一
ご訪問、ありがとうございます。直井 倖之進です。
初めに、全3回となる投稿の予定時間のご案内を。
続く第二話は、本日午後1時から2時。完結を迎える第三話は、本日午後4時から5時の間で投稿することになると思います。よろしくお願いいたします。
それでは、本編をどうぞ。
枕に顔を埋め、翌朝腫れる瞼の心配さえも忘れて慟哭した晩、有希は決まって同じ夢を見る。今より遡ること、干支でひとつ分。幼稚園のウサギ組に在籍していた頃のことを思い出すのだ。
教室で積み木を積む幼き日の有希。数にして六つを背丈ほどの高さにまで積み重ねた後、横を向いて一度大きく息を吐く。七つ目。これで最後との証に三角形の積み木を掴むと、両の眼を中央に寄せ、震える手でそれを天辺に置いた。
積み木は、葉風に吹かれる弥次郎兵衛のように小さく揺れていたが、やがて直立した。真剣な顔を続けていた有希に、漸く安堵と満足を和した笑みが浮かんだ。
しかし、それは寸陰と持たなかった。悪戯好きの男児、安雄が、横より足を出してこれを蹴り倒したのである。有希の忍耐力と集中力の結晶とも言える七段の塔は、脆くも崩れ落ちた。
茫然と立ち尽くす有希を、
「へへん」
安雄が嘲笑した。
有希は身を震わさんばかりの怒りを覚えたが、かような挑発に乗るほど愚かな園児ではない。一瞥安雄に白眼を呉れてやると、その視線の流れのままに、今度は周囲を見回した。この傍若無人なる悪餓鬼に、仕置き為すことの適う人物を探し始めたのである。
仕置き人は難無く見つかった。担任の美月だ。
肺の奥深くまで息を吸い入れると、有希は声を張り上げた。
「先生! 美月せんせーい! 安雄君がぁ、安雄君がぁ」
尋常ならざる大声を耳に入れ、血相を変えて美月が飛んで来た。
「有希ちゃん、どうしたの?」
そう美月が問うと、有希は円らな瞳いっぱいに涙を浮かべ、嗚咽交じりに答えた。
「安雄君が、意地悪して、私の積み木を倒したの」
大仰な呼び付けのその実が、些些たる揉め事であったことにひと先ず安心したのであろうか、美月は頬を僅かに緩ませた。だが、目の前に泣いている受け持ちの園児がいる限り、その件は解決しておかねばならない。彼女は、直ぐに教諭としての厳しい表情に戻り、
「ねぇ、安雄君。有希ちゃんの言ったこと、本当なの?」
と、安雄に尋ねた。
安雄は、水揚げされた河豚のように口をパクパクとさせ、目を泳がせた。先刻までの威勢は鳴りを潜め、返答さえ出来ない有り様だ。
「うふふ。いい気味」有希は、心の中で北叟笑んだ。それと共に、愚者なる安雄と同じ土俵に立つことなく、早くに解決を美月に委ねた己の利発さを誇りに思った。
物言わぬ安雄に業を煮やし、美月が再び口を開いた。
「有希ちゃんの積み木を意地悪して崩したの? どうなの?」
最早、白旗を上げるより他に打つ手なしと察したか、安雄は、
「う、……うん」
と頷いた。
悪戯を為す子にとって、教師に告げ口されることは、まさにアルティメットウェポンを使用されるに等しき意味合いを持つのである。
有希の最終兵器美月は、安雄に告げた。
「じゃあ、有希ちゃんに謝りなさい」
「うん」
素直に返事をすると、安雄は有希の前に立ち、
「御免なさい」
と、その頭を下げた。
「分かればいいのよ」
有希は、胸の内にて湧き上がる完全勝利の味を噛み締めながらそう言った。無論、許そうなどという気は、爪の先ほどもなかった。ただ、大人世界で、「よいお日和で」と挨拶されれば、「左様で御座いますねぇ」と答えるように、子供世界では、謝罪には赦免の弁を以て返すが習いにて、そうしたまでだ。
二人の遣り取りから一応の落着を判断した美月は、
「安雄君。悪戯なんてしないで、仲よく遊びなさいね」
