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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
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第26話 子離れという壁


 今週末も雪子の父親が赴任先から戻って来ている。雪子が風呂に入ったのを確認すると、母がこぼす様に言った。

「最近雪子が出掛ける時に、『どこに?』とか『誰と?』って聞いても、『ちょっと近くに買い物』とか『散歩』とかしか言わないのよね・・・」

「良いだろ?聞かれた事に答えてるじゃない」

「そうなんだけど・・・なんか、ちょっと違う様な・・・」

「違うって?」

「だから・・・所長さんとコソコソ会ってるんじゃないかって・・・」

父は大きな溜め息を吐き出した。

「コソコソさせてるのはママだろ?」

「今までは、何でも正直に話してくれてたのよ。それなのに・・・」

「だから、ママが所長さんとの関係を反対したからだろ?」

「だって、それは・・・」

「別にコソコソったって、夜中まで帰って来ないとか、泊まってくるとか そういう事じゃないんだろ?」

「まぁ・・・そうだけど」

「じゃ、誰と出掛けようがいいだろう?むしろ、部屋に籠って誰とも口利かないよりは よっぽどマシだろ?」

母は少しもどかしそうに口を尖らせた。それを少し面倒に感じた父が、ソファを離れて煙草を吸いに台所へと移動する。

「認めてやろうって気には、どうしてもなれないんだろ?」

「・・・・・・」

父は溜め息に煙を混じらせて、大きく吐き出した。


 風呂から上がった雪子の部屋を、父がノックする。

「入るぞ~」

中に入ってドアを閉めると、父が穏やかな顔で雪子に聞いた。

「どうだ。もうすぐ仕事に復帰するけど・・・緊張してるか?」

「うん・・・ちょっと」

「そうかぁ。前にお父さん 職場に行った時、安達さんも所長さんも 雪子の仕事ぶりを褒めて下さってたから、きっと大丈夫だよ」

「うん」

「心配事があったら、何でも話すんだぞ。電話掛けてきたっていいから」

「うん、ありがと」

雪子はにっこり笑って答えた。

「今度の職場には、凄く明るくて 皆のお母さん的なベテランのパートさんが居るんだって。だからきっと楽しく働けるよって・・・守屋さんが教えてくれた」

「そうか」

父は更に優しい目で頷いた。

「所長さんとは・・・どうだ?最近も連絡取ったり、会ったりしてるのか?」

雪子は父の目をじっと見てから言った。

「うん。毎日電話もくれるし・・・心配してくれてる」

「雪子は・・・所長さんには、不安な気持ちとかを話せてるんだな?」

「うん・・・。何でも聞いてくれるし、励ましてもくれる」

父が何度か頷く。

「・・・将来の話も・・・出てるのか?」

雪子は俯いて答えた。

「私がもっと守屋さんを支えられる様になったらって思うけど・・・守屋さんは、私に・・・遠慮してるみたい」

父の相槌が急にしなくなって、雪子は慌てて説明を加えた。

「別にいい加減な気持ちでつき合ってるって事じゃなくて・・・」

「分かってるよ」

父がにっこり微笑む。

「いい加減な人じゃないって事くらいは、お父さんにも分かる」

それを聞いた途端、雪子が一気に安心した顔つきに変わる。

「今度一緒に、所長さん誘って飯食いに行くか?」

雪子の表情が再び一時停止になる。

「・・・お母さんも一緒?」

「う~ん・・・」

父が渋い顔で首を傾げる。

「まずは三人で行くか?」

「お母さんに、何て言うの?」

「・・・そうだなぁ・・・」

父が溜め息をつく。

「何であんなに反対するんだろうなぁ・・・、まったく」


