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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
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第2話 雪子

「お疲れ様でした」

早番の仕事を終えた雪子が、着替えを終えて職場である介護施設を後にする。同じ早番の数名は、もう既に一足先に職場を出ている。靴を履き替えて職員通用口から出ようとしたところで、背後から声が聞こえる。

「星野さん」

所長の守屋幹夫だ。

「今日昼の減塩食、一個少なかったって さっき聞いたけど・・・」

雪子はここの介護施設の厨房で調理の仕事をしている。献立は栄養士さんが作り、雪子達調理スタッフは、その決まりに従ってそれらを調理していく。減塩食、糖尿病用食、刻み食、ミキサー食等、実に様々な細かい決まりがある。調味料もグラム単位で決められていて、調理というよりは理科の実験の作業に近いと誰かが言っていた事がある位だ。しかし雪子は、それにさほど窮屈さを感じたりはしない。むしろ、その場その場でアドリブを求められる職種よりも、決まっている事を一つ一つ着実に守っていく方が性に合っている。そんな雪子だが、今日は昼の減塩食の数を間違えてしまって、大変なミスとして厨房責任者にお叱りを受けたばかりだった。その為に 同じ早番の仲間とは帰る時間がずれてしまったのだ。すっかり落ち込んだ雪子の後ろ姿を、慌てて呼び止めに来た守屋だった。

「すみませんでした・・・」

そう元気なく頭を下げる雪子に、心配顔の守屋が少し近付いて聞いた。

「大丈夫?」

安易な返事はしない雪子だ。ミスの重大さを感じているからこそ、とても大丈夫だとは言えない心境だ。守屋は周りをキョロキョロしてから、絶望的な顔の雪子に小声で言った。

「夜、電話するから」

「うん」

雪子も同様に小声で頷いた。

「10時頃になっちゃうけど、待ってて」


 約束よりも早く守屋から雪子に電話がいく。

「もう、家?」

雪子の問いに、守屋が答える。

「まだ車。駐車場。心配で早く掛けたかったから」

雪子よりも15歳年上の守屋とは、去年の年末の忘年会以来付き合っている。しかし、もちろん職場には秘密だ。所長と厨房の職員の恋愛なんか、もし知れたら良い鴨だ。

職場を出る時とまだ同じ位重たい声の雪子に、守屋が言葉を選ぶ。

「数間違うなんて、珍しいね。何かあったの?」

少しの沈黙が流れる。

「珍しくなんかない。ほんと、私っていつまで経っても仕事できなくて皆の足引っ張ってるし」

「そんな事ないよ。安達さんだって、安生あんじょうさんだって、星野さんはきちっと仕事してくれるって評判いいんだから」

今の雪子には、そんな慰めは心に届かない。

「栄養士とか調理師とか、免許なんか何も持ってないから、いつまで経っても補助作業みたいな事しかできないし。誰でも出来る様な数の確認すら、今日みたいにヘマするし」

「誰にだって失敗はあるよ」

そんなありきたりな言葉では、雪子も元気にはならない。守屋が頭をひねる。

「そうだ。今度の休み、どっか遠出しようよ」

「遠出?」

「うん。例えば・・・どっか日帰り温泉とか、都心から離れてさ。ドライブデート。ユキは行ってみたい所ある?」

「急に言われると・・・」

「じゃ、考えといて。俺も探しとくから」

「分かった」

「ユキの休みに合わせられるように、調整しとくからさ」


 それから3日後、二人は東京の高尾山に来ていた。職場で毎日の様に顔は合わせるけれど、実際デートをした回数はそう多くない。休みを合わせるのが難しいからだ。雪子の遅番の時に守屋と帰りに待ち合わせをして、ご飯を食べて帰る、その位のデートの方が数が多い。朝から改めて待ち合わせをして出掛ける事は珍しいから、雪子は嬉しい気持ち半面、少し緊張もしている。

