表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
23/30

第23話 息のつける場所


 本社に呼び出された守屋が、営業部長とエリアマネージャーの吉川を前に背筋を伸ばす。会議室のテーブルの上に異動先の書かれた紙が差し出される。そこには 以前に希望を出していた国分寺へ雪子の移動先が記されている。岡田等三人共が皆都内の別々の施設だ。それに目を通して、守屋が確認の為目の前の二人に顔を向けた。

「厨房責任者の安達は、そのまま残らせて頂けるって事ですか?」

営業部長が頷く。

「ありがとうございます」

守屋が深く頭を下げた。

「この4名の異動先に関して、何か意見ある?」

「ありません」

「じゃ、これで決定でいいかな?」

そこでもう一枚の紙が目の前に現れる。

「これが、4名の欠員を埋める為の人事」

国分寺や立川、八王子等から4名の厨房職員が移動してくる予定になっていた。そこには、一人一人の簡単な経歴が載っている。さっと目を通して守屋が頭を下げた。

「ご迷惑をお掛けします」

頭を上げた守屋が、もう一つ大事な質問をする。

「私は・・・」

部長が軽く咳払いをした。

「福岡の北九州にある施設に・・・異動してもらおうと思う」

守屋の顔をじっと見つめる部長と吉川を前に、冷静な表情を変えず守屋が深く頭を下げた。

「承知しました。ありがとうございます」


廊下を出てエレベーター待ちをしているところへ、二階堂が姿を見せる。

「聞いたよ」

一呼吸置いてから、守屋は二階堂に笑顔を向けた。

「クビにならずに済みました。再就職先、ご心配頂かなくて大丈夫です」

「異動?」

「・・・福岡です」

「福岡?!九州?!」

二階堂は驚きを露わにする。しかし守屋は少し笑ってみせた。

「無職になるところを、まだ使ってもらえるだけ有り難いです」

「彼女と・・・離れちゃうでしょ?」

「ま・・・それは仕方ないです。近くにいたって、何の役にも立てませんから。居なくても同じですよ、きっと」

「・・・お袋さんは?一人になっちゃうの?」

「今弟が帰ってきてて、一緒に住んでるので助かります。ま、半病人同士ですけど、きっと助け合ってやっていけると思います」

「・・・どっかで息抜ける場所作らないと駄目だぞ」

その場の軽い空気が、少し引き締る。

「今の彼女にそう感じる事があったら、絶対に手放しちゃダメだよ」

一回見逃したエレベーターが再び開く。守屋は明るい顔を二階堂に向けてエレベーターに乗り込んだ。


「俺、来月から異動になるから」

幹夫が 母親と祐司を前に言った。それを聞いて、まず口を開いたのは母だ。

「今度はどこ?」

「・・・福岡」

「福岡?!」

当然の反応が返ってくる。と同時に、戸惑っているのが明らかに分かる。

「なんでまた そんな遠くに・・・」

「俺独りもんで身軽だからさ。妻帯者はそこまで異動させられないし」