「雪子と色々話してきたよ。別にコソコソなんかしてないじゃないか。ママが理解してあげないから、雪子だってつきたくない嘘つく様になるんだよ」

母の目尻がキッと上がる。

「なによ。たまに帰ってきて、いい父親ぶって。雪子のご機嫌取って点数稼ごうとして」

父親が大きな溜め息をこれ見よがしに吐き出す。

「今度、雪子と所長さんと飯食いに行ってみようと思う」

すると母がいぶかしい目つきになる。

「・・・何?それ。どういう意味?」

「深い意味はないよ。どんな人か話してみたいと思っただけだよ」

「私は嫌だからね!親公認みたいになっちゃうの・・・」

話の途中で、父親が遮った。

「分かってるよ。だからママは誘うつもりない。三人で行ってくるから」

母の開いた口が塞がらない。

「何それ・・・」

「嫌がってる人連れてったって、雰囲気が悪くなるだけだからね」

「何よ、私だけ邪魔者扱いして・・・!」

「だって、ママが自分で嫌だって言ったんだろ?」

「言ったけど・・・それは・・・っ」

「じゃ、ママも行く?」

「・・・・・・」

「行くなら、嫌な顔しないでくれよ。それが出来るなら、一緒に連れてってもいいけど」


 次の日の夜、雪子が守屋と電話越しに会話をする。

「土日で・・・一緒にご飯食べられそうな日・・・ある?」

探り探り話をする雪子だ。

「土日?」

「うん・・・土日」

「土日か・・・」

手帳をペラペラめくる音が受話器から微かに聞こえてくる。

「なんで土日?何かあるの?」

「・・・・・・」

電話の向こうの雪子の声が止んでしまったから、守屋も思わず手が止まる。

「守屋さん・・・嫌なら、全然断っていいんだけど・・・」

そして一回息を深く吸い込むのが分かる。

「お父さんが・・・一緒に食事・・・しませんか?って」

電話越しだが、一拍・・・いや二拍守屋が言葉に詰まったのが分かる。そして慌てて喋り始めたのも、雪子には伝わる。

「あぁ、土日ね。そうか、お父さんのお休みのね」

やけに早口の守屋だ。そしてすぐにまた 手帳をめくる音が聞こえてくる。

「今度の土曜は7時で上がれる。日曜は夜勤だから、昼間なら大丈夫」

雪子は 守屋の緊張が痛い程分かるから、少し遠慮がちの声になる。

「・・・無理しなくても、いいよ。仕事の都合が合わなかったって言えば、何とかなるし・・・」

「大丈夫だよ」

そう言う守屋が、初めに大きな深呼吸をしたのが分かる。

「せっかくお父さんの方から誘って下さったんだから、断る理由ないでしょ」

「・・・ありがとう。ごめんね」

守屋がそれを聞いて笑った。

「ユキ。ごめんねはおかしいよ」

雪子が笑いもしないから、守屋がまた少し硬い声を出した。

「あれ?それとも・・・俺、怒られるの?」

「違う違う!お父さんは・・・変な風には思ってないから」

『お父さんは』という言い回しに、守屋はふっと苦笑いする。

「お母さんも、いらっしゃるの?」

「お母さんは・・・まだ分かんない」

やはり雪子の声は正直だ。母の話題になると、途端に声が沈む。だから、守屋が明るい声で不安を口にした。

「気に入ってもらえるか自信ないなぁ」

「大丈夫だよ」

雪子と一生を共にしたいと誓えない自分が、どんな顔をして会いに行けばいいのか、守屋の心に後ろめたさが刺さる。しかし、今二人の付き合いを理解してもらう事が雪子の安定剤になるのだとしたら、それは守屋の会いに行く理由には充分なる。そう自分を納得させる守屋だった。


 土曜日の夜、星野家に指定された店に到着する守屋。今日は車ではない。お酒を飲めるように車には乗らずに来てと、事前に言われていたのだ。“旬菜あじな”というのれんを前に、守屋は今一度ネクタイを締め直す。家庭懐石料理と書かれた店の前の看板には、本日のお薦めなどが書かれている。深呼吸を一つして、守屋は意を決してガラガラッと引き戸を開けた。すると、『もうすぐ着くよ』という連絡をもらった雪子が出てきたところだった。