 桜があちこちで花を開かせていたり、足元には野山の素朴な花が咲いている。そんな一つ一つをゆっくりと眺めながら、二人は足を進める。

「お天気で良かったね」

守屋が言う。

「うん」

基本的にいつも、守屋が話し掛けて 雪子がそれに相槌を打つ、そんな会話だ。

「来た事ある?」

「ううん。初めて」

「どのコースで登ろっか?」

山の入り口近くにある立て看板の前で立ち止まる。初心者用から上級者用等 いくつかのコースの案内版だ。

「沢の近くを通るコースとか、初心者向けのコースとか色々ある」

23歳の雪子には38歳の守屋はとても頼り甲斐がある様に見える。しかも職場ではトップの存在で尚更だ。そんな守屋に惹かれて付き合い始めたけれど、38歳の男の人だ。何も過去がない訳はない。そう薄っすら思っているけれど、雪子はまだ怖くて聞いた事はない。実際守屋の家だって、大雑把にどの辺に住んでいるかしか知らない。行った事もない。過去の恋愛の話を聞いた事も無いし、もしかしたら同じ職場に歴代の彼女がいるかもしれない。そんな謎を抱えるだけで、雪子は守屋に聞いたりはしない。元々自分からベラベラお喋りが得意な方ではないが、そんな疑問を心の奥底に抱えているから、尚の事相槌ばかりになってしまう。

 初心者用のコースを登り始めて、所々で立ち止まっては景色を眺めたりすると、日常とは全く逸した世界がそこには広がっていて、どこか遠くに来た錯覚さえ起こす程だ。歩きながら守屋が 仕事の事や家族の事、趣味の話等雪子に聞いてくる。しかし、なだらかと言えども慣れない山道を歩く雪子の息は上がってしまうから、相槌を打つので精一杯になる。なるべく長い文章を話さずに短い単語だけで返事を返す雪子に、守屋は自分の話を始めた。

「子供の頃、遠足でここ来たなぁ。あんまり良くは覚えてないけど、今思うと小学生にはなかなかハードな遠足コースだよね。正に頂上で弁当広げて食べたんだけどさ、母親が箸入れ忘れたっていう悲しい思い出がある」

取り立てて特別な相槌は無いけれど、雪子が一所懸命に聞いている事は伝わっているからか、守屋は話を続ける。

「おかずには好きな唐揚げとマカロニサラダと卵焼きをリクエストしてたんだけど、弁当開けたら箸が無くて。ま、唐揚げと卵焼きは手で食べられるけど、マカロニサラダは無理でしょ。友達にも『お母さん箸入れ忘れた』って言えなくて、最後の最後まで悩んで、アルミカップに口付けて無理矢理一気に食べたの覚えてる」

当時の懐かしい記憶に笑いながら、話を続ける守屋。

「今思えばね、割り箸持って来てる友達に、一緒に付いてるつまようじ借りるとか、食べ終わった友達から借りるとか、そんなん幾らでも出来た様に思うんだけど。せっかく俺の好物入れて作ってくれた母親の事『お前の母ちゃん駄目だなぁ』って思われたくなかったのかもね。うち母子家庭でさ、母親が一人で働いて弟と俺育ててくれてたから、母親に対しての気持ちが人より強いんだろうな」

自然の中を歩きながらだと、ついこんな話も出来てしまう。

「ユキん家は、ご両親元気?」

「うん」

「親ったって、まだ若いよね?40代?50代?下手したら、俺と近いかもね」

その通りだ。父も母も48歳だ。でも雪子は両親の歳を言わなかった。すぐに思った様な返事が来ないから、守屋が笑って言った。

「そう考えたら、俺おじさんだなぁ」

特別な相槌は相変わらずないが、雪子が楽しそうに笑っているから、守屋が負けじと付け足した。

「でも体力はまだまだ大丈夫。実際ユキのが、山道しんどそうだし」

一旦止まって水分補給と休憩を摂る。休憩スペースにある 現在地の看板を見て守屋が雪子の肩に手を乗せた。

「今丁度半分だって。頑張ろう」

「うん」


 頂上に着いて、山小屋風の食堂で山菜蕎麦を食べて、少しその辺を散策する。あちこちで登山客が写真を撮っていたりする。眼下に広がる景色をバックにしたり、高尾山と書かれた記念撮影用のスペースには列が出来ていたりする。

「俺らもどっかで写真撮ろっか?」

少し驚いて雪子が見開いた目で守屋を見る。

「どうしたの?」

「・・・ううん」

「写真、嫌い?」

「ううん」

「記念に撮ろ。どこがいいかなぁ・・・」

背景に丁度良い場所を探して守屋が歩き回る。その後をついて回りながら、雪子は考えていた。もし守屋が家庭を持っている人だとしたら、証拠となる様な写真なんか残さない筈だ。記念に写真を撮ろうという事は、雪子との関係だけを大切にしてくれているのかもしれないと。しかも守屋が自分から言い出したのだから、尚の事そう思えてくる。一つ不安が消えた気がして、段々に雪子の顔には笑顔が染みてくる。


