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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
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第27話 満たされていく心


 夏子が仕事を終え、慎二よりも先に会社を出る。一応二人の関係を内緒にしている手前、先に夏子が車で待っていて 後から慎二がそこへ乗り込むという退社方法を取っている。いつもの様に駐車場に夏子が行くと、一足先に出た村瀬が今日は駐車場にいる。車で来ていたらしい。運転席に乗り込もうとしていた村瀬に 夏子は目を合わせないまま挨拶をした。

「お疲れ様でした」

「おう、お疲れ」

昔からのいつも挨拶が返ってくる。その後 変な間が出来る事を恐れて、夏子が少しピッチを上げて運転席のドアを開けようとすると、村瀬から声が掛かる。

「あ・・・この間さ」

村瀬から話し掛けられて、内心ドキドキする夏子がいる。しかしそれが まだ僅かに残る恋愛感情なのか、後から出てくる慎二にこの状況を見られてしまうんじゃないかという緊張感なのか、区別はつかない。だから、夏子の相槌も少し上の空になる。

「お母さんに 会っちゃった」

「・・・母から聞きました」

それを聞いて、村瀬が急にヘラヘラとした口調になる。

「いや~参った参った。嫁さんの実家で、夏子のお母さんに会うとは思わなかったわ」

この状況をヘラヘラ笑える村瀬に、夏子は冷たい視線を送った。

「罰が当たったんですよ」

そんな尖った言葉も、村瀬には無意味だ。まだ笑っている。

「そうだよなぁ。前に夏子が言ってたの、本当だったんだぁ」

村瀬が車の屋根に肘を乗せて、夏子の方へ身を乗り出す。

「お母さん、何て言ってた?」

何故か少し子供っぽい表情で、この状況を楽しんでいるかの様な顔の村瀬だ。

「世間は狭いわねって」

「本当、本当。うちの嫁もそう言ってた。あの日、帰りの車ん中で 夏子の武勇伝色々聞かされたわ」

「何よ、武勇伝って・・・」

呆れた顔で、夏子があしらう。しかし それとは対照的に、村瀬の笑顔の度数は上がっていく。

「都市伝説的な感じで、夏子伝説ってのがあったらしいよ」

「大袈裟な・・・」

「今、どんな感じになってる?とか、変わってないかな?とか言っちゃって。私も久々に会いたいなぁとかって言い出しちゃってさ・・・」

あの衝撃の事実を夏子が知った時とはまるで程遠い 呑気でお気楽な村瀬に、多少なりとも腹の虫の居所が悪くなる。

「よくもまぁ、そんな軽いテンションで話せますね、この事」

まだ村瀬の顔は変わらない。だから夏子は続けて言った。

「店長ってつくづくおめでたい人ですね。奥さんのそんな言葉信じてるんですか?女の勘ってやつ、見くびらない方がいいですよ。そうやって何にも知らないフリして、じわじわ攻めたりするんですよ、女って」

さすがに村瀬の顔から 笑顔が消えた。それを見届ける様にして、夏子が運転席のドアを開けた。

「じゃ、お疲れ様です」

その言葉を聞いていたかの様なタイミングで、慎二が姿を現す。それに気が付くと、村瀬も慌てて車に乗り込んで駐車場を後にした。

 助手席に乗り込んだ慎二に 夏子が少し気を遣うから、いつもよりも無意識の内に口数が多くなる。

「お疲れ様。帰ろっか」

アクセルを踏み込んで、尚も夏子が喋る。

「今日さ、由真ったらね・・・」

今日のどうでもいい様な下らないエピソードを、まるで面白おかしくあった様に話す夏子。それに薄い相槌の慎二が、話の切れ目に割り込んだ。

「今度俺、なっちゃんの家族に会ってみたいな」

思わず夏子の顔が固まる。

「何?どうしたの?急に」

「弟二人いるんだっけ?確か、俺と同じ位だよね?歳」

「・・・そうだけど・・・」

「なっちゃんのお母さんって、なっちゃんに似てる?」

夏子の胸に緊張が走る。

「・・・あんま似てないかな」

「へぇ~」

それまで笑っていなかった慎二が、急に助手席向いて目を細めてにっこり微笑んだ。

「紹介してよ俺に、家族」

急にそんな事を言い出した慎二に、夏子はさっきの村瀬との会話を聞かれていたのではと いぶかしく思う。しかし夏子は吐き出したい溜め息を、家まで我慢した。


 家の玄関を入った途端、二回目の大きな溜め息を吐く夏子。一回目は、慎二が車を降りた後だ。玄関の電気をつける前に、一回大きく息を吸う。気持ちを切り替える為だ。すると、その途端夏子の電話が暗闇を引き裂いた。真っ暗な中で光る画面には星野雪子と表示されている。

