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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
4/30

第4話 噂

 一方通行のメールに少し寂しさを覚えて、出勤する雪子。夜勤明けの守屋と早番の時の雪子は、職場で重なる時間が短いから、下手したら姿を見ないまま入れ違いとなる。しかし、守屋の事だ。きっと明けで退社する前に、厨房に顔を出してくれるに違いない。そんな期待を込めて 雪子は動き始める。

 入居者の朝食の時間の前になっても守屋が姿を見せないから、雪子は手を動かしながら、近くで同じ作業をしていた先輩の安生に聞いた。

「今日、所長挨拶に来られないですね」

「あ、そういえばそうだね。珍しい」

すると、その隣で会話を耳にした岡田美恵子が言った。

「昨日夜勤だったところ、途中で帰ったみたいだよ。朝来た時、事務所で聞いた」

「途中で?」

「具合でも悪くなられたんですか?」

安生と雪子の声が被さる。

「ううん。詳しくは知らないけど、副主任のシフトと替わったとか・・・」

最後の方は首を傾げて自信なさげに話す岡田。しかし、雪子には もうそんな様子は目に入らない。夜勤にならず帰ったのなら、どうして一言返事がないのだろう。確かに返事を要する内容ではなかったけれど・・・そう自分に言い聞かせるのに必死の雪子だ。

「だから、今日は遅出らしいよ」

岡田がそこまで言って、すっとその場を離れていった。

 

 何となく気持ちが落ち着かなくなって、気もそぞろになる雪子だ。職員の朝食の片付けを終え、一旦皆が休憩に入る。ロッカーで岡田が何かを床から拾い上げて、声を大きくしている。

「鍵、誰か落とし物」

見るとそこには、雪子の家の鍵が高く掲げられていて、慌てて手を挙げた。

「あ、それ私のです」

『ありがとうございました』と受け取ろうとすると、岡田がそこに付いているストラップをじっと見ている。急に雪子の心臓がドキドキいって、手の平で隠す様に握ってお辞儀をする。頭を下げ終わる頃、岡田がボソッと言った。

「それに似たの、どっかで見たなぁ・・・」

聞こえなかったふりをして、雪子は鍵を慌てて鞄にしまった。


 早番の仕事を終えて、職場を出ようとしたところで、岡田が雪子を呼び止めた。

「駅まで一緒に帰らない?」

「はい」

珍しい。わざわざこんな風に声を掛けてくる事など、今まで何年と働いてきて初めてだ。雪子が少し身構えた気持ちで足を進めると、意外に早々と岡田が核心の話題に触れてくる。

「あのキーホルダー、所長とお揃い?」

「え?!」

「前に所長の車のキーにも付いてるの、見たから」

「え・・・知りません」

雪子の顔がどんどんと強張っていく。

「高尾山って書いてあるでしょ?あれ」

「はい。・・・でもあれは、全然関係ない友達からお土産で貰った物で・・・所長とは関係ありません」

雪子の心臓は、口から出てきそうな程激しい。

「ふ~ん・・・」

その相槌が本当に納得したものなのかは、いささか疑問だ。早く駅に着けばいいのにと、雪子はそれだけを頭で必死に考えて 少し足早になる。すると、岡田が言った。

「所長って、女関係、良い噂無いんだよねぇ」

「え・・・?」

「うちに来る前、立川に居たでしょ?なんで異動になったか知ってる?」

「いえ・・・」

言いながら雪子は耳を塞いでしまいたい気持ちになる。しかし岡田の口は容赦なかった。

「女性職員妊娠させちゃって、それで飛ばされたって聞いたよ」

雪子の脳天に稲妻が直撃した様な衝撃を受ける。とても相槌なんか打てない。ただの噂といえばそうなのだが、それにしてもその噂がヘヴィ過ぎる。全くの真実だと鵜呑みにした訳ではないけれど、火の無い所に煙は立たないという諺がある位だから、何かしらの似た様な事があったのかもしれない。

「私も前に立川にいたからさ。そん時の仲間からの情報」

駅に近付くと、締めくくる様に岡田が言った。

「だから、所長、気を付けた方がいいよ」

「・・・・・・」

岡田は言いたいだけ言うと、明るい顔で『じゃあ、又明日~』と手を振って、反対のホームに消えていった。

 雪子は岡田の話を聞いている途中から、もう胸がギュウっと締め付けられる様に痛くて苦しくて、涙が出そうだった。電車に揺られながら思い出すのは、この前のデートで守屋の言った『結婚もしたいし、子供も欲しい』という言葉。もしこの噂が本当だとしたら、どうしてその職員と結婚しなかったのだろう。