「来月からなんて、随分急じゃない。向こうで住む所とか、自分で探すの?それとも会社が準備してくれるの?」

「まぁ その辺の詳しい事はその内聞いておくよ。とにかく、俺この家出ちゃうから、二人で協力してやってよ」


 家族に伝えた晩、守屋は部屋で雪子への電話を迷っていた。直接声ではなく、文字で伝えようと、文章を打ち込んでみる。

『ユキが希望出してた国分寺に、異動出来る事になったよ。良かったね』

しかし、最後に付けた『良かったね』に違和感を感じ、それを消してみる。しかし、残った文章を送信する事も躊躇われる。守屋は送信をやめて、通話のボタンに触れた。

「守屋さん?」

呼び出してすぐに電話に出たところをみると、雪子も携帯を眺めていたのかもしれないと感じる守屋だった。

「ユキさ・・・希望出してた国分寺に、異動出来る事になったよ」

「・・・欠員が出たの?」

守屋の胸がちくっと痛む。

「本社からの連絡だから、詳しい事は分からないんだ。ごめんね」

「・・・・・・」

「だから、頑張って元気になろうよ」

「・・・・・・」

「国分寺にはね、有名なベテランのパートの犬飼さんっておばちゃんがいるんだよ」

守屋の明るい声に、雪子が話に乗ってくる。

「有名な?」

「そう。国分寺の厨房にずっと前から長い事勤めてるおばちゃんなんだけどね。皆のお母さんみたいな存在の人でさ。まぁ・・・もう歳はお婆ちゃんに近い感じなんだけどね。職員になっちゃうと定年があるから 私は一生パートでいいわって言って、職員の話を断り続けてきた人なんだよね。本社の方も、その人に責任者お願いしたくても、何せパートさんだし、本人も『私は偉くなりたくないから』って。俺も何回か話した事あるんだけど、とにかく明るい人で・・・ムードメーカーっていうか、その人が笑えば周りも和んで丸く収まる・・・みたいな存在感のある人」

「へぇ~、面白い」

「でしょう?きっと楽しく仕事出来るよ」

「・・・うん」

そして守屋が話題を変えた。

「少しは、外に出る事ある?」

「・・・ううん」

「・・・今月中に・・・一回会えたらいいな」

その妙な言い方が耳に残る雪子だ。

「今月中・・・?」

「あ、今日とか明日とか言うと、焦っちゃうかなと思って」

納得した雪子が、少し話し出す。

「最近は・・・ご飯もちゃんと食べる様にしてて・・・夜はなかなか寝付けないけど、朝もちゃんと起きる様にして・・・」

「偉いね。頑張ってるんだ」

「薬・・・飲んでるから、少し落ち着いてるのかも」

「薬・・・大事だよ」

守屋の胸にスーッと寒い隙間風が通り抜けていく。そんな自分を必死にごまかして、守屋は明るい声で言った。

「この調子だと、仕事に戻れるの、そう先じゃないかもね」


 今日も昼食を食べに、守屋は事務の佐々木と食堂を訪れる。そこに雪子は居ない。分かっているけれど、やはり守屋の心は毎回少し沈む。しかし、そんな高校生みたいに初々しい自分を どこかで笑っている自分もいる。守屋がいつも通りにトレイを運んでいると、後に続く佐々木が言った。

