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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
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第28話 相応しい相手 相応しくない相手


 8月に入り、雪子が国分寺の施設で働き始める。初日は緊張で疲れた雪子も、日を追うごとにすぐに馴染んでいった。守屋からの話で聞いていた通り、名物のパートの犬飼さんとも、すぐに仲良くなれたと喜びの声を上げる雪子だ。新しい職場に通い始めて一週間程経った雪子の休みの日、病院での受診結果を伝えるメッセージが守屋に届く。

『凄く良くなってるって。薬はまだもう少し続けましょうって言われたけど、近い内に飲まなくても大丈夫になるだろうって』

ホッとする守屋が8月末辺りのシフト表を眺める。それを通りすがりに覗き込んだ佐々木が聞いた。

「所長、今年は連休お取りになってるんですね。どこか行かれるんですか?」

「あ・・・いや・・・」

「たまには息抜きされた方がいいですよ」

「佐々木さんは?家族でどっか行くの?」

「もう皆大きいから。一番上は仕事だし、真ん中のお姉ちゃんは部活でしょ?暇なのは玲次だけ。だから、私の実家に暫く泊まりで行かせちゃおうかなって。爺婆に甘やかされて、本人は楽しいだろうし」

「ご実家って、どこ?」

「静岡です。お茶所でもありますけど、やっぱりお魚は美味しいですよね~。あ!玲次もこれを機に、魚好きになって帰って来なさいって言おうかな」

子供の話をしている時の佐々木は、やはり母親の顔になる。隠し事のないざっくばらんな性格だから、家族の会話も見える様で楽しい。思わず守屋まで笑顔になる。

「海で遊ばしとく分には、お金掛かんないし」

そう言って、またはははと笑った。


 家に帰って、守屋が雪子に電話を入れる。昼間の病院での結果を共に喜ぶ為だ。

「良かったね。ユキも少し安心したでしょ?」

雪子の明るい相槌が返ってくる。

「それでね、私、安達さんとか・・・前の職場の人達にお世話になったのに そのままになっちゃってるから、今度挨拶に行こうと思う。ちゃんと自分で、迷惑掛けた事謝って、お礼も言いたい」

「そうか。・・・そうだね」

ふふふと雪子が含み笑いをする。

「守屋さんにも会えるし」

「・・・そうだね」

雪子ははっと口を押えた。

「おかしいね。一緒に働いてた時は、周りに何言われるだろうってハラハラしてたのに。今はわざわざ会いに行きたいって思っちゃうんだから」


 その数日後、早番を終えた雪子が国分寺からやってくる。事務所に顔を出すと、そこには佐々木とその息子の玲次がいるだけで、守屋の姿はない。雪子は佐々木に声を掛けた。

「ご無沙汰してます」

何か月か振りのその姿に、佐々木が1オクターブ高い声を上げた。

「星野さ~ん!どうしたの?今日は」

「皆さんにご挨拶に来ました。色々ご迷惑お掛けしたので」

「迷惑だなんて・・・」

佐々木はニコニコしながら、雪子の顔をじっと見た。

「この間丁度所長とも話してたのよ。星野さん居なくなっちゃって寂しいですねって」

雪子の顔がぱあっと明るくなる。

「そうなんですか?」

「私達位の歳になると、勝手に娘みたいに可愛く思っちゃって・・・」

雪子の笑顔が、そのまま固まる。佐々木は少し小声で聞いた。

「もう、体調はいいの?」

「はい。お陰様で。先週から国分寺で働かせてもらってます」

「頑張ってね」

その横で守屋のデスクの脇に椅子に腰かけた玲次を見て、雪子が聞いた。

「息子さん・・・ですよね?」

「そうなの~。夏休みだから、ちょっと連れて来させてもらっちゃってるの」

「そうなんですね。一人でお留守番するには、時間が長いですもんね」

「まぁ、それもそうなんだけど。この子が所長の事えらく気に入っちゃったもんだから、毎日行きたい行きたい!って・・・」

雪子の胸が少しだけきゅっとなる。しかしそれを払拭するように、雪子は笑顔で言った。

「じゃ、厨房の皆さんにご挨拶に行ってきます」

厨房まで行く間、守屋の姿をあちこちに探しながら歩く。懐かしい顔の職員に会う度、雪子は笑顔でお辞儀をして歩いた。

 結局守屋に会わないまま、厨房に辿り着いてしまう。忙しい時間帯を分かっていて、雪子は身を小さくして中に入る。それに気が付いた安達が明るく迎えると、他の職員達も 雪子の想像以上に快く迎え入れた。

