三
有希は、無言で手に持つ写真立てをそっと男に返した。男もまた、黙ってそれを受け取り、元の場所へと戻した。
絵の少女を見つめながら男は言った。
「仕事が軌道に乗り始めた俺は、ここらで一発大きな花火を上げてやろうと考えた。日本人は勿論、世界中の誰もが足を踏み入れたことのない集落に、カメラを持ち込もうとしたんだ。それが、この子供がいた村だった」
「独りで行ったの?」
「いや、現地のガイドと一緒だ。ところがそのガイド、日本語どころか英語もまともに話せねぇ奴でな、往生したよ」
男は軽く苦笑し、続けた。
「森の中、道なき道を鉈で切り拓きながら進むこと三日。俺たちは漸く集落の近くまで辿り着いた。五十メートルほど先に、村の入り口を見ることが出来る場所だ。木の陰に潜んで様子を窺うと、二十人ほどの村人が、入口付近で何やらがやがやとやっているようだった。俺は、そちらへと歩き出そうとした。だが、それをガイドは止めやがった。それこそ必死の形相で、俺の腕を引っ張るんだ」
「何があったの?」
「詳しくは分からねぇ。何しろ現地語しか話せねぇガイドだからな。まぁ、それでも、知っている単語を繋ぎ合わせ、俺を引き止めようとしている理由だけは推理出来た」
「何て言っていたの?」
「村へは行くな。殺されるぞ。忘れていたが、今日は女の処刑から十日目、刑の仕上げの日だ。……そんな感じだった」
「刑の、仕上げ……」
不気味な言い回しに、有希は唾を呑んだ。
「あぁ。それでそのガイド、仕舞いには、これ以上村に近づくのなら帰るなどと言いやがる。俺は村人との接触を諦めることにした。もしガイドに帰られたら、死ぬまで森を彷徨い続けることになっちまうからな」
「じゃあ、そのまま引き上げたの?」
「冗談じゃねぇ。そこに行き着くだけでも大変だったんだぞ。何の収穫もなく帰れるものか。仕方ねぇから、その場から写真だけでも撮ることにした」
「え? 村の入口までは、五十メートルも離れているんでしょう?」
「そこは長玉……、あ、えぇと、望遠レンズを使うんだ」
「重いの?」
「レンズ込みで約五キロってところだ。手持ちで撮れねぇ重さじゃねぇが、その時は三脚を使った」
「村の人、何をしていたのか分かった?」
「あぁ。暫くファインダーを覗いていると、先にいた奴らとは別の二人が、大きな麻袋を運んで来た。その途端、村人たちは大騒ぎだ。どでかい歓声が上がる中で、二人は設置された木製の台の上に立ち、麻袋を開いた。中身が気になった俺は、思わずそちらにピントを合わせちまった」
「袋には、何が入っていたの?」
「土左衛門だ」
「ドラえもん?」
「違う。それは子どもに夢を与えるネコ型ロボットだろうが。俺が言っているのは、土左衛門。土左衛門に夢はねぇよ。何せ、水死体のことだからな」
「……水死体」
「あぁ。水を吸って膨れ上がった水死体が、成瀬川土左衛門という江戸時代の太った力士に似てるってんでそう呼ばれるようになったんだ。まったく、力士にとってはいい迷惑だよな。まぁ、俺が見た水死体も似たようなもんだった。まだ若い女だったのに、顔まで西瓜みてぇに膨らんじまってよ。可哀相にな」
「西瓜。それって……」有希の頭の中で、男の語る水死体と絵画に描かれた生首とが繋がった。
「じゃあ、その後、女の人の首は……」先の展開が読めた有希は、慌てて男の話を止めようとした。
だが、それよりも一瞬早く、男の方が口を開いた。
「村人が見物する中で、二人の男の片方が斧を手に取った。それから、台上に寝かせた女の首目掛けて、それを振り降ろした」
「ひっ!」
息を呑み、思わず有希は目を閉じた。
だが、それに構うことなく、男は続けた。
「男が切り落とした女の首を高々と掲げると、村人の歓声は更にでかくなった。そこに、もう片方の男が、引き摺るようにしながら裸の子供を台へと連れて来た。人形みてぇに生気が感じられねぇ、無表情な子だった。だが、男から生首を渡されたその瞬間だけ、心から悲しそうな顔をした。大事そうに生首を胸に抱く子どもに何かを告げると、男たちは台から下りた。子どもは、暫く仏像みてぇに固まっていたが、やがてゆっくりと生首を頭に乗せると、虚ろな顔のまま、踊り始めた」
