第21話 夜明け前の空
夜勤の為出勤した守屋に、仕事上がりの安達が 待ってましたとばかりに近寄って来た。夜勤勤務の時間帯とあり、事務所に人気がない。その隅で安達が声を潜めた。
「星野さんの事で、ちょっと気になる話を耳にしたので・・・」
安達が言いにくそうに切り出す。
「星野さんと所長が付き合ってるって・・・」
守屋が黙っていると、安達が少し慌てた口調になる。
「もちろん、私もそれを鵜呑みにしてる訳じゃないですよ。ただ・・・かなり
具体的な目撃証言まで出たものですから・・・」
「どんな?」
「いや・・・ま、あくまでも噂話でしょうけどね・・・ホテルに入ってくの見たとか・・・」
「・・・そうですか」
それ以上語らない守屋に、安達の表情が陰り出す。
「他には?」
「まぁ、あとは細かい事ですよ。キーホルダーがどうのとか、所長に電話したら傍に星野さんが居たとか」
守屋は表情一つ変えずに続けた。
「それをネタに星野さんに嫌がらせがあったって事ですか?」
「いやいや、嫌がらせって程でもないと思いますよ。ま、女性はゴシップ好きですからね。その延長みたいなものですよ」
守屋は腕組みをした。
「こういう問題は大抵 した方は軽い気持ちなんですよ。でも問題は、言われた側の気持ちですよ。もしこれが原因で心的ストレスを起こしているとしたら、大変な事ですからね」
安達は少し不服な面持ちで下を向いていた。
「で、安達さんはどんな風に対処されたんですか?」
「まずは本人達に確認してみないと分からないからって。星野さんは今日お休みだったので、失礼とは思いましたが、まず所長にお伺いしたという経緯です」
内心、ほっと胸を撫で下ろす守屋だ。しかし、それを隠す様に表情を固めた。
「じゃ、万が一それが事実だとしたら、言ってる方に非はないと思います?」
「いやいや・・・」
滅多にない守屋の厳しい表情に、思わずそう返事をする安達。
「じゃ、仕事の世界にプライベートの情報は必要ないですよね?仕事に支障を来す様なら別ですけど」
「それは私も同意見です。でも何せ女達の楽しみはお喋りですからね・・・。一言否定して頂いたら、簡単におしまいになる事だと思いますけど」
守屋はそこで、間髪入れずに反論した。
「本当にそれで終わると思います?そういう体質は、別の鴨を探すだけですよ。ハラスメントのメカニズムです」
安達が少しずつ不快感を露わにしだす。
「こんなに大事になる前に、星野さん自身がはっきりと否定しておけば良かったんじゃないかしら」
守屋が大きな溜め息を吐いてみせる。
「事実かどうかが大事なんじゃないと思いますよ。不当な嫌がらせが日常的に行われている現実を、きちんと受け止めて下さい。そして真剣に改善に取り組むべきだと思いますけど」
安達は小さく返事をした。
「安達さんが言いにくいなら、僕から指導入れてもいいですけど」
安達が少し考えてから、口を開く。
「所長がお話になれば、星野さんをかばった様に思われて、もっと反発や噂が広がる様な気がします。ですから、ここは私が対処します」
昼間の雪子の様子といい、安達からの報告といい、守屋は雪子の事を案じながら深夜の時間帯を迎える。きっと今夜も眠れていないだろうと想像して、メッセージを送る。
『まだ、起きてる?』
返信を待つ間、施設全体のシフト表を広げる。明日雪子は早番の予定だ。今夜眠れなければ、また薬に頼ってしまうのだろうか。それとも朝起き上がれずに欠勤となるのだろうか、不安が募る。
夜間の見回りを終えても、雪子からの返事はない。嫌な予感を胸に抑えつつ、明朝を信じて待つ守屋だった。
夜勤の時だけに味わえる 3階の廊下の突き当りの窓から見える綺麗な朝焼けを眺めて、守屋は落ち着かない心に新鮮な空気を送る。
早朝、何度か入れているメッセージにも何の反応もない。壊れていく雪子の心に、今すぐにでも待ったを掛けたい気持ちだけが逸る。厨房の早番の出勤時間を過ぎて 守屋が職員通用口にある下足入れに雪子の靴を探す。しかし、僅かに込めた期待は、静かに散っていった。
勤務時間を終え、守屋は朝食も食べずに車に乗り込む。そして一心に雪子の家へと向かう。
普段は気にならない距離が、やけに遠く感じる。家の前に車を停め、迷わず玄関のチャイムを押した。
「はい」
インターホン越しに女性の声がする。それが雪子なのか母親なのか分からない。でも、多分いつも通りなら母親は仕事に出ている時間だ。相手が分からないまま、守屋は名乗った。すると、インターホン越しに返事がある。
