第22話 溜め息のトンネル
「守屋さん、ごめん!」
夏子が慌てた様子で守屋に電話を掛ける。
「私うっかり守屋さんの電話番号知ってる事、雪子ちゃんに話しちゃった」
「ユキ・・・何て言ってた?」
「分かんない。何送っても、既読になんないし・・・電話も切ってる。どうしよう」
「・・・・・・」
「怒っちゃったかな・・・?」
「怒ってはいないよ」
「守屋さんからも連絡してみて。変な誤解解かないと」
守屋には、雪子が再び殻に籠ってしまった事位、簡単に想像ができた。
「守屋さん、明日とか会いに行ける?」
先日、雪子の母に『本人が会いたくないって言う位だから、そういう事なのかしらね』と言われた言葉が、再び古傷の様に痛みだす。
「・・・俺の方が、尚の事会ってもらえないでしょう」
電話だけは掛けてみるよと約束をして、二人は電話を切った。
次の日守屋が仕事に行くと、事務の佐々木から報告がある。
「厨房の星野さん、暫くお休みするそうです」
車のキーを所定の位置に引っ掛けていた守屋の手が止まる。二人で買ったストラップだけが悲しく揺れている。
「体調不良だそうです」
上の空のまま返事を返す守屋に、佐々木が話し続けた。
「体調不良で暫く休むって・・・大丈夫かしらね、星野さん」
目の前で 足元の崖が崩れていく様な不安を感じながら、守屋はそれをひた隠しにして気丈な声を出す。
「厨房の安達さんに、連絡してくれた?」
「しました」
守屋の表情を見て、佐々木が聞いた。
「何か気になってる事でも、あるんですか?」
「いや・・・」
夏子と雪子が連絡を取ったあの日以来、雪子の携帯の電源は切られたままだ。
守屋が再び雪子の自宅を訪ねてみる。インターホン越しの母に深々とお辞儀をした。
「守屋と申します。雪子さんの様子を伺いに参りました」
「この間と同じです」
「お話させて頂く事は・・・」
言い終わる前に、母が語尾を奪った。
「何度来てもらっても、同じですから」
ショップの休みの日、夏子は車を飛ばして雪子の実家を訪ねた。夏子がインターホン越しに名乗ると、機嫌よくドアから出てくる母。
「あら~、珍しい。どうしたの?」
「雪子ちゃん、いますか?」
母の表情が急に沈む。
「今ね・・・ちょっと調子悪くてお休みしてるのよ」
「え?どっか具合悪いんですか?」
「そうなのよ・・・ちょっとね」
その言い方が意味深で、さすがの夏子も突っ込むのを躊躇われる。
「今日はせっかく来てもらったのに、ごめんね。また仲良くしてやってね」
ある日、一人の男性が希望苑を訪れる。受付で佐々木が対応する。
「星野と申しますが、所長さんいらっしゃいますか?」
今日は苑内での訪問診療の日とあり、守屋は事務所に不在だ。館内放送で呼ばれ事務所に走って戻ると、佐々木にスーツ姿の男の元へ案内される。
「お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ありません」
その男は、そう言って頭を下げた。
「星野と申します。星野雪子の父親です。いつも娘がお世話になっております」
急に守屋の背筋に緊張感が走る。同じ様に名乗って、深々とお辞儀をする守屋。
「娘が暫くお休みを致しまして、大変ご迷惑をお掛けしております」
「いえ。体調・・・いかがでしょうか?」
「昨日病院受診致しまして、診断書も頂いて参りました。その事で少々お時間頂けますでしょうか?」
厨房の責任者も呼ぶ事となり、それまで聞き耳を立てていた佐々木が、守屋の指示を受け安達を呼び出す。
空き室へ移って三者が顔を合わせる。
「今日は訪問診療の日で、こんな部屋しか空いてなくて申し訳ありません」
守屋が雪子の父に頭を下げた。その父親は鞄から封筒を取り出し、診断書を開いて見せた。そこには『ストレス性障害』と明記されていた。
「で、ですね・・・」
守屋も安達も緊張の瞬間だ。
「娘と話しましたら・・・職場の人間関係が かなり心労になっているという事でした」
守屋も安達も固まる。