 帰りは沢の近くを通るコースで下山する事にする二人。木々のすき間から差す木漏れ日が意外に眩しくて、雪子は帽子を目深に被る。そんな時、守屋が嬉しそうな声を上げた。

「あ!聞こえた?水の音」

言われて耳を澄ますと、近くで川の流れている音が聞こえてくる。

「近いね、きっと沢が」

地面を指差して守屋が話す。

「段々土も湿ってきてるし」

「あ、本当だ」

「滑らない様に気を付けてよ」

そう言って守屋は、すっと雪子の手を取った。嬉しいけれど恥ずかしくて黙ったまま黙々と歩く雪子に、守屋が言った。

「とか言って、俺が滑ったりして」

そう言って笑ってみせた。

 沢の流れる所まで出ると、守屋がその水に手をつけてみる。

「おお、冷たい!触ってごらん」

言われるままに雪子が、水の勢いのある所に指をそっと沈める。

「うわっ!」

そのリアクションに守屋が声を上げて笑った。

「思ったよりも冷たいでしょ?」

「うん」

守屋が靴を脱いでズボンの裾を捲る。裸足で沢の少し深い所に入って行くと、冷えた水が守屋の背筋をピンとさせた。

「冷てぇ~!でも気持ちいい」

それを近くで見ている雪子に、守屋が笑いながら手招きをした。

「ユキもおいで」

「え~、冷たいもん」

「最初だけだよ。疲れた足には丁度いいって」

なかなか渋って動かない雪子の方まで近付いてきて、守屋が手を取った。

「おいでって」

雪子の手をちょっと引っ張ると、沢の方へ体がぐらつく。

「分かった。行くから」

雪子は仕方なく裸足になるが、水につま先をつけるのが躊躇われる。それを見ていた守屋が、すかさず雪子の手を引っ張った。

パシャンッ!

勢い良く着いた足から、水しぶきが上がる。

「あ~!服濡れちゃう!」

「もたもたしてるからだよ」

「だって、冷たそうだったんだもん」

「慣れたら気持ちいいでしょ?」

「う~ん・・・まだ冷たい」

「こっち、少し温かいよ」

陽の当たっている部分へ、守屋が雪子の手を引く。

「どう?」

「・・・本当だ」

乾いた大きめの石を見つけて、その安定感を確認すると、守屋が手でその表面を払う。

「座れるよ、ここ」

言われてそこに雪子が腰を下ろすと、守屋も隣に座って伸びをした。

「上見てみて。気持ちいいなぁ」

「眩しい」

高く昇った太陽の光が、雪子の顔いっぱいに降り注ぐ。

「こういうデート、好き?」

守屋が聞く。

「うん」

守屋がどんな顔をしているかは雪子からは見えない。隣を向くのが恥ずかしくて、あえて見えない様にしているから。

「じゃ、又どっか行こう」

平日だけあって、そう人も多くない。沢の中に足を浸けて座っていると、まるで二人っきりの空間の様な錯覚に陥るくらいだ。聞こえるのは、風が木々の葉を揺らす音と、沢のせせらぎ、時々聞こえる小鳥達のさえずりだ。非日常の空間にすっぽり包まれた二人だ。


 再び下山しながら、守屋が話題を作る。

「ユキはさ、どんな子供だったの?」

「今とそんなに変わんない」

「大人しかったんだ?」

「・・・そうだね。人前に出るのが苦手だったから、いっつも友達の後ろに半分隠れながら、ついて回ってた」

「へぇ~。大人しい子同士で集まって、家で遊んだりするんじゃないんだ?」

「一人で家で本読んだり、絵描いたりも好きだったけど・・・」

そう話しながら、雪子の記憶が巻き戻っていく。

「幼馴染にね、夏子ちゃんって子がいたの」

「雪子に夏子?面白いね」

守屋がそう言うと、雪子もハッとする。

「あ、本当だ。そうだね」

はははははと笑って、雪子がその続きを話す。

「その夏子ちゃんっていうのが、すっごく頼り甲斐があって、いつも夏子ちゃんの周りには人が集まってるんだけど。夏子ちゃんの弟二人と私がいっつも一緒に金魚の糞みたいについて歩いてた。一人も好きだったけど、夏子ちゃんといると色んな発見が沢山あって楽しかった」