「大丈夫?」

雪子が心配する。

「ま・・・格好つけても仕方ないしね」

そんな強がった事を言う守屋に、雪子が言った。

「お父さんと三人だから」

少し複雑な顔をする守屋に、雪子がにっこり笑った。

「ここお料理の美味しいお店だから、楽しみにしてて」

雪子に案内され、個室の座敷へと通される。入り口で守屋がかしこまった挨拶をすると、父があぐらをかいて手招きをした。

「いや~、急にごめんね。ま、入って入って」

漆塗りの半月盆の置かれた席に勧められるままに座る。背筋を伸ばして正座した守屋に、父が言った。

「上着もネクタイも取って、今日はざっくばらんにやりましょう」

そう言われてもなかなかほぐれない守屋に、父がメニューを広げた。

「まずは生ビールいきますか?ビール大丈夫?」

テーブルの脇に置かれたボタンで仲居さんを呼ぶ。注文を終え、ビールが来るまでの間、父が説明をした。

「ここね、良い店でしょう?家族の誕生日の時とか、お祝いの席なんかに、結構気に入って使ってるんですよ」

打ち合わせしたかの様なタイミングで、生ビールが三つ運ばれてくる。

「まぁ、じゃ 早速頂きましょう」

乾杯をして一口飲むと、まだ正座の守屋に父が言った。

「足崩して、所長さん」

雪子も隣でハンガー片手に聞く。

「上着、掛ける?」

「あ、いや・・・自分で。ありがとう」

スーツのジャケットを脱いで、自分でハンガーに掛ける守屋。額に滲む汗を見て、父が言った。

「そう緊張しないで」

「あ、すみません」

おしぼりで額の汗を拭うと、ビールをもう一口ごくっと喉を鳴らして飲んだ。

「仕事の後の一杯は、極上の味わいだよね」

間を埋める様に、隣で雪子もビールに口を付ける。それを見て、守屋が言った。

「雪子さんとはお酒を飲みに行ったりした事がないので、何だか新鮮です」

「あ、そう?飲みに行かない?」

「普段は車で動く事が殆どなので、仕事帰りに一緒に食事に行っても、アルコールは飲まないので・・・」

頷きながら、守屋の話を聞く雪子だ。

「普段は、どんな所に二人で行ったりするの?ま、デートっていうの?」

守屋と雪子が顔を見合わせた。

「二人の休みが合う日がなかなか無かったもので、そう色々な所には行ってないんですが・・・」

すると、雪子が言った。

「高尾山とか・・・行ったよね?」

「あぁ、そうだね」

「荒川沿いの土手とか・・・」

「あ、まぁ・・・」

「夏子ちゃん達と一緒に江の島の方の海見に行った事もあるね?」

「自然が好きなんだ?」

父がご機嫌な顔で二人を見ている。

 一品ずつ料理が運ばれてきて、一皿ずつ片付けていく。一杯目のビールの後、冷酒を飲み始めた父が、次第に『所長さん』から『守屋さん』に呼び名が変わっていく。そして、コースの最後の味噌汁とご飯が運ばれてきた頃、グラスに残った日本酒をぐっと空け、父が守屋に改まって言った。

「男親としては、娘の彼氏とやらに会うのは 正直複雑な気持ちだったけど、守屋さんには本当に感謝しています。娘はちょっと調子を崩しましたけど、守屋さんが居てくれたお陰で ここまで来られたんだと思いますよ」

そう言って、父が頭を下げた。

「これからも、どうか娘を宜しくお願いします」


 父と雪子が家に戻ると、留守番をしていた母が 当然不機嫌な顔でテレビを見ている。

はぁ~と大きく息を吐きながら、父はソファに腰かけた。

「いやぁ~、なかなかいい青年だったよ。ママも来れば良かったのに」

「・・・・・・」

「あ、そうだ。ママの分、お土産にしてもらったから。あっちのテーブルの上に置いたよ」

「お腹空いてないから、要らない」

立ち上がって部屋から出て行こうとする母に、父が言った。

「刺身が入ってるから、今日食べないなら、冷蔵庫入れといた方がいいぞ」

聞こえているのに、それに何の反応もせずに、もちろんお土産の箱を冷蔵庫に入れる事もせずに、母はリビングを出て行った。仕方なく、父親がそれを冷蔵庫にしまうと、大きな溜め息を一つ残していった。

 

 寝室に入ると、もう真っ暗に電気が消されている。母が寝ている脇で、父が静かに着替えていると、その暗闇の中から ほんの僅かに鼻をすする声が聞こえる。パジャマに着替えた父が振り返って、もう一度耳を澄ます。やはり母のベッドの方から聞こえるすすり泣く声。父はそっと近づいて、丸まった布団の上から母を摩った。