「それ以上は聞いても、何も詳しくは答えてはくれませんでしたけど。何か、ご存じの事があれば教えて頂きたいと思いまして」
守屋も安達も、黙ったままだ。その二人を交互に見た父が小さい溜め息をつくと、安達が思い立って口を開く。
「厨房の職員から、星野さんのプライベートな事について・・・軽い・・・からかいの様な事実があったと聞いております」
「からかい?」
「ま、そんなに悪質なものではないとは思うのですが・・・」
父親の眉間に一瞬皺が寄ったのを感じて、安達が言葉を足した。
「私が一緒に働いていて分からない位でしたから、まぁそう大っぴらないじめとか仲間外れとか、そういう類の物ではないと思うのですが・・・」
そこまで聞いて、守屋が安達の口にストップをかけた。
「安達さん。そういった不確かな事は、今一度職員にヒヤリングしてからお伝えしましょう」
父親の視線が今度は守屋の方で止まる。守屋も視線を真っ直ぐに合わせた。
「こちらと致しましても、しっかりと調査して確認させて頂きます」
そして再び頭を深く下げた。
「星野さんの様に真面目に勤めて下さっていた職員の方に、不愉快な職場となってしまった事、誠に申し訳ありませんでした」
横に居た安達も、合わせる様に頭を下げた。
「いえ。私も別に文句を言いに来た訳ではありません。例えば上司の方が厳しくご指導下さった事で娘がヘソを曲げているんだとすれば、こちらも親として躾をしなくてはと思っていたところです」
思わず守屋が雪子をかばう言葉を発しそうになったところで、安達が口を開く。
「正直何度か、私も厳しく注意させて頂いた事もありました。しかし、星野さんは機嫌を損ねたりするような子ではありません。落ち込んだ様子になる事もありますが、次回からは同じ失敗をしない様に気を付けて働いてくれていましたから」
「ありがとうございます」
父親が頭を下げた。そして、続けた。
「こういう診断が出た以上、職場の環境が娘に適切かどうか確認できるまでは休職という形を取らせたいと思っております」
父親が席を立ったところで、その背中に守屋が切り出した。
「娘さんの様子は・・・」
振り返った父がもう一度立ち止まった。
「部屋に引きこもったまんま、食事も摂りません。夜も眠れていない様で、薬に頼っている始末です。お恥ずかしい話、家内が持て余して 赴任先から私が昨日飛んで帰って来た次第ですよ」
父の帰って行った後で、安達が大きな溜め息を吐いた。そして守屋の方を見た。
「所長のおっしゃる通りだったかもしれません」
守屋が安達の顔を見る。
「私の危機管理能力が低かったと思います」
俯いていた安達が、すっと顔を起こした。
「今日から早速に一人一人に聞き取りを行います。そして必要な職員には、しっかりと指導を入れていきますので、ここ数日お時間を頂きたいと思います」
守屋が雪子と連絡が付かなくなって、一週間近く経つ。雪子の様子も分からず、声も聞けず、ヤキモキ心配だけが募る。家に帰ると、玄関に母が姿を見せる。
「祐司がまた部屋に籠っちゃってて・・・」
「何かあったの?」
「いや・・・仕事から帰ってきて、ご飯作ったから声掛けたんだけど『食べたくない』って」
「分かった。話してみるよ」
祐司の部屋の前で、幹夫は元気のない自分に喝を入れる様に大きく息を吸い込んで勢いをつける。
「祐司。俺。ただいま」
返事はない。ノックをするが、中から音はしない。
「入ってもいい?」
「・・・・・・」
「入るぞ」
幹夫の後ろで心配そうに見守る母を廊下に残して、祐司の部屋に入る。ベッドの上で毛布に包まっている祐司がいる。いつか 雪子の母から聞いた様子に似ていて、幹夫はその塊に近付くのに時間が掛かる。床に腰を下ろして、幹夫が優しい口調で聞いた。
「どうした?何かあった?」
毛布の塊がもぞもぞと動く。そして聞こえない位の小さな声が中からする。
「ん?」
幹夫が聞き返すと、さっきよりほんの少しだけ聞き取れる言葉を発する。
「ごめん」
「何が?」
