第9話 小さな嘘
こうして、夏子と慎二が仕事の後 一緒に帰る日も少しずつ増えていった 5月のある日の事だ。
「昼飯、どっか行かない?」
村瀬が保田を誘っている。
「愛妻弁当ないと、寂しいですね」
「ま、色んなもん食えるけどね」
そんな風に毎日昼食を誘う村瀬が、仕事が終わってもなかなか帰らない。いつも誰か相手を探している。そんな雰囲気を感じつつ、夏子はショップを後にする。
「お先、失礼します」
「お疲れ様で~す」
夏子の後に続いて、慎二もショップを出る。最近はこうやってショップを出て、車で一緒に帰る毎日だ。そして、毎日の様に同じ時間に帰っていく そんな二人の様子をちらっと見る村瀬だった。
車に乗り込んでから、慎二が夏子に言った。
「店長も寂しそうだよね。子供生まれて喜んでたけど、奥さん里帰りしてて、家に帰っても一人じゃあね・・・」
「ま、でも仕方ないんじゃない?産後なんだし」
そんな冷たい言い方をしていながらも、夏子は寂しがり屋の村瀬が 一ヶ月近く一人で大丈夫かが気に掛かる。
ある日、仕事を終えた社内でチラホラと皆が帰り始めた頃、夏子と慎二もその後に続こうと席を立つ。すると、そこへ村瀬が声を掛けた。
「たまには飲みに行かない?」
声を掛けられたのは慎二だ。慎二はとっさに夏子の方へ顔を向けた。
「あ、二人、これから何か予定あったの?」
「いえ、別に何も」
夏子が慎二よりも先に返事をする。
「じゃ、どう?たまには」
慎二が答えを迷っていると、夏子はバックを肩に掛けた。
「私、車なんで。すみません。お先失礼します」
慎二の方へ振り返りもせず、夏子がショップを出ていった。
残された慎二と村瀬と、もう一人残っていた独身社員の山本で、近くの居酒屋に入る。珍しい組み合わせの三人だ。しかし話題には尽きない。何故なら、村瀬に子供が生まれたという旬のいいつまみがあるからだ。
「立ち合い出産ですか?」
「うん」
「やっぱ、感動しました?」
「感動ってより、ホッとした方が先だな。色々大変だったから」
一口二口飲みながら、普段生活感のない村瀬の私生活に興味津々の二人から、質問が途切れる事はない。
「里帰り中で奥さん居なくて、寂しいですか?」
「まぁね。羽伸ばせていいかなとか思ってたけど、意外にね」
「店長からそういう話聞くの、新鮮だなぁ~」
慎二がそう笑うと、山本もそれに乗っかる。
「普段、そういうイメージないからね」
苦笑いの村瀬。慎二も口数がつい増える。
「店長みたいにカッコよく生きてる人が、こういう家庭人間みたいな話聞くと、結婚っていいなぁって思っちゃいますよね」
「まだ若いのに、そんな事思う?俺が慎二位の時は、遊ぶ事しか考えてなかったけど。遊ぶ為に仕事して、モテたくて仕事頑張って」
それを聞いて、三人が声を揃えて笑った。そして、三人が少し笑い疲れた頃、村瀬が言った。
「慎二は青柳と付き合ってんの?」
突然の事に、慎二の目が点になる。瞬きさえも忘れてしまう程驚いて、慎二の視線は、村瀬と山本の顔を行ったり来たりする。
「え?そうなの?!俺、ただ仲の良い友達だとずっと思ってた」
山本が上手い所にパスをよこすから、慎二はそれを受ける事にする。
「何ですか?!急に。友達ですよ、ただの」
「な~んだ、やっぱな。由真ちゃんと三人で仲良いもんね」
山本が良い合いの手を入れるから、慎二は救われた様なものだ。村瀬は納得してはいない様にも見えるが、とりあえず切り抜ける事が出来た。
それぞれが2、3杯飲んで、そろそろ・・・という雰囲気になる。山本がトイレへ立つと、村瀬が再び慎二に聞いてくる。
「神津島、潜りに行くの?」
「え?・・・あぁ、まぁ行けたらいいっすけど」
「・・・いつもの三人で?」
慎二は少し警戒しながら、必死で言葉を探した。
「まだ、どうなるか分かんないっす」
「ふ~ん」
テーブルの上の煙草をポケットにしまいながら、村瀬が言った。
