将来の伴侶、ですから
客間に通された。リビングでも自室でもなく客間。一般家庭の二階建て一軒家住みの奏多には、あまり馴染みのない響きである。友人の自室でローテーブルに座ってお勉強会という名の長話、とは違った様相だ。
背筋が勝手に伸びる。厚い座布団に一人座らされた奏多は、ひたすら友人を待っていた。お茶を淹れてきますねと言って去って行った友人は、今どのへんにいるんだろう。この大きなお屋敷のどこに台所があるんだろう。
障子戸が開け放されて見える縁側からは、立派な庭が見える。灯篭と、池と、丸く整えられた植木。ほど近いところに桜も見える。きっと専用の庭師がいるんだろう。
こんなにも人の手が入っているのに、この屋敷には人の気配がない。誰かが動いている音がしない。みやが部屋を出て、足音が遠ざかっていって、それきり。
ただただ、ひぐらしが鳴いている。
「お待たせしました」
「待ってないよーぜんぜん。おかまいなくっ」
みやがお盆を両手に持って戻ってきた。
奏多の前に、切り分けられたカステラとお茶が出された。
「高級品? 味の違いとかわかんないからコメント期待しないでね……!」
「そんなに警戒しなくても、普通のカステラですよ」
個々が言う「普通」ほどブレる言葉はないと思う。少なくとも、スカートやシャツなど外国の衣服が主流になって久しい現代、着物を日常服としているみやは――ついでに蓮見も――それだけで奏多とは違う生活スタイルなわけだ。……それがよく似合っているから、すごい。生まれの差ってやつなのかな。
奏多は添えられていたフォークでカステラを切り分けて、一口食べた。甘くてふわふわで美味しかった。
みやは手元のお茶を一口含み、こくりと飲み込んで、
「何を知りたいですか?」
奏多に尋ねる。
緊張もせず、授業中の先生のように平静な口調だった。
何を知りたいのか、何に引っ掛かっているのか。奏多はわからないことだらけで、どう言えば良いのか悩んでしまう。
「許嫁なのに、なんでこんななの?」
今の率直な疑問としては、これだろうか。
婚約者からの許可が下りないせいで、お祓いという真っ当な手段も選べないのだ。
「おかしなこと言うけど、前にみやちゃんが早退した時、変なものを見たんだよ。みやちゃんに白い手がべたーって抱き着いてた。見間違いかもしれないって思ったけど、でも」
「そうでしたか」
「っだから、だからちゃんとした方がいいんだよ。あの人は……なんかよくわかんないけど、なんか知ってるっぽかったけど、でもさ、私が巻き込んだのは本当なんだよ。何もなくたってお祓いくらいいいじゃん! でも、あの人はどうしてもダメって言うのかな?」
「ダメ、でしょうね。理由はわかりませんが」
おかしい。
奏多は目の前の友人を不気味に思う。許嫁ただ一人の一存に、理由もわからず従える人間なんて本当に存在したのか。
奏多はあの日のように視線で縋った。
「お願いだよ」
みやはあの日とは違い、頭を横に振った。
「ダメです」
きっぱりである。この屋敷の中で会った友人はたしかに友人なのに、外で会うよりも冷たい印象を受ける。
なんでと聞きたかった。
「……蓮見さまと私の関係について、お話しましょうか」
「え?」
「如月家と形栖の関係性は、実は秘密でもなんでもないんです。若い方々は関心がないとか、知識が薄れたとか、それだけのことで……。長くこの地域に住んでいるお年を召した方などは、私たちの事情をご存知ですよ」
みやは続ける。
「奏多さんは、形栖家をご存知ですか?」
「知ってるよ。ずいぶん昔からある、すごい家だって」
「ええ……、まあ、その認識で間違いはありません」
間違いではないけれど正解でもない口ぶりである。
「かつてこの地域は形栖が治めていました。それはとても酷い圧制だったと聞きます。悪名高き形栖家です」