その後には、またし~んと静まり返った部屋に戻る。幹夫がじっと待っていると、意外にも祐司が話し始めた。
「僕がいけないんだ。ごめん、兄ちゃん」
「何の事?」
「この前、兄ちゃんが彼女連れてきた日・・・」
「まだ言ってんの?お前のせいじゃないって。気にする事ないって言ったろ?」
「・・・お母さんに会わせるタイミングじゃ、まだなかったんだろうし・・・」
「そんな事ないって。あそこでああいう風になったって事は、あの時がそのタイミングだったんだよ」
「彼女はきっと心の準備が出来てなかったと思う」
「だとしたら、俺の判断ミスだよ。あん時紹介するって決めたのは俺だから」
「もっとちゃんとしたタイミングで紹介出来てたら、お母さんにも色々言われないで済んだんだろうし・・・」
「色々?」
幹夫の耳にその言葉が残る。
「色々言ってんの?お袋」
「・・・・・・」
「そういえば俺、お袋の話、後回しにしてたんだった」
毛布は被ったまま、少し体を起こした祐司。
「玄関で見た、彼女の怯えた顔が忘れられない・・・」
その言葉に幹夫が愕然とする。溜め息と共に、幹夫の口から言葉が零れる。
「ごめん」
幹夫が頭を掻きむしった。
「全部俺なんだよな・・・。俺が皆を苦しめてんだよな・・・」
絨毯を一点見つめた幹夫の目が潤んでくる。
「俺、どうしたらいいんだろう・・・」
包まっていた毛布から、頭だけ出す祐司。
「ごめんな、祐司。俺のせいで、こんな嫌な思いさせちゃったな・・・」
うつろな目で、祐司は幹夫を見つめた。
「景子も来てたから、多分色んな感情が湧いたんだと思う・・・。ユキの気持ちを一番に考えなくちゃいけなかったのに」
祐司は幹夫をじっと見つめたままだ。
「ユキの事大事だって思ってるのに、こういう時に、自分の感情を優先させる奴なんだなぁ、俺って」
力なくそう呟いた後で、吐き捨てる様に付け足した。
「俺、自分に失望するわ・・・」
「兄ちゃん・・・」
重たい溜め息をついて、顔を上げる幹夫。いつの間にか顔を見せている祐司がいる。
「ごめん。祐司の話聞くとか言って、自分の話ばっかしちゃって」
いつの間にか丸まっていた背中を伸ばして、幹夫は大きく息を吸った。すると、祐司が言った。
「兄ちゃんは凄いよ。自分より大事な他人がいるんだから。僕なんか、きっと一生そんな気持ちになれないんだと思う」
「30そこそこで、自分の限界決めるなよ。未来なんて、どうなるか分かんないんだから。俺だって、まさか40前まで独りもんでいると思ってなかったし」
「僕だって、自分のこんな30過ぎ、想像してなかった」
はははははと幹夫が笑うと、祐司もつられて笑った。幹夫が立ち上がって腰を伸ばしながら言った。
「飯食い行こう」
「・・・・・・」
「俺もお前も似た様なもんなんだから、一人で落ち込んだりすんなって」
「・・・・・・」
「お袋心配してるぞ。顔見せてやれ。そんだけで、安心すんだから」
祐司も肩をポンポンと叩かれ、ベッドから降りた。
風呂から上がった幹夫を待っていた様に、居間で母がテレビを消した。
「今日は、祐司の事ありがとう」
冷蔵庫から缶ビールを取り出して、幹夫が母に聞く。
「一杯飲む?」
「うん」
二つのグラスに缶から注がれたビールが、勢いよく泡を作る。一口飲んで幹夫から切り出した。
「この前の彼女の事、話聞かなくてごめん。あの日、凄く疲れてたから」
思い出した様に、母の表情が変わる。
「あの子、祐司と同じ、うつ病なの?」
「・・・違うよ」
「でも、昔の祐司と同じ目してた」
ビールをもう一口飲んで、幹夫が言った。
「職場で色々あって、精神的に参っちゃって、今ちょっと元気がないだけ」
「お母さんに紹介する位だから、結婚考えてる人なんでしょ?」
「・・・そうだね」
「だったらお母さんも、口出していいよね?」
幹夫の眉毛が上がる。
「神経の細い子は・・・心配だな、お母さん」
「鈍感でガサツな子は、俺嫌いだよ」
母が溜め息をつく。
「揚げ足取らないで」
母がじっと幹夫を見てから言った。