と、詰めの指導を施した。
こうして有希は、再び安心して積み木を積むことが出来るようになった。
暫し後。一段、また一段と、初手より丁寧に積み直し始める有希。周囲に安雄と美月の姿はもうない。
まだ見ぬ八段重ねの塔を目指しながら、有希は、積み木を積み続けるのだった。
今では夢に見るだけの遠き思い出となったこの日の出来事により、有希はひとつ学習した。仮令どんな困難や災いに見舞われようとも、泣きさえすれば周囲の大人がこれを解決してくれる。そう知ったのである。そして、それは終生とまでは言わずとも、せめて自分が大人になるまでは続くものなのだと思っていた。
ところが……。
今年、晩冬より春の兆し見えだした三月の初旬。
駅前の通りを直進し、大半が鎧戸を下ろす商店街を抜け、どん詰まりに位置する水の出ない名ばかりの噴水公園。その隅に置かれた小さなベンチに、有希は座っていた。
田舎町で平日昼間となれば、公園を訪れる者など稀だ。今日とてそれは変わりなく、有希の他には、中央の噴水前で自作の絵を売る男がいるだけである。
まだ少々肌寒いが、近まる春を感じさせる爽やかな風が吹き抜ける中、有希は俯き、
「……はぁー」
と、自らの臓物までも吐瀉するかのような深く長い溜め息を吐いた。
心地よい陽気と引き比べ、地べたに向けて長嘆息する有希の陰気さ。それは、遠目から見ても明らかに異様だった。何か大きな悩みを抱えていることは、易者ならずとも察しがつく。
実際問題、有希は悩んでいた。懊悩煩悶の窮みであると表しても過言ではなかった。
事の元凶は、昨日、彼女の保護者宛てに届いた封書にあった。中身は、娘の、つまり、有希の留年が正式決定したことを知らせる報告書であった。
赤点の山。受けてさえいない追試。大幅に足りない出席日数。その列挙された評価に値せぬ成績や怠惰な生活態度は、どれらを複合することなく、単独で有希を留年させるに十分なものであった。
最早、何をどうしようと手遅れだった。有希は、もう一度高校二年生をやり直すより他なかったのである。
娘の留年を知った父親は烈火の如く怒り、母親は泣いた。
そんな両親を前にして有希は、「こうなることは随分前から薄々分かっていたのだから、放任主義と無関心を履き違えて自分を育てた二人にも責任の一端はある」と思った。
だが、それを言及できる筈は当然なく、
「両立が無理なら、高校かバイトのどちらかを辞めろ」
と怒鳴る父親の弁を、黙って聞いているしかなかった。
自室に戻り、有希はベッドに突っ伏して号泣した。涙は、枯渇することなく流れ続け、枕を濡らした。泣きに泣いて泣き疲れ、最後は、そのまま赤子のように眠りに落ちた。
就眠の中、有希は十二年前のあの日の夢を見た。
しかし、今朝目覚めてみても留年決定の事実は変わらなかった。泣きさえすれば周囲の大人が問題解決してくれるなど、とんだ絵空事だったという訳だ。
四月まで学校に行く意味はなく、とは言え、家には居辛い。そんな至当な成り行きにより、有希は目的もなく外出した。
沈鬱なる形相を晒して通りを歩き、やがてこの公園に到った。
そして、ベンチに腰をかけ、先ほどの溜め息となった次第なのである。
さて、いつまでも下を向いてばかりではいけないと感じたか、それとも単なる偶然か、有希は徐に顔を上げた。
同時に、彼女の胸の奥深くに、「両立が無理なら、高校かバイトのどちらかを辞めろ」との父親の言葉が響く。
「確かに、お父さんの言うとおりだよね」
有希は呟き、自らのこれまでを振り返り始めた。
それは、彼女にとって生まれて初めてとなる自省であった。
学校を休みがちになったそもそもの原因は、アルバイトにある。これは、否めない事実だ。