「皆さん、その節は大変ご迷惑をお掛け致しました」

頭を深く下げると、安達が優しい笑顔を向けた。

「どう?体調は」

「お陰様で。先週から国分寺で働かせてもらってます」

「そう。良かった」

「お世話になったまま、なかなかご挨拶にも来られなくて・・・」

「いいのよ~、そんな事」

雪子が安達の方へ体を向けて、少し小声になる。

「私のせいで、岡田さん達まで・・・」

すると安達がその言葉を最後まで聞かずに遮った。

「星野さんのせいじゃないわ。私が届かなかったから」

「・・・岡田さん達・・・大丈夫ですか?」

安達は黙って何度も頷いた。


 挨拶を終えて厨房を出ると、さっきとは違う経路で事務所に向かう雪子。守屋を探しているからだ。

『挨拶も終わったから もう帰っちゃうけど、今どこ?忙しくて、会えないかな?』

そんな独り言めいた文章を送って、再びゆっくりとした足取りで事務所に向かう。廊下ですれ違う職員に、『久し振り!』とか『来てたんですか?』等と声を掛けられるから、その度に挨拶をして意外に時間が掛かる。しかし守屋からの返信はない。未読のままだ。小さい溜め息をついて、一階まで階段を下りてくる。すると事務所の方から子供の楽しそうな声がする。玲次だ。事務所の開いたドアから、玲次が野球のピッチングポーズをしているのが見える。少し沈んだ心がふっとほぐれた気がして、雪子も思わず笑顔になる。しかし次の瞬間見えた一コマが、雪子の足をその場に留めた。玲次の投球のポーズを修正して教える守屋の姿が見える。

「いや、もっと手首の力抜いて」

守屋が真剣に でも楽しそうに教える脇で、佐々木が微笑んで見ている。雪子の心臓がまたぎゅっと縮こまるのが分かる。出来れば見ないでおきたかった様子なのに、そこから目が離せない。事務所内では楽しい時間が続く。

「あ、そうそう。上手くなったよ、玲次君」

「本当?じゃ、今度キャッチボールしようよ」

「そんな事までお願いしちゃダメよ」

佐々木が止めると、玲次が口を尖らせる。

「いいよ。じゃ、今度グローブとボール持っておいで。昼休みに駐車場でやろう」

「やった~!」

無邪気にガッツポーズを決める玲次だ。

「すみません・・・わがままばっかり聞いてもらって・・・」

佐々木が恐縮するのに対し、守屋は優しい笑顔だ。

「自分も暫くやってないから、大丈夫かなぁ。他の車にぶつけちゃったりして」

あははははと笑う守屋に佐々木が言った。

「それより、急に肩使って、四十肩にならないで下さいよ」

「そうだね」

守屋と佐々木が口を開けて楽しそうに笑う声が、雪子の耳にやまびこの様に響いて届く。

 その時、雪子の後ろから声がする。

「星野さん?!」

振り返ると、ベテランのヘルパーさんだ。

「あ、皆さんにご挨拶に」

ほぼ上の空の会話を交わし、それを終えて雪子は恐る恐る足を進めた。もう事務所に寄らずに帰ってしまおうかと思っていると、雪子が通り過ぎるのを佐々木が見つける。

「星野さん!所長戻っていらしたわよ」

仕方なく雪子は事務所の前で立ち止まった。

「ご挨拶に参りました」

「わざわざ、ご苦労様」

形だけの挨拶がぎこちない。

「色々とお世話になりました」

言いながら雪子は、急に私情を挟んで悲しい気持ちで胸がいっぱいになってしまう。涙がじわっと込み上げてくるのを感じ、雪子は頭を下げてごまかした。

「国分寺でも頑張って」

「はい」

帰り際、事務所の中から弾ける様な笑顔で手を振る佐々木が、雪子にはまるで 守屋と佐々木とその子供の家族に見送られている様に感じてしまって、逃げる様に希望苑を後にした。

