二
黙って耳を傾ける男に、有希は身の上を包み隠さず話した。
アルバイトを始めた頃のこと。最初は日数や時間に余裕があったのに、先方の都合で忙しくなってしまったこと。それが、延いては留年という最悪の事態を生じさせてしまったこと。留年決定後に、父親から「両立が無理なら、高校かバイトのどちらかを辞めろ」と言われたこと。決して遊びにかまけての留年ではないことも、無論、忘れずに釘を刺した。
有希の語りを仕舞いまで聞くと、男はさらりと所感を述べた。
「何だ。とどのつまりは、お前が悪いんじゃねぇか。人様の為に無理をして、肝心の自分が不幸になってたんじゃ世話ねぇな」
「……」
有希は、返す言葉もなく俯いた。
そんな彼女に、男が聞く。
「……で、どうするんだ?」
「え?」
有希は顔を上げた。
「え、じゃねぇよ。人間、生きている限りは、前向いて歩かなくちゃならねぇだろうが。これから先、どうするんだ?」
「……」
有希は再び黙り込んだ。「どうするんだ?」などと聞かれても困るのである。それが分からぬ故、ベンチで長嘆息していていたのだから。暗中に在りながら模索さえできぬ現状では、先のことなど見えよう筈がないではないか。
とはいえ、いつまでもこのままという訳にはいかぬ現実も、重々承知している有希だ。
そこで、彼女は、藁にも縋る思いで男に教えを乞うた。
「ねぇ、おじさん。私、どうすればいいのかな?」
男は、冷然たる態度でひと言だけ返した。
「……さぁな」
この返答、いつもの有希ならば、「人のことを根掘り葉掘り聞いたくせに、随分と薄情じゃない?」と、悪態のひとつも吐くところだ。だが、目下、先のことに一家言ありそうな大人は、「これから先、どうするんだ?」と聞いてくれた目の前の男だけだ。そこで、悪口は胸の内にてのみで留め置き、彼女は独りごとのように問いを続けた。
「バイト、辞めるべきなのかな?」
すると、男は、これにはきちんと答えた。
「辞めちまっていいのか? 折角、職場で頼られるようにまでなっているんだろう? それに、四月からの高校は今までとは違うぞ。同級生が全員、先輩になっちまうんだからな」
確かに、一理ある。ふむふむと頷くと、有希は更に続けた。
「じゃあ、高校を辞めた方がいいのかな?」
これにも男は答えた。
「大学全入時代と言われているこの時世で、高校中退って肩書きは、決していいもんじゃねぇだろうな。大体、十代のバイトに頼らなきゃならねぇ会社なんぞ、年々子どもの数が減っている今、先が知れてるだろう。その上、いつ終わるとも知れないこの不景気だ。向こう一、二年の間に倒産なんてことも、無いとは言えねぇ話だぞ」
成程、これも一理ある。ほうほうと納得しかけた有希だったが、ここであることに気がついた。
「ねぇ、ちょっと待ってよ。それって、どちらを選んでも駄目ってことじゃないの」
「いや、そうじゃねぇ」
男は首を振った。
「どういうこと?」
「どちらを選んでも駄目、という訳じゃなく、留年した時点、……いや、それ以前の、増えだしたバイトをお前が断らなかった時点で既に駄目だったんだ。この段まで来ちまったら、もう遅ぇよ。どう足搔いたって多少の傷は避けられねぇ。成る丈、それが浅くて済みそうな道を選ぶんだな」
「傷」その言葉に、有希の胸がちくりと痛んだ。人生のレールを踏み外したことは疾うに自覚していたが、自覚と他者に指摘されるのとでは、その重さが違うのである。
「バイトと学校、どっちを辞めた方が、傷が浅くて済むのかな?」
侘しげな顔をする有希に、男は、
「……さぁな」
と、先と同じ返事をした。
だが、些少なりとも関わりを持った若者が、旧態依然たる姿でしょぼたれているのに、それを鮸膠もなく放置するのは流石に忍びないと感じたか、続けてこうも言った。
「まぁ、どちらを選ぼうが、選択肢がある内は心配無用だ。安心しろ」
「どうして?」
有希が首を傾げた。
「昔から決まってんだよ。地獄に堕ちる手前は、別れなき一本路ってな。だから、選べる自由がある時は、まだ先があるってことだ」
そう断言すると、男は口角を僅かに上げた。
有希には男のそれが作り笑いだと直ぐに分かった。「選んだ道の先のどちらもが、地獄に続く一本路だという可能性もある」そう思ったからである。
しかし、それでも有希は男の言葉を信じてみることにした。仮令それが愛想であっても、自分の為に笑ってくれた。そんな男の情が、深く骨身に沁みたのである。
「有り難う。どちらを選んでも茨の道みたいだけど、それでも私、ゆっくり考えてみることにするよ」