「天気が悪いと 青柳は不機嫌になるから、気を付けて」
慎二の胸に その言葉が少し引っ掛かるが、あまり深読みせず返事を返した。
「あ・・・はい」
村瀬は更に続けた。
「そのご機嫌を治すのは、甘いものだから」
「・・・・・・」
「あ、特に和菓子系ね」
段々と慎二の顔から笑顔が消えていく。そして慎二が口を開いた。
「随分、詳しいっすね」
村瀬ははははははと開けた口を上に向けて笑った。
「長い付き合いだからね」
「・・・・・・」
「あいつが高校卒業してうちに来て、働きながらイントラの免許取って。もう5年位になるんじゃないか?」
そこへトイレから山本が戻って その話題はおしまいになったが、慎二のモヤモヤは収まらない。帰りの電車で慎二が一人になると、色々な記憶が蘇る。夏子と昼休みにボリュームサンドを駅前まで買いに行った時だ。村瀬の好みを細かく良く把握していた事。辛い恋愛だと言っていた事。出産祝いを買う役を断った事。一つ一つ思い出す毎に、疑惑が本物になっていく気がする慎二は、携帯を取り出し夏子への文章を打ち込んだ。
『なっちゃんの前の辛かった恋愛の相手って、俺の知ってる人?』
送信して画面の照明を落とすが、慎二は心の中で、嫌な予感が外れてくれと一心に願いながら携帯を握りしめるのだった。
なかなか来ない返信に不安を膨らませた慎二が、電車を下りて夏子に電話を掛けた。
「今、帰り」
「お疲れ。・・・店長と二人だったの?」
「いや。山本さんと三人」
「へぇ。なんか面白い組み合わせ」
少し明るい調子になった夏子に、慎二が聞いた。
「さっき送ったの、見た?」
「え?あぁ・・・うん」
「なんで、返事くれないの?」
「だって・・・どうしたの?急に」
そう言われてしまうと、慎二も胸を突かれた思いになる。
「もしかして・・・って」
「・・・もしかして?」
慎二が慎重に言葉を選ぼうとしているのが、受話器から微かに聞こえてくる呼吸で分かる。
「前の人って・・・不倫?」
真正面からぶつかってくる慎二という人間にどう向き合うべきか、夏子は正直迷っていた。
「・・・何か聞いたの?」
慎二がどこまで知ってしまったのか、探ろうとするずるい自分だと夏子自身気が付いている。そんな夏子のはっきりしない態度に、慎二が喝を入れた。
「質問はいいよ。はっきり答えてよ。なっちゃんの前の彼氏って、店長なの?」
夏子の頭の中の振り子が大きく左右に揺れる。そして夏子は、強引にそれを握って止めた。
「何で急にそうなっちゃうわけ?違うからぁ・・・」
「・・・本当?俺、なっちゃんのその言葉、信じるよ?」
当然夏子の胸が痛む。しかし、もう後戻りはできない。そんな夏子の良心の呵責など、強行突破するしかないのだ。だが、『信じるよ?』と言われ『うん』とは言えない。そんな中途半端に正直な自分に 夏子は溜め息をついた。
満月を雲が薄っすら覆う、そんな夜だった。
*****
雪子が職員通用口を出たところで、守屋が後ろから声を掛けた。
「もう帰る?」
振り返った雪子が思わず周りを気にする。誰もいない事にホッとしてから、小さい声で答えた。
「はい」
「ちょっとだけ、いい?」
指定された近くの喫茶店に入り、まずは慎重に知っている顔を探す雪子。人目につかなさそうな奥の席に座って守屋を待つ。そこへ5分位して、守屋が姿を現す。
「もう何か注文した?」
「いいえ」
これから何の話をされるのか、緊張の雪子だ。
注文を終えて水を一口飲む守屋の顔が、心なしか疲れている様に見える。
「・・・大丈夫?凄く、疲れてるみたい」
思わず雪子がそう話すと、守屋が優しい笑顔を返した。
「ありがとう」
守屋のその笑顔が眩しすぎて、それをかわす様に雪子は下を向いた。
「この前から母親がちょっと具合悪くて。で、一人暮らししてた弟も、ストレスから少し不安定になっちゃって、会社休職して今家に帰ってきてる。そういった諸々が続いてて・・・ごめんね。この前から心配してもらっちゃって」