雪子がこんなに自分から話すのは珍しい。そう思って、守屋も邪魔しない程度の相槌を打つ。

「あっ、そうそう。ある時ね、クラスの男の子に『雪女』ってからかわれたの」

「ユキが?」

「うん。色も白かったし、名前も雪子だから。多分男の子は軽い冗談のつもりだったんだろうけど、その頃毎日毎日言われるのが嫌で 思わず泣いちゃった事があって。そしたら夏子ちゃんが、からかってた男子怒ってくれて、皆の事一列に並べて正座させて、私に土下座して謝らせちゃった事があったの」

「へぇ~、強いねぇ、夏子ちゃん」

「そう。でもそれ以来男子は私の事からかわなくなったの。本当、夏子ちゃんのお陰」

「その夏子ちゃん、今どうしてるの?」

雪子は首を傾げた。

「中学までは一緒の学校だったけど、高校からは別々になっちゃったし、卒業後は実家出ちゃった様な話聞いたから、それからは分からない。どうしてるんだろう・・・」

「クラス会とか、あればいいのにね」


 山の入り口まで下りてきて、お土産屋さんを覗く。

「お土産、買ってく?」

実家暮らしの雪子に、守屋が聞く。

「何かいいのあれば・・・」

また急に雪子の胸に緊張が走る。

「守屋さん・・・は?買う?」

「そうだなぁ・・・」

一人暮らしなの?それともお母さんと一緒?もしかして奥さんとか子供とかいたら、他の人とデートした場所でお土産なんて買って帰れる訳はない。そんな色んな気持ちや疑問が溢れてきて、抑えるのに必死の雪子だ。

店内を見て回る守屋がストラップの所で立ち止まる。

「二人でお揃いの買おうか?」

驚いて声も出ない雪子。

「お揃いとか、嫌?」

ただ首を横に振る事しかできない雪子だ。

「嫌ならいいけど」

さっきよりもっと大きく首を横に振ってみせる。

「じゃ、どれがいいかなぁ・・・」

品定めし始める守屋の顔ばかりをじっと見ている雪子に、手を止めて聞いた。

「どうしたの?選ぼう」

「うん・・・」

「ね、どこに付ける?」

それだ。皆が見える所に付けたら、バレてしまう。それをさっきからずっと気にしていた雪子が、言葉を口の中でもぞもぞさせた。

「見えない所じゃないと・・・」

はははと笑って、守屋が雪子の顔を見た。

「そうだよねぇ」

言いながら見つけたストラップを一つつまみ上げる守屋。

「これなんかどう?十二支の動物だから全く同じじゃないし、高尾山って書いてあるから思い出にもなるし」

干支をモチーフにした小さなストラップをお土産に、二人は高尾山を後にした。


 いつも通りの職場での日常が再び始まる。守屋は駐車場に車を停めてエンジンを切り、キーを抜く。そこには昨日高尾山で買ったストラップが揺れている。

朝事務所に顔を出した後、食堂に顔を出す守屋。職員皆が口々に挨拶をする。

「おはようございます。朝早くからご苦労様です。今日も宜しくお願いします」

各部署を回りながら挨拶をする。これが守屋の日課初めだ。この時、雪子の顔を確認するのを忘れない。しかし雪子は目を合わせない。頭を下げて挨拶をしているが、目は見ない。その一瞬の姿を見て、守屋はその場を後にする。それが習慣だ。


 昼食は、職員も厨房で作られたその日のメニューを食べる。利用者の昼食の時間が過ぎて、食堂が締まってからが職員の時間だ。事務所の数名と一緒に守屋も食堂へ行く。

 端の方のテーブルから職員が埋まっていく。守屋達も各自カウンターから受け取ったトレイを運ぶ。守屋もいつもの癖で厨房の中に雪子の姿を探す。今日はカウンターで盛り付けた器をトレイに並べる仕事をしている。