「……」
「何故、女は死に、首まで切られなければならなかったのか? 何故、子供は台に上げられたのか? 何故、その子は頭に生首を乗せて踊るのか? 分からねぇことだらけの中で、俺には分かっていたことがひとつだけあった。それは、この現状をカメラに記録しなければならない、ということだ。俺は、踊る子供にピントを合わせた」
「……」
黙って話を聞く有希の前で、男は一度深く息を吐いた。血色のない顔。その額には、三月のこの時期にしては不釣り合いな大粒の汗が浮かんでいた。
「指をかけ、シャッターを切ろうとしたその時だ。ファインダー越しに、俺と子供の目が合った。……いや、実際は遠く離れているんだからそんなことは有り得ねぇんだが、そう思ったんだ。子供の目は、助けを求めるでも写真を撮るのを咎めるでもなく、ただ、こちらを向いていた。全てを諦めた“無の眼差し”でな」
「……」
「その目を見た俺は、シャッターを切るタイミングを完全に逃した。そのまま黙ってカメラを片づけると、踊り続けている子供に背を向け、森を後にした。その日を境に、俺はシャッターを切れなくなった。ファインダーを覗く度に、あの子どもの“無の眼差し”が、瞼に浮かぶようになっちまったんだ。シャッターが切れねぇカメラマンは、カメラマンでいる資格はねぇ。俺は、カメラを捨てた。そして、選ぶ余地なく、今の絵描きになったんだ」
「選ぶ余地なく?」
久方振りに有希が口を開き、そう尋ねた。
「あの時の子どもの姿を、目を、どうしても残しておきたくてな。だが、カメラは無理だ。となると、俺には絵しかねぇ。カメラを捨てた俺には、もう、絵しか残されてなかったんだ。選ぶ余地なく、ってのは、そういう意味だ。子供の絵を写真と同じ大きさにしたのは、哀れなカメラマンとしての、最後の意地ってやつよ」
寂しそうに男は笑った。
「一人の女の子が、おじさんの人生を変えたのね」
そう呟くと、有希は写真立てに目を遣った。
「そうだ。……で、後からガイドに聞いた話だが、女は村の掟に背いたんで、沼に沈められて殺されたんだそうだ。それからそのまま十日間。俺がそこを訪れた日まで、放置されてたって訳よ」
「女の子は、何故、台の上に?」
「あの子は、処刑された女の娘だった。それで、台の上にいた男から、母親の生首を頭に乗せて踊らなければ同じ目に遭わせる、と脅されたらしい」
「だから、踊った」
「あぁ。だが、そればかりは飽く迄もガイドの推測なんで、真実は分からねぇがな」
「そうなの」
多分、ガイドの話は正しかろう。そう思い、有希は遣り切れなさを吐息と共に漏らした。
「まぁ、何にせよ、あの後、あの子供も殺されちまったんだろうな。あれは、助かる雰囲気じゃなかったからな」
遠い目をしながら、男が力なく言った。
有希とて、それを感じなかった訳ではない。しかし、敢えてこう返答した。
「その女の子、私は生きていると思うな」
それは、少女の為の祈りというよりは、男への励ましであった。
「本当か? 本当にそう思うか?」
大きく身を乗り出し、男は有希に尋ねた。
「うん」
男を真っ直ぐに見つめ、有希は頷いた。
「何故、分かるんだ?」
男が問うと、有希は、右の手を自らの首元へと遣り、科を作って答えた。
「女の勘、よ」
似合わぬその仕種が可笑しく、思わず男は吹き出した。
「何よ。失礼な人ね」
有希が怒る。
「いや、悪い。だが、そうだな。俺も信じてみることにするよ。お前の、女の勘ってやつを」
男は淡く笑った。
有希もそれに微笑み返した。それから彼女は、その瞳を宙へと向けて言った。
「それがいいよ。きっとその女の子も、今では大人になって、この空の下で笑ってる」
「そうだな」
男も有希に倣って空を見上げた。
そのまま二人は、暫く天を仰いだ。
やがて、ふと男が呟いた。
「空、……か」
「ん? どうしたの?」
「いや、空を見ていて思い出したんだが、実は、お前にぴったりの絵が……」
「買わないよ!」
途中で即答する有希に、男は首を横に振った。
「とんでもねぇ。前に言っただろう? お前に絵を買ってもらうのは諦めた、って。その上、励ます積もりが逆に励まされたんだ。そんなお前に絵を売るなんて真似は出来ねぇ。だからこれは、俺からのせめてもの礼だ」