「あ、少々お待ち下さい」
この応対で、雪子ではなかった事を知る。緊張を高めながら、守屋がスーツの上着を整えた。玄関から出てきたのは やはり母親で、守屋は深々と頭を下げて もう一度名乗った。
「希望苑の守屋と申します」
母の表情が硬い。
「星野さんの様子、いかがでしょうか?」
母が門扉の向こう側で溜め息をついた。
「心配で・・・私も今日仕事を休みました。何か、あったんですか?」
「・・・厨房の責任者からも、最近の星野さんの様子や、中での人間関係など情報を集めている最中でして・・・まだはっきりとは・・・」
本社にも話を通さず、個人的に衝動的に動いた事で、言葉も慎重になる。
「お家では、どんな様子ですか?」
「ご飯も食べませんし、部屋から殆ど出てきません。私が中に入ると、布団を被って丸まっている様な感じで」
「会わせて頂く事はできませんか?」
「・・・多分、会わないと思いますよ」
「・・・守屋が来てると・・・伝えるだけ、お伝え頂けませんでしょうか?」
渋々母が家の中に消えて、間もなく姿を現す。
「会いたくないって。すみません」
「そうですか・・・」
そうは言ってもなかなか諦めきれず、そこから動けない守屋に、母が聞いた。
「前に、娘を車でここまで送って下さった方ですよね?」
守屋は顔を上げて、まっすぐ母親の目を見た。
「はい」
「・・・娘とは・・・仕事の関係だけですか?」
守屋の中に大きな迷いが渦巻く。母親の目を見たまま、暫く経って守屋は苦渋の選択をした。
「お付き合いさせて頂いております」
深く頭を下げたまま、言葉を続けた。
「ご挨拶が遅れて、申し訳ありませんでした」
なかなか頭を上げない守屋に、母が質問をする。
「何か・・・二人の間で、あったんですか?」
90度曲げていた腰を元に戻す守屋。
「いえ、そういう訳では・・・」
そう言いかけて、守屋が言葉を変えた。
「雪子さんの力になれず・・・申し訳ありません」
母は更に厳しい顔になる。
「本人が会いたくないって言う位だから・・・そういう事なのかしらね」
さっき胸に刺さった棘が、もう一度急所に刺さった様な痛みだ。守屋は言葉を失った。
帰りの車を運転しながら、夜勤明けにしては眠気が一切ない。母親の
『本人が会いたくないって言う位だから、そういう事なのかしらね』
という台詞が、頭からどうしても離れない。家の駐車場に入れると、そのまま守屋は短いメッセージを打った。
『今日お母さんに、お付き合いしてるって話しました。ごめんね。聞かれて、嘘はどうしても言いたくなかったから』
送って車を降りようとした時、意外にも早く返信が来る。
『来てもらったのに、ごめんなさい』
守屋はもう一度シートにもたれ、その返事を送った。
『会いたくないって、今後ももう俺には会いたくないって事?』
じりじりとした気持ちで待つ守屋だが、今度はなかなか返事がない。半ば絶望的な気持ちで、車を降りる守屋。夜勤の疲れが、今頃どっと押し寄せる。このままベッドに横になって放って置いたら、明日の朝まで一回も起きずに熟睡できる自信がある位の疲労感だ。大きな溜め息と共に玄関を入ると、今日も仕事を休んだ母が、少し動いていた。幹夫の顔を見るなり、母が昨日よりも力の入った声を出す。
「昨日の子の事だけどね・・・」
「悪い。今日もう疲れてんだ。今度にしてくれないかなぁ」
珍しくぶっきらぼうに言い放つ幹夫が、部屋に姿を消した。
昨日の昼間から眠り続けていた幹夫が、明け方うっすら目を覚ます。まだ窓の外は暗い。時計を確認して、幹夫は携帯を探す。昨日帰ってきて、スーツの上着のポケットに入れたままだ。椅子の背もたれに乱雑に掛けられた上着から携帯を取り出すと、幾つかのメッセージの着信がある。その中に、雪子からのものも含まれていた。
『こんな私で、ごめんなさい』
その一言だ。夜中の2時の着信だ。きっと又眠れていないのだ。そう思うと、手が勝手に電話を掛ける。カーテンを開けて、まだ真っ暗な空を見ながら呼び出しを待つ。随分長い呼び出し音の後で、雪子の小さい声が聞こえる。守屋の胸が、ふわっとすくい上げられた様な心地だ。
「ありがとう」
守屋が最初にそう言う。
「・・・え?」
雪子は戸惑いの声だ。
「電話、出てくれて」
守屋だけがふふっと笑う。すると、少し雪子の心がほぐれる。