「星野さん一人居ないだけでも、寂しいものですね・・・」

守屋が思わず振り返る。最近は少し、人の発言に警戒する癖がついてしまっている様だ。

「星野さんって、そんな目立つタイプじゃなかったけど、何だろう・・・若かったからかな?一人若い女の子が居るだけで華やかでしたよね」

守屋は椅子を引きながら言った。

「そんな事軽く口走ったら、問題になるよ。『若い』とか『女の子』とか言うだけで、今や差別用語だからね」

佐々木はペロッと舌を出して、首をすくめてみせた。

「本当。面倒な時代になったもんだわ」

それを笑顔で受け流す守屋に、佐々木はまだ続けた。

「星野さん、いい子だったから・・・異動になっちゃうの残念」

守屋は無言で佐々木の顔を見る。

「娘みたいな感じなのかな?」

「娘?!そんなに歳離れてないでしょ?」

「だってうちの一番上のお姉ちゃん19ですよ。そんなに変わんないでしょ?」

守屋の箸が止まる。

「そっかぁ。そんな大きい娘さんいるんだぁ」

守屋とほぼ同世代の佐々木には雪子が娘に見えるらしい。その感覚に、守屋が一瞬で打ちのめされる。

「星野さんの事、娘みたいに思いません?」

佐々木の質問に、守屋は当然首を傾げる。

「所長は独身だからかな。気持ちが若いんですね」

「いや・・・そんな事ないけど・・・」

「だって、星野さん位の子、恋愛対象になります?」

守屋も返事に慎重になる。はっきりしない反応に、佐々木が勝手に納得する。

「なるんだぁ~。ま、男の人はそうかもね。いつの時代も、やっぱ若い子はそれだけでモテるのよね・・・」

「歳だけで人を見たりしないよ。自分の年齢が上がる程、中身を重視する様になってる気はするけど」

「確かに。人を見る目も、若い頃よりついてるし」

そして佐々木はお椀を持ったまま言った。

「今なら、あんな男選ばなかったと思う、絶対に」

“あんな男”とは元旦那の事だ。すると守屋が言った。

「でも、子宝3人も授けてもらったじゃない?そこの感謝はないんだ?」

「そんなお釈迦様みたいに広い心になれてたら、離婚してないだろうし」

「そういうもんかなぁ・・・」

守屋の頭の隅に、母親の顔がよぎる。

「男はいくら子供が欲しくても、産んでもらわないと父親にはなれないしね。その違いは大きいのかな」

佐々木の瞳から一瞬で笑顔が消える。

「所長、早く若い子見つけて結婚しないと、売れ残って 私みたいなのと一緒になって人の子を我が子と思って育てる事になりますよ」

最後の漬物を一切れ口に入れて、守屋が箸を置いた。

「そんな自虐的な言い方しなくてもいいのに」

佐々木はいつもの様に、明るく笑ってごまかした。


 食堂から事務所へ戻る途中、佐々木が言った。

「前に連れてきた息子、覚えてます?」

「あ、玲次君?」

「そう。その玲次が所長の事気に入っちゃったみたいで・・・また来たいって、ここ」

「連れてきてあげなよ。夏休み、家に一人じゃ寂しいでしょ?」

「ま、慣れっこだとは思うけど・・・」

「俺も子供の頃、夏休みになると 時々母親の仕事場に行ってたから」

「へぇ~。やっぱり家に一人だと寂しかったですか?」

「うちの場合は、弟と二人、有無をも言わさず連れてかれたけど」

あははははと明るく佐々木が笑った。

「凄い!お母さん」

「保険の外交だから、押しが強いんだよ」

「保険の営業かぁ。企業戦士ですね、お母さん。私なんか安定を失うのが怖くて怖くて、固定給にしがみついてるっていうのに」

「いくら男女平等って言ったって、まだまだ女性が男並みに稼ごうとしたら大変な世の中だからね」

「だから、今年から一番上の娘が社会人になって、本当にほっとしてるっていうか・・・正直助かってます」

佐々木がペロッと舌を出した。

「凄いね、佐々木さん。尊敬するよ」

「そうなんですよね~」

佐々木が明るく悔しがるから、守屋が不思議そうな顔になる。

「今みたいに母親としては株が上がるんだけど、女としては全然見てもらえなくなってくんですよね~」

守屋が慌てて さっきの言葉を撤回しようとする。

「いやいや、そんな意味じゃないんだけど・・・」

「いいんです。私だって別にこれから若い頃みたいな恋愛しようとなんて思ってないですから」

守屋が佐々木の横顔をじっと見る。

「だけど、このまま一生一人かなぁとは考えちゃったりします」

「・・・・・・」

「いつの間にか いつも一緒に居て、いつの間にかいつも一緒にご飯食べたり笑ったりして、そんな風に空気みたいに自然に傍にいる人と、気が付いたら同じ方向に向かって同じ速度で歩いてた・・・みたいなの、夢見ちゃうなぁ」

黙っている守屋に、佐々木がハッとする。

「嫌だぁ!私、な~に言っちゃってんだろう。こっ恥ずかしい!」

照れる佐々木に守屋が言った。

「いや、分かるよ。・・・分かるなあって思って。肩に力入れない恋愛。ん・・・恋愛っていう意識もない内に、隣にいるのが当たり前になってるっていう存在。いいよ、そういうの」

「この歳になると、普通に 出会って好きになって告白して・・・っていうプロセスを一から踏むの、面倒臭いっていうか・・・照れ臭いっていうか・・・」

守屋ははははと笑いながら聞く。

「付き合うだの、喧嘩しただの、記念日だの・・・若い頃みたいに、そういうのにエネルギー使えなくなってて・・・。それに私の場合、子供が気に入ってくれるか とか、逆に子供を可愛がってくれるか とか。そういう絶対に越えなきゃならないハードルはある訳だし」