それを聞いて、雪子が小さい声で言った。
「そんな時に、私までゴタゴタ言って・・・ごめんなさい」
ふふと守屋が笑って言った。
「ゴタゴタなんて言ってないじゃない」
すーっと静かな時間が二人の間をすり抜けていく。注文したコーヒーとカフェラテがテーブルに揃うと、ストローで一口飲んでから守屋が話し始めた。
「去年の忘年会の帰りにね、俺がユキを送って、その時に『付き合って欲しい』って」
守屋が二人の始まりを話し出す。
「ユキが頷いてくれたから、今こういう事になってる訳なんだけど・・・」
そこで一旦守屋が深く息を吸う。次の話を待っている雪子の心臓はどんどんと激しくなる一方だ。
「俺はユキの事好きだけど、ユキは・・・別にそういう訳じゃなかったんだって、この前気が付いて・・・」
雪子の胸が、氷点下の中で次第に凍っていく川の水の様だ。守屋の話は淡々と続く。
「俺の事、嫌いじゃなかったから、付き合ってくれたんであって、最初から俺と同じ様に好きだった訳じゃないって。鈍感にも程があるって、自分を恥ずかしく思ったんだけど。きっと付き合える事に嬉しくて、勝手に相思相愛みたいに勘違いしてたんだと思う。ユキは多分、少しずつ俺を知って、その分ずつ俺の事好きとか嫌いとか、気持ちが育っていってたんだと思う。だからきっと、嫌な噂聞いて、好きになろうとしてくれてた俺の見方に戸惑ってるんだと思う」
何か相槌を打とうと思う雪子の喉の奥が縮こまって、声が思う様に出ない。
「ユキの気持ちが付いて行かないまんま付き合ってても、ユキが辛いだけだと思う。俺にも遠慮して、職場でも俺に会うの警戒して」
段々話の先が見えてきて、ユキは俯いたまま ただ黙って目を閉じた。
「付き合ってる事でユキがかえって辛くなるなら、一旦なしにしようと思う」
雪子は固まったまま動かない。だから守屋は一人でまた話し始めた。
「ユキがまた俺と付き合ってもいいって思えたら、その時からまた始めればいいよ」
その言葉を聞いたと同時に、先日佐々木と話した時に感じた、守屋をこれ以上無駄に待たせる訳に行かないという思いが、雪子の中で混ざり合う。気が付くと雪子は、頭だけ横に何遍も振っていた。
「・・・どういう意味?俺とは、又つき合いたいとは思わない・・・って事?」
何かをきちんと自分の口から話さなくては誤解させてしまう。雪子はそう思うが、さっきからずっと喉がぎゅっと固まってしまっていて、声が出ない。首だけ辛うじて振るのをやめると、思う様にならない自分の感情が、一粒の雫になって、膝の上に落ちた。一粒溢れると、後から後から涙が湧いてくる。目をぎゅっと瞑っているのに、どの隙間から零れるていくのだろう。ぽたぽたと落ちる雫を止めようと、雪子は手で顔を覆った。
「なんで・・・泣くの?」
困惑しているのは、守屋の方だ。辛そうなユキを解放してあげようと思ったのに、目の前でもっと苦しそうに涙をこぼしている。
そこへ守屋の携帯に着信が入る。仕事中抜けてきた守屋がテーブルの上に置いておいた電話が震えている。
「もしもし?あ・・・今、戻ります」
そうとだけ言って電話を切ると、ハンカチで目の辺りを抑えている雪子が、俯いたまま言った。
「どうぞ、行って下さい。私、大丈夫だから」
「・・・・・・」
帰ろうとしない守屋を前に、雪子が鞄を肩に掛けた。
「じゃ、私、先出ます。一緒だとまずいから」
「待って!」
守屋が雪子の顔をじっと見た。
「今の気持ちだけ、ちゃんと聞かせて」
守屋の目が真剣だ。雪子が今にも立ち上がりそうなところを、守屋が続ける。
「好きだとか嫌いだとか、もう顔も見たくないとか・・・」
雪子がようやく静かに息を吸い込んだから、守屋は声を止めた。