 玄関を出て行く雪子の後ろ姿が見えなくなると、佐々木が守屋に言った。

「星野さん、目潤んでましたね。こっちまでもらい泣きしそうになっちゃった」

「・・・大丈夫かな」

思わず、守屋の口からそう漏れる。

「ほらぁ、所長も心配でしょう?娘を嫁に出す気持ち?な~んちゃって」

後を追いかけたい気持ちをぐっと堪えて、守屋は佐々木に愛想笑いを返した。


『大丈夫?』

そう守屋が送ったメッセージに対して、雪子の返事は

『さっきは忙しいところ、ごめんなさい』

とだけだ。仕事を終えた守屋が車に乗り込むなり、電話を掛ける。

「さっき、帰り 元気なかったけど、大丈夫だった?」

「うん」

「・・・厨房に挨拶に行って、何か嫌な事でもあった?」

「ううん」

雪子の悲しい顔の元が分からない守屋は、言葉に詰まる。すると雪子が意外にも明るい声を出す。

「皆どの人も気持ちよく挨拶してくれて・・・。行って良かった」

「・・・じゃ、良かった」

『じゃ、良かった』と言いながら、『じゃ、なんで?』と聞きたい守屋だ。

「帰り、一緒に帰れなくてごめんね」

「ううん。私も待ってなくてごめんね」

その時、車の外で守屋を呼ぶ僅かな声が届く。無邪気な玲次の声だ。

「あ、ごめん、ちょっと待って」

守屋が雪子にそう言って、窓を下ろす。玲次が駆け寄ってきて手を全開に振っている。

「所長さん。また明日ね」

「あんた、明日も来るの?」

佐々木が後ろからそう突っ込む。

「だってキャッチボール約束したし」

玲次が守屋に言った。

「所長さんも明日グローブ持って来てよ」

「分かった」

「絶対だよ」

「うん」

元気に『バイバーイ』と叫ぶ声がした 少し後で、守屋が雪子との電話を再び耳に当てた。

「ごめん」

「ううん」

雪子は思い切って聞いてみる。

「佐々木さんとこのお子さん、よく来るの?」

「夏休みだからね。家に一人で一日留守番してるより、ここはお母さんも人も沢山いるから 寂しくないんじゃない?」

「・・・気に入られてるね、随分」

「人懐っこい子なんだよ。佐々木さん似かもね」

雪子は返す言葉を失う。歳の差も、人懐っこいところも、ホッとする雰囲気も、どこを切り取ってみても佐々木に敵わない自分を 毛布にくるんで押入れの隅に隠してしまいたい気分だ。