「そうだよ。それ、大事だよ」

「だから、彼氏としてわざわざ紹介するんじゃなくて、家族ぐるみで付き合ってる内に・・・みたいな」

そこまで喋って、佐々木が又はははと笑った。

「そんなうまい事いく訳ないか」

 ここ最近の疲れた守屋の心に、佐々木の一つ一つ発する言葉が染み入ってくる気がした。自然に始まって、自然体で居られる相手と生きていく人生に、少し心が揺らぐ。今の雪子との関係が、もしかしたら年甲斐もないのかもしれないと、ふと守屋の頭をよぎる。その顔を佐々木が見逃さない。

「な~んか、考えちゃいました?」

守屋がハッとして、ごまかす様に笑った。

「あ、もしかして、私みたいなのと一緒にしないでくれ~とか思ってます?」

守屋は笑って首を横に振った。

「むしろ その反対。分かるな~って。そういうのが心地良い歳になっちゃったんだなあって」

「あ、やっぱり共感してもらえました?」

佐々木が満面の笑みを浮かべる。

「私、所長と毎日毎日一緒に食事させてもらってますけど、一回も違和感感じた事ないんですよね。そういう生活の基本的な事が合う人って、大事っていうか・・・。1から10まで話さなくても分かる・・・っていうか」

佐々木の言葉を感慨深げに聞いて頷く守屋。

「そういう基準で旦那選んでればなぁって・・・。今更どうにもならない後悔ですけど」

「そんなに駄目な人だったの?」

佐々木が急に苦虫を潰した様な表情を顔いっぱいに広げる。

「そりゃぁもう。酒癖は悪いわ、働かないわで。決め手はDVでしたね」

「苦労したんだね。でもその代わり、玲次君凄く良い子じゃない」

佐々木の顔がすっと明るく切り替わる。

「お姉ちゃん二人におもちゃみたいに可愛がられて ちょっと軟弱ですけどね。もっと逞しく育てたいって思うけど、男親がいない大きさを感じますよ」

佐々木の言葉が、守屋に母を思い出させる。

「うちのお袋も、そう思ってたのかなぁ」

「所長の事?!」

「いやいや、弟の事。デリケートっていうか、線が細いっていうか。優しいのが取柄なんだけどね」

「弟さん いらっしゃったんですか」

事務所に着いた二人は、それぞれに仕事に手を動かしながら さっきの話題を続けた。

「所長のご家族の話聞くと、何故か親近感湧きます。変な共通点があったりして・・・」

肩に力を入れない関係・・・一緒に居て邪魔にならない程度の存在感・・・。言い換えたら、パジャマですっぴんで居られる関係だ。一言一言気を遣わずに喋れる間柄。その時ふと守屋の脳裏に、二階堂の言葉が思い出される。

『どっかで息抜ける場所作らないと駄目だぞ。今の彼女にそう感じる事があったら、絶対に手放しちゃダメだよ』

デスクの前に突っ立ったまま手の止まっている守屋を再び動かしたのは、ぷ~んとほのかにコーヒーの良い香りが鼻に届いたからだ。

「はい、所長。お疲れの様なので、食後の一杯入れました」

カップを置いて、佐々木がにっこり笑った。

「あ、ありがとう」

現実に戻った守屋が佐々木を振り返って言った。

「来週の献立表・・・」

すると佐々木はにっこり笑って、A4の紙をヒラヒラさせた。

「コピーしときましたんで、これから貼りに行ってきま~す」

フットワーク軽く佐々木が事務所を出て行った後、守屋がコーヒーを一口飲むと、そのカフェインが頭と体と心の鎧を一つ一つ剥がしていく心地になるのだった。


 その数日後、雪子は昼間本屋に買い物に出る。久し振りに街に出てみると、太陽の明るさに怯えていたのが嘘の様に、晴れ晴れとした気持ちになる。少し足を延ばして懐かしい街並みを散歩していると、小学生の校外学習の列を見掛ける。思わず懐かしくなって、母校を訪れてみる。夏子と共に過ごした日々が、ついこの間の事の様に思い出される。暫く校庭での授業を眺めてから、雪子は携帯を取り出した。