「精神的に逞しくないと 夫や子供を支えられないし、弱い子は簡単に全て放り出して逃げたりするよ」
「そんな子じゃないよ」
「今はあばたもえくぼで、良い所しか見えないだろうけど・・・」
「そんなんじゃないよ。人が嫌がる様な仕事だって進んで黙々とやるし、我慢強いところもある。いつも穏やかで優しくて、自分を飾ったりしない。人の喜びを自分の喜びと出来る人だよ」
「今はそう思っても、生活してくと・・・」
幹夫が母の言葉を遮った。
「職場で働き方を見てきたから分かる。厨房っていう裏方で、誠実に頑張って来た人」
「・・・・・・」
「今精神的に参ってるのは、俺のせいだから」
「何かしたの?」
「俺と付き合ってるっていう噂から、ある事ない事陰で言われてたらしい」
母は一回溜め息を吐いてから、また大きく息を吸った。
「だから、言ったじゃない。同じ職場の子なんか大丈夫なの?って」
「別に悪い事してる訳じゃないからね。ただ狭い世界で働く噂好きの人達の良い鴨になっただけだよ」
コップのビールを飲み干して、幹夫が母に言った。
「こういう話、この間は俺が聞かなかったからいけないんだけど、祐司に零すのはやめてやってよ。繊細だからさ。お袋が誰かの事悪く言ったり、家族が仲良くできてないのを、あいつは俺ら以上に敏感に不快に思うんだよ」
少し顔を伏せる母に、幹夫はもう一言言った。
「あと、祐司の薬。良くなってきた様に思っても、先生が良いって言うまで薬やめちゃ駄目だよ。ちゃんと飲んでるか、時々確認してやって」
雪子の父親が仕事から戻ると、待ってましたとばかりに母が玄関に飛び出していく。
「行ってきてくれた?」
「話してきたよ。まず飯」
もどかしい顔つきを残し、母は渋々キッチンへと引っ込んだ。
父親がウィスキーの水割りで晩酌をしながら、夕飯をつまむ。そして昼間の話を始めた。
「希望苑の所長さんと、厨房の責任者で、まぁ 雪子の直属の上司に当たる安達さんって人の二人に会って話してきた。診断書も見せて、環境が整うまでは会社に出勤させる事はできないって伝えてきた」
眉間に皺を寄せたまま頷く母親に、父が言った。
「話の分からない人達じゃなかったよ。雪子の事も心配して下さってたし」
「・・・そりゃそうでしょ・・・」
父親が母を見たまま、手を止めた。それに気付いて、母親が言いにくそうに口を開いた。
「パパには言ってなかったけど・・・あそこの所長さんと雪子、お付き合いしてるんだって」
「え?!」
「きっと、そのゴタゴタで雪子参っちゃったのよ。仕事には行かなくちゃならないし、行けば会う訳だし」
「雪子がそう言ってたの?」
「雪子は言ってないけど、多分そうだと思う。だって、あんなに年が離れてんのよ。何か訳アリに決まってるでしょう。きっとそれに雪子が巻き込まれたのよ」
父が小さい溜め息をつく。
「そう決めつけるなよ」
「だっておかしいと思わない?家の前まで雪子を送って来た時は、会社の上司だって挨拶しかしなかったくせに、この前訪ねてきた時に私が聞いたら そこで初めて認めたのよ。おかしいでしょ?何もやましい事なかったら、最初っから『お付き合いしてます』って言えるでしょ?」
「・・・・・・」
雪子の部屋をノックする父。
「お父さんだよ。入るぞ」
返事がないから、そう断ってドアを開ける。相変わらずベッドの中で縮こまっている雪子に言った。
「今日、希望苑に行ってきた。所長さんと安達さんに会って、暫くお休みさせるって話してきたから」
返事も動きもない布団の山に、父が言った。
「話したいから、一回起きなさい」
そう言われ、雪子はもぞもぞと起き上がり、布団からぬっと顔を出した。
「ベッドから降りて、こっち来なさい」
俯いたまま、父の前に正座する雪子。
「所長さんも安達さんも心配して下さってたぞ」
何も言わない雪子に、父は続けた。
「誠実に対応して下さったと思ってる。いい上司に恵まれてるじゃないか。お父さん、もっと変な人達想像して行っちゃったよ」
「・・・うん」
時差はあるが ようやく相槌が返ってきたから、父は足をあぐらに組み直した。