「私・・・守屋さんの事・・・初めっから好きです。だから一緒に居て本当は嬉しいし、どこかに出掛けるのも楽しい。だけど・・・守屋さんの色んな過去とか・・・どんな過去があるかは分からないけど、そういうの受け止められる器量がないって思ってます。だから、本当の事聞くのも怖いし、知りたいような知りたくない様な」
雪子の息が続く限り、一気に吐き出す様に喋る。時々声が震えていた事も、守屋は気が付いていた。大きく新しい息を吸い込むと、守屋がさっきよりも少し柔らかい声を出す。
「ありがとう。・・・やっぱ俺って鈍感なんだな。ユキの本当の気持ち、こうして聞かなきゃ全然わかってないんだから。ごめんね」
「・・・ううん。私も・・・ごめんなさい」
テーブルの上で、守屋が手の平を上に広げて雪子の方へ伸ばした。雪子が守屋の目を見ると、そっと優しい笑顔が返って来る。
「手・・・」
そう言われて雪子がゆっくりと手を出すと、それを両手で包んで守屋が言った。
「これからもよろしくの握手」
雪子が久し振りに笑顔を見せた。
その日家で風呂から上がった幹夫が、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して部屋に行こうとしたところへ、母が台所に現れる。
「この前祐司に病院付き添ってもらって、帰りに久し振りに外であの子と二人でご飯食べた」
「色々話せた?」
「うん」
「良かったね。外で話すと、意外と普段聞けない様な事も話せたりするし」
「そうだね」
部屋に持って行こうとしていたビールを、幹夫はその場で立ったままプシュッと開けた。一口飲もうとすると、母が言った。
「私も一口もらおうかな」
グラスに注がれた一杯に口を付けて、母が幹夫に聞いた。
「祐司に聞いたんだけど、今あんた、付き合ってる子いるんだって?」
「あぁ、いるよ」
「どんな人?」
幹夫は缶のタブを指で触りながら考える。
「大人しい子。でも凄く責任感は強くて、与えられた仕事はきちっとこなす人・・・かな」
「お母さんね、幹夫は しっかり者で姉さん女房っぽい人が合うと思うんだよね」
「・・・・・・」
「仕事でも色々大変な事もあるだろうし、家の事もすっかり私も祐司もあんたを頼っちゃってるし。そういう幹夫を、しっかり受け止めて、甘えさせてくれる位の技量のある子が良いと思ってんの」
幹夫が黙っていると、母はまだ続けた。
「でも大抵、幹夫がいなきゃ駄目みたいな子選ぶから・・・」
幹夫が苦笑いをふっと浮かべる。
「今の子、いくつ?」
「・・・俺より年下だよ」
母の顔が一瞬渋くなる。
「・・・まぁね。子供産んでもらう事考えたら 年上じゃ40過ぎちゃって難しくなるからね。だから若くても30代前半だね」
「歳で相手を決める訳じゃないでしょう」
「そうだけど、やっぱり人は歳相応の経験を積んでるもんだから、目安にはなるわよ。特に結婚するとなれば、子供の事もあるしね」
幹夫は母にも分かる位の溜め息を一つつく。
「結婚なんて話に、まだまだなってないよ」
「だからって、今から楽しく遊べればいい子選んでる訳じゃないでしょ?」
「そりゃ、そうだけど・・・」
母の眉間に皺が寄る。
「今度、うちに連れてきなさいよ」
幹夫はゆっくりと息を吸った。
「その内、先の事も考えられる様になったら、ちゃんと連れてきて紹介もするつもりでいるよ。でもさ、今はちょっと待ってよ。俺だって、何にも考えてない訳じゃないし・・・心配してくれてんのは分かるけど」
缶に残ったビールを飲み干して、幹夫は椅子から立ち上がった。母のコップには まだビールが残っているのを見て、幹夫は一言声を掛けた。
「俺、先寝るよ」
部屋を出ようとした幹夫に、母が付け足す様に話す。
「嫌がられついでに、もう一個だけ言っとく」
幹夫が足を止めて、母の方へ向き直った。
「もし40で子供が生まれたって、その子が成人する時にはもうあんた60なんだよ。定年。第2子第3子となれば尚の事、育てるの厳しくなるでしょう?」
すると、それに対して幹夫が少し笑いながら言った。
「結婚できるかどうかだって分かんないのに」
