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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
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第29話 真夏の夕立


『守屋さん、どうして私と一緒に居てくれるの?』

土曜の夜、守屋が夜中の見回りを終えて事務所に戻ると、携帯に雪子からメッセージが届いている。この一文を読んだだけで、守屋の手が止まる。しかし続きがあった。

『今日、本当はずっとこれを聞きたくて、でも結局言い出せませんでした。その答えが、想像してる通りだったら怖いから。でも、守屋さんの貴重な時間をズルズル奪うのはいけないって分かってる。守屋さんからはきっと言えないから、私から言わなくちゃいけないって思います。だから、今度 時間を作って下さい。お願いします』

こんな真夜中に、覚悟めいたメッセージを送ってくるのだから、きっと又眠れていないのだろうと雪子を案じる守屋だ。しかし、返信の言葉がまとまらない。だから守屋は、短いメッセージを送った。

『きちんと話したいと思う。でもその前に、自分の気持ちを整理する時間が欲しい』


 8月も半ばに入った頃、雪子の母が嬉しそうにチケットを雪子に見せる。

「野球のチケット3枚貰っちゃった。凄く良い席みたい。三人で行かない?」

「いつ?」

「来週の金曜日」

「金曜日?!お父さん、居ないじゃない」

「お父さんじゃないわよ。所長さんと三人で」

当然雪子が固まる。あのメッセージ以来、守屋とは一週間近く連絡を取っていない。

「守屋さん・・・その日駄目だと思う」

「聞くだけ、聞いてみてよ。ちょっと遅れて来たっていいんだから」


幹夫が祐司の部屋であぐらをかいている。先週から会社に復帰した祐司だ。順調に回復しているのを、幹夫が安心した顔で眺める。祐司の顔にも少し凛々しさが戻っている。

「兄ちゃんの彼女も、良くなってる?」

その質問に、守屋の表情が一瞬で変わる。

「何かあったの?」

心配する祐司に、守屋が俯きがちに言った。

「好きだけど、結婚していいのかが分からなくなってて・・・」

「あれ?兄ちゃん前、彼女と結婚考えてるって・・・」

「そうなんだけど・・・」

「・・・やっぱりお母さんの言う様に、神経の細い子と家庭を持つの、不安になったの?」

守屋は首を横に振った。

「むしろ俺のせいで彼女を苦しめたんだって思ったら・・・幸せにする自信、なくなった」

祐司は黙ったまま聞いている。

「彼女の事は幸せにしたいし、今でも好きだけど・・・自分が傍に居るのが良い事なのか、分からなくて・・・。煮え切らない男だね」

「兄ちゃん、疲れてるんだよ。少しゆっくりしたら、また今までみたいな気持ちに戻れるよ」

「そうかな・・・」

幹夫が首を傾げる。ベッドに腰かけていた祐司が床にストンと下りて、少しだけ身を乗り出す。

「彼女とどっかゆっくり旅行でも行ってきたら?」

「・・・こんな気持ちで旅行なんか行けないよ」

祐司がそれまでの笑顔をしまった。

「二人きりで長い時間過ごすのが、窮屈なの?」

「そうじゃないよ」

「じゃ、なんで?」

「・・・無責任だよ・・・」

幹夫はまた俯いた。

「俺がもっと若きゃ、好きなだけでつき合えたのにな・・・」

祐司が黙ってじっと幹夫を見つめた。すると、幹夫は顔を上げておどけてみせた。

「俺の気持ちに迷いがあるから、もう好きじゃなくなったって思わせちゃってるし」

「・・・『好き』って言ってもらいたいだけじゃないの?」

「俺だって、自分の気持ちをどう伝えたらいいか分かんないよ・・・」

「・・・・・・」

「このままだと俺、彼女に別れ話させる事になる・・・。ずるいよね」