「明日も早いし、もうお風呂入って寝るね。気をつけて帰ってね」

雪子が必死で平然とそれを言い終えるが、守屋がまだ会話を繋いだ。

「ユキ、次の休み、いつ?どっか出掛けようよ」

「土曜日」

「あ、土曜なら夜勤だから昼間会えるよ」

すると、雪子の返事がなかなか聞こえない。

「昼間・・・駄目?ユキ」

「・・・守屋さん・・・うちの親と会うの・・・嫌?」

それを聞いてハッとする守屋だ。以前から 雪子の両親と一緒に食事に行く約束を日程調整の為と保留にしていたままだったのだ。

「あ・・・そうだね。今度の土曜の昼間なら大丈夫だね。ごめんね、返事遅くなって」

必死にごまかす守屋だ。

「いいよ、無理しないで」

「そうじゃないよ。本当にうっかりしてて。ごめんね」

「・・・今週は、二人で会おうか」

守屋が返事を躊躇う。雪子がもう一度聞く。

「久し振りに、二人で出掛けようか?」

守屋は無難な答えを探す。

「任せるよ。俺はどっちでもいいから」

すると、雪子が少し明るい声に切り替わったのが分かる。

「今度ダイビングに行くでしょ?その時、伊豆大島、少しは見て回る時間あったよね?」

「・・・あ・・・うん」

「どんな所行くか・・・相談したいな」

雪子がきっと勇気を出してそう言ったのが分かるから、守屋の胸が痛む。守屋から相槌がないから、無言が怖くて雪子がもう一つ質問した。

「守屋さん、どこ行くか決めてた?」

「いや・・・」

「私ね、別に色々調べた訳じゃないんだけど・・・」

雪子がそれ以上言う前に、守屋が語尾を切った。

「その事なんだけど・・・」

その言い方に、急にピタッと 雪子は声も息も止めた。

「その日・・・」

守屋が一言言うと、雪子が慌てた様子で早口にまくし立てた。

「あ、待って。お母さんが呼んでるから、一回切るね」

そう言って、電話は一方的に切れた。もちろん嘘だ。あんなの口実に過ぎない。守屋は、切れた電話を溜め息と共に置いて頭をくしゃくしゃっとした。


 雪子が再び守屋に電話を掛けたのは、その晩遅く12時を回る頃になってからだ。守屋に言われるであろう言葉を予測して、心を作って置く時間が必要だったのだ。雪子は自分に何度も『大丈夫』『大丈夫』と言い聞かせて電話を掛けた。

「さっきは急に切っちゃって、ごめんね」

「もう、平気?」

それがどういう意味なのか、答えに躊躇してしまう雪子だ。

「さっきの話だけど・・・」

雪子から切り出す。

「もしかして、守屋さん行けなくなっちゃった?」

守屋が言い出しやすい様に、練習通りにサラッと切り出す雪子だ。

「・・・代わりに一緒に行けそうな友達、いる?」

「・・・・・・」

予想していなかった質問には弱い。沈黙があると、一気に空気が重たくなる。さっきサラッと言い出した意味がない。雪子はそう自分を奮い立たせて、言葉を探す。

「何人か、聞いてみるね」

「ごめんね・・・ユキ」

「仕方ないよ」

『仕事だもんね』と付け足そうとして、雪子が思い留まる。仕事とは言われていない。勝手に雪子が守屋の仕事の都合がつかなくなったと想像してただけで、理由は一つも言われていない事を思い出す。仕事かどうかを聞くのも怖い。もし理由が別な所にあるとしたら・・・それは間違いなく雪子にとって“知りたくない現実”だ。

 結局その日、守屋の口から理由を聞かないまま、雪子は電話を切った。


 部屋の隅に準備していた伊豆大島に旅行に行く時のバッグが何をしてても目に入る。雪子は思い切って、先日その中にしまった水着やパジャマを片付けた。

「馬鹿みたい・・・」

思わずそう声に漏れてしまう。ドキドキする気持ちと同じくらい弾む気持ちで、守屋との初めての旅行を想像して準備した荷物が、今となっては自分の気持ちだけが独り歩きしてしまった恥ずかしさと虚しさしか残っていない。