『遊びだったからでしょう?』

そんな言葉誰からも聞いていないのに、いつの間にか岡田の声でそう聞こえてくる気がする。

『今まで結婚しなかったのは、タイミングが合わなかったから』

色んな人と遊んできた人ほど、この言い訳をしている気がする。ユキとのこの付き合いを真剣に考えてるって言ったあの言葉は、信じていいのだろうか。

 電車を降りる時に、ふと雪子の足が止まる。そもそも、なぜ岡田が守屋の車のキーに付いている筈のストラップを知っているのだろう。そこからが、もはや疑問だ。嫌な予感が雨雲の様にどんどんと膨れ上がって、家に帰り着く頃には入道雲の様にかさを増しているのだった。

 

 あの帰り道で聞いた噂以来、いや、正確に言えばその前の晩に雪子がメールを送って以来、守屋と連絡を取っていない。もちろん日課の様に毎晩の様に守屋から電話が掛かってはくるが、雪子は取らないのを貫いている。・・・というよりは、取るのが怖いのだ。あんな噂話を聞いて、何も聞かなかった様に接する事も出来ない。かと言って、あの噂が本当かどうか聞くのもかなりの勇気がいる。もし本当だったとしても、それを簡単に守屋が話すとも思えない。結局、守屋が何を言っても、それを信じられるかどうかは 雪子次第だという事になる。38歳のそれなりに経験を積んだ大人の男の人と付き合うという事は、そういう相手の過去も丸ごと受け止める器が必要なんだと痛感する。しかし今の雪子には、まだその気持ちの準備ができない。だから、電話を取らないのだ。当然職場で会うのだが、避けて通る事も可能だ。厨房に守屋が挨拶に来ても、施設内ですれ違っても、雪子は目を合わせない。頭は下げるが、決して目は合わせない。しかし、さすがにこんな事を5日も続けていたら、守屋も何かしらの行動を起こしてくるに違いない。実際3日位前から、守屋からはメールが届いている。

『なんで電話出ないの?』

から始まって、

『この前のメールにすぐ返信しなかったの怒ってるの?』

と続き、

『この前はメール返さなくてごめんね。あの日、急に夜勤から予定が変更になって、急遽他の用事が入って動いたりしてたから』

と、そんな説明も言い訳に聞こえてしまう雪子だ。昨日になると、

『目も合わせてくれないね。どうしたら許してもらえるのかな?』

そんな言葉になってくる。ここまで言われても応じなければ、いよいよ守屋がどんな行動に出るのか、最近はそんな不安と戦っている雪子だ。


 遅番の勤務を終えた雪子が、職員通用口から出る。いつもの癖で、駐車場に守屋の車があるかを確認する。今日は彼の白い車はない。真っ暗な道に均等に灯る外灯の下を、少しホッとした心持ちでのんびり歩く雪子の鞄の中で携帯が着信を受けて震える。取り出してみると、電話の主は守屋だった。暫く立ち止まって悩む。しかしやはりまだ、気持ちの準備が出来ていない。今日も取らずに、雪子は再び鞄にしまう。すると、路肩に止まった白い車から男が一人降りてきて、雪子の前で足を止めた。守屋だ。

「なんで、電話出てくれないの?」

「あ・・・・・・」

「送るから、乗って」

「・・・ごめんなさい。一人で・・・」

断ろうとすると、守屋が早口で言った。

「ここでもたもたやってると、誰かに見られるから」

その恐怖に背中を押され、思わず助手席に乗ってしまう雪子。実際そこに座ってみると、違和感が体中に溢れ出す。落ち着かない。いつでも飛び出せる様に、雪子は鞄を抱えてベルトをしないでいると、守屋がエンジンをかけながら言った。

「シートベルトして」

そう言われてしまうと、やはりそれに従うしかない雪子だ。完全に抵抗してベルトを締めなかったら、もしかしたら 車から降りられたかもしれなかったと、暫く経ってから後悔が頭の隅に浮かんでくる。

「いくつか、確認していいかな」

「・・・・・・」

当然返事は出来ない雪子だ。しかし、守屋は当然の事ながら続ける。

「まず・・・ユキは俺に怒ってるんだよね?」

「・・・・・・」

「うん か、いいえ で良いんだけど」

「・・・・・・」

それでも返事をしない雪子に、守屋が独り言の様に呟く。

「喋ってももらえないんだ・・・」

その言い方がやけに寂し気で、それまで5日程心にいっぱい溜め込んで張り詰めていた思いが急にタガが外れて溢れ出しそうになり、雪子は慌てて両手で顔を隠した。泣いちゃだめ、泣いちゃだめと 雪子は必死に自分に言い聞かせて気丈に堪える。未だ走り出さない守屋に、雪子は顔を覆ったまま言った。