すると祐司が、少し低い声で言った。

「兄ちゃんはいいの?別れても」

「よくはないけど・・・。でも彼女のこれからを考えたら、もう中途半端に好きだって言わない方がいいのかもしれない、とも思うし・・・」

幹夫はもう少し声のボリュームを下げて続けた。

「彼女への気持ちは薄れてないのに、正直 ふと癒しの香りがする方に気持ちが傾きそうになる自分もいる」

「・・・・・・」

「こういうとこ、親父の血なのかなって思うと・・・無性に、どうしようもなく悔しくなる」

「・・・・・・」

「二つ別の心があるみたいで、すっごく嫌だ」

嫌悪感丸出しの顔で、吐き捨てる様に言い放つ。祐司が遠慮気味の声で話し掛ける。

「兄ちゃんは違うよ、お父さんとは全然」

首を横に振って幹夫が言った。

「俺みたいなの、結婚不適合者だよな」

「そんな事ないよ」

「きっと俺みたいなのは、癒される家庭があっても、他に好きな人作ったりするんだよ」

「兄ちゃん、今他にも好きな人がいるの?」

「いないよ。いないけど・・・」

「じゃ、お父さんと一緒なんかじゃないよ!結婚不適合者なんかでもない!」

ムキになる祐司だ。

「結婚の事なんか考えないで、今好きならそれでいいじゃない?普通に出掛けたり旅行したりしてるうちに、彼女の事 かけがえのない存在だって分かるかもしれないしさ」

「一人娘だし、向こうのご両親も交えた付き合いになっちゃってるから、あんまりいい加減な付き合い方は出来ないよ」

「出掛けたり旅行行くのが いい加減な付き合いって言わないでしょ?好きで真面目に付き合ってるんだから」

「親の気持ちになったら、そうはいかないよ」

幹夫は両手で顔を覆って、籠った声で言った。

「こんな事、やっと仕事に復帰したばっかりの今、言う事じゃないよね?」

そして覆っていた手を下ろして、顔を上げた。

「どう思う?」

祐司が言いにくそうに、頭を掻いた。

「・・・不安なままも良くないとは思うけど・・・今の話 全部言われたら・・・受け止める自信、僕ならないな」

「・・・だよな」

首をうなだれる幹夫に、祐司が謝った。

「・・・ごめん」

それでも幹夫がなかなか顔を上げないから、祐司が少し呆れた様に溜め息を吐く。

「兄ちゃんって、結構うじうじしてんだね」

祐司の言葉にびっくりして、幹夫の開いた口が塞がらない。

「頭が固いっていうか、古いっていうか」

幹夫は何か言いたそうだが、口が開いたままだ。

「そんな事ばっか言ってると、彼女に本当に愛想尽かされちゃうよ」

「祐司も結構言うねぇ・・・」

祐司が笑った。

「この位言わなきゃ、兄ちゃんの重たい腰上がらないでしょ?」


 雪子の休みに守屋が合わせ、車で待ち合わせに現れる。今日が守屋と会う最後の日になるかもしれないという薄っすらとした予感を抱いている雪子は、助手席でもぎこちない。車の中で守屋が話を切り出すのではないかと心が怯える雪子の呼吸が、次第に乱れてくるのが分かる。耳もぼーっとしてきて、そうなると雪子の心臓は急に鼓動を早めてどうしていいかが分からなくなる。必死に呼吸を整えようとする雪子を隣に感じ、守屋はゆっくりとした調子で言った。

「この前行った土手、行ってみようと思うけど」

黙って頷く雪子だが、更に予感が確信に変わっていく。この前行きたいと言った土手に、最後に連れて行ってくれるつもりなのだろうと思うと、雪子の心は穏やかではいられない。

「どう?仕事。慣れた?」

普通の会話をする守屋に、申し訳なさが募る雪子だ。

「うん」

「新しく厨房に入った4人の中に18歳と19歳が居るんだけどね。その二人が仕事の合間の休憩の時も終わった後も、とにかく携帯で写真ばっかり撮ってるんだって。自撮りしたり、なんか加工するアプリで撮ったり、とにかく何でも写真に撮って盛り上がってるって安達さんが教えてくれたよ」