「ママ・・・大丈夫?」

もちろん返事はない。暫く様子を見ていた父が、もう一言声を掛ける。

「俺は、ママに感謝してるよ」

父は掛布団の上に手を乗せたまま続けた。

「俺が居ない間も、よく雪子をここまで育ててくれたと思ってるよ。ママの言う通り、俺はたま~に帰ってきた時だけ それらしい顔して親出来てんのも、全部ママのお陰だと思ってるよ」

母の反応はまだない。

「雪子だって、感謝してるよ、ママに。今だって、ママの事大好きだと思うよ」

すすり泣く声が少し大きくなる。

「今日も・・・雪子、少し寂しそうだった」

布団がもぞっと動いて、中から声がする。

「私ばっかり悪者にして・・・」

「してないよ、悪者になんか」

「私だって、雪子に幸せになってもらいたいって思ってるのに」

「分かってるよ。俺だって雪子だって、ママの気持ち 分かってるよ」

「二人で仲良く、会いに行ったりして・・・」

「・・・だって、話してみなきゃ分からないだろ?それに今日は、雪子と一緒に居るところも見て、変な付き合いじゃないって分かって安心したんだ。家に何度か所長さんとして来た時と、今日雪子と一緒に居る時と、同じ印象だった。だから俺は、彼を信用しようと思う」

「・・・・・・」

「実際 雪子も、俺と二人で待ってる時より 彼が来てからの方が安心した顔になってさ・・・。俺を超えた人なんだなって、寂しいけど痛感して帰ってきた」

母のすすり泣きが小さくなる。

「俺はたまに帰ってきて雪子に会う位だから、どっかでまだ幼い雪子のまんまの印象だったんだけど、もう子離れしなきゃならない時が来たんだなって思ったね、さすがに今日は」

父がベッドにもう少し深く座った。

「ケチの一つもつけようのない人連れて来られた方が、男親はキツイね。ダメ男なら、文句の一つや二つを酒の肴にして飲み明かせるのにね」

少し笑って、父は話し続けた。

「だから今日は、この寂しさをママに慰めてもらおうと思って帰ってきたのに・・・」

「勝手な事言って・・・」

ベッドの中から僅かに声がする。

「だって、こんな事話せるの、ママしかいないでしょ?」

そう言って父が、母の肩を揺すった。すると母が言った。

「私だって、子離れできてないもの・・・」

父が母の耳元に近付いて言った。

「子離れ出来てない者同士、慰め合って一杯やろうよ」


 寝室に運んできた日本酒とさっきのお土産を広げる。ベッドに乗せたお盆の上で、日本酒を注ぎ合う。

「子離れできない俺らに、乾杯」

小声でそう言って、グラスを合わせた。母の顔にも少し笑顔が戻っている。

「彼・・・そんなにケチのつけようもない人だったの?」

「・・・悔しいけどね」

思い出して、少し笑いながら父が言った。

「一個ぐらい欠点見つけてやろうって、どっか大人げない自分が実は居たんだけど・・・見付けられなかったね・・・」

「そうなんだ・・・」

「だから逆に『とんでもない奴連れて来られるより良かった』って、素直に開き直る事にした」

母が、お土産に入っていた海老しんじょうを口に運んだのを見ながら、父が聞いた。

「ママだって、本当はそう悪い人じゃないって 分かってるんでしょ?」

暫く考えた後に、小さく頷く母。それを待ってましたとばかりに、父が次の台詞をぶつけた。

「今度は4人で会おうよ」

「・・・ニコニコできるか分からない」

その打開策を父が考えている間に、母が言った。

「娘を取られたみたいで、寂しいし悔しいんだもの」

「そりゃ、俺だって同じだよ」

「じゃ、どうしてパパはニコニコできるの?」

「そりゃ、娘の彼氏にやきもち焼いてるなんて格好悪いだろ?理解のある器の大きいお父さんを演じたいんだよ。それのが雪子も喜んでくれるし」

「・・・そうね」

「ママもさ、もう割り切って 一緒に出掛けたりご飯食べたりすればいいんだよ。仲良くしちゃえばいいんじゃない?」

「今さら・・・じゃない?」

「そんな事ないよ。実際さ、守屋さんは本当に親身に雪子の事心配して下さってるみたいだし、雪子の精神状態が何より安定してるんだから、今はそれを応援してやろうよ」

「そう・・・ね」

二人は再び、小さくグラスを合わせた。


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