「お母さんから聞いたけど、所長さんと付き合ってるって、本当?」
「・・・・・・」
「それとも、一方的に言い寄られてるとか?」
雪子がすぐに首を横に振った。
「雪子も、好きなのか?」
「・・・・・・」
再び相槌の消えた雪子に、父が別の質問をしようとしたところで、微かに目の前の頭が縦に揺れた。
「親に紹介出来ない様な関係か?」
父の口調は優しくゆっくりだ。雪子もゆっくりと首を横に振った。
「違うんだな?」
そこは父が念を押す。雪子ももう一度首を縦に振った。
「お父さん、悪い印象は持たなかったよ」
「・・・ありがとう」
父は立ち上がった。
「それだけ聞きたかったから。お父さん明日までこっちに居るから、また明日話そう」
雪子の父が診断書を持って来た日から数日が経ったある日。仕事を終えた安達が事務所に顔を出す。
「所長。ちょっと、すみません」
呼び出されて出ると、厨房内での職員に対しての聞き取りを行ったという報告だった。空き部屋へ移動して二人は椅子に腰を下ろした。
「早速に動いて頂き、ありがとうございました」
まず、守屋が頭を下げた。しかし安達の顔は曇ったままだ。
「厨房の職員全員に聞き取りを行ったところ・・・様々な現状が分かりました」
雪子の自宅に向かう守屋と安達の心は当然重たい。通り慣れた道を運転しながらも、雪子に会いに行く時とはまるで違う気持ちに 守屋も悲しさを必死に抑えているのだった。助手席から安達が言った。
「住所、ナビに入れなくてわかりますか?」
「え?・・・あぁ、この間一回ご挨拶に行ってるから」
「そうでしたか。じゃ、もし分からなくなったら調べますので仰って下さい」
近くのパーキングに停め、自宅まで歩く足取りも重い。守屋と安達にも会話はない。インターホンを押すと、母親が玄関から姿を見せた。
玄関まで通された二人の後ろで扉が閉まると、それを合図に守屋が話し始めた。
「娘さんの様子は、いかがでしょうか?」
「・・・この間主人が帰ってきてくれて、それから少し元気になった様に思います。会社にも行ってませんし」
嫌味の矢が二人の胸に刺さり、次の言葉を出すのに勇気が要る。しかし、守屋が切り出した。
「先日はわざわざご主人に苑までご足労頂き、ありがとうございました。その時にお話しさせて頂きました厨房での聞き取り調査の結果を、今日はお伝えに上がりました」
その後で、安達がバトンタッチする様に話し始めた。
「主に雪子さんの事をからかっていたのは、三人の様です。でもその三人とも、ほんの軽い気持ちだったと申しております。しかし今回この様な事態になりましたのも、全て私の指導が届かなかった事に尽きると反省しております」
守屋と安達が揃って深く頭を下げた。すると、母が眉間に皺を寄せて聞いた。
「からかいの内容はどういう物だったんですか?」
「あの・・・それは・・・」
安達が守屋の顔をチラッと見た。そして答えた。
「雪子さんのプライベートな事に関してです」
「プライベート?だから、具体的にどんな内容ですか?」
安達が口ごもる。そこで守屋が答えた。
「私との噂話です。ある事ない事毎日言われていた様です」
母の顔が一瞬にして尖る。
「ある事ない事?具体的にどういう内容ですか?」
躊躇する安達を察し、守屋が答えた。
「ホテルに入って行くのを見た ですとか・・・」
「所長・・・っ」
安達が止める。しかし守屋は言った。
「聞かれた事には正直にお答えしましょう」
「でも・・・親御さん 却ってご心配なさいます」
「・・・事実と違いますから」
そこへ母が質問を切り込んだ。
「事実無根なんですか?本当に。立場を利用しての事なら、立派なセクハラですよ」
「いえ、お母さま・・・」
安達が弁護をしようとすると、守屋がそれを止めた。
「娘さんと、コーヒーを飲みにホテルの喫茶店に行った事はあります」
安達が隣で口を開けて、呆気に取られている。母の表情も尚更険しい。