「どっか、誰にも見られない駅で降ろして下さい」

「・・・分かったよ」

ようやく走り出した車の中にラジオはついていない。何の音もない。途中から雨がポツポツ降り出して、一気に本降りになった。ボンネットやフロントガラスに打ち付ける雨音が結構大きくて、会話の無い車内を上手く紛らわしていた。

「傘、持って来てる?」

「・・・・・・」

「雨降るなんて、言ってなかったよね」

「・・・・・・」

相槌のない雪子に、まだ守屋が話し続ける。

「車にビニ傘積んでたかな。それ有れば持ってって使ってよ」

信号で止まった車の中で、小さく守屋の溜め息が聞こえる。

「話もしてもらえない位、俺嫌われちゃったんだね」

窓の外へ顔を向けていた雪子の耳にその言葉が届くと、無性に悲しい気持ちが込み上げてくる。嫌いになった訳じゃない。ただ噂話に踊らされているだけだ。本当かどうかも分からない守屋の過去を聞かされて、勝手に守屋幹夫って人を信じられなくなって、戸惑っているだけなのだ。それなのに、訳も言わず ただだんまりを決め込み、守屋を傷つけている。雪子はそんな自分が、卑怯で弱虫で大嫌いだ。

 雨がどんどんと激しくなっていて、守屋が遠慮がちに提案する。

「随分強く降ってきたから、家まで送ろうか?どうしても、どっかの駅で早く降りたければ、そうするけど・・・」

すると雪子が口を開く。

「こうやって、他の人も乗せてるの?」

急に話し出した雪子の方へ、思わず守屋が顔を向ける。

「他の人って・・・?」

雪子は、醜い嫉妬心や疑り深い自分が今の言葉に全て出ているみたいな気がして、言った事を少し後悔していた。しかし口から出てしまった言葉はもう戻らない。

「他の・・・女の人とか」

馬鹿だ。そんな事を聞かれて『はい』なんて言う人は居ない。それなのに後先考えずに下手な質問をした自分を恥ずかしく思う雪子。予想通りの守屋の答えが返ってくる。

「乗せたりしてないよ。・・・どうして?」

一度乗りかかった船だ。しかも自分から出した船だ。雪子は流れに乗って会話を続けるしかなかった。

「この前のストラップ、知ってる人がいたから・・・」

「・・・あぁ」

少し考えてからそう答える守屋。雪子は、どんな理由をくっつけてくるのか、そんな気持ちで守屋の出方を待つ。

「事務所に車のキー掛けとく所があるからね。もし緊急で車移動させる時に、他の人でも車動かせる様に」

雪子が思っていた様な言い訳と少し違っていて、守屋の言った内容を簡単に納得しそうになる自分がいる。

「誰かに言われたの?」

こうやって疑っている人物を聞き出そうとしているのかもしれないと、再び雪子の心に警戒心が戻る。何も話さない雪子に、守屋が言った。

「じゃ、そこから キーに付いてるストラップ見える?」

助手席に座る雪子が、恐る恐るハンドルの右側にあるキーの差込口辺りを見る。

「・・・見える?」

見えない。雪子は少しホッとしている気持ちと同時に、岡田との仲を疑った自分が恥ずかしくなる。しかし、それをどう言ったらいいのか分からない。疑ってごめんなさいと言うべきなのか。でも雪子には、まだ大きな疑問は残ったままだ。

