優しくないし、夜間にはできるだけ聞きたくないものだ。
みやが眉を顰めて立ち上がろうとするのを、蓮見が止める。
「待って。出なくていいよ」
鋭い瞳は居間の方をじっと見ていた。
彼の指示に従って腰を下ろしたみやも、そちらを見る。
トゥルルル、トゥルルル、
それはしばらく止まらなかった。
電気のついていない居間で、電話機が鳴って、画面だけが光る。その様を想像したみやは、知らずのうちに自分の片袖を握った。
トゥルルル、トゥルルル、
何秒、何十秒と鳴り続けたそれは、ぷつりと切れた。
詰めていた息を吐いたみやの横で、蓮見は緊張を解かない。瞳はまだ居間の方向を見たまま、
「今、スマホ持ってる?」
素直に頷いたみやは、帯の中からスマートフォンを取り出した。画面に艶消しの保護シートが張られた、白い端末である。
これがどうかしましたかと訊ねるみやに、蓮見は「三十秒、……いや一分くらい待とう」と要領を得ない回答をする。
みやは困惑しながらも自分のスマートフォンの画面を見て、五秒。
ホーム画面が、黒くなる。
着信の画面だ。
その一瞬後に流れ始める着信音に、
「ひゃっ」
みやは今度こそ端末を取り落とした。みやが好きな桜の曲が、呪われた音楽のようにも聞こえてくる。
畳の上で鳴り続けるそれには、知らない番号が表示されていた。
「一応聞くけど、友達とかの番号じゃないよね?」
「はい……っ」
二人が黙って画面を見つめていると、
ぷつ、
誰も何の操作もしていないのに、通話が開始された。
蓮見は画面を見たまま、布団の中で立てた膝に頬杖を付く。
二人が静かに見守る中で、通話口から、
ちりんちりん、
遠く、か細く、風鈴の音がした。
それに合わせて、行灯の灯が揺れた。
電話の向こうから声が流れる。聞き覚えがあった。
『もしもし?』
自分の声だ。
みやは固唾を飲んで聞いている。
『 』
『ううん……特にありませんけど……』
相手の声はノイズがかかって聞こえないけれど、奏多であるはずだ。あの会話の内容すべてを覚えてはいなけれど、それほど普通の、何の変哲もないやりとりだったことだけは覚えている。だからよく耳を澄ませば、あの明るい声が答えているはずなのだ。
だけど。
『 な 』
どうしてこんなにも、ちぐはぐなのだろう。
子供も老人もなく、男と女を一緒くたに混ぜ込んだ声――いや、音。そこに意思などなく、打ち込まれた音声を機械が発しているような。
――自動音声、みたい。
みやはどうしても、相手の声が友人だとは思えなかった。
『 』
相手は同じ調子で、ずっと同じ言葉を繰り返している。砂嵐のようなざらざらの音声の中で、くぐもった声がする。平坦な声で応答している自分の声が不気味だった。
そもそもどうしてこれが、電話口から再生されているのだろう?
誰が。何の意図で。
それにこの音声は、誰かがみやのすぐ近くで、会話をじいっと聞いていたみたいだ。
みやは意味もなく部屋を見回して、ぎゅうっと両肩を縮めた。
『そうかもしれませんね。気は済みましたか?』
『 、 さ 』
「はい、お待ちしてます』
それでもう終わりだと、みやが息を吐いた。
そして。
『 ま っ て て ね 』
最後にその言葉だけが、はっきり聞こえた。
ぼそぼそと囁くような、低い女性の声。
「っ――!」
察したみやは両手で口元を覆い、細い悲鳴を押し込めた。心臓が早鐘を打つ。
通話がぶつ、と切れて画面は暗くなり、端末はそのまま沈黙した。
灯が揺れる。は、は、と必死に呼吸をするみやの影が、ゆらゆら動いた。激しい動揺と恐怖で呼吸すらままならず、背を丸める。そんな彼女を労わるでもなく、叱るでもなく、蓮見が口を開く。
「この会話に覚えはある?」
「あの洋館で、一階と二階に分かれて、奏多さんと電話をしました。その時の会話のはず、です。その時ははっきり奏多さんの声が聞こえていました」
蓮見はふうんと返答ともいえない返事をして、頬杖を付いていた顔を上げ、
「迂闊だったね」
揶揄うように笑った。
「みやも知っている通り、こういった怪異に対しては、こちらから門を開けたり応答してはいけない。訪問の歓迎を伝える言葉もダメ」
お待ちしてます。
言ってはいけない言葉だった。
「俺がいて直接は憑けなくても、隙あらば破るくらいのことはしてくるかな」
電話の向こうにいるのが誰か。この通話口を通して言葉を交わしているのは、本当に友人なのか。少しの疑いもなかったみやの落ち度だ。
九月一日、洋館の中でみやが電話を交わした相手は、知らない女だったらしい。
その噂を思い出す。
その屋敷には、電話機が一階と二階に一つずつ置いてある。
夕方の五時ちょうどに、二階から一階へ電話を鳴らすと、
『人間ではないもの』が応答するという。
無言で固まってしまっているみやは「で、どうする?」と呑気な声に顔を上げた。蓮見は何一つおかしいことはありませんでしたという顔で――実際、彼にとっては珍しい現象ではないのかもしれない――、少々残酷なことを訊ねる。