軽く笑ってしまう位の話題を守屋が提供する。

「ユキも友達と写真、いっぱい撮る?」

「私は、そんなに撮らないかな」

「安達さんがね、『星野さんも若いと思ってたけど、全然違うって。落ち着いてる子だった』って」

雪子が微妙な顔つきをする。だから守屋が少し笑いながら助手席を見た。

「ユキも同い年の友達と一緒だと、やっぱり若者のノリになるのかな?」

「自分では、使い分けてる訳じゃないから・・・わからない」

「そりゃ、そうだね」

笑う守屋の声だけが、車の中で浮いていた。


 土手までの車中がこれほど長く感じなかった前回が、もう遠い昔の事の様に感じる。ようやく着いた時には、雪子はまるで今まで息を止めていたかの様に 大きく息を吸い込んだ。そんな雪子を悲しくチラッと見ただけで、その事には触れずに守屋が明るい声を出した。

「ユキ、日傘持って来てる?きっと、めっちゃ暑いよ」


 日傘を差しているからか、それとも心の距離があるからか、二人の間の隙間が大きい。その上、守屋は両手をポケットに入れて歩いている。その見えない手をじっと見つめていると、雪子の目には自然と水分が溜まってくる。守屋と最後に手を繋いだのはいつだろう。そんな事を思い返してみる。数える位しか手を握った記憶が無いから、きっと別れて少ししたら、もう守屋の手の感触など思い出せない程になってしまうんだろうと考えながら、隣を歩く雪子だ。あと三年、いや一年もしたら、守屋の人生の中で自分と過ごした時間なんかきっと忘れ去られてしまうのだろうと思うと、無性に悲しくなるのだった。守屋の人生の記憶をアルバムにしたら、きっと写真一枚登場するかどうかといった位の存在感だ。そんな自分に勝手に溜め息をつきながら、雪子は多摩川を眺める。守屋がいつ『この辺でちょっと話そうか』と言い出すか 恐れながら。夏の南の空に高く昇った太陽が、雪子の気持ちなどお構いなしに、川面をキラキラと照らしている。

 一体どこまで歩くのだろうと 雪子が疑問に思った頃、守屋が伸びをしたから、雪子も一瞬で身構える。

「ちょっと、休憩」

守屋がその場の芝生に腰を下ろす。雪子は 隣に座ったらとうとう別れ話を始めなくてはいけないと思うと、なかなか体が言う事を聞かない。ずっと立っている雪子を見上げて、守屋が言った。

「ユキも座ったら?」

返事に困る。座らない理由なんか見つからない。だからと言って 突っ立っているのも変だ。雪子がなかなかな座らないでいると、守屋がその場に寝そべった。眩しいから顔の上に腕を乗せている。そんな守屋を見ていると、前にここに来た時にした膝枕を思い出して、今のこの距離感に涙が溢れそうになる。

「ユキ・・・」

腕で顔を覆ったまま、守屋がそう呼び掛けた。瞬間的に身構える雪子だ。とうとうこの瞬間が来てしまったのだと、覚悟を決める為大きく息を吸い込んだ。返事がないから、守屋がもう一度名前を呼ぶ。

「ユキ・・・?」

腕を顔から下して眩しそうに眼を開ける守屋。さっきと同じ場所で立っている雪子を見て、又呟いた。

「居ないのかと思った」

「いるよ・・・」

「・・・返事が聞こえなかったから」

眩しそうな守屋の顔に日傘で影を作る雪子だ。

「ありがとう」

そう言って、守屋は体を起こした。体育座りをする守屋の脇で立ったままの雪子だ。

「疲れない?座ったら?」

雪子はとっさに首を横に振って、川の方を指差した。

「ちょっと、下降りてくる」

その場の空気に耐えられなかったからだって事位、バレバレだ。しかしそれでも雪子は、隣に座らない選択をする。逃げてたって仕方ないのにと自分に言いながら。雪子がゆっくりと土手を下り始めると、守屋が腰を上げて、その後をついてくる。