「雪子ちゃん?どうしたの?」

部屋の電気と共に、いつもの元気な夏子が戻る。

「あのさ・・・変な相談なんだけど・・・」

夏子は鞄を置いて扇風機をつけると、床に座った。

「何か・・・あったの?」

静かなトーンで夏子が聞く。

「あの・・・ダイビングの旅行の時の話なんだけど・・・」

夏子の電話を持つ手に、自然と力が入る。

「・・・パジャマって・・・どんなの持ってったらいいかなぁ?」

一瞬でも深刻に身構えた夏子が、肩透かしを食らって笑いだす。

「笑わないでよ・・・」

「だって・・・」

「だから『変な相談』って言ったでしょ?」

「言ったけど・・・もっと深刻な話かと思っちゃったから」

ゲラゲラ笑い転げている様子が、電話を通して雪子にも伝わる。

「そんなに笑われたら、相談しにくいよ・・・」

「あ、ごめん、ごめん」

夏子が一回深呼吸をする。さっき家に帰ってきた時とは違って、明るい空気が体中に充満する。

「で?何だっけ?パジャマ持ってくかどうかって事?」

「違う、違う。・・・Tシャツと短パンっていう感じでいいのかな?それとも・・・もっと、何て言うか・・・」

「エロいヤツ?」

「やだ!そういうんじゃなくて・・・女の子っぽいっていうか・・・もっと可愛い感じの方がいいのか・・・」

「そりゃあ、かわいいヤツでしょ!絶対その方が守屋さん喜ぶし」

「・・・そうかな」

「そうだよ」

「でも・・・気合入ってますって感じで恥ずかしいんだけど・・・」

「大丈夫だよぉ。絶対向こうだって同じなんだからぁ」

夏子が扇風機の風を強めて、顔いっぱいに浴びながら言った。

「そうかなぁ・・・」

雪子は遠慮がちに もう一言付け足した。

「すっぴん・・・恥ずかしいんだけど・・・」

夏子が電話の向こうで声高らかに笑った。

「二人で素敵な夜を過ごせば、すっぴんなんて 全然へっちゃらになっちゃうって」

いたずらに悪乗りした言い方をする夏子だ。耳に当てた電話の向こうで 絶句している雪子がいる。少しからかい過ぎたと反省する夏子が、話を繋げた。

「大丈夫だって。きっと守屋さん、すっぴんにびっくりする様な歳じゃないでしょう」

しかし雪子の不安は拭えない。そこで夏子が思い切って言った。

「守屋さんだって、彼女のすっぴん見るの初めてじゃないでしょう。その反応だって、きっとわきまえてくれてるよ」

励ますつもりの夏子の言葉が、雪子の胸に深く刺さる。

「・・・そう・・・だね」

辛うじて 相槌を返すが、夏子の言葉通り 守屋の過去を想像して、雪子は一気に気持ちがブルーになる。それをそのまま言葉に出してみる。

「守屋さんって・・・旅行とか・・・今までも行った事あるのかな・・・?」

その意味するところを即座に察知した夏子が、話を逸らした。

「それはそうとさぁ・・・大丈夫なの?守屋さん」

「何が?」

「この前、旅行の話した時・・・なんていうか・・・」

いつも直球の夏子が言葉を選ぶから、なかなか丁度良い言葉が見つからない。すると、雪子の声は意外にも明るい。

「あの時はまだ異動先がはっきりしてなかったから。異動したら、新しい所でいきなり連休での夏休み 取りにくかっただろうから」

「そういう事かぁ。じゃ、大丈夫になったの?休みもらえた?」

雪子はふふふと笑った。

「異動しなくて良くなったから、守屋さん」

受話器の向こうから、夏子の雄叫びが聞こえる。

「えー!良かったじゃ~ん!雪子ちゃん」

「うん」

「毎日でも会える距離に居るって、それだけでハッピーだよね」

「うん」

雪子の『うん』に、幸せが詰まっている

「この間ね」

まだ何も話す前から、良い報告だと分かる位 雪子の声が弾んでいる。

「お父さんと守屋さんの三人で、ご飯食べに行ったの。お父さん、応援してくれてる」

「え~、凄いじゃ~ん!・・・で、お母さんは?」

「それがね、『お母さんも守屋さんとお話してみたいな』なんて言うんだよ。びっくりしちゃった」

「もうこのまま結婚しちゃうんじゃない?本当に」

そんな言葉に、雪子が照れる。

「・・・だと嬉しいけど・・・」


 今夜は雪子の気分がいい。何故なら、夏子にも『このまま結婚しちゃうんじゃない?』等と言われたからだ。自分でも怖いくらい順調に動き出した人生に浮足立たない様にする方が難しい。雪子がご機嫌で守屋に電話を掛ける。