「お疲れ様。ありがとう」

守屋がそれとなく掛けた声に対して、雪子もぺこっと頭を下げた。

席に運びながら事務員の佐々木真知子が、思い出した様に少し笑いながら口を開いた。

「そうそう。前にね、厨房の星野さんに聞かれたの。『所長って結婚してるんですか?』って」

くすくす笑う佐々木に、隣に座った副主任の飯田が聞き返した。

「え?!なんで?」

「『意外と皆さんの事知ってる様で知らないから』だって。確かに星野さん位の若い子からしたら私達おじさんおばさんだから、結婚してんだろうなって思うのかもね」

守屋の視線が、厨房へ飛ぶ。その様子に、佐々木が気付く。

「あ、星野さんって分かります?ほら、今カウンターで配膳してた子」

「いつ?それ」

守屋が聞く。

「あ~、いつだったかな?」

「去年?」

「いやいや、先月か・・・それ位。わりかし最近」

守屋の箸が止まったまま、厨房の雪子の姿から目が離せない。

「俺の事もおじさんかなぁ?あの位の子には」

31歳の飯田が少し寂し気に言う。

「俺の事も聞かれた?」

続け様に自分の評判を気にする飯田だ。

「あなたは結婚指輪してるから、一目瞭然よ。若い子って、結構そういうとこ見てるからねぇ。それに既婚者はもうおじさんと思われてもいいでしょ」

あっさりあしらわれた飯田は、再び箸を口に運ぶ。止まったままの守屋に佐々木が言った。

「所長はそこそこいい歳なのに指輪もしてないし、って思ったんじゃない?私はバツイチだけどねって、おまけ付けといた」

あっはっはと笑い飛ばして、自虐ネタで締めくくる佐々木。


 車のキーを差し込んでエンジンをかける守屋。高尾山で買ったお揃いのストラップが揺れている。守屋は携帯から雪子に電話を掛けた。

「もしもし?」

いつもと変わらない声がする。

「お疲れ様」

「ユキさ・・・なんか不安な事とか、ある?俺と付き合ってて」

ストラップを見ながら、守屋が聞いた。すると、少し間を空けて雪子が言った。

「不安な・・・事?」

「そう。なんか・・・聞いておきたい事とか、知りたい事とか・・・」

再び少しの間を空けて、雪子が返事をする。

「別に・・・ないよ」

「・・・本当?なんだっていいんだよ」

雪子の声が急に固くなる。

「・・・どうして?急に」

「いや・・・歳も離れてるし、不安な事とかあるのかなぁと思って」

「ううん。大丈夫」

正直に胸の内を話さない雪子に、電話越しに守屋が小さい溜息をつく。そして話題を変えた。

「昨日、楽しかったね」

「うん」

「ストラップ、どこに付けた?」

「家の鍵」

「俺は車のキーに付けた」

先程よりも少し空気は和んだが、会話は弾まない。

「次の休み、どこ行きたい?」

「う~ん・・・」

「富士急は?」

「富士急・・・ハイランド?」

「そう。ユキ、ジェットコースター乗れる?」

「得意じゃない」

「じゃあ、お化け屋敷は?」

「ダメダメ」

最初の少し重たい空気も忘れ、雪子のリアクションに高らかに笑う守屋。

「ん~・・・じゃ、どこがいいかなぁ」

「そんな特別な所じゃなくてもいいよ」


 再び休みを合わせた二人が、昼間映画を見て、出てきた頃には陽も西に傾きかけている。

「お茶しよっか」

映画館の近くにあるコーヒーショップで向かい合って座る。守屋の選んだ奥の席の周りには誰もいない。守屋はアイスコーヒーにガムシロップを入れ ストローでかき混ぜながら、アイスココアを一口飲む雪子を見た。

「ん?」

その目が何か言いたそうで、雪子が少し首を傾げて聞いたのだ。

「俺・・・さぁ、38だけど、今まで結婚のタイミングがなくて・・・」

急に話し始めた守屋から目が離せない雪子は、ストローを持った手が固まっている。これからどんな話が始まるのかが怖くて、急に落ち着かない心地になる。

「今までずっと独りできたけど、正直結婚もしたいし、子供も欲しい。ま、自分が作る家族っていうのに、憧れも持ってるのかもしれない」

黙ったまま下をうつ向きっぱなしの雪子の様子を気にしながら、守屋が続ける。

「今までは、そういう縁がなかった・・・っていうか」

『なかった』と言いかけて、守屋は言葉を変えた。

「タイミングが無かったというか・・・」

雪子の中で、守屋に対して 本当は結婚しているんじゃないか?もしかしたら離婚歴があるんじゃないか?そんな疑問が、この話から晴れていく。しかし、言い方を変えた辺りで、雪子の耳が立ち止まる。『縁がなかった』と『タイミングが無かった』は大違いである。そういう人は居たけど、お互いのタイミングが合わなかっただけ、という事だ。でも、そんなの当たり前の事だと 雪子は自分に言い聞かせる。38歳だ。何もそういう事が無い方がおかしい。それを頭では理解しているが、心の中ではあちこちのた打ち回ってじっとしていない。気が付いたら、無意識の内に、大きく頷いて聞いている。『分かっています。その位の恋愛経験有って当然です』という理解を示す様に。