「一緒に行く」

青臭い草の香りが鼻に届く。

「夏の香りだね」

守屋が明るい声で言った。本当は真剣に向き合って話さなくちゃいけない事があるのに、いつまでこうして無難な世間話を続けてごまかすのだろうと思う自分と、最後の思い出を一つでも多く残したいという気持ちとが 雪子の中で入り混じる。じっと動かない時間が流れると、守屋から別れを切り出される気がして 呼吸がおかしくなって、かえって守屋に言い出しにくくさせてしまうからと、雪子は何かから逃げる様に川の淵を歩き続けた。

「ユキ・・・」

一回目で止まらない雪子の腕に、そっと守屋が手を伸ばした。

「ユキ」

雪子はようやく立ち止まって、一回大きな深呼吸をしてから守屋の方を振り返った。

「ごめんね、守屋さん」

守屋が言い出す前に自分から、そう決めていた雪子が切り出す。しかしその一言を口に出した途端、涙が次から次から溢れ出すから、雪子は無理に笑って首をぶんぶんと振った。

「違うの。なんか・・・ごめんなさい」

そう言った後、何回か深呼吸をして涙を止めると、雪子はまた自分から話し始めた。

「気持ちが遠いなって感じてたのに、もう会えなくなっちゃうのが怖くて、守屋さんの優しさに甘えて・・・離れちゃった気持ちに気付かないフリしていようってずるい自分がいたけど、やっぱりそれじゃいけないって思ったの。守屋さんの貴重な時間をズルズル奪うのは、良くないって分かってるから。守屋さんは優しい人だから、私の事心配で・・・また症状が悪化したらって思って きっと言い出せないから、私から言わなくちゃって・・・」

