第3話 反対から見た景色
夏子が仕事の休みに実家に帰る。正月以来だ。同じ東京都内でありながら、そうそう実家に顔を出さない。しかし弟達とは仲良しで、ちょくちょく連絡は取っている。きっと実家でも、弟達から夏子の様子を聞いているから、そうそう不必要に心配もしないのだろう。
夏子の実家は現在、お婆ちゃんと両親と弟達二人の5人で暮らしている。昔っからお婆ちゃんと母親の仲が悪い。父親は建設会社を知り合いと共同経営していて、生活に不自由させてないという奢り高ぶった気持ちが前面に出ていて、家の中でも威圧的な人だ。ワンマンで口の乱暴な父に、無言で抵抗し続けられる程メンタルの強い母の間で育った弟達は、夏子の目から見てもやはり少し貧弱だ。
現在20歳の春樹は大学生。末っ子の弟 冬馬は18歳で、つい先日高校を卒業してアニメーションの専門学校に進学したばかりだ。冬馬は昔っから漫画やアニメが大好きで、中学生の頃にはなかなか完成度の高い作品を描いていた様な子だ。そんな冬馬は学校から帰って夕飯を済ませると、すぐに部屋にこもってしまう。学校の課題をやっている時もあるのだろうが、大半は大好きな趣味の時間に費やしている。
一方春樹は、大学には入ったものの これといって目的もない。言ってしまえば、世の中に出るまでの時間稼ぎの様なものだ。
『大学に入って、幅広く色んな知識や人に触れて、自分の将来をじっくり考えたい』
そんな口の達者なところは、一体誰に似たのだろう。大学に入ってから精を出しているのは、小遣い稼ぎのアルバイトと、コンパだ。毎晩毎晩よくそれだけ遊ぶ相手がいるものだと感心する程、まっすぐ家に帰った試しがない。
75歳になるお婆ちゃんは、未だ嫁いびりも現役だ。一切家事をしないお婆ちゃんは、日中ご近所のお友達と 曜日によってカラオケだ、ゲートボールだ、ヨガだ、健康麻雀だと活動的だ。一体このエネルギーはどこから来るのか、知りたい程だ。
そんな皆が思い思いのバラバラの家族の中で、母は黙々と家事をこなしている。いがみ合っている姑の物と言えども、洗濯をし、ご飯の支度をし、部屋の掃除もする。夏子はそんな母を、何が楽しくて生きているのだろうと思っているのだった。
夏子が珍しく帰宅した日の夕飯に、弟達も集まる。相変わらずお婆ちゃんとお母さんの間には ピンと張り詰めた空気が漂っているけれど、春樹も冬馬も慣れっこで、お構いなしに夏子に話題を提供する。
「そうだ。この前さ、雪ちゃんだっけ?えぇっと・・・子供ん時、よく一緒に遊んだ姉ちゃんの友達」
「あ、星野雪子ちゃん?」
「そうそう。あの子見掛けた」
言い出しっぺは春樹だ。
「何時頃だったかな、夜の・・・9時頃だったかな。雪ちゃん家の前に車が停まっててさ、男と一緒だった」
「彼氏じゃないの?そん位いてもおかしくないでしょう」
「それがさぁ~」
そう言って春樹は、少し声のボリュームを絞った。
「その男がさぁ、結構年上っぽくて・・・」
「会社の上司とか?」
冬馬が聞く。
「いやぁ~、訳ありって感じしたなぁ。不倫とかね」
夏子が一瞬ドキッとしていると、そこまで黙って聞いていた母が口を開く。
「憶測でそういう事言うもんじゃないよ」
夏子もそれに乗っかる。
「そうだよ。あの雪子ちゃんだよ。そんな訳ないよ。あんた、ドラマの見過ぎでしょ」
「不倫なんて、今はどこにだって転がってる話だよ」
春樹がそう言った事で、話の矛先が急に夏子に向く。
「あんたは大丈夫なんでしょうねぇ?」
母の視線が急に鋭く感じる夏子。
「私?しないよ、そんなの」
この時ばかりは祖母も夏子をじっと見ているから、内心緊張が高まる。それを吹き飛ばすかの様に、夏子が春樹にクレームをつける。
「春樹、あんたのせいで、私まで疑われちゃったじゃないのよぉ!」
「やましくないなら、別にいいじゃん」
「やましくなんか、無いわよ!でも親に疑われるのは、気分の良いもんじゃないし」
「確かにね~」
冬馬が合いの手を入れる。そこへ春樹が、更に話を広げる。
「姉ちゃんは不倫しても、相手を別れさせて奪い取るまでしそうだな。同じ不倫でもさ、雪ちゃんは じっと耐えて陰の存在を甘んじて受ける・・・みたいな感じする」
春樹の勝手な先入観に基づく想像にしか過ぎないのに、母が夏子を睨んだ。
「駄目だからね、絶対そんな事したら」