「お礼?」
「そうだ」
男は、並ぶ絵画の中から一点を有希の前に出した。
それは、半尋ほどの横長のカンバスに描かれた、晴れ渡る空を舞う一羽の鳥の絵だった。
「この絵を、私に?」
「あぁ。タイトルは、『春空を舞うライの鳥』だ」
飛ぶ鳥を指し示し告げる男に、有希は聞いた。
「ライの鳥って、ひょっとして、ライチョウのこと?」
「ほう、よく知っていたな」
「ライチョウぐらい私でも知ってるよ。見たことはないけど……。ねぇ、実際もこんな色をしているの?」
有希は描かれたライチョウに目を落とした。
「春はこれと同じで白地に黒が混ざったような色だ。だが、鳥類は換羽するからな。ライチョウの場合は、冬は白、夏は褐色に羽毛が生え換わる」
「成程。じゃあ、このライチョウは、褐色になる途中って訳ね。……それで、どうしてこの絵が私にぴったりなの?」
有希は男へと視線を移した。
「それは、ライチョウって鳥が、今のお前にそっくりだからだ」
「ライチョウと私が、似てる?」
有希は、もう一度絵に目を向けた。似ているとはとても思えない。
困惑する彼女に、男は言った。
「見た目じゃねぇよ、中身だ」
「中身? 中身って、性格のこと?」
「そうだ。ライチョウは、雷の鳥、“雷鳥”と書くように、嵐のような悪天候の日しか空を飛ばねぇんだ」
「何故?」
「臆病だからと言われている。外敵を避ける為に天気の悪い日を選んで空を飛ぶ、ってな」
「え? ちょっと待って。そのライチョウと私が似てるの? それって、つまり、私が臆病だってこと? ……まぁ、そうかも知れないけどさ」
拗ねた顔をする有希に、男は首を横に振った。
「いや、そうじゃねぇよ。寧ろ逆だ。俺は、本当はライチョウは勇敢なんじゃねぇかと思っている。他の鳥が怖がるような悪天候の日に、空を飛ぶんだからな。そして、仮にそうだとしたら、更にもう一歩踏み出しさえすれば、春空を天高く舞うことも出来るんじゃねぇか、ってな」
「だから、この絵を?」
「あぁ、そうだ。もう気づいたと思うが、この絵は言わば嘘絵だ。晴れの日に、ライチョウは空を飛ばないからな。でもな、俺はお前に、この嘘絵を本物にして欲しいと思っている。行く先は確かに茨の道かも知れねぇが、恐れず進んで行って欲しいってな」
男はにんまりと笑った。
「有り難う」
「あ、それとな、ライチョウの表記には、もうひとつ別の漢字があって、幸せが来るって意味で、“来鳥”とも書くんだ。信心など俺にはねぇが、今回ばかりは、お前に幸せが来ることを祈ってるよ」
男の言葉に、有希は、
「大丈夫よ。幸せが来ないんだったら、自分から掴みに行くから。このライチョウみたいに」
と、絵を手に取って微笑んだ。
「そうか。強く生きろよ」
「うん。有り難う、おじさん」
朗らかな礼と共に有希は立ち上がった。
「あぁ、元気でな」
「うん、おじさんも」
長いこと座っていた座布団を男に返し、有希が大事そうに絵画を抱えて歩き出す。
そんな彼女の姿を公園から消えるまで見届けると、男は、喫み掛けだった煙草を携帯灰皿から取り出して火を点けた。
煙草から出る紫煙は、間もなく訪れる春を待ち侘びるかのように、晩冬の青空へと真っ直ぐに上って行った。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
ブログ1周年記念掲載、『春空を舞うライの鳥のように』、以上で完結です。
これからも、ブログに小説投稿にと、できる範囲で続けていきたいと考えていますので、よろしくお願い申し上げます。
なお、以下、11作目のご案内です。
11作目は、『MC』というタイトルの小説を投稿しようと考えております。
本日より3日後の9月25日にプロローグ投稿を行いますので、そちらも、過去作同様、ご贔屓いただければ幸いです。
それでは、ブログ『不惑+1 直井 倖之進の日常』を訪問くださっている皆さん、小説をお読みいただいている皆さん、全ての方々に感謝申し上げ、10作目『春空を舞うライの鳥のように』の幕とさせていただきます。ありがとうございました!