「このまま部屋に帰れる?」
みやは答えに窮する。電話さえなければ部屋に戻ろうとしていたのだ。恐怖だけが残されたまま現実に引き戻されて、困惑した。
ここからみやの部屋まではしばらく歩く。無駄な電気は使いたくないということで、屋敷中がほぼ消灯している。明かりがあるのは、行灯のあるこの部屋くらいだ。
もちろん、電気を点けてもいい。ここは古い造りの屋敷とはいえ、電気は十分に通っている。けれど、と、みやは背後を意識した。閉じられた障子一枚を隔てた向こうの縁側には、夜の闇が満ちている。縁側と庭を隔てる硝子戸と雨戸は分厚く、外の明かりも入らない。
電気のスイッチは屋敷中に点在しているし、そのうちの一つは、ここからなら数歩の距離にある。
しかしその先はどうだろう。
部屋に帰れたとして、一人で一晩を過ごせるとは到底思えない。
みやがその答えに行きついたのを見越したのか、蓮見が「うん」と頷いた。
「君は怖がりだもんね」
みやは心地悪そうに目を逸らす。
「俺を怖がるのもわかるけど、今は誰の傍が一番安全か、解かるよね?」
みやはこれでもかというほど長考し、その末、三つ指ついて深々と頭を下げた。
「一晩、お世話になります」
「いいよ」
だがここは家主、蓮見の部屋である。客人用の布団など置いていない。
では座布団をお借りしますねと当然のように部屋の隅に移動していくみやの足が、がっ! と掴まれた。
「っ!?」
うひいと情けない声が出そうになるが何とか耐えて、みやは足を掴む手を見る。
「……蓮見さま、足はさすがに止めていただきたいと……」
「俺が出るからみやはこの布団使って」
「いけません。お体のこともありますのに」
「君一人を畳で寝かせるなんて言語道断。家庭内暴力はしない主義だよ」
「そんな大げさな」
「それじゃあ折衷案として、一緒にここで寝ようか」
それはないと言いたかった。みやの心の中では、顔が残像になるほど激しく首を横に振っていやいやいやいやと盛大に拒否しているのに、その意を口に出すこともできない。
代替案が無いのだ。
彼はみやを布団で寝かせることだけは譲らないだろうし、みやもまた、彼を布団の外に出すなんて晒し首ものだと思っている。
布団で過ごすことも多い蓮見の布団は特注品で、通常より二十センチほど広く作られている。二人で眠っても、辛すぎるということはない――みやの心情を別にして。
「……わかりました」
みやは立ち上がり、蓮見に背を向けた。
察した彼が布団に肩まで入って、みやの方を見ないように顔を背ける。
静かな空間に、しゅる、と衣擦れの音がする。
みやは帯を落として、紬を脱いで、畳んで置いておく。
襦袢姿になった彼女は布団の傍に膝をついて、「失礼します」と再び頭を下げた。
*
頬を打たれて目が覚めた。
衝撃で横に向いた顔を真正面に戻すと、女性がいた。茶色に染めてごわついた髪を振り乱し、肩を上下させている。
痛くもない頬に手を当てた。腫れているのかもしれないけれど、手にも感触がなくてわからなかった。熱もない。周囲の音もない。
『 !』
女性が何か言っている。こちらを見て何かを叫んでいる。
血走った目がぎょろりとこちらを睨んで、
『 』
お前なんか産まなければ良かった。と言われたのだと思う。
蔑みと憎しみを込めた眼には、小さな男の子が写っている。
男の子――自分は叱られているらしい。自分の口が『おかあさん』と動いてようやく、この女性が母親なのだと気が付いた。
母親?
自分の母親はこんな人だったか。
微かな疑問に思考を移すけれど、途端に女性の手が振り上げられる。
避ける術はなかった。……いや、避ける気もないのだ、この体は。
ここで彼女に反抗してしまえばさらに酷いことになると、この体が知っていた。
また叩かれて、体が床に倒れる。母親は覆い被さるように膝をついて、何度も頭を叩いてきた。
『 !?』
――どうして私の言うことが聞けないの。
『 !』
――なんでそんな風に私を見るの。
声が聞こえないのに、母親の言葉がわかる。
女性らしい手で繰り返される打擲に、手足が床の上で跳ね上がった。
立ちなさいと言われたので、よろけながら立ち上がる。
ふと視線をずらすと、女性の背景に色が溢れていた。
廊下はとても綺麗で、ずっと向こうの大きな窓から日差しが射し込んでいる。両端に束ねられたベージュのカーテンも光を柔らかに含んで、心なしか満足そうだった。立ち並ぶドアは、落ち着いたダークブラウン。ずっと向こうにはお父さんの書斎があって、その隣には両親の寝室があって、その隣には――。
綺麗だなと思った瞬間、後ろに押された。
がつん、と視界がぶれる。
家具の角に頭を打ったらしい。自分はその場に頽れて、直後に頭に降ってきたのは電話の受話器だ。それはコードで親機と繋がっているから、立ち上がれない自分の肩辺りでぶらりと止まる。
ああ、電話台に当たったのかと冷静に考えた。
視界の端の受話器の黒。
少しだけ悲しかった。