有希は淡い笑みを浮かべた。それは、男同様、酷く下手糞な作り笑いであった。
「そうだな。春が来るまでにはまだ間がある。同級生を先輩と呼ぶのか、福利厚生もまともにないバイトにしがみついて生きて行くのか。しっかりと悩んでみるといい」
身も蓋もない励ましに、有希は思わず苦笑した。と同時に、男の言葉の中に耳慣れぬ単語が含まれていたことにも気づき、彼女はそれを尋ねた。
「ねぇ、おじさん。“ふくりこうせい”って、何?」
すると、弾けたように男は笑いだした。
「お前、そんなことも知らずに、仕事をしている気になっていたのか?」
「いいじゃない、別に……」
有希は冠を曲げたが、それでも男は笑っていた。此度の笑いは、本物だ。
そして、そのまま一頻り笑い続けた後、男は、急に真顔になって言った。
「やっぱり、お前は大丈夫だ」
「何故よ?」
突っ慳貪に有希はそう聞いた。
「どちらを選ぼうが、お前には、進む道の先に学ぶことがあるみてぇだからな」
「……」
今ひとつ男の意が掴めず、有希は閉口した。
そんな彼女の表情を見取り、男は言葉を足した。
「まぁ、今は分からなくても構わねぇよ」
確かに、男の言っていることは理解出来なかった。だが、妙に自信ありげなその顔に、根拠の無い安心を覚えた有希は、
「兎に角、私、大丈夫なのね。おじさんのお陰で、少し気が楽になったよ」
と、その頭を下げた。
「そうか。それは何よりだ」
男は少し照れたように有希から視線を逸らした。
過ぎてしまった年月を取り戻すことはできない。しかし、未来は未知数だ。つまり、本人の在り方次第で、先は如何様にでも変化させることができる。
「じゃあ、私、行くね」
そう告げ、有希がその場に立ち上がろうとする。
そこに、
「お、おい! ちょっと待て!」
慌てた様子で男がそれを止めた。
「どうしたの?」
座り直しながら問う有希を、真っ直ぐに見つめて男は言った。
「お前、絵、買わないのか?」
「はあ!」
有希はあんぐりと口を開けた。
「あれだけ話を聞いてやったのに、買わずに帰るのか?」
「はあ?」
有希の呆れ声が、公園中に響いた。
「お前、ここで何も買わずに帰るのは、人でなしってもんだぞ」
「人でなしだなんて、そんな……。ちゃんとお礼は言ったでしょう?」
「言葉の礼で腹が膨れるのなら、経読む度に人様から頭下げられている坊主は、ずっと満腹の筈だろうが。腹膨らせるには金が要るんだ。礼は言葉じゃなくて金。そうでないと、坊主も俺も生きちゃ行けねぇんだよ」
筋の通らぬ男の屁理屈に、相手をするのが面倒になった有希は、
「分かった、分かった。買うわよ。買えばいいんでしょう、買えば。煩いなぁ、もう」
と、ブルーシートに視線を落とした。
「そうか。では、ゆっくりと選んでくれ」
絵を見始めた有希に満足すると、男は徐に懐から煙草を取り出し、火を点けた。
既に切歯扼腕の思いであった有希は、男の態度にとうとう堪忍袋の緒が切れた。
どうにか遣り込めねば気が済まぬ。そう考えた彼女は、じとりと男を睨んで口を開いた。
「ねぇ、おじさん。この公園、禁煙なんだけど」
すると男は、
「おっと、これは失礼」
とにやり微笑み、別段悪怯れる様子もなく更に深く一服してから、喫みかけの煙草を携帯灰皿に入れた。
この時、有希は、厚顔無恥な大人に敵う者は此の世に無いのだということを知った。それと同時に、こんな大人にだけは決してなるまい、そう強く心に誓った。
これ以上この男には関わらぬ方が身の為だ。そう判断した有希は、さっさと購入する絵を決めることにした。
有希としては認めたくはないのだが、何度見ても男の絵はどれも素晴らしかった。
「この人の絵が売れないのは、きっと性格のせいね」そんな嫌味を胸中にて独りごちると、有希は、並ぶ二十点ほどの絵画の中で、最も安価であろう物を探した。
ブルーシートの隅々にまで目を走らせ、やがてそれは見つかった。
その絵は、男の近く、有希から見て右手奥に、写真立てに入れられていた。客ではなく男の方を向いているのが気になるが、写真立てに入るほどに小さいのだから恐らくは廉価であろう。
迷わずそれを引き掴むと、描かれた絵を確認することもなく有希は言った。
「おじさん。これ、頂戴」
「お、決まったか」
嬉しそうに男は、有希が手にした物に目を遣った。
……が、すぐに、
「済まねぇ。それは、売りもんじゃねぇんだ」
と、首を横に振った。
「え? 何故? ……あ、分かった。この絵は安いから他のを買わせようって魂胆でしょう? でも、駄目よ。私は、これを買うって決めたんだから」