「誰かに、俺との事、何か言われたの?」

その質問に返事をせず、雪子は俯いて言葉を出した。

「私・・・守屋さんの事・・・信じられてない。ごめんなさい」

言いながら、雪子の頭の中では先日の 立川での過去の噂について話す岡田の声がリプレイされている。その言葉を受けて、暫く走ったところで 守屋が路肩に車を停めた。

「何でも聞いて。俺正直に答えるから。ユキが知りたいって思う事、どんな事でもいいから聞いて」

そう話して、守屋はハンドルから手を下ろした。が、いきなりそう言われたところで この間の噂話を言い出す勇気は雪子にはない。

「・・・ない」

雪子の声が小さくて、外の雨の音に掻き消されてしまう。守屋が聞き返す。

「ん?ごめん、もう一回言って。聞こえなかった」

雪子は首だけを横に振った。再び車の中が異様な無言状態になる。雪子は思い切ってシートベルトを外すと、守屋が少し慌てた声で呼び止めた。

「ここ、駅じゃないから。近くの駅まで送るから、そこまで乗ってて」

守屋が再びエンジンをかける。しかし雪子はまだベルトをしない。

「今降りたら、道迷っちゃうでしょ。何も話さなくていいからさ、ベルトだけして。車動かすから」

仕方なく雪子はベルトをすると、そのまま車はスーッと動き出した。

 数分走った後で、二人を乗せた車は少し明るい場所で止まる。雪子の家の最寄り駅より3つ手前の駅だ。

「ここでいいの?」

守屋は終始変わらない調子で接しているが、やはり声は悲しそうだ。顔を見ない雪子には、声だけで相手の様子を感じ取るから余計だ。

「ごめんなさい」

それだけ最後に言うと、雪子はベルトを外した。

「傘あると思うから、待ってて」

運転席のドアを出て、守屋はトランクを開ける。中からビニール傘を一本取り出して、助手席の方へ回る。雨は容赦なく守屋を濡らす。助手席から降りてきた雪子に、広げた傘を差し出した。しかしなかなか手を出さない雪子に、守屋が少し笑顔で言った。

「これ、返さなくていいから」

傘を雪子の上に差し出しているから、守屋の背中に雨がひっきりなしに打ち付けて、あっという間にびしょ濡れだ。

「風邪、ひかないで帰ってよ」

「ごめんなさい・・・」

色んな気持ちが入り混じって、上手く伝えられない雪子がもう一度謝ると、守屋は傘の柄を握らせて微笑んだ。

「こっちこそ、今日はごめんね。無理矢理車に乗ってもらったりして」

傘に落ちた雨粒が大量の雫となって傘を滑り落ち、守屋の肩を濡らしているのに雪子が気付く。少し傘を傾けて守屋を雨から守る。一つの傘に収まるには近い距離を敬遠して、雪子が後ずさりする。そんな様子に目ざとく気付いた守屋が言った。

「ずぶ濡れになる前に、早く行きな」

傘を雪子の上に傾けると、守屋は運転席の方へ回った。

「じゃあね。お疲れ様。家まで送れなくてごめんね。気を付けて帰って」

そう言って運転席のドアをバタンと閉めた。


 守屋を深く傷つけた罪悪感という重たい心を抱えて、雪子は電車を下りる。土砂降りの中 家までの道へ踏み出す一歩が少々躊躇われる。雨が本降りだからではない。むしろ今の雪子は、この雨に濡れた方が少しは心の黒い影が洗い流されて良い様にさえ思う。家に着いたら、きっと何もなかったみたいな顔をして、日常という時間に巻かれなければならないのだ。心の整理が出来ない今の雪子は、それを思うと足取りが重たくなる。あんなに中途半端で卑怯な態度を取ったのに、最後まで優しく紳士に傘まで貸してくれた守屋の何を疑って、何が信じられないとぼやいているんだろうと、雪子は自分を見失いつつあった。