アルバイトを始めたのは、昨年の五月。当初は週に二日、それも学校に支障のない午後五時から十時までの五時間だけだったのだが、すぐに生真面目な性格が災いし始めた。連絡もなく休んだ者の代理で出勤したのを切っ掛けとして、頼られてしまうことが増えだしたのである。週に二日の勤務が、三日、四日になり、仕舞いには五日となった。就労時間も延び、学業に支障を来すようにまでなってしまった。
このままではいけないと気づいてはいた。しかし、その考えを吐露することは敢えて避けた。
理由は、二つあった。
一つは、責任だ。未成年と雖も給料を貰う以上は、社会人。社会人ならば与えられた仕事には責務を果たすが道理、と心得ていたからである。
もう一つは、楽しさだ。着席し、受けたくもない授業を只管前だけ見て学ぶ学校に対し、仕事は、自分の行動が、即時、結果として表出する。それが、幼少の頃の積み木積みに似て、楽しかったのである。
自分の仕事に責任を持ち、且つ楽しみと成す。既に学業を修めた大人であれば、正に順風満帆。意気揚々と勤め、励み、精進するばかり。何の悩みも起こらないだろう。
……だが。
そうなのだ。大人なら無事に過ぎ去ることなのに、高校生であるが故に苦悩する。あまつさえ、留年までしてしまうのである。
「……はぁ」
ベンチに腰をかけてから二度目の溜め息が有希の口を吐いて出た。これまでの自省は何処かに吹っ飛び、それに代わって、彼女の脳裏を“不条理”なる三文字が席巻しだした。
学校の成績は底辺なのに、アルバイト先では頼られているという現実。有希は、そこに大いなる矛盾を感じた。これまでの人生の中で、「社会は厳しい」とか、「大人になったら大変だ」などと訳知り顔で宣ってきた者たち全てが、とんでもない大嘘吐きに思えてきた。
「私にとっては、学校の方がずっと大変よ。留年しちゃったし……」そう思い至ると、有希は、愁いを帯びる瞳に涙を滲ませた。だが、決して泣きはしなかった。泣いたところで何の解決にもならぬと学習したからである。
零れ落ちそうになる涙を拭い、有希は正面を見据えた。視線の先には、不惑近くの年齢であろう男の姿があった。
公園の中央、噴水前に陣取るその男は、ブルーシートに大小様ざまな絵を広げて販売している様子であった。客がいなくて余程暇なのか、頻りに大きな欠伸を放れている。
偏見だと言われればそれまでだが、かような公共の場にて物売りなど為すのは、一度人生のレールを踏み外した者であると大方相場が決まっている。少なくとも、有希はそう認識していた。しかし、自分も又、留年により人生のレールを踏み外した一人に他ならず、つまりは噴水前の男と同じ。そう気づいた瞬間、急に親近感のようなものが湧き上がってくるのだった。
有希は、その場にすくりと立ち上がった。そして、引き寄せられるように、男の方へと歩き出した。
類は友を呼ぶではなく、同類相哀れむ積もりもなかった。ただ、二十四時間地球の引力を受けて生活していても、それを意識しないのと同じく、極めて自然にそちらへと向かったのである。
ブルーシートを挟んで対面まで来ると、有希はその場にしゃがんだ。それから、絵を眺める振りをしながら、ちらりと上目遣いで男を見た。
男は、依然として暇そうにしていた。訪れし客に、まるで興味のなさそうな体である。
これに対し、有希は小さな不満を覚えた。「お前のような子供に、絵画を買う金などなかろう」と、傲岸不遜にあしらわれたような心持ちになったのである。
途端、幼少より不易なる有希の勝ち気な闘争心に火が点いた。「おじさん、見てなさい。私、使う時間もないくらいにバイトしてて、お金なら少しはあるんだから。若し気に入った絵があったら買ってあげる。まぁ、気に入れば、だけどね」と胸の内にて偉そうに腕なぞ組み、品定めをし始めるのだった。