「あくみょう」
「はい。……形栖の歴史はとても古く、千年近く前にまで遡れます。占術による政治や祈祷が一般的にも信じられていた時――裏では呪術が盛んな時代です。形栖はそういう一族でもありました。邪魔な人間を呪い殺し、民から自由を奪い、気まぐれに脅し、そういったことを続けてきたそうです」
多くの人間が骨と皮のの体にぼろきれのような着物を纏い、道端に野垂れ死ぬ。胸を押えてひゅぐひゅぐと汚い呼吸音を鳴らしながら倒れて、空に手を伸ばしながら死ぬ。口と目と鼻と耳から血液を垂れ流し、ぐるんと白目を向いて桃色の泡を吹きながら死ぬ。敷布の上で病の子供がおかあちゃんおかあちゃんと呻きながら死ぬ。
奏多はそれぞれの死因を想像した。
「そこで立ち上がったのが、当時から民衆の信頼篤かった如月家です」
みやは己の茶を一口飲んだ。
「そもそも、締め付けの厳しい形栖の領地から脱走して、如月家の方に移住する者が多かったのです。もちろん税収だって下がりますから、形栖は如月家を激しく疎んでいました。対して如月家は、形栖の行いを正そうとしました」
みやは自分の前に置いていたカステラを、皿ごと奏多に差し出した。「いいの?」と目で訊ねる奏多ににこりと微笑み、
「先に手を出したのは、やはり形栖でした」
穏やかな声だった。
「如月家の次男を呪い殺そうとして、しかし返り討ちに遭いました。呪い返しといいます。如月家もまた、そういったことが得意だった。長い冷戦と一夜の激戦の末、形栖は自力で立て直せないまでに打ちのめされてしまいました。時を同じくして、それまでの不満を爆発させた民衆が、一斉に形栖の屋敷へ踏み込みます」
息子が病で死んだ、あの人が血を吐いて死んだ、食べるものがない、お前らのせいで、お前らのせいでこの世は地獄だ。鍬や鎌や少しでも刃のついたものを手にして、どす黒い怨嗟を垂れ流しながら、民衆が一度も踏み込めなかったやんごとなきお庭を踏み荒らしていく。
この家に関わるものは猫の子一匹すら殺してやると、さながら悪鬼のような表情でその屋敷に入り――、
「その民衆の脚が止まってしまうほど、屋敷は酷い有様だったといいます」
ある男は体中の血液を穴と言う穴から垂れ流して一室にいた。
ある女は、外傷もないのに腸がすべて捻じ切れた状態で廊下に倒れていた。
上半身が池に浸かったまま動かない男もいた。池の水は真っ赤だった。
最も酷かったのは大きな祈祷場で、帯で首を吊ったり、己の目を筆の柄で突いたり、自分の頭を何度も壁に打ち付けていたり、共食いの痕跡すらあった。
それらの想像は、本当に想像なのだろうか? 友人はかいつまんだ話しかしていない。死体の状態なんて一度も口にしていない。奏多は膝の上でぎゅっと手を握った。
「呪いが返され、また呪い、狂ったように呪い、それらがすべて返されたのですから、呪術ができる者はみんな死にました。生きていたのは一人の妊婦だけです。気を取り直した民衆は、それでも妊婦を手にかけようとして、……それを止めたのが如月家です」
――親はともかく、子供に罪はないでしょう。
白い着物の、如月家の男が言った。
――しかし子供もいずれは同じになる。
民衆の一人が言った。
――そうはなりません。
――何故そう言い切れる、保証はどこにある。
――我々がそう教育いたします。
――そのようなことは信じられない。
――ではこうしましょう――。
「如月家は、形栖が決して逆らえない決まりを作りました」
如月家の正義感によるものか、別の意図があったのか、わからないのですけど。――奏多の友人は自嘲混じりに前置きをして、
「如月家が形栖の者の『忌み名』を握ること」
それは奏多の知らない文化だった。
いみな、と不思議な響きの言葉を口にしたけれど、当てられる漢字もわからない。