「守屋さん・・・寝ないの?」
「昨日の昼間からずっと寝てて、今さっき起きたとこ。ユキは?」
「・・・寝てない」
「俺、付き合えるよ。もう何しても寝られない位寝たから」
「でも・・・寝ないと仕事が・・・」
「明日、行くの?」
「そりゃ・・・毎日、行こうとは思ってる。直前までは」
「偉いなぁ。嫌な職場に、よく通ってるよ、ユキ」
「・・・・・・」
雪子の声が途切れたから、守屋が外を眺めながら言った。
「ユキ、今外見える?」
電話から、ゆっくりカーテンを引く音が聞こえる。
「夜明け前って、一番真っ暗だと思わない?」
「・・・本当だ」
「ここから あと一時間やそこらで、本当に太陽が昇って明るくなるのかなって思う程、暗いよね」
「・・・うん」
「陽が昇るまで、話してようよ」
「・・・ずっと?」
「そう。ずっと」
「昇るまで?」
「昇ってからもずっと」
「・・・いつ切るの?」
守屋は笑いながら答える。
「切らない」
「切らない?!」
守屋があはははと笑う声につられ、雪子も笑った。何日か振りの笑顔だった。
久し振りに仕事に行った帰り、少し元気になった雪子は夏子にメールする。
『夏子ちゃん。この間の話、慎二君に出来た?』
二人でした約束の事だ。
『話せたよ。意外と大丈夫だった。今の部屋出て、慎ちゃんと一緒に住もうって話になってる』
それを読んで、雪子の口元は緩むが目の奥は暗い。
『雪子ちゃんは?守屋さんの話、聞けた?』
『まだ、聞けてない』
それまでポンポンとしたテンポで続いていたやり取りが、急にペースが乱れる。
『聞いたら、断られちゃった。また今度って』
『どうしてぇ~~~!守屋さん』
夏子らしい返信に、クスッと雪子が笑う。しかし、その笑みも一瞬で引っ込む様な返信が来る。
『守屋さんだって、話したがってたのに』
ん?どういう意味だ?雪子の頭の中は、そんなクエスチョンでいっぱいになる。
『私、守屋さんに聞いてみてあげる』
雪子の謎は更に深まる一方だ。夏子が守屋に?いつ?今?・・・どうやって?色んな疑問が湧いて出てくるが、雪子はもう一度最初からのメッセージを読み返して、冷静になる様 自分に酸素を送る。もう一度読み直すと、さっきの夏子の言葉の前に『今度』という単語が付いている様に感じ始める。そうだ。いつもの夏子ちゃんらしく、私が出来ない事を代わりに買って出てくれているのだと分かる。少しホッとしたと同時に、夏子の事まで疑った自分を戒める。
『夏子ちゃん、いつもありがとう』
まずそう一言送る。そしてその後に、『でもね』と打ち始めたところで指が止まる。自分の今の状態をどう説明したらいいのだろう。
雪子が戸惑っている間に、時間を空けて夏子からメッセージの続きが届く。
『守屋さんに聞いたらね、雪子ちゃんが少し元気がなかったからだって。もう少し元気になったら話そうと思ってる、だって。雪子ちゃん、元気なかったの?やっぱ、職場のコソコソ話が原因?』
質問形式で来たのに、雪子の頭は 返事など到底出来る様な状態ではない。何故、今夏子と守屋が連絡を取り合えたのだろう?電話?それともメール?それとも・・・今一緒に居るのだろうか?雪子の胸が急にざわつき始め、心臓が締め付けられた様に痛くて苦しい。そういえば、この前夏子と電話していた時も、近くで守屋と同じ電話の着信音が聞こえた事を思い出す。雪子はこわごわと質問をしてみる。
『今、守屋さんと一緒にいるの?』
『まさか~!電話で聞いた』
また雪子の頭が混乱する。この間は守屋の連絡先等知らないと言っていたのに・・・。嫌な予感や妄想がむくむくと膨れ上がるのを、もう止める事はできない。
『夏子ちゃん、守屋さんの電話、知ってるの?』
そんな事を率直に聞いてみる。雪子はもう頭は回転していない。直感で指が勝手に動いている不思議な感覚だ。反応の良い夏子の返信が、一旦鈍る。返信を待つ たった数分の間にも、雪子の心はみるみる塞いでいく。
『雪子ちゃんから聞いたんじゃなかったっけ?』
段々にまた、雪子の耳がボワ~っとしてくる。雪子からの返信が途切れると、夏子が話題を立て直そうと必死だ。
『そんな事より、雪子ちゃん。あの職場の色々言う奴ら、もっと酷くなってるの?』
『もう平気』
それだけ打ち込むと、雪子は携帯の電源を落とした。
その晩、眠れないまま迎えた夜明け前の空を、雪子はカーテンを開けてぼんやりと眺めた。