したりとばかりに強気に出る有希に、男は答えた。
「それなら、仕方ねぇ。お前に絵を買ってもらうのは諦めた。そいつだけは、幾ら金を積まれても売れねぇんだ」
「そんなに、想い入れがある絵なの?」
有希が手に持つ写真立てに視線を落とす。
「……何、これ」
思わず彼女は、そう言葉を洩らしていた。
そこに描かれていた絵は、ブルーシート上の他の作品と比べて、明らかに異質だった。同じ男の手によるものだとは思えない。ひと言で表現するならば、「気味が悪い絵」であった。
水彩画でありながら、油絵と見紛うほどに厚みのある色彩。背景は、乾いた藻を思わせる黒に近い深緑である。中央には、朝礼台を大きくしたような木製の台で踊る六、七歳の裸の少女。頭の上に西瓜のほどの大きさの球体を乗せている。少女の表情は虚ろだが、その瞳の焦点は、しっかりとこちらに合っていた。
男が尋ねた。
「その絵、気になるか?」
「う、うん」
有希が正直に頷くと、男は、一度深く呼吸をし、語り始めた。
「もう十八年ばかり前の話だ。当時、芸術大学の四年生だった俺は、ガキの時分から趣味にしていた写真で飯を食って行こうと、カメラマンを目指していた」
「え? 画家じゃなくて?」
並ぶ絵画を指差す有希に、男は、
「あぁ。絵は嫌いじゃなかったが……」
と答え、続けた。
「希望は、報道カメラマンだった。政財界の悪事をすっぱ抜く。そんな仕事に憧れていたんだ。だが、現実は甘くねぇ。経験も実績も皆無。そんな俺を受け入れてくれる新聞社や雑誌社は何処にもなかった。だからと言って、他の仕事に就く気もない。最終的に、俺は、フリーでやって行く道を選んだ」
「フリーのカメラマンかぁ。恰好いいね」
「何を言ってやがる。本来、フリーってのは、何処かの専属で十分な実績を上げるか、何かの賞で名声を手に入れてからなるもんだ。そうじゃねぇと、肝心の仕事が来ねぇんだ。仕事の無ぇフリーカメラマンなんざ、そこいらのカメラ小僧と同じよ」
「へぇ。厳しい世界なのね。それで?」
「俺は、被災地や貧困国の実情を写真に記録し、発信する道を選んだ。カメラを担いで、世界中を渡り歩いたんだ」
「それって、戦場カメラマンと似てるの?」
「ん? あぁ、そうだな。赴く場所は違うが、同じドキュメンタリーだから似てなくもない」
「どんな国に行ったの?」
「それこそ、あちこちだ。他の同業者が危険だと足を踏み入れない場所にこそ、俺の飯のタネは落ちてるんだからな。多かったのは、西アジアの山中。それと、中央アフリカに南アフリカ。エボラ出血熱の発生地域や住人の約半数がHIV感染者の村、カニバリズムが残るという集落に足を踏み入れたこともあった」
「カニバリズム?」
「食人風習のことだ」
「し、食人」
有希は声を震わせた。
「まぁ、俺が訪れた集落では、生活に根付いた風習と言うより、特別な儀式的な意味合いで行われているようだったが……」
「今でもあるの?」
有希の問いに、男は、
「……さぁな」
と返した。その返事は、「興味がない」というよりは、「知りたくない」という気持ちの表われのようだった。
「そう」
何と言いようもなく、有希は、相槌だけを打った。
男は、話を進めた。
「そうやって、普通に生活していては見え辛い世界の実情をカメラに収め、新聞や雑誌に売り込む。これは俺に合っていたようでな、仕事としては、それなりに上手く行った。大手から声が掛かるか、その前に個展でも開くか。そんな馬鹿な妄想を膨らませていたのもその頃だ。ところが……」
ここで一度言葉を切り、男は、有希の手にある写真立てに向けて顎を杓った。
「そんな折、その子供を見ちまった。その日を境に、俺の人生は大きく変わったんだ」
示されるまま、有希は写真立てに目を落とした。西瓜のような物を頭に乗せた裸の少女は、変わらぬ虚ろな表情でこちらを見ている。
「この子が、おじさんの人生を?」
そう尋ねる有希に、男は小さく頷いた。
「あぁ。想像出来ないか?」
「うん。だって、この子、踊っているだけでしょう? 楽しくはなさそうだけど……」
「踊っているだけ、か。お前、その子供が頭に乗せている物、何だか分かるか?」
「え? 西瓜でしょう?」
「よく見てみろ」
男に促され、有希は、少女の頭に乗る球体を注視した。
有希がそれを西瓜だと判断したのは、黒い縞模様があったからだった。だが、よくよく見るとその縞は、縞ではなかった。それは目と毛。人間の両眼と髪の毛だった。
「これって……」
繋ぐ言葉は喉元にあれども、それを出すことを躊躇う有希に、男が代わりに答えた。
「あぁ、生首だ」