 次の日の夜、守屋に夏子から電話が入る。受話器から漏れる程の耳をつんざく様な夏子の声がする。

「守屋さん!なんで旅行キャンセルなの?」

「あ・・・ユキ、キャンセルするって?」

「そりゃ、そうでしょう?!二人で計画した旅行に一人で行けって言うの?」

「・・・・・・」

「ねぇ?どうして?仕事?」

「・・・うん」

「どうしても駄目なの?」

「・・・うん、ごめん」

「ごめんって言う相手、違うし」

「・・・キャンセルって、今から出来る?」

「出来ない」

「出来ない?!じゃ・・・どうしたらいいの?」

「出来るけど・・・出来ない。しない」

「・・・・・・」

守屋の小さい溜め息を聞き逃さない夏子だ。

「今溜め息ついた?は?溜め息つきたいのは、雪子ちゃんの方なんですけど」

「・・・そうだね」

「雪子ちゃん、私に電話してきて泣いてたんだからぁ」

「ユキが?」

「ねぇ。別の日にしても駄目なの?」

「連休は難しいかな」

夏子が頭をひねる。

「じゃあさ、お休みの次の日が夜勤 とかなら、どう?泊まりで出掛けられない?その位のシフトの調整できるでしょ?所長さんなんだから」

「・・・なかなか そうもいかないんだよ」

「じゃ、夏休みじゃなくて 秋口になったらどう?ダイビングは全然問題ないし、皆が夏休み取る時期に比べたら、お休み取りやすいんじゃない?」

いつもの守屋なら一旦『そうだね』と聞き入れるところを、今回はまだ理由を主張する。

「秋は何かと行事が多いから・・・」

それを聞き終える前に、夏子が又がなり声を上げた。

「守屋さん、行く気ないよね」

守屋が言葉を失う。

「どうして?他に好きな人でも出来た?」

「そんなんじゃないよ」

「じゃ、何?もう雪子ちゃんの事、好きじゃないの?」

「・・・本当に仕事だけの理由だよ。それ以外何もないから」

何かいつもとは雰囲気の違う返事を返す守屋。それが不思議で仕方のない夏子が、じれったくなって せっつく。

「雪子ちゃん言ってた。『私って女として魅力がないのかな?』って」

「・・・・・・」

「『ノイローゼみたいになった女、気持ち悪いよね』って。雪子ちゃん、そんな事こぼしてたんだよ」

「ユキが・・・?」

「そうだよ!だから、そんな事ないよって言ったんだけど、そしたら『二日間一緒に居たら疲れるって思われてるのかな』って」

「そんなんじゃないよ」

「でもね、『仕事を休みにしてまで一緒に旅行に行きたいって思ってもらえないんだよね』って。そりゃ、そうなっちゃうよ。守屋さんは仕事が都合つかないだけって言うけど、断られた女の子は、かなり傷つくからね」

守屋の顔が急に辛そうに変わる。

「そりゃ俺も色々考えたよ。ユキの人生、狂わせたかなって」

何か勢いよく言い返したい夏子だが、あまりに守屋が切ない声をしているから、いつもみたいな調子づいた言葉が引っ込んでしまう。

「俺と付き合ってなかったら、色々噂話の標的になる事だってなかったし、ユキが精神的に追い詰められる事もなかった」

「別れてもいいと思ってるの?」

「・・・良くはないけど・・・」

「結婚まで考えてたんじゃないの?」

「・・・俺が60の定年の時、ユキまだ45だよ。ユキが60歳の時、俺もう75だよ。幾つまで元気で居られるかも分からないし、ユキに若いうちから俺の介護させるの、可哀想だよ」