「来週からいよいよ仕事だから、私ね、体力作りの為に 朝ウォーキング始めたの」

雪子の弾む声に乗って、守屋も共に喜ぶ。だから、雪子はどんどん滑らかに口が動き出す。

「朝ね、早く起きて外に出ると、小鳥のさえずりが聞こえたり、朝露が見えたり、発見がいっぱいあって楽しい」

「いいね」

「ね、今度守屋さんも一緒に朝ウォ―キングしない?」

「一緒に?」

「そ。気持ちいいよ」

「うん。わかった」

守屋の相槌を聞き終わらない内に、雪子が『あ!』と声を上げた。

「今度ダイビングで伊豆大島行くでしょ?その時、朝散歩しよ」

「・・・そうだね」

「楽しみだね」

守屋は痛む胸を無視して、笑顔の声を絞り出す。

「良かったよ。ユキ、元気になって」

「ありがとう。守屋さんのお陰」

「・・・薬、ちゃんと飲んでる?」

「うん。でも、もうそろそろ・・・」

そこまで聞いて、守屋が遮った。

「お医者さんがもういいよって言うまで、薬は続けなきゃ駄目だよ、絶対」

「・・・うん」

「お願い」

守屋は念押しする様に言った。少し間が空いた後、雪子が言った

「あとね・・・もう一つお願いなんだけど・・・」

「何?」

「・・・今度、お母さんも一緒に4人で食事しませんか?って・・・」

守屋の返事が止まる。

「あ、最近はねお母さんも守屋さんの事理解してくれる様になってて・・・仲良くしたいって・・・」

守屋は静かに大きく息を吸ってから、明るいトーンで返事をした。

「有り難いな」

「いつが、平気?」

「・・・ちょっと待ってもらってもいいかな?なるべく早めに返事するから」

電話を終えた後で、守屋はベッドに体を横たえた。


 佐々木の息子 玲次が夏休みに入り、再び母と一緒に職場に現れる。前回と違い、今日はリュックに宿題を入れている。

「ドリルここまで終わるまで、今日はゲーム駄目だからね」

佐々木が玲次に先手を打つ。計算ドリルを黙々とやっていた玲次だが、30分もしない内に集中力が途切れて、守屋がふと見ると、ノートの端に落書きをしている。思わず笑いが漏れる守屋に、佐々木が気付く。

「え?間違った事やってます?この子」

「いやいや、頑張ってやってますよ」

ノートを佐々木が覗き込んだ時、守屋はそう言って落書きの上に手を置いた。佐々木がまたデスクに戻ると、玲次は守屋と目を合わせて笑った。


 昼時、食堂に守屋と玲次が二人で座る。佐々木は 急な急ぎの仕事で事務所を空けられなくなったのだ。玲次が、隣の守屋の今日のおかずをチラッと見ているのに気付く。

「玲次君、ホイコーロー好き?」

玲次は遠慮がちに頷いた。

「じゃ、これ食べな」

「え、でも・・・」

「いいから。好きなだけ腹いっぱい食べな」

すると、玲次が自分の弁当を守屋の方へ少し差し出した。

「いいよ、いいよ。せっかくお母さんが玲次君の為に作ったんだから、食べなきゃ」

玲次はボソッと言った。

「これ、昨日の夕飯の残り物だし」

弁当箱の中には魚のフライとかぼちゃの煮物と卵焼きが入っている。守屋は笑いながら言った。

「弁当って大抵そういうもんだよ。どれも美味しそうじゃない」

「じゃ・・・どうぞ」

玲次は更に弁当箱を守屋の前に差し出した。

「じゃ、一個だけ何かもらうよ。どれならいい?」

「どれでも・・・」

二切れ入っていたかぼちゃの煮物を守屋が箸でつまみ出す。

「頂きます」

守屋のホイコーローの皿から 遠慮して少ししか取らない玲次の弁当の白いご飯の上に、守屋はドサッと山盛りに取って乗せた。

「この位食えるだろ?食べ盛りなんだから」

嬉しそうにがっつく玲次を見てから、守屋も笑顔でかぼちゃに手をつける。

「美味しいよ、かぼちゃ」

玲次はそれを聞いて首を傾げる。

「嫌い?かぼちゃ」

「煮物よりサラダの方が好き」

「あぁ、そうかぁ・・・」

玲次は弁当のおかずに手をつけず、ご飯とホイコーローだけがどんどんと減っていく。

「美味いね、これ」

守屋が言うと、玲次が口いっぱいに頬張って嬉しそうに大きく頷いた。その表情に何とも言えない心が温かくなるのを感じた守屋が、残りの肉を全部玲次の弁当箱に入れた。嬉しそうな玲次が、今度は鰯のフライをつまんで守屋の皿に取り出した。