「美味しいコーヒーが飲める店だと教えて下さいましたので、ご一緒願いました。でも、それだけです。本当にそのコーヒー一杯飲んで帰りました」
守屋の誕生日の 二人の大切に過ごした時間を明かし、守屋の胸は張り裂ける想いだ。奥歯を必死に噛みしめて、次の言葉を探した。
「ここ最近、娘さんが外泊した事 ない筈です。それで信じて頂けますでしょうか?」
守屋の瞬き一つしない瞳が薄っすらと潤んでいる。その迫力に、母も納得した。
「分かりました」
守屋の隣で、安達がほっと胸を撫で下ろす。
「その三人の職員には厳重に注意と指導を行いましたが、処遇につきましては本社の判断を仰ぐ事になります。雪子さんに戻ってきて頂ける様な環境を 早急に整えてまいりますので、どうかご理解頂きたいと思います」
安達が説明を終えると、守屋がもう一度腰を直角に折ってお辞儀をした。
「この度は誠に申し訳ございませんでした」
安達も同じ深さに頭を下げた。
帰りの車の中で、安達が言った。
「コーヒー飲みに行ってたなんて、初耳でした。でもよくあの場で言えましたね。かえって誤解されそうなのに」
「星野さんがご両親に話す内容と食い違っていたら、信用して頂けないですから」
「・・・所長、勇気ありますよ」
ホッとした安達が、行きと違って良く話す。
「それにしても、星野さんが外泊してないでしょ?なんて、よく言えましたねぇ。もし違ってたら、疑われるところでしたよ」
「・・・星野さんは、そういう素行の良い子だってイメージがあったので・・・」
「でも今の若い子って、友達の家に泊まるだの、彼氏の家にお泊まりだの、よくあるじゃないですか」
「そうですよねぇ。ま、星野さんに助けられました」
苑に着いて安達を降ろすと、守屋は呼び出されている本社に向かった。本社で担当のエリアマネージャー吉川と 会議室に二人きりになる。吉川とは8年近くの長い付き合いだ。三年先輩となる吉川に、今回の件の報告をざっと伝える。すると吉川が眼鏡を一旦外して、拭きながら守屋に聞いた。
「で?その噂は、本当なの?全くのデマなの?」
「・・・お付き合いは、しています」
「・・・・・・」
磨き終わったレンズの曇りを確かめる様に、眼鏡を光にかざしてみる吉川。
「でも、真面目にお付き合いしています。やましい事は何もありません」
眼鏡をかけた吉川が、顔をくしゃっとさせた。
「でもさぁ、こうやって見られちゃってる訳じゃん」
「ホテルって言っても、喫茶店です、行ったのは。宿泊をした訳ではありません」
「かもしれないけど、見た人には通用しない言い訳だよなぁ」
「・・・でも、お互いに独身ですし・・・」
「そう言うけどさぁ、やっぱ二人でそういう所行ったのは軽率だったと思うんだよね」
「・・・今後気を付けます」
「ま、ラブホ入るとこ見られるよりは良かったけどね」
誕生日に二人で過ごした素敵な思い出自体に 泥が塗られていく様で、守屋の胸が再びぎゅっと締め付けられる様に苦しい。
「で?そのご両親はどんな?訴える!って位の勢い?」
「いえ、そこまでではないと思います。こちらの職員の指導や処罰次第だとは思いますが」
「処罰ね・・・。守屋君はどう思ってるの?」
「ここまで事が大きくなってしまった以上、その四人がもう同じ職場で働くのは難しいと思います。だからと言って、どちらか一方だけ異動というのも納得できないでしょうから、これに係った4人全員を、異動という形がいいのでは・・・と思います」
「う~ん・・・そうねぇ・・・。そうなるかなぁ。まぁ、重い様な気もするけどね」
「で・・・」
守屋が背筋を伸ばした。
「私が一番責任が重いと思いますので、一番厳しいご判断を頂きたいと思っております」
吉川が驚いて、大きな目を更に見開いた。
「だって、職員には言ってないんでしょ?付き合ってるって」
「はい。更なる混乱を招くとも思いましたし、星野さんが今後働き辛くなるのではと思いましたので」
「だったら、守屋君に厳しい処罰が下ったら、おかしいでしょ。却って、やっぱり何かあったって疑われるよ」
守屋が頭を下げた。