「何、しょげた事言ってるの?」

「ユキだって結婚に夢もあるだろうし」

部屋の窓の外の景色を遠い目で見つめながら、守屋が言った。

「綺麗な新築のマイホームでも購入して、その中で、子供達に囲まれて笑顔いっぱいに暮らして、同じ様に年を取っていく・・・。ユキが同年代と結婚すれば、きっと叶う夢」

「雪子ちゃんが、そういう暮らししたいって言ったの?言ってないでしょ?」

「言ってないけど・・・」

「どんなにいい景色に囲まれてたって、そこに誰といるかじゃないの?幸せって、そういう事じゃないの?」

「・・・・・・」

電話の向こうの曇った表情の守屋に、夏子が喝を入れる。

「守屋さん、おじさんのくせに そんな事も分からないの~?」

守屋は苦笑いを浮かべた。

「本当だね」

守屋はそうは言うが、それ以上の言葉はない。そんな守屋の様子に、夏子が聞いた。

「雪子ちゃんと、どうするの?」

「ユキがどうしたいのか・・・」

「守屋さんって、肝心なところで相手に判断を委ねるんだね。大人なのにずるい」

守屋の大きく長い溜め息を聞きながら、夏子が言った。

「余計な事色々考えないで、今まで通りまたデートすればいいじゃない」

返事のない守屋に、夏子が続けた。

「雪子ちゃんの事、ちゃんと安心させてあげてよ」


 その週の土曜日、守屋は雪子の両親と4人で食事をした後で、雪子と二人の時間を作る。車に乗ってから、改めて雪子がお礼を言った。

「今日は、ありがとう。夜 仕事なのに、疲れさせたね」

「そんな事ないよ。お母さんとも話ができて、嬉しかったよ」

守屋がシートベルトを締めながら聞く。

「どこ行く?」

「どうしようか・・・。守屋さん、行きたい所ある?」

「別に。どこでもいいよ」

雪子の心が暗くなる。自分と出掛けたい所がないなんてと、気持ちの温度を感じて悲しくなる。会話が途切れたので、守屋がダイビングの話を持ち出した。

「ユキ。ダイビングの事、ごめん。仕事で・・・どうしても日程の調整が出来なくて・・・。本当に申し訳ないと思ってる。だから、泊まりは無理だけど、どっか出掛けよう」

雪子は薄っすらと笑みを浮かべて守屋の方へ顔を向けた。

「ありがとう。でも・・・大丈夫だよ、無理しなくて」

先日の夏子との会話を思い出した守屋が助手席を向くと、雪子は顔を前へ向けた。

「今だって 私と行きたい所もないのに・・・申し訳ないって気持ちだけで『どっか行こう』なんて言わなくて平気だよ」

「・・・・・・」

車の中の何とも言えない殺伐とした雰囲気は、もう別れが近いカップルから出る空気感だ。

「俺、ユキと行きたい所がないなんて、言った?『どこに行こうか?』とか『これから どうしようか?』って、普通の会話じゃないの?」

「・・・そうだね。ごめんなさい」

「ごめんなさいって・・・。別に謝って欲しくて言ったんじゃないよ」

雪子の膝の上のバッグを握りしめる手に力が入る。

「今日はうちの親と一緒にご飯食べてくれて、緊張して疲れてるって分かってるのに、明るくホッとさせる様な会話もできないし、気の利いた場所も思いつかない。旅行の代わりにどっか行こうって言ってくれても、可愛げのない事言っちゃったりするし」

そう話す雪子の頭の中には、佐々木の笑顔が浮かんでいる。守屋は無言でエンジンをかけて、車を発進させた。


 スカイツリーの展望台に昇り、そこから景色を眺める雪子と守屋。会話はあまり弾まないまま、時間ばかりが過ぎる。展望台から降りてきて、ショップを見て回る時も同じだ。周りの雑踏が二人の空白を埋めるが、心が嚙み合っていない事は お互いが良く分かっていた。守屋がちらっと時計を見る顔に、先日佐々木や玲次と過ごす笑顔の守屋を重ねて、雪子の心は悲しみに染まる。

「一回家に帰ってから仕事行くの?それともこのまま?」

「別にどっちでも平気だよ」

守屋は変わらず優しい口調だ。薄っすら笑顔すら浮かべている。

「少し休まなくて平気?夜勤でしょ?」

守屋の瞳が一瞬悲しい色に染まる。

「じゃ・・・帰ろうかな」


 車を走らせながら、守屋が静かに言った。

「ごめんね、連れ回して」

「ううん。・・・ありがとう」

二人共、何故か出来てしまうこの溝を どう埋めたらいいか分からないでいるのだった。首都高速を走り、窓の外の荒川と隅田川を渡る眺めをぼんやりと目で追いながら雪子が言った。

「前に行った土手、綺麗だったよね」

「そうだね」

「もう・・・今の時期じゃ、暑くて駄目だよね?」

「・・・秋までは・・・ね」

「秋・・・来るかな」

「そりゃ来るよ。きっとあっという間だよ。あと二か月もしたらきっと涼しいよ」

「私達・・・その時まで一緒にいるかな」

俯き加減にボソッと言う雪子に、守屋は言葉を返せない。

 

雪子の家の近くの公園の路肩に車を停めて、守屋が言った。

「今日は、ごめんね。せっかくデートしても楽しませてあげられなかった」

その言葉が 雪子の寂しかった心の隙間に入って、涙腺を緩めた。

「守屋さんの気持ち・・・ここにある?」

守屋がゆっくりと口を開こうとした その手前で、雪子が続きを話した。

「守屋さんが遠くに感じた。今日一日。でもそれは・・・多分私のせい」

雪子はシートベルトを外した。

「今日はありがとう」

ドアに手を掛けたところで、守屋が言う。

「家の前まで送るよ」

雪子は黙って首を横に振ると、急いで車を降りて行った。

最後に守屋が見た雪子の瞳の端がきらっと光っていた。雪子が俯き加減で足早に遠ざかっていく後ろ姿を守屋が眺めていると、その風景に一人の若い男が入ってくる。雪子に近付いて話し掛けると、雪子は足を止めて顔を上げた。ぎこちないが笑顔で受け応える雪子に、守屋の心が痛む。笑いながら ごまかす様に頬を拭うと、その男がこちらを振り向いた。何度か車の中の守屋を見ながら、雪子と話している様子に 思わず守屋も溜め息が漏れる。その時ふと守屋の記憶が巻き戻って、今目の前で雪子に話しかけている男は、以前も喫茶店で待ち合わせをした時に 雪子が店の前でばったり会った男だ。あの時も雪子が嬉しそうに笑顔を向けていたのは 自分ではなかった。そんな悲しい記憶が蘇ると、守屋はもう一度大きく長い溜め息を吐いた。


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