「じゃ、これあげる」

「玲次君、一口は食べなきゃ駄目だよ。せっかくお母さんが作ってくれたんだから」

少し口を尖らせたのを見逃さなかった守屋が、玲次に聞いた。

「魚、嫌い?」

「・・・うん」

「分かるけどね・・・。おじさんも子供の頃は魚より肉が好きだったから。でもね、魚食べると骨が強くなって、背も大きくなるんだよ」

「お母さんも、そう言ってる」

「だろ?」

「でも・・・肉のが好き」

鰯のフライを守屋が一口食べて言った。

「美味しいよ、これも」

玲次は又首を傾げた。

「あ、じゃあ魚のフライにマヨネーズ掛けるのは?」

「マヨネーズ?」

「そう。タルタルソースっぽくなる。子供の頃、嫌だなって思った時、マヨネーズかけて食べてた」

玲次の顔が笑顔になる。

「今度やってみる」

「あ、お母さんが良いって言ったらね」

「うん」

「好き嫌いしないで、何でも食べんだぞ」


 食堂から戻った玲次に、佐々木が言った。

「おかえり。全部残さないで食べた?」

玲次は守屋の顔を見て、ニヤッと笑った。

「何?」

佐々木が守屋と玲次の顔を交互に見る。

「美味しそうだったんで、少しおかず貰っちゃいました」

守屋が頭を下げた。

「え~?!やだぁ、あんな残り物」

守屋が笑った。

「それも聞きました」

すると佐々木が玲次を見た。

「玲次。あんたがわがまま言ったんじゃないでしょうねぇ?」

ニヤニヤを堪えながら手を横に振って否定する玲次の横で、守屋が言った。

「違う違う。物々交換です。玲次君、ちゃんと食べてましたよ」

疑わしい目つきで、佐々木が守屋と玲次をじっと見つめる。二人は同じ顔でニコニコしている。諦めた佐々木が、守屋に頭を下げた。

「お世話になりました」


 佐々木の仕事が一段落して食堂から戻ると、手にコンビニの袋をぶら下げている。

「所長、これお腹の足しにして下さい」

袋の中にはおにぎりが二つにパンが一つ入っている。

「え?」

「今日のおかず・・・多分玲次に下さったんですよね。この子お肉好きだから」

「いいよ、こんな事しなくて。大丈夫だよ、ちゃんと食べたから」

「ま・・・じゃ、子守りして頂いたお礼です。おやつでも夜食にでもなさって下さい」


 帰りの車の中で、昼間佐々木からもらった袋の中身を見る守屋。昆布と明太子のおにぎりだ。以前に好きなご飯のお供の話をしたのを覚えていたのだろう。守屋の好きな具をさり気なく選ぶ心遣いに、一日疲れた体が少し緩む。おにぎりの海苔をパリッと音をさせながら昆布のおにぎりを一口食べる。一日仕事を終えて疲れて帰った自宅で、自分の好きなご飯を作って待ってくれる人が居たら、どんなに癒されるのだろう・・・守屋はそんな事を考える。例えばそこに子供が居たりして、一緒に風呂に浸かりながら過ごしたら、又明日も頑張ろうと思える気がする。

 そこへ守屋の携帯にメッセージの着信がある。

『今日も玲次がお世話になりました。又明日も行きたいってせがむのを、必死で今止めてるところです(笑)』

それを読んで、家での様子が目に浮かぶ様で思わず笑みが零れてしまう。そしてメッセージがまだ続く。

『玲次が今日帰りに『所長さんから魚のフライを美味しく食べる秘密教えてもらった』って喜んでました。何かは教えてはくれないんですけど。とにかく、色々とありがとうございました』

守屋の頭に、今日一日の中で見た玲次の様々な表情が思い出される。普段の大人同士の人間関係では得られない安らぎみたいな感情が、守屋の胸いっぱいに充満する。決して佐々木に恋愛感情がある訳ではないのに、大人になってここ20年近く埋まらなかった穴に 地下から水が湧き出してくるみたいにじわじわと満たされていく感がある。守屋は怖くなって、慌ててシートベルトをすると、アクセルを踏んで いつもの帰路に着いた。


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