「責任を取って・・・という形で、お願い致します」
「責任を問われるなら、厨房責任者でしょう?」
「いえ。安達さんは、とても優秀な方です。若い子も年配の方も男性も女性も問わず 統括できる力がある方です。うちの様な色々な年齢層のいる厨房には必要不可欠な方ですから」
それを聞き終わると、暫くじっと考えた後で膝をポンと叩いて立ち上がった。
「ま、部長に話通しておくよ。守屋君の考えも含めてね」
「宜しくお願い致します」
守屋も立ち上がって、頭を深く下げた。すると、会議室を出る直前で、吉川がふと立ち止まって振り返った。
「でもさ・・・守屋君、これで二回目だからさ・・・女性がらみのゴタゴタ。かなり厳しい人事があるかもしれないよ」
「はい。覚悟してます」
会議室を出て吉川と別れると、思わず鉛の様なため息が溢れる。ポケットから電話を出して時間を見る。苑から緊急の連絡もないから、このまま戻らず自宅に帰ろうと考えていたところに、後ろから勢いよく肩をポンと叩かれる。
「二階堂先輩!」
振り返ると そこには、守屋の恩人でもある二階堂 遼が立っていた。
「よっ!」
「どうも」
守屋がぺこっと頭を下げた。
「色々あるらしいじゃない、そっち」
「・・・はい」
「今日も、それで?」
「はい」
二階堂は守屋の顔をじっと見てから言った。
「かなり、深刻そうだね」
はははと笑ってごまかす守屋。
「聞くよ、何でも」
守屋は笑顔をしまって言った。
「ありがとうございます。でも・・・吉川さんから聞いて下さい」
「・・・そうか」
二階堂の顔がどんどん深刻になる。だから守屋は、再びヘラヘラッと笑った。
「俺、この会社クビになったら、どっか紹介してもらえますか?」
二階堂が近付いて、小声になる。
「そんなにヤバいの?」
守屋は笑顔を絞り出す。
「念の為です、一応。気にしないで下さい」
そう言って、守屋は本社を後にした。
車で国道を走っていると、携帯がメッセージを着信している。信号待ちで止まると、今着信したばかりの夏子からのメッセージを読む。
『今日、以前のガソスタ、来られないですよね?』
『今目の前の国道走ってる。向かいます』
ガソリンスタンドに着くと、夏子の黄色い車が停まっている。休憩コーナーの自動ドアを入ると、夏子が立って頭を下げた。
「守屋さん。本当にごめんなさい」
「そんな・・・頭なんか下げないでよ」
頭を上げて、夏子は守屋に聞いた。
「雪子ちゃんと、あれから話せました?」
守屋はふっと笑って首を一回横に振った。
「既読にもならないよ」
「・・・・・・」
夏子が自分の携帯を広げ、夏子とのやり取りの画面を出す。
「私のもず~っと既読にならなかったんだけど、今日お昼頃見たら既読になってて、昼休みに電話したの」
「・・・出た?」
守屋は意外にも飛びついては来ない。淡々とした調子の守屋に、夏子が電話の内容を話すと、にっこり笑うだけだった。
「多分・・・誤解は解けたから、守屋さんも電話してみたら?って、それ言いたくって・・・」
守屋は静かににこっとするだけだった。
「会って、ちゃんと謝りたかったし。だから、急だけど呼び出したりしてごめんなさい」
守屋は静かに首を横に振った。しかし、雪子に電話を掛ける気配はない。そして守屋が聞いた。
「ユキ・・・元気だった?」
「・・・元気ではないけど・・・」
守屋は脱力感いっぱいに はははと笑った。
「そりゃ、そうだね」
「守屋さんの携帯も確認してみて。もう既読になってるかもしれない」
守屋は無気力に携帯をいじる。そして守屋の指が画面の上で止まったのを見て、夏子が聞いた。
「なってる?」
「・・・なってるよ」
「じゃ、かけてみたら?待ってるかも」
「・・・うん・・・」
そう返事をしたものの、夏子と別れた後 運転席で電話をいじる。
『具合い、どう?』
守屋がそう打ち込んで、文字を消す。何日か前から同じ様な内容だ。返事なんかできる訳がない。そうそう気分が上がる訳ないからだ。
『少しは、何か食べてる?』