「ユキ・・・不安にさせて、本当にごめん」

雪子が首を横に振る。

「俺・・・ユキに謝らなきゃいけない」

雪子の心臓が早く、そして強くなる。

「俺、結婚には向いてないと思う」

「・・・・・・」

「結婚したいなんて前に言っておきながら・・・本当にごめんなさい」

頭を下げる守屋を見つめながら、雪子が声を掛けた。

「うちの両親に会わせたり、一緒に食事なんて行っちゃったから、守屋さん追い詰めちゃったんだね。ごめんなさい」

「ユキのせいでも、ご両親のせいでもないよ。俺が・・・ただ単純に結婚不適合者なんだと思う」

その悲しい響きを吹き飛ばしたくて、雪子が少し大きな声を出す。

「そんな事ない。守屋さんは・・・そんな人じゃない。優しいし、こんな私の事ずっと励まして支えてくれたし・・・家族想いだし、色んな責任から逃げ出さないし・・・」

ゆっくりと首を横に振る守屋だ。だから雪子は切り札を出した。

「前に佐々木さんとその息子さんと一緒に居るの見た時、凄く絵になってた。きっとあんな家族を作るんだろうなって。だから・・・結婚に向いてなくなんかない」

急に守屋の瞬きが止まる。

「そんな風に思わせてたんだね・・・」

雪子は笑ってごまかした。

「佐々木さんには どこの部分比べたってかないっこないのに・・・馬鹿みたいに羨ましくなっちゃって・・・」

「・・・ごめん」

あの瞬間、ほんの少しでも居心地の良さを感じた自分を 守屋は責めた。俯く守屋に、雪子が悲し気に言った。

「私・・・守屋さんに、もっと女性として見てもらえる様になりたかった」

その言葉に守屋は顔を上げて、雪子の目をじっと見た。

「見てるよ。ちゃんと一人の女性として」

雪子は悲しく笑って首を振った。

「ううん。守屋さんは多分私の事・・・妹とか・・・娘とか・・・部下とか・・・そういう無条件に守らなきゃならない人っていう風に・・・」

そこまで聞いて、守屋が雪子をぎゅっと抱きしめた。

「違う。そりゃ、守りたいって思ってたけど、妹とか娘とかじゃない。ちゃんと一人の女性として愛して・・・」

そこまでで、雪子は自分から体を離した。

「守屋さん・・・私、まだ心の準備が出来てないから・・・こんな風にされたら・・・混乱しちゃうよ」

「・・・そうだね」

今目の前で優しくしてくれる守屋が、次に会った時には 以前守屋の実家で見た景子にしていたのと同じ様に あんな冷たい態度を取られるのかと思うと、雪子の胸は一杯になる。それを思うと、なかなか最後の言葉が言えないのだった。

「今まで・・・」

その先が喉が詰まって言えない。息は吸えるが、吐いたら涙も一緒に出てしまいそうだ。すると、それまで黙っていた守屋が、急に雪子の手首を掴んだ。ただ次の言葉は出ない。それを察して雪子が間を埋める様に話し始めた。

「私 守屋さんと一緒に居られて、凄く幸せだった。どんな私でも受け止めてくれた守屋さんのお陰で、いつどこに居る時も 心は繋がってるって思えた。本当、幸せだった。ありがとう」

「・・・これから・・・大丈夫?」

「守屋さんが私の事 嫌いになるまで一緒に居たいって思ってたから・・・その時が来たんだと思う」

雪子が絞り出す笑顔を、守屋の握る手が止めた。

「ユキの事、嫌いになったんじゃないよ」

零れ落ちそうになる涙を、瞼をぎゅっと閉じて封じ込めた。

「守屋さん・・・もう優しくしちゃ駄目だよ・・・」

「・・・・・・」

雪子は日傘を下ろして、顔を空へ向けた。青空に白く薄っすらと昇る月が見える。意外にも満ちていく月だ。あと数日で満月を迎える そんな月を眺めながら、雪子がボソッと零した。

「欠けてく細い三日月かと思ったら・・・意外」

守屋も真昼の月を見上げる。

「守屋さんの再出発を応援してるのかな」

「ユキのだよ」

返事をしないままにして、雪子は聞こえる様に大きく息を吸った。

「帰ろうかな・・・」

下りてきた土手を昇り始める雪子の後を、守屋が歩く。広い土手の中腹に寝転ぶカップルがいる。膝枕をしているのを見て、思わず まだ若い記憶が蘇る。目を伏せてその場を過ぎると、雪子が携帯を取り出した。少しして、雪子はすぐ後ろを歩く守屋を振り返って言った。

「ここから駅まで歩けそうだから、私電車で帰ります」

「送ってくよ」

守屋の悲しい顔を雪子は見ないふりをした。そして笑ってみせた。

「私の気が変わって、別れたくないってしがみついたら困るから」

「・・・・・・」

「気持ちの整理しながら、帰ります」

一歩ずつ後ずさりしながら、守屋からの距離を作る雪子。しかし その出来た距離を埋める様に、守屋が一歩また一歩とじりじり近寄る。

「お父さんとお母さんに、悪い事しちゃったな・・・。良くして頂いたのに」

雪子は首を横に振る。

「やっぱり、ちょっと遠いから車で送るよ。乗ってってよ」

迷っているのか、断る言葉を探しているのか、雪子の返事がない。しかし、雪子はまた一歩後ずさりした。

「子供じゃないから、帰れます。大丈夫です」


 空虚な心を抱えたまま守屋は車を走らせる。行きに乗っていた助手席に、雪子の姿はない。この車で夏子らと4人で出掛けた時、助手席から飴を口に入れてくれた雪子。車の中で笑ったり泣いたり、だんまりを決め込んで座っていたり、実に様々な思い出が蘇る。