 守屋に借りた傘を広げ、駅の屋根から出ようとしている雪子に、横から声が掛かる。

「雪ちゃん?」

男の声だ。一瞬にして気持ちを現実に呼び戻したその声の主は、雪子と同年代の風貌の男だ。

「俺、春樹。青柳春樹。夏子の弟」

「え~?!」

思わず信じられない気持ちで、声だけが出る。

「星野雪子ちゃんだよね?」

「うん。・・・本当にハルちゃん?!」

雪子は遠い昔の記憶の中の春樹と、目の前の春樹を重ね合わせる。まだ本人と信じられないでいる雪子の様子から、春樹が左目の下のほくろを指差した。

「ほら。これ、覚えてる?泣き虫泣き虫ってよく姉ちゃんに馬鹿にされてたほくろ」

そのほくろを中心に、今の春樹と15年近く前の春樹の顔が重なっていく。ぱあっと明るくなった雪子の顔を見て安心すると、春樹はすかさず言った。

「傘、持ってないんだ。一緒に入れてくんない?」

「あ、もちろん。いいよ。一本しかないけど」

こうして二人は家までの道を、一つの傘に肩寄せ合いながら歩く。

「よく分かったね、私って」

「この前、家の前で見掛けたから」

にこっと笑った春樹が隣へ顔を向ける。そして傘に手を伸ばした。

「俺、持とうか?」

「背、伸びたね、ハルちゃん」

そう言いながら、傘が春樹の手に渡る。

「この前、家の前で車に一緒に乗ってた人、雪ちゃんの彼氏?」

唐突な質問に、雪子が戸惑う。

「あれ?言えない関係?」

「そんなんじゃないけど・・・」

「上司?」

「うん」

「今何の仕事してんの?」

「老人ホームの食堂の厨房で働いてる」

「へぇ~。そこの人なんだ、彼」

春樹のその『彼』という言い方が、『彼氏』というニュアンスなのか『あの男の人』というニュアンスなのかが曖昧で、雪子も返事を迷う。

「で、いつから?」

「え?仕事?」

「違うよぉ。その彼とは、どの位付き合ってんの?」

「・・・去年の年末から」

「おお!じゃ、今が一番楽しい時期じゃん!」

そう言われ、急に雪子はさっきの気まずい車の中を思い出してしまう。

「あれれ?そうでもないの?」

「ちょっと・・・色々あって・・・」

「もしかして、職場にバレちゃったとか?」

「ううん」

「じゃあ・・・奥さんにバレたとか?」

「やだ!不倫なんかじゃないよ!・・・多分」

即座に否定しておきながら、どこまで彼の言葉を信じるか分からなくなっている雪子は、少し控えめに『多分』と語尾に付けてみる。

「相手、いくつ?」

「38」

「おお~。バツイチ?」

「違う・・・と思う」

「なんか、全部が不確かなんだね。確認しないの?」

「彼は聞けば多分正直に話してくれる人だから・・・彼が言う事を、まずは信じてみようって思って・・・」

「お人好しだなぁ。そんなんだと、騙されちゃうよ」

「でも・・・本当の事聞くのって、怖いじゃない」

「そんだけ好きなんだね」

そう言われて、雪子は自分の気持ちに目を向ける。そこへ畳み掛ける様に、春樹が言った。

「奥さんが居たって、バツイチだって、この人が好きって思ってる証拠でしょ。極端な話さ、この人の過去がどうであれ、好きは好きって事でしょ。だから確認できないんじゃないの?」

「ねぇハルちゃん」

雪子が聞いた。

「もしさ、相手の悪い噂を耳にしたらどうする?信じる?信じない?確認する?」

「悪い噂かぁ・・・。内容にもよるけど・・・。俺は基本、自分の見た物感じた物しか信じない様にしてるから」

「へぇ~、ハルちゃん大人」

「一応、成人したんで」

ニコニコする春樹の顔は、やはり昔の面影がある。

「ハルちゃんは今、彼女いるの?」

「いるよ」

「へぇ。どんな子?」

「同い年。サークルのコンパで知り合って、もうすぐ半年になる」

彼女の話を嬉し気にする春樹を、少し羨ましく思う雪子だ。

「楽しそう・・・ハルちゃん」

「楽しいよぉ。雪ちゃんも、同じ位の男と付き合えばいいのに。過去がどうのとか、そんな重たい悩みなくなるよ。馬鹿言って笑って、下らない事でも面白半分でやってみたりして。同じ位の歳だと、お互いの経験値も同じ位だからさ、初めての事も一緒。何でも一緒を共有できるって良さはあるよね。見栄張る必要も背伸びする必要もないし」

春樹の話す内容は、全てもっともだ。

「楽しくなくちゃ、付き合ってる意味ないでしょ」

春樹の話を聞いていると、段々と今居る世界を飛び出して、新しい世界に逃げて行きたくなる雪子だ。そんな自分にブレーキをかけるつもりで、雪子は話題を変えた。

「夏子ちゃん、元気にしてる?」

「あの人は、相変わらず元気ですよぉ」

「この間実家に帰ってきてたって?車が停まってたって、お母さんが言ってた」

「そうそう。滅多に帰って来ないのに、この間は旅行のお土産だとか言って持って来た」

「会いたいなぁ、久し振りに」

「言っとくよ」

気付くと、あれだけ強く傘に打ち付けていた雨が、小降りになってきている。二人の分かれ道に来て、雪子が言った。

「傘、持ってく?」

「まさか。あっ、でもその代わり、連絡先交換しよ」

「いいよ」

二人は携帯を取り出して立ち止まり、連絡先を交換する。

「こうやってさり気な~く、女の子の連絡先ゲットしてんだぁ、きっと」

「こんな当たり前の事に感心してるようじゃ、雪ちゃんマジやばいよ。耐え忍ぶ演歌みたいな恋愛してる内に、あっという間におばさん化しちゃうよ~」

手を振って別れた後も、終始楽しそうだった春樹の残像が雪子の頭に残るのだった。



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