ブルーシートには、全部で二十点ほどの絵画が陳列されていた。全く見識のない有希が見ても一目で上手いと分かる。この男の腕は本物だ。客に媚びない高慢な態度も、「これならば」と納得してしまうほどである。
我を忘れて絵画に見入る有希に、突然、男が話しかけてきた。
「おい、お前」
ところが有希は気づかない。それほどまでに、男の絵は彼女を魅了していた。
再び男が口を開いた。
「おい」
ここで漸く有希が、
「え?」
と、はっとした様子で顔を上げた。
初めて正視するその男は、ほうれい線を深く刻み、不精髭を生やしていた。人相から判断するに、かなりの苦労人かそうでなければ杜撰なだけのどちらかだ。
男と有希は、暫し見つめ合う形となった。
だが、話しかけてきた側である男は、続きを物言おうとしない。
仕方なく有希が尋ねた。
「何?」
ぼそぼそと男は答えた。
「お前、何か悩みがあるんだろ? こんな所で絵なんか見てていいのか?」
「ど、どうして私が悩んでるって……」
動揺する有希に、男は面倒そうに言った。
「今日は日が悪いのか、全く客がつかねぇ。やっと人が来たかと思えば、今にも死にそうな面ぶら提げたお前だ。これは客にはならんと眺めていたら、ベンチで塞ぎ込み、二度も溜め息なんぞ吐きやがる。気にならねぇ方が不自然ってもんだろう」
「え? じゃあ、私が公園に入って来た時から、ずっと見てたってこと?」
有希は気恥ずかしくなり、赤面した。と、同時に、幾ら暇だからといって、人の行動を逐一監視しているこの男は、変質者の類に相違ないとも思い、睨みつけた。
突き刺さるような鋭い視線に気づき、男は少し慌てて手を横に振った。
「おいおい、勘違いするなよ。俺は、お前が自殺でもしちまうんじゃねぇかと思って見ていただけだ」
「しないわよ。失礼ね」
有希が怒ると、男は心底安堵した様子で、
「そうか」
と、息を吐いた。
初対面にも拘らず、男は自分を心配してくれていた。その事実を知り、有希は、彼を変質者扱いしていたことに、僅かばかりの申し訳なさを感じた。
そこで、
「有り難う。でも、大丈夫よ。留年ぐらいで自殺なんてしないから」
と言葉を足した。
これに男は、途端に「呆れた」という感をその目に浮かばせた。
「まさか、お前、留年ごときで悩んでたんじゃねぇよな?」
「ごとき、って何よ。ごとき、って」
自分も「留年ぐらい」との言葉を使っていたくせに、そこは棚に上げて有希はそれを咎めた。
しかし、男は態度を変えなかった。
「真実を口にしたまでだ。大方、遊びが過ぎてダブったんだろう?」
と小馬鹿にしてきた。
人間誰しも他人事ならば放っておくが、自分が見損なわれると是が非でもこれを訂正したくなるものである。
どうやらそれは有希も同じであったらしく、
「違うわよ」
と、即座にこれを否定した。
「じゃあ、どんな理由なんだ?」
試すような口調でそう問うと、男は、やおら尻の下に敷いていた座布団を抜いた。それからそれを裏返し、何も告げずに有希の前へと出した。「座って話をしろ」という意味であろう。
固より弁明はする積もりあった有希は、引っ手繰るようにその座布団を受け取った。そして、それを地べたに置くと、靴も脱がずにそこに横座りした。
噴水前のブルーシートに座る中年男。同じシート上に並べられた絵画。その前に座布団を敷き横座りする留年が決定した高校二年生の有希。
ここは公共の場、公園であるはずなのに、二人がいる一画だけは、まるで切り抜かれた別世界のようだった。少なくとも、有希にはそのように感じられていた。