 するとさっきまでは遠くの方にあった真っ黒い雨雲が 今は辺り一面を覆っていて、大きな雨粒がフロントガラスを濡らし始める。一気にバケツをひっくり返した様なゲリラ豪雨となる。守屋は時計を見る。電車で帰ると言った雪子は、この雨に当たってしまっていないだろうか。そんな心配が沸き起こる。守屋は行き先を変え、さっきまでとは打って変わって、アクセルを踏む足に力が入る。

 雪子の家の最寄り駅前に車を停める。打ち付ける雨は、車内に居てもかなりの音がする程だ。道路は所々下水に流れる勢いで川の様になっている。雨のしぶきが、町全体を白く煙らせていた。駅からの人の中に、さっきから雪子を探す守屋だが、なかなかその姿を捉える事はできない。結局数時間が経過して、駅前の景色も夜の色へと変化していく。守屋は携帯で雪子へとメッセージを送った。

『凄い雨になっちゃったけど、無事に家に帰れた?』

当然、既読にもならなければ返信もない。駅前で再びじっと待ちながら、以前にも強い雨の中、途中の駅で降りて帰っていく雪子の姿が思い出される。あの時は積んであった傘を渡したが、今日はそれもない。土砂降りの中、どこに雪子は居るのだろう。どこで何をして、また何を考えているのだろう。雨宿りをしているのだろうか。それともとっくに家に帰って、部屋の中からこの雨の音を聞いているのだろうか。守屋は、もう一度メッセージを送る。

『雨に当たって びしょ濡れになってるんじゃないかって、心配してます。車で送らなかった事、本当に後悔してます』

守屋は深い溜め息を吐いた。返信もない、駅前にも姿を見せない雪子に、守屋は頭をぐしゃぐしゃっと掻いた。以前に夜遅く家を飛び出した雪子の事が思い出されて、こんな激しい雨の中どこかで雨に打たれながら夜の闇の中を彷徨っているのではないかという不安が、守屋の胸をいっぱいに占領する。しかしそれと同時に、別れたのに何を今更こんなメッセージを送っているのだと 自分を嘲笑うもう一人の自分が存在する。すると、またどこからか別の自分が顔を出して、『恋人ではなくても、知り合いがこんな雨に当たってずぶ濡れになっていないか心配するのは当然の事だ』と自分の行動を正当化したりもする守屋だ。色んな感情が入り混じる中、守屋が再び携帯を手にすると、メッセージの着信音が鳴った。しかしそれは雪子ではなく、佐々木からのものだった。

『お休みのところ、申し訳ありません。玲次が今度所長とキャッチボールをちゃんとしたいってせがむもので・・・。付き合ってやってもらえませんでしょうか?』

それを読んだ途端、昼間聞いた雪子の声が頭の中で再生される。

『前に佐々木さんとその息子さんと一緒に居るの見た時、凄く絵になってた。きっとあんな家族を作るんだろうなって』

『佐々木さんには どこの部分比べたってかないっこないのに・・・馬鹿みたいに羨ましくなっちゃって』

先日雪子が職場に挨拶に来た時に、帰り際に見せていた悲しい顔まで思い出される。守屋の胸に虚しい風が吹き抜ける。返事をしないまま守屋は携帯を置いた。無意識の内にたくさん雪子を傷つけていた自分が、今更雪子に何ができるというのだろうと思うと、守屋は駅前の人の中に 雪子を探すのをやめた。

 力なくシートベルトをはめると、もう一度メッセージの着信を知らせる音が、守屋の耳に届く。佐々木からの続きの内容だと 少し重たい気持ちで携帯を見ると、今度は雪子からだった。

『大丈夫です』

たった一言、それだけだった。もう家に帰っているのか、それとも雨に当たらない場所にいるのかは分からない。また、もう関係ないでしょと言われている様にも感じる言葉だ。守屋はエンジンをかけて、駅前を後にした。


いよいよ次回、最終話です

最後までお付き合い頂ければ幸いです

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