『久し振りに買い物に外に出てみました。そしたら気持ちが良くて、散歩がてら小学校に来てみたの。守屋さんと行った夜の小学校 思い出しちゃって、つい報告したくなりました。仕事中だったら、ごめんなさい』

すると、意外にもすぐに返事が来る。

『今日はお天気がいいからね。暑いくらいだけど。外に出られて良かった。今日は夜勤だから、家に居ました』

雪子はそれを読んでにっこり微笑むと、急に足取りが軽くなって、駅に向かった。

  

 守屋の家の最寄り駅に向かいながら、雪子はメッセージを送る。

『電車にも久し振りに乗ってみてます。もし守屋さんの時間が空いてたら、少しだけ会えないかなと思って・・・』

 

 駅前の以前と同じポストの前で守屋を待つ。今日は雪子の方が早い。守屋が現れるのを 今か今かとキョロキョロする。暫く会っていない守屋と久し振りの再会に 落ち着かない心を抱えている雪子の目の端に、よく知った顔が飛び込んできた。

「ごめんね、待った?」

「こっちこそ、急にごめんなさい」

守屋が久し振りの雪子をじっと見るから、くすぐったい気持ちになる雪子だ。そして守屋は、雪子の手にぶら下がった紙袋を見て言った。

「本買いに出たの?」

願ってもない話題を提供され、ホッとした思いで雪子が返事をする。

「夜眠れない時に読んでるから、どんどん進んじゃって・・・。だから買い足しに行ってみた」

「外の空気はどう?久し振りに」

きっと守屋の実家に行った時以来の外出だ。雪子の顔に花が咲いた様に明るい光が差す。

「凄く気持ちがいい。なんで今まで家の中に居たんだろうって思う位」

「そう・・・良かったね」

笑顔だが、少し陰りがある守屋の顔をまともに見られない雪子は、それに気が付かない。

「守屋さん、時間平気?少し・・・散歩したい」

 歩き始めてからも、少しよそよそしい距離が空く。その距離が縮まらない内に、守屋が言った。

「ちゃんと言ってなかったけど・・・職場での事、ごめんね。俺何も知らなくて」

「・・・・・・」

黙って雪子は首を横に振った。

「辛かったよね・・・」

「ううん」

「でも、もう・・・そういう事もないからね」

「ありがとう・・・」

それから暫くの間、二人は黙ったまま歩く。そして、雪子が少し悲しい笑顔で言った。

「守屋さん・・・仕事の事しか言わないね」

「・・・そう?」

「・・・話す事・・・ないもんね」

「そんな事ないよ」

「いい、いい。大丈夫」

守屋に会った瞬間あんなに晴れやかな顔をしていた雪子が、今隣で雲行きの怪しい表情をいっぱいにしている。

「ユキ・・・」

守屋は雪子の肘を優しく掴んで立ち止まった。

「・・・ごめん」

多分言いたい言葉は他に沢山ある筈なのに、結局守屋が選んだのは 何故かこの悲しい三文字だった。

「嫌だな・・・。なんか意味深」

小さい声でそう呟くと、雪子は落ち着かなくなる。それを感じた守屋は慌ててそれを否定した。

「違う、別に変な意味じゃない。ただ俺がユキの力になれなくて、本当に申し訳ないって思ってる」

悲しい守屋の顔が、寂しい雪子の瞳に映る。そんな雪子が空を仰ぐと、そこにはさっきと同じ、青空が広がっていた。それに力をもらう様に、思い切って雪子が聞いた。

「ねぇ。この近くに 空が広く見える所、ある?」


 傾斜地を切り開いて作られた新興住宅地の坂を歩く。雪子の顔は明るい。

「素敵なお家、いっぱい」

「・・・こういう家、住みたい?」

雪子はふふふと守屋の顔を見て笑った。しかしそれとは対照的に、守屋の表情は硬くなる。

二人はゆっくりと 上り切った所にある公園まで歩いてくる。額には汗が滲んでいる。ハンカチで汗を拭きながら雪子が嬉しそうに笑った。

「汗かいたの、久し振りかも」

守屋がにっこり微笑んだ。

 雪子がひさしの付いたベンチに大きく息を吐いて腰を下ろすと、少し間を空けて守屋も隣に座った。

「坂昇って来たから、疲れたね」