「自分の歳を自覚して、先見て今生きないとって言ってんのよ。のんびりしてないで、少しは焦ってよ」
「焦ったって、どうにもならないでしょう?相手がいる事なんだから」
「だから、相手も一緒に焦って考えてくれる様な人がいいんだよ。そうでなきゃ、お見合いとかね。ま、今風に言えば紹介とでも言うか・・・」
いつの間にか母が体の向きを幹夫の方へ向けて乗り出している。幹夫はわざと大きな溜め息をついて、母の話を止めた。
「じゃ、今の子と別れたら、頼むよ。今日は、もういいかな。明日も早いし」
雪子と守屋が仕事を終えた後、一緒に食事の約束をして待ち合わせる。守屋が忙しくて 休みを合わせるのが難しいから、やはりこういうデートが多くなる。何日か前のメールで、守屋が
『何食べたい?』
と雪子に聞いてきたから、
『辛い物が食べたい』
そう返事をした雪子の希望通り、守屋は韓国料理の店に案内したのだ。辛い物を食べて満足した雪子と守屋が店を出て車に乗り込む。
「久し振りだね、こういうの」
以前の様に無防備に微笑む雪子に、守屋も嬉しそうだ。
「まっすぐ・・・帰らないとダメ?」
雪子が運転席の守屋を見る。
「どうして?」
そう聞かれ、守屋が少し照れたように笑った。
「もう少し一緒に居たいから」
「うん」
雪子が小さく返事をすると、車は静かに走り出した。
食事をした店から 車でまっすぐ雪子の家まで帰ると、20分と掛からない。そこを遠回りして、車は走る。夜の一般道を走りながら、守屋が聞いた。
「そういえば、夏子ちゃんとは会えたの?」
「ううん、まだ。弟のハルちゃんとは二回位バッタリ会ってるんだけどね」
「へぇ」
「夏子ちゃんね、今ダイビングのインストラクターの仕事してるんだって。だからGWとか夏休みとかは超忙しいらしい。少し落ち着いたら会おうねって言ってるんだけど」
雪子は夏子の話になると、口が滑らかになる。
「ダイビングかぁ。やっぱり夏の人だね」
雪子がはははと明るい声を響かせる。
「守屋さんは、海とか行く?」
「最近は全然行かないけど、昔はボディボード ちょっとやってた事ある」
「え~っ!」
窓の方へのけぞる様にして驚く雪子に、守屋が言った。
「そんなに驚く?」
「だって・・・」
「ユキは?海行く?」
「う~ん・・・プールのが行くかも。でも海も好き。見てると落ち着く」
「よし!じゃ、今度海行こう」
「夏?」
「そう。あ、でもその前に海見にドライブ行こう」
気が付くと 車は少し明かりの少ない道路を登りがちに走っている。
てっぺんで車が停まる。
「少し、出て歩く?」
バタンとドアを閉めて外に出ると、5月と言えども 少し夜の空気はひんやりとする。芝生の広がった先からは、街の夜景が見える。空には幾つかの一等星と少し欠けた満月が浮かんでいる。
「まだ、色々不安?」
そう聞いて守屋が隣を歩く雪子の顔を見ると、それまでの笑顔がすっと消えた。
「・・・今、私が見てる守屋さんを信じてみようって思ってる」
「ありがとう」
足元の芝生の柔らかい感触を味わう様にゆっくりと歩きながら、守屋が聞いた。
「その・・・噂、本当かそうじゃないか、確認しなくていいの?」
暫く雪子が考えてから、慎重に口を開く。
「いつかは・・・聞きたいと思う。でも・・・今は・・・」
そう言い終える寸前のところで、雪子の手を守屋がすくいとる。急に感じた守屋の温もりに、ほっとした気持ちになる雪子。立ち止まって、目の前に散りばめられた小さな明かり達を見つめながら、守屋が言った。
「じゃ・・・待ってる。聞いてきてもらえるの」
そう言って、続けて守屋が空を指差した。
「見て。今日、月綺麗だね。もう少しで満月かな」
指の指す先を見てから、雪子は再び視線を夜景に戻した。
「今日のは、欠けてきてる月。何日か前満月だったから」
「へぇ。ユキは、よく月見るんだ?」
「見るけど・・・」