一瞬どきっとしてひるむ夏子が、春樹に八つ当たりをする。
「あんたが余計な事言うから、怒られちゃったじゃない!」
イヒヒヒと悪戯に笑う春樹の向かい側で、祖母が顔を上げないまま言った。
「お婆ちゃんも爺ちゃんに散々苦労させられたわ」
その一言で、皆が一斉に祖母に釘付けになる。皆の視線が集まったところで、祖母は笑った。
「今さら、墓の中から謝られたって許さないけどね」
こんなブラックジョーク、本人しか笑えない。皆が相槌に相応しい言葉を探していると、母が淡々とした調子で言い放った。
「あら、じゃあ浮気するのは青柳家の遺伝なんですね」
夏子をはじめ、弟達二人も母の発言に言葉を失う。すかさず祖母が応戦する。
「ま、昔は二号さんを囲うのは、甲斐性のある男の象徴だったからね」
「じゃあ、お義父さんの浮気をお許しになられたらいかがですか?もう亡くなった人の事恨むなんて、性根を疑われますよ」
「だから私は当時、一っつも文句なんか言わなかったよ。今の若い人は、旦那に食べさせてもらってる割に偉くなっちゃって、その位の事でガタガタ男に文句言うんだから」
そこで春樹がボソッと言った。
「今はそんな男尊女卑な時代じゃないんだよ」
しかし、それを春樹が最後まで言い終わる前に 母が祖母に言い返す。
「だから、私も一切文句なんか言ってません。気が済むまでおやりになって下さいって思ってますから」
末っ子の冬馬は口がぽか~んと開いてしまっている。女の逞しさというか、図太さを見た様で、少々戸惑ってもいた。
その日の帰り、車を運転しながら夏子は母と祖母のやり取りを思い出していた。どちらも旦那の浮気に苦労した嫁の言葉だった。もし村瀬の奥さんが、夏子の存在を知りながらも 母の様に『気が済むまでおやりになって下さい』って思っていたとしたら・・・。敵うわけのない絶対的な力を感じる夏子だった。今までは、少し家庭の方に比重を置こうとする村瀬に対して 必死で自分の存在を主張していたが、今日の会話を聞いて、家族の側から見た意見が胸に刺さる。旦那の愛人の存在に長年耐えてきた祖母や母。その苦しめた存在を 今やっている自分。そんな事を思うと、夏子はとてもこれからは今までの様な気持ちで 村瀬との関係を続ける事は出来ないと思うのだった。
***
遅番の仕事を終えて、雪子が家に帰り着く。先日守屋と行った高尾山で買ったストラップの揺れる鍵で玄関を開ける。雪子は、このストラップを見る度に、嬉しい気持ちになる。きっと無意識の内に頬がほころんでしまっていたのだろう。玄関に出てきていた母が、そんな雪子の様子に気付く。
「どうしたの?何かいい事あった?」
「え?別に・・・」
「嬉しそうな顔して帰ってきたから」
雪子は自分でもその理由を分かっていた。だから慌てて頬を引き締めた。
「あっ、そうだ。今日久し振りに夏子ちゃん見掛けたわ」
「夏子ちゃんって・・・あの、夏子ちゃん?」
「そうそう。青柳夏子ちゃん。小学校一緒だった」
「え~?元気だった?」
「お家に帰ってきてたみたい。車から降りて家に入る所見掛けただけだから、そんなじっとは見てないけど」
「変わってた?」
「ううん。印象は同じ」
「へぇ~、会いたいなぁ」
「今行ってみたら?黄色い車が停まってたら、まだ居ると思うよ」
『こんな時間に?』と言いながら、雪子は母を無理矢理連れ出して夏子の家の前に来る。車はもうない。少し期待していた雪子だったから、がっかり肩を落としたのは言うまでもない。そんな雪子に母がポンと肩を叩いた。
「綺麗な半月」
雪子は空を見上げながら考える。
「あれ・・・これから満月になるのかなぁ・・・」
「どうだろう?」
「・・・なるといいなぁ」
夜空を見上げた雪子の瞳はキラキラとしていた。
今日守屋は夜勤だから、電話はない。そう思って、雪子は自分からメールをする。
『この前話した幼馴染の夏子ちゃんが、今日実家に来てたって母に聞いたから、さっき家の前まで行ってみたんだけど、もう車無くて。久し振りに会いたかったなって思ったんだけど、残念』
毎日一日一回は連絡を取り合っていた二人だが、今日は守屋の夜勤だから、雪子はその代わりにと今日の報告をする。仕事中だから返事なんか期待しない。そう思っている筈なのに、雪子は夜中と早朝、気になって携帯を確認する。が・・・結局返事は来なかった。