恋するハイビスカス
水平線の向こうに奴隷船を見送り、数日が経過していた。
残されたクラリッサは、彼女の新しい恋人と夕焼けの波打ち際を散策していた。
大陸出身である肌の白い彼は、紳士的な外見よりももう少しだけロマンチストで、クラリッサの髪にハイビスカスの赤い花を飾ってくれた。恋人は甘く優しく、クラリッサに贅沢をさせてくれるのだが、その笑顔を間近にする度に、彼もまた遊びなのかもしれない、そんな不安がクラリッサの胸をよぎる瞬間を否定することはできない。
彼の腕に頭を寄せてその白い喉を眺めていると、出身地も人種も異なるこの素敵な恋人が、遠い存在のように思えてならなかった。それは最初の恋人、奴隷船に乗って海の彼方に旅立ってしまったあの人の傍にいるときには、感じたことのない不安だったのだ。
彼を失うことが恐いなんて、わたし、この人のことを愛し始めているのかしら……?
そんなことをふと考えたときだった。夕暮れ時の穏やかなひととき、彼に寄り添い夏の砂浜を歩くクラリッサの耳に、あの懐かしい声が聞こえた気がした。
少女だったクラリッサが最初に愛し、そして当たり前のように傍にいてくれたあの人の声が――。
「この外道があああッ」
その怒号に驚いて振り返ると、海草を手足に巻きつけた男が一人、クラリッサたちの背後にあった。その辺りの海辺を歩いていた山奥の樵から取り上げた斧を構えたクラリッサの昔の恋人が、目玉を剥き出さんばかりの形相で彼女のもとへ駆けつけてきたところだった。
よもや海原を自力で泳ぎ渡って来たのか、全身はずぶ濡れ、唇からは海水とも涎ともつかない液体を垂れ流し、かつてクラリッサが愛したあの日焼けをした精悍な顔が、今は悪鬼のごとき惨憺たる容姿となって憎しみにぎらついていた。
「ティボールド……、どうしてっ……」
突然の再開に戸惑うクラリッサ、警戒して彼女を守ろうと手を広げる彼女の恋人。その腕を押しやって、クラリッサはかつての恋人にそっと歩み寄った。
「ティボールド、貴方、まさかわたしのことが忘れられずに……?」
クラリッサの胸をよぎる甘い動揺を、かつての恋人は即座に拒否した。
「ああんッ!? 忘れられないだってッ!? よくもそんな鬼みたいなことが言えるなこのクソアマッ!
俺があの船上でどんな目にあわされたと思ってやがるんだ。そんな大陸野郎をたらしこんでこの俺を炭鉱送りの奴隷船に乗せるなんざ、ふてえ女だよてめえって女は……」
「おまえが人道に反し彼女を僕に売ったんだったと思うが……」
クラリッサの恋人が迷惑そうに呟いた。
「てめえも銀貨二枚で女を買ったのは思いっきりヤリ目だったんだろうが馬鹿!」
ティボールドが怒鳴り散らした。
「お願い、もうわたしのために争わないでっ!」
クラリッサが両手を胸の前で組み合わせて純情可憐な悲鳴をあげると、野性味があふれすぎて今や海賊と言って構わない荒くれ者の風体となった昔の恋人は、歯を剥いてクラリッサを罵倒した。
「てめえなっ、今の会話の何処がてめえのために争っているように見えるってんだよ!
俺が戻って来たのはてめえのためじゃねえよ、てめえのようなふてえアマをな、ぶっ殺すためにだッ!」
そう言うが早いかそのまま彼はクラリッサの顔面に向かって斧を振り下ろしたのだが、クラリッサは片腕でその刃を掴み、その一撃を食い止めたのだ。
クラリッサとティボールドはその体勢のまま睨み合い、一陣の熱風が二人の間を吹き抜けて行った。椰子の木がそよぎ、永遠とも思える時間が流れた。
クラリッサはティボールドの暴挙を食い止めた左手に力を込め、気合い一閃、陶器の皿を砕くように鉄製の樵の斧を握り潰して粉砕した。
砕かれた鉄の破片が夕焼けの輝きを帯びて周囲に飛び散り、商売道具を破壊された樵が背後でか細い悲鳴をあげる。
「うぐっ、何という力!」
ティボールドは唸り声をあげた。