「日陰、涼しい~」

目を瞑って日陰で一息つく雪子の隣で、守屋は自分の頭に手を乗せた。

「熱くなってる、頭」

雪子も自分の頭に手を乗せてみて笑った。

「熱っ!」

そして雪子は、守屋の頭にも手を伸ばした。

「守屋さんも熱くなってる」

「日差しがもうすっかり夏だね」

「うん」

少し遠くの空を眺めてから、雪子が言った。

「ダイビング・・・楽しみ」

「・・・・・・」

「ちょっと前は 絶対無理って思ってたけど、なんか今は、また凄く楽しみになってきた」

隣を向くと、慌てて笑顔を作る守屋に気付く雪子。

「・・・守屋さんは?楽しみじゃない?」

「・・・ユキがそう思える様になって良かったよ」

「うん。ありがとう」

どこまでも澄み渡る青空に 飛行機雲が一筋伸びる。それを指差す雪子。

「見て、飛行機雲、きれい・・・」

ぼーっと眺めながら、雪子が呟く。

「飛行機に乗って、早く守屋さんと旅行行きたいなぁ」

ゆっくり瞬きを一回すると、我に返った雪子が 隣に座る守屋の手にそっと触れた。雪子は空に顔を向けて深呼吸をした。

「守屋さんの話、聞かせて。前、聞けなかったから」

「・・・・・・」

「今はあの時より元気になったから」

守屋は暫く雪子を見てから、はぁっと溜め息交じりに俯いた。

「ユキ・・・俺も来月から異動になる」

思っていた話の始まりと違って、戸惑っている雪子がいる。

「ん?・・・どこに?」

「ちょっと・・・遠い」

「・・・どこ?」

「・・・福岡」

声も出ず、ただ雪子は隣の守屋の顔をじっと眺めている。それ以上の話がすぐに続かないから、雪子の心が次第に追いついてきて、胸がきゅうっと痛む。

「やだ・・・」

無意識にそう漏れた雪子の本音が、守屋の心に刺さる。

「ごめん・・・」

雪子は首を必死に横に振っている。

「会えなくなっちゃう・・・」

「・・・大丈夫だよ」

「大丈夫?・・・大丈夫って?」

「ユキは・・・きっと大丈夫」

さっきまで瞳に映っていた夏を思わせる青空は、もう雪子の目に映ってはいなかった。

「・・・私のせいでしょう?」

「違うよ」

「だって、どうして守屋さんが異動なの?」

雪子が一拍置いて、また息を吸い込んだ。

「・・・私に会えない様に?」

「違うって」

雪子の 横に振っていた首も口も止まる。そして急にまた顔を上げた。雪子は繋いだ守屋の手に指を絡めた。

「福岡に会いに行く、私」

守屋が驚きの表情を隠せない。だから雪子は続けた。

「毎日、電話もしようね」

「・・・そうだね」

「テレビ電話、したい」

「え?!」

驚きの顔を、守屋は隣の雪子へ向けた。

「だって・・・守屋さんの顔見たいもん」

そう言って雪子は、握った手に力を込めた。


 駅近くまで戻って来ると、雪子が言った。

「向こう行っちゃう前に、もう一回4人で会いたい」

「うん」

「夏子ちゃんと・・・何でもなかったんだよね?」

守屋は立ち止まって、雪子の方を向いた。

「何かある訳ないでしょ?ユキの幼馴染みだよ。俺、そんなに節操がない男に見える?」

「見えないけど・・・」

「けど?!」

「だって守屋さん、黙ってるんだもん。寂しかった。夏子ちゃんに『内緒にして』って言われても、私には話して欲しかった」

守屋は頭を掻いた。

「そうかぁ。・・・ごめんね」

雪子が再び足を進めながら、ふっと笑った。すっかり笑顔の増えた雪子に、守屋が安堵の表情を浮かべる。が、少し寂し気だ。

「元気になって、良かった」

「今なら、どんな噂話も気にしないでいられそう。私、仕事行けるかも」


 その日、祐司が幹夫に言った。

「薬飲み始めて少し調子が良くなると、一瞬 自分がすっかり治ったみたいな・・・無敵みたいに錯覚する時があるんだ。でも、同じ環境に戻れば また同じ症状になって・・・自分はやっぱり駄目なんだって更に自信を無くしてく。そうやって悪いサイクルにはまっちゃうんだ」