それも書いては消す。余計なお世話だ。そう思えてしまったからだ。
『今、夏子ちゃんと会って話聞いたよ』
一体どんな話をしたんだろうと 却って不安にさせる気がして、守屋はまた消した。今はどんな文章も浮かんで来ない。守屋は二人で高尾山に行った時に頂上で撮った写真を開く。少し緊張気味の初々しい雪子の笑顔に胸がいっぱいになる。下山途中の川に足を浸けて見上げた青空や小鳥のさえずりが、もう何十年も昔の記憶の様だ。
雪子はベッドの中で、布団にくるまりながら携帯を眺める。毎日変わらずに送られてくる守屋からのメッセージに返信が出来ない。一週間近く電源を入れずに、一切外の世界との繋がりを絶ってきた雪子に、昼間掛けてきた夏子との会話は とても新鮮だった。初めはとても怖かった現実が、話している内に・・・いや、夏子の懐かしい声を聞いている内に とても心が温かくなってきて、最後には話して良かったと思ったのだ。だから、同じ様に守屋の声も聞きたいと思うのだった。そして謝らなくちゃならない。そう思う気持ちが、雪子の背中を押す。しかしもう一方で、こんな自分の事 もう好きではなくなってしまっているかもしれないという不安も湧いてくる。夏子が切り際に、『守屋さんと連絡取るんだよ』って言ってくれた言葉を必死で飲み込む様に、雪子は守屋の電話へ発信した。
何度か呼び出した後、守屋の声がする。
「もしもし?」
待ちに待った人からの電話に出た感じではない。でも、出てくれたという事は、拒絶はされていないんだと理解する。雪子の心は、もうそれで精一杯だ。
「・・・守屋さん。ごめんなさい」
伝えなきゃならない事をまず伝える。すると、意外にも優しい声が返ってくる。
「電話、ありがとう」
守屋は冷静だ。
「お母さんに、付き合ってる事話しちゃってごめんね」
「・・・ううん」
「あっ、あと夏子ちゃんと偶然会った事、話さなくてごめん」
「・・・ううん」
「安達さんが今、厨房の中色々指導入れてくれて、今後は働きやすくなると思う」
「・・・・・・」
黙っていた雪子が、突然守屋に聞いた。
「今どこ?」
「まだ・・・外」
「・・・仕事中?」
「違うよ」
「・・・誰かと一緒?」
「ううん」
「・・・・・・」
久し振りの会話をどう繋いでいいか分からず、同時に守屋の気持ちも分からない雪子は、静かに続く沈黙をそっと破った。
「切るね」
「待って!ユキ・・・」
言われた通り、雪子は電話を耳に当てたまま待ってみる。
「ご飯・・・少しは食べられてる?」
「・・・うん」
「夜は・・・眠れてる?」
「・・・・・・」
「薬・・・飲んでも?」
雪子は返事の代わりに言った。
「心配してくれて、ありがとう」
「ユキは・・・岡田さん達が居なくなっても、あの職場には戻りにくい?」
「・・・守屋さんが私に優しくしてくれるの・・・所長さんの責任として?」
嫌な雰囲気に流れていきそうなムードが漂う。そういう時、今まではすぐにそれを摘み取って、守屋が違う方向へ導いてくれていた。それを思い出した雪子が、慌ててさっきの自分の言葉を撤回した。
「ごめんなさい。こんな言い方良くない。本当にごめんなさい」
「・・・いいよ。平気」
先の話をしないカップルに、どんな話題が残っているのだろう。デートの約束も、会いたいねっていう事も出来ない二人が、お互いに手持無沙汰を紛らわす言葉を探す。しかし、何か話せば相手を傷つけてしまいそうで、二人は会話を繋ぐ事が出来なかった。
「じゃ・・・切るね」
もう一度雪子がそう言うと、守屋も諦めて電話を切った。
切った後で、掛けて良かったのか迷う雪子だ。懐かしい声に一瞬嬉しさが込み上げてきたけれど、その守屋の声からは以前の様な気持ちを感じられない。きっとこんな騒ぎを起こして 神経を病んだ自分の事など、もう好きではなくなりつつあるのかもしれない。でも守屋は優しく責任感の強い所があるから、ただそれだけで関係が繋がっているのだと思うと、雪子はまたポツンと長いトンネルの中に取り残された気持ちになるのだった。