そう呟く様にボソッと言って、足元の芝生へと視線を落とす。
「満ちてく月は好きだけど、欠けてく月は好きじゃない」
声のトーンが落ちた寂し気な雪子の方へ、守屋が顔を向けた。
「・・・どうして?」
「欠けてくの見ると、幸せも減ってっちゃう様に感じる」
守屋の 雪子を握る手に力がこもる。
「大好きだった曾お婆ちゃんが亡くなった日もそうだったし、お父さんが単身赴任で家を出た日もそうだった。クラスの男の子に『雪女』ってからかわれて泣いて帰った日も、みんな欠けてく月だった。だから・・・見ると寂しくなる」
話を聞き終えると、守屋がそっと雪子を両手で包み込んだ。
雪子の家の前に着いた時には、もう道路にも人通りが無くなってひっそりとしていた。
「ごめんね、こんな時間になっちゃって」
「大丈夫。私より、守屋さんの方が大変でしょ?これから帰って、明日も早いんだし」
「楽しかったから、平気」
守屋がにっこりと微笑むと、雪子もそれに応える様に微笑んだ。すると運転席から左手が伸びて、そっと雪子の手に被せた。その間どれ位の時が流れたか分からない。じっと無言の空間を守屋がすうっと息を吸い込んで、ピリオドを打った。
「じゃ、また明日ね」
雪子がドアを閉める間際に『おやすみ』と守屋が言ったから、雪子は窓越しに手を振った。
その時、雪子の家の玄関がガチャンと閉まる音がして、振り向くとそこには帰りを心配して待っていた顔の母が立っている。
「ただいま・・・」
「遅かったから、心配しちゃったわよ」
「ごめん・・・」
守屋が慌てて運転席から降りる。母の前まで急いで来ると、90度腰を曲げてお辞儀をした。
「はじめまして。守屋と申します。遅くさせてしまい、申し訳ありませんでした」
少々困惑した表情で守屋と雪子を交互に見る母に、雪子が言った。
「あ・・・職場の所長さん。送って頂いて・・・」
「あ・・・そうなの・・・」
納得していない顔のまま、母が雪子に相槌を打つ。それを察して、雪子が言い訳を足した。
「仕事の事で、色々お世話になってて・・・」
それを聞いて、ようやく母が守屋に頭を下げた。
「いつも娘がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ、お世話になっております」
「わざわざ雪子を送って頂きまして・・すみません」
「いえ・・・」
守屋が何か言う前に、雪子が言葉を被せる。
「丁度帰り道だからって」
「あ、そうでしたか・・・」
「じゃ、ありがとうございました。おやすみなさい」
早くこの場から立ち去りたい一心の雪子が、そう言って母の腕を引っ張る様にして玄関に入って行った。
『さっきはごめんなさい。母には、何も話してなくて』
その晩遅くに、雪子が守屋に送ったメールだ。当然あの後、玄関に入るなり母親が雪子に納得していない質問をぶつけてきた。
「ねぇ、あの人とは、お付き合いしてるの?」
「違う。ただ送ってもらっただけ」
「本当?!雪子が一方的に好きだとか?」
「違うって」
「あちらが雪子の事好きって言ってるとか?」
「だから、そんなんじゃないってば」
「な~んか、仕事だけの関係じゃない様な・・・」
やはり母親の嗅覚は鋭い。しかし、『あの人と付き合ってる』と言い出す勇気は雪子にはなかった。
「もう今日は疲れたから、明日の朝シャワー浴びる。もう寝るね。おやすみ」
部屋に逃げ込むと、雪子は少しほっとする。やっと息がつけた様な心地だ。
しかし、母と守屋が会った途端に『彼』だと紹介しなかった事で、きっと守屋を傷つけたと気付く雪子。だから守屋から『何か言われた?』と聞かれても、『彼とは何でもない』と嘘をついた等と言える訳はなかった。『きっとお母さんが思い描いてる娘の彼氏じゃないから』・・・なんて言えない。そんな風に考えていると、いつまでも返信の言葉が浮かんで来ない。来る筈もない。
なかなか来ない返信が、守屋にはかえってそれが答えとなった。