忌避するとか、忌むの『忌』に名前の『名』をくっ付けて忌み名です。そう説明されたが、何もわからない。奏多は「卒塔婆に掘られる戒名……?」のようなものを想像したけれど、
「それとはむしろ逆の性質かもしれません」
とのことだ。
「『忌み名』の使い方や意味は地方によって異なるでしょうが、形栖では『魂の名前』と捉えています。形栖みやは、肉体に魂が入った状態での、私の名前です。それとは別に、魂そのものにも名前を付けるのです。それは本人には知らされません」
聞きながら、奏多は再びカステラを咀嚼する、もくもくもく、ごくん。甘いはずなのに、味はよくわからなかった。
「名前は縛るものです。忌み名を知られているということは、魂を握られていることと同じなのです。それを使って命じられてしまえば、逆らえない。どんな屈辱的なことも、自殺を命じられても、きっと」
友人は言う。
「それは呪いです。けれど正しい呪いです」
如月家はそれでも正しい家柄で、形栖家はやはり悪い家柄だから、これが最適なのだと――言外に示した。
「如月家は形栖を取り潰すことなく、正しく監督しました。形栖に残っていた妊婦を如月家の長男が娶り、二人の間にも子をもうけ、それを手始めとして、その関係は脈々と続きます。形栖は如月家への追従の代わりに守られる立場となり、お互いの家が断絶しないように努め、有事の際には互いの家から嫁ぎ嫁がせ、切っても切れない関係になっていったのです」
「それじゃあ、如月家とか形栖家とか、ごちゃごちゃになっちゃわない?」
「血筋という面では、ごちゃごちゃでしょうね。今の如月家と形栖は、みんな遠い親戚に当たるかと思います」
「……てことは」
「私と蓮見さまも、従妹なのだそうです」
えっ。
思った以上に近い関係に、奏多は口を「え」にして固まった。
そんな奏多を置き去りにして、友人は話を続ける。
時代の移り変わりと共に、両家の呪術が廃れていきました。忌み名を知られる範囲も徐々に絞られ、夫婦間のものになり――。
「だから蓮見さまは、」
そこで初めて、友人の声が揺れた。
「彼は、私の忌み名を握っています」
――将来の伴侶ですから。
*
客間は玄関からほど近いところにあったから、屋敷探検もできなかった。行きと帰りで通路を通るたび、それとなく周囲を見ていたけれど、廊下はまだまだ先に続いていそうだった。
外に出ると、夕日も沈みきっていた。
もう夜かと呟いたら、友人から「黄昏時よりは良いですよ」とずれた慰めをもらった。オカルト好きとしてわからなくもない返答だったけれど、友人が言うと途端に現実味を帯びてくる。
奏多は、開けられた引き戸を通って外に出ると、最後に挨拶でもと振り返った。
友人が立っている。
旅館みたいな広い玄関で、ぽつんと。
結局、この屋敷で友人以外の人間を見たのは一度だけだった。ここに来てすぐ、如月蓮見に喧嘩を売られた――と解釈している――時だ。
奏多さんが来る前に帰りましたが、日中にはお手伝いさんも二人いるし、寂しいこともありませんよ。なんて言われても、学生が家にいる時間帯なんて夕方から朝にかけてだ。その間は結局あの許嫁と二人きりになるわけで、この屋敷には二人以外誰もいなくなるわけで。
二人とも、騒ぐ性格ではないだろうし。
本当にこの友人は、わたしと出会うまでどう生きていたんだろう。なんて、奏多は思う。
そして。
一つだけ、友人に言い忘れていたことがあった。
友人の話を聞いて、お祓いに応じられない理由はわからなかったけれど、友人がどうしても許嫁に逆らえない件については理解した。それはとても気が滅入る話で、奏多が蓮見に突っかからなければ、友人も話すつもりはなかったのだろう。
だからこれは、そのお返しのつもりだった。
「わたしのことも、ちょっとだけ教えてあげるね」
両親と教師にしか話していなかったこと。
そしてそのどちらもに否定され続けたこと。