「まだ、長い付き合いじゃないけど、俺はユキと真剣に付き合ってるつもりだから」

きっと守屋は、一番はこれを言いたかったのだと思う。しかし雪子の頭はさっきの所で止まってしまっていて、そこから重たい腰が上がらない。

 守屋が期待していた程 安心した顔にも嬉しそうな顔にもならない雪子を見て、言葉を探す。

「歳も離れてるし、ユキが不安になってるんじゃないかって思って・・・」

当然まだ雪子の耳には入らない。ストローを持ったまま 未だ固まったままの雪子に、守屋が再び言葉を選ぶ。

「だからってすぐに結婚とか、そういう事を望んでるんじゃないんだけど・・・」

「・・・・・・」

「真面目な気持ちだって事だけ、分かってもらいたくて」

「・・・・・・」

この話題になってから まだ一度も言葉を発していない雪子の顔を、守屋がとうとう覗き込んだ。

「大丈夫?」

「・・・うん」

完全に頬が引きつっている。

「分かってもらえた?」

「あ・・・うん」

とっさにごまかす為に作った笑顔もぎこちなくて、バレない様に雪子は顔を隠す様にストローをくわえてココアを飲んだ。そんな様子を黙って見た後で、守屋が言った。

「なんで、こんな感じになっちゃったのかなぁ」

黙って首だけを横に振る雪子。その雪子に、守屋が質問する。

「重たかった?」

首を横に振り続けている雪子だ。

「こんな話、しない方が良かったかな」

独り言の様に守屋がそう言って、ストローでコーヒーを一回だけかき混ぜると、氷がカランと軽快な音を立てた。


 雪子を乗せた車が、家の前に到着する。黙ってシートベルトを外す雪子に、守屋が言った。

「またね」

「うん」

変な間が出来たから、雪子がドアを開けるタイミングを探っていると、守屋が少し助手席に体を向けた。

「さっきの話・・・ごめんね。かえって不愉快にさせたのかな」

無言で首を横に振るだけの雪子に、守屋が頭を掻いた。

「俺おじさんだから、若い子の感覚に疎いんだね、多分」

頭を両手で抱える素振りをしてみせてから、守屋が言った。

「あ~、今日のデート台無しだ。全然楽しくなくて、本当ごめん。次回、リベンジさせて。今度は絶対楽しいプラン考えるから」

両手を合わせて懇願する守屋に、自分の気持ちをどう伝えたらいいのか分からずにモタモタする雪子だ。

「今日、楽しかった。話も・・・色々聞かせてくれてありがとう。不愉快になった訳じゃない」

頭に浮かんだ言葉をとりあえず口にするが、ぶつ切りの箇条書きみたいで、つくづく自分の表現力の乏しさに、雪子は溜め息をつく。しかし、雪子が自分の気持ちを話してくれた嬉しさから、守屋の顔が急に明るくなる。

「本当?不愉快じゃない?」

こくりと頷いて、雪子は少し慎重に口を開いた。

「正直、守屋さんって本当は結婚してるのかな・・・とか、38歳だし、離婚歴があったりするのかな・・・とか、子供とか実はいたらどうしようとか・・・そんな風に考えたりもしてたから、今日話してくれて・・・安心した。私と真剣にっていう言葉も嬉しかったし・・・」

みるみる内に、守屋の顔が明るくなってくる。

「私よりも15歳も人生の先輩だから、そりゃあ恋愛も人生経験も豊富なのは当然だし・・・だから、色んな大人の事情みたいなの抱えてるのかなって勝手に」

「大して経験豊富じゃないよ。それより俺の方が、若いユキにいつ『おっさんと話合わない』って飽きられるかってハラハラしてたんだから」

笑いながら胸の内を開く守屋に、雪子もつられる様に笑った。

「そんな風に思った事ない。守屋さんと居ると落ち着くし、温かい気持ちになる」

それを聞き終わるのと同時に、守屋が助手席の雪子の頭に手を乗せて、そっとおでこにキスをした。

 満月の綺麗な夜だった。


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