自分の体験を話す祐司が、もう一言付け足した。

「焦ると、その分長引く様に思う。だから、周りは焦らせないであげて欲しい」


 次の日、夜勤明けで守屋は雪子の家に向かう。近所で車に乗り込んできた雪子の顔が少し不機嫌に見える。

「どうしたの?何かあった?」

「お母さん・・・」

守屋は付いていたカーラジオのボリュームを絞った。

「今朝、私が仕事行こうとしたら、まだ駄目って」

守屋は祐司の言葉を思い出す。

「昨日の夜はね、久し振りに良く眠れたの。朝もすっと起きれたし。気分も良かったから、これなら仕事行けるなって思って張り切ってたのに・・・」

守屋は言葉を一つ一つ選んだ。

「夜、眠れたんだ?良かったね」

「うん。せっかく昨日いっぱい本買ったのに、読めてない」

雪子は はははと笑った。

「仕事行こうと思えたなんて、凄いね」

「でしょう?それなのに、お母さんが・・・」

「ま・・・そう慌てないでさ。暫くお休みするって言ってあるんだし、一回出たら、また毎日当てにされてもプレッシャーになっちゃうでしょ?」

「・・・・・・」

「国分寺に出られる日にちを決めて、それ目標に頑張ればいいよ」

「・・・やだ」

「どうして?」

「・・・守屋さん、居なくなっちゃう」

守屋は返す言葉に詰まる。

「一緒の職場で働けるの・・・もう無くなっちゃう。会えなくなっちゃうもん・・・」

「ユキ・・・大丈夫。こうやって会いに来るから」

今度は雪子が言葉に詰まる。そして、守屋の肘の辺りにしがみついた。


 次の日職場に出勤すると、本社から異動の辞令が届いている。しかしそこには守屋の辞令は載っていない。守屋はエリアマネージャーの吉川に確認の電話を入れた。

「私の辞令が入ってなかったんですが・・・まだ発表は伏せておいた方がいいんでしょうか?」

「ちょっと・・・色々変更がありそうで・・・。昨日送った分に関しては決定なんで、OKです。守屋君に関してはちょっと保留って事で」

「保留・・・ですか・・・?」

「部長の方から、福岡の件ストップ掛かっちゃったんで」

守屋に再び 嫌な緊張感が走るのだった。


 守屋は安達を呼び出して、本社からの辞令を伝える。

「星野さんがいつ頃から出られそうか本社に伝えないとならないので、決定事項のお伝えに、又行ってきます。あちらの親御さんは、例の職員達の処遇も気にしておいでだと思いますので」

「私もご一緒します」

「大丈夫。一人で行ってきます。安達さんは、厨房の方 宜しくお願いします。異動先で気持ち良く働いて頂ける様に、話して下さい」


 守屋が仕事帰りに雪子の自宅へ車を向かわせる。辞令を両親に伝える為だ。雪子の父親が戻ってくる時間に合わせて指定された時間だ。

 インターホンを押すと、母親が顔を出して玄関に守屋を通す。一通りの挨拶を終えて、守屋はまず雪子の様子を聞いた。

「段々に落ち着いてきてると思います。職場でのストレスから解放されてますから」

少し棘のある言い方に、守屋が肩をすぼめた。

「今日お伺いしましたのは、本社の方から異動の辞令が下りましたので、そのお知らせに参りました」

「異動って、雪子がですか?」

母の反応が早い。

「雪子さんにこの度不愉快な思いをさせた職員3名、それぞれに異動先が決まりました」

父親は厳しい顔をしている。

「お母様の仰る通り 雪子さんに異動の必要はないのですが、今回の件で厨房の職員全員に聞き取りを行いましたので、雪子さん自身が居づらい思いをしてしまうのではないかという 精神的な配慮も含めての結論です。新しい場所で一から再スタートを切る方が、精神的負担が軽いのではという判断を致しました。ご理解頂けますでしょうか」