「宇宙飛行士になりたいの」
「……それはまた、大きな夢ですね」
「子供っぽいでしょ? よく言われるの。高校生にもなって現実を見てないって、ちゃんとしなさいって」
奏多は笑いながら「でもいいよね。まだ子供だし」と開き直ってしまう。
「宇宙飛行士になるって思い始めたのは、いつからだったかな。忘れちゃったけど、でも、星は好きだから。これでも成績いいしさ。周りに言うと絶対馬鹿にされちゃうから、秘密ねっ!」
そして背を向けて走っていく。言い逃げというやつだ。背後で綺麗な着物の友人が袖を押さえて手を振ってくれているのだろうと思いながら、正門まで距離のある道を進む。
玄関から正門までの道が神社の参道みたいだ。門のど真ん中を行かず、なるべく端に寄ってしまう。
門を出てすぐに、
「ねえ」
「ひっ!?」
声をかけられて、足が止まった。
如月蓮見が、門の横に背を預けていた。奏多がここを通るのを待っていたのだろう。暇なのかな。
彼とは第一印象からして最悪なので、声をかけられるなんて予想外も予想外だ。困惑する奏多に構わず、蓮見は訊ねる。
「みやは、学校で元気にしてる?」
母親か。
そう言いたくなるけれど、賢明な奏多は冷静な返答に努める。
「ええ、まあ普通です。虐めとかないし、普通にいい子だし」
「そっか。良かった」
じじじじじ。蝉の生き残りがどこかで鳴いている。
蓮見は壁から背を離したが、それ以上の動きはない。
「君は、随分みやに好かれているみたいだね」
「そうなんですか」
「そうだよ。あの子が俺の言い付けに従わなかったのは初めてだから」
蓮見はまあ無理もないかと一人ごちて、
「友人がいるのは喜ぶべきだ」
まったく喜んでいなさそうに吐き捨てた。
自分はこの人に嫌われているんだろうと奏多は思う。けれどそれがどうした、自分はみやちゃんの友人だぞ。意味もなく強気になるけれど、その友人のためを思えば、ここで無意味に反抗するのも悪手だろう。
しゃらくせえ。
奏多は蓮見を睨む。
「みやちゃんと、そういうお話はしないんですね」
避けられてるんだって解ってる?
奏多が遠回しに皮肉ると蓮見はあっさり頷いて、
「まあね。嫌われてるし」
どうやら自覚はあるらしい。
「自分が彼女に嫌われていることくらい、わかっているさ」
自分に言い聞かせる声は優しくて、内容に対してちぐはぐだ。喜ぶべきところを喜んでいなかったり、彼の台詞と声色が合っていない。一筋縄ではいかないというか、捻くれている。
友人が言った通り、噂ほど優しくはない。そして付け加えるなら、たぶんちょっと不器用だ。
「俺の学校とそっちの学校は隣にあるだろう? だから防犯的な意味で、登下校も一緒にしたいところなんだよ。どうせ帰る家は一緒なんだし。でも俺は嫌われてるからそれも強要できないし。……心配だったけど、友達がいるなら、まあいいかなって。だから、」
「だから?」
「今回のことは腹立たしい」
その件についてはひたすら謝るしかない。
申し訳ございません私の軽率な行動で形栖みやさんを危険に巻き込んでしまい、あまつさえ得体の知れない何者かの手も及んでしまっていることは私としても大変に重く受け止めております。大変に申し訳ありませんが今一度、みやさんのお祓いについてご再考願えませんでしょうか。
すげなく断られて、奏多はとぼとぼ帰路を行く。
空を見上げると、星が点々と見えていた。
――昔ほど、綺麗じゃないな。
眼鏡のレンズがあれば見えはするけれど、肉眼と違ってしまう。薄い硝子一枚分の差が途方もなく大きく見えて、遮られてしまったようだ。この眼鏡は、夢のためにたくさん勉強して、夢に近づく努力の結果だと言うのに。
――やっぱり、コンタクトにしよっかな。
画用紙いっぱいの夢が、いつからこんなに味気なくなってしまったんだろう。