守屋が頭を下げると、父がすぐに反応した。

「よく、わかりました」

すると母がすぐさま確認する。

「所長さんとは、別の施設になるんですよね?」

「・・・はい」

「それなら・・・」

そう独り言の様に呟いた母の言葉を、守屋の耳はキャッチする。自分を落ち着ける様に息をゆっくり吸って、守屋は続けた。

「雪子さんの異動先は、国分寺です。以前にご本人が希望を出されていた施設です」

「そうなんですか・・・」

「国分寺には、大変面倒見の良いベテランのパートさんもいらっしゃいますし、何より明るい職場ですので、雪子さんも働きやすいと思います」

「そうですか」

「あとは、いつ頃職場復帰出来そうかをご相談させて頂きたいと思います」

「・・・・・・」

両親は顔を見合わせた。

「決して慌てて復帰させて欲しいという事ではありません。目安を決めて、そこに向けてご本人にも体調を整えて頂き、現場では欠員状態が長く続かない様に 異動の準備をしていきたいと考えております」

一通り話が終わると、守屋はまた深くお辞儀をした。

「夜分に大変失礼致しました」

「ちょっと待って」

父が守屋を呼び止めた。

「娘とは、今後どの様にお考えですか?」

守屋が顔を上げて 父と目を合わせると、母親の視線も隣から鋭い。

「真面目な気持ちでお付き合いさせて頂いています。お許しを頂きたいと思います」

「お許しって・・・」

呆れた口調の母を遮る様に、父親が聞いた。

「所長さん、お幾つですか?」

「39です」

「離婚歴ありますか?」

父が次々と直球の質問を投げる。

「ありません」

「今から付き合うって事は、結婚とか考えたりしませんか?」

「・・・・・・」

守屋が言葉に詰まると、その隙間に母が割って入り、父に厳しく待ったをかけた。

「ちょっと・・・」

そう言って、今度は守屋の方へ吊り上げた目を向けた。

「20年後、30年後の事も考えて下さってます?」

「・・・・・・」

そこを突かれると痛い。守屋も返す言葉がない。

「今だけの気持ちなら、この際ですからこの辺で区切りをつけて頂きたいと思います」

そう言った母に、父親が横やりを入れる。

「雪子には今、支えてくれる人は必要だよ」

「家族がいるじゃない?」

「そうだけど、親では届かない部分もあるだろう」

すると、母は目を見開いて父親に対して強い口調になる。

「私じゃ、役に立たないって言いたいの?」

「そうじゃない。あの位の年頃になれば、親には話せない様な気持ちだってあるだろうし、そこを恋人っていう存在が埋めてくれる事もあるだろう?」

「親に話せない気持ちって何?パパには分からないかもしれないけど、私と雪子は色んな話もしながら、ずっと二人で上手くやってきたのよ。たまにしか帰って来ないで、分かった様な事言わないで」

父がチラッと守屋の方を気にする。

「所長さんの前で、みっともないだろ」

言われて、母も守屋をチラッと見た。

「元はと言えば、この人のせいで 雪子はここまで追い詰められたのよ。その人に心の支えを求めるなんて、有り得ないでしょう?」

辛辣な母の言葉に、守屋も俯く。尚も父とのやり取りは続く。

「雪子が好きなんだから、仕方ないだろう?」

「好きって言ったってね・・・あの位の若い年の時には 少し年上でキャリアのある上司は格好良く見えるものなのよ。だから、離れればそれなりに 気持ちだって薄れてくるものよ」

守屋の耳に痛い言葉が羅列する。両親の会話に割って入る様に、守屋が口を挟んだ。

「仰る通りかもしれません。ですから、雪子さんが必要としてくれてる間 お力になれたらと思います」

 帰りの車を運転しながら、胸に刺さった母の言葉達が守屋の心の奥で疼いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