第19話 壊れていく心
ここ最近、雪子の朝の目覚めが悪い。職場に行けば、また今日もからかわれたり笑われたりするのだと思うと、余計に体が鉛の様になる。体が拒絶反応を起こしている様だ。でも頭では、起きて準備をしなくてはと気が急く。頭と体が別々の方向へ向かっている様で、時々二つに裂けてしまうんじゃないかと思う位気が遠くなる。
何とか起き出して電車に乗るが、座った途端に物凄い睡魔が襲ってきて、度々乗り過ごす。早番の時は、早朝のガラ空き電車だから尚の事だ。終点まで行ってしまって乗務員さんに起こされたり、人が乗ってきた気配で起きたり、様々だ。しかしどちらにしても、遅刻には違いない。そして当然そんな日は、岡田達の良い鴨になる。
今日も乗り過ごした電車を下り、重たい体を引きずって反対の電車に乗り 職場に向かう雪子だ。厨房に入ると、ここ最近の遅刻から 皆の視線が冷やかだ。
「すみません・・・」
「朝起きられない程、遅くまで何やってるのかしらね・・・」
予想していた嫌味だが、やはり堪える。しかし自業自得なのだから、雪子は反論する余地もない。
そんな事をまるで知らない守屋が、夜勤の合間に雪子に電話する。
「ユキ、明日遅番だよね?」
「うん」
「朝、明けでそっちまで行くから、どっかで会おうよ」
「明日、午前中・・・病院行くから・・・」
「病院?誰の?」
「・・・私」
「どっか、具合悪いの?」
急に守屋の声が変わる。
「ううん、全然・・・」
「何の病院?」
「・・・皮膚科の。いつも貰ってる塗り薬、無くなったから・・・」
電話の向こうの守屋の声が、やっと明るい声に戻る。
「じゃ、会えないか・・・残念」
「ごめんね」
雪子は今夜もなかなか眠れない。最近は、眠れない時は諦めて本を読んで過ごす。今までであれば、横になって読んでいる間に瞼が重たくなって、いつの間にか眠っていたりするのだが、最近はそうではない。いくら読んでも眠たくはならない。一冊なんかあっという間に読み終わってしまって、それが終わると、又雪子の心に不安が押し寄せる。夜中のしんと静まり返った時間に、自分だけ社会のレールからはみ出していく様な錯覚と恐怖が 雪子をすっぽりのみ込んでしまう。
仕事前に病院で睡眠導入剤をもらうと、少し希望が湧いてくる。これでまた今まで通り夜寝て、朝起きて仕事に行くという 当たり前の事が出来る、そんな希望の薬に見えてくる。
殆ど寝ずに迎えた仕事場では、時々集中力が途切れる。同じ作業を暫く続けていると、頭がボーっとしてきて気が遠くなったり、数が分からなくなってしまったりする。今までは大きなミスには繋がっていないが、ギリギリ一歩手前で 雪子が一人ひやっとする事もしばしばだ。でも悪い事ばかりではない。岡田達の噂話やからかう様な会話が、ほとんど聞こえなくなったのだ。相変わらず何か言っているのは分かるが、耳鳴りがしているみたいに声がぼわ~っとして、言葉が分からない。厨房の騒音のせいもあるだろう。
仕事を終えて帰ろうとすると、安達が雪子を呼び止めた。こわごわ、呼ばれて食堂の端に行く。すると安達は、少し厳しい顔をして話し始めた。
「朝苦手だから もう少し近い施設にって異動願い出してたけど、こんな風に遅刻が多いと あちらにも迷惑だし、どこにも推薦出来ないわよ」
「すみません」
「第一ね・・・」
少し安達の声が強くなる。
「社会人にもなって、朝が苦手なんていう理由、甘えてると思うのよね。皆どんな人も朝は眠いの。でもね、社会の一員として働いていくには、時間を守って働けないと、どこに行っても何やりたくても使ってはもらえないのよ」
雪子の耳がまたぼわ~っとしてくる。遠くの方で聞こえる安達の声だが、口調だけが耳に響いてくる。社会の一員として失格と言われている様な、人として駄目だと言われている様な気持ちになってきた雪子は、どんどん俯いていって、話が終わった時には、辛うじて
「すみませんでした。今後気を付けます」
とだけ言う力しか残ってはいなかった。
その日の帰り道、雪子は空を見上げる気持ちすら失っているのだった。
次の日守屋が、安達を呼び出す。
「先日の、星野さんの異動願いの件ですけど」
「空き、ありました?」
「いえ。国分寺に欠員はありませんでした。が・・・」
「どっか他にあったんですか?」
「いや、そうじゃなくて・・・」
守屋が呼吸を整えてから、再び話し始める。
「朝が苦手だって・・・。安達さんから見て、そういう感じ 受けますか?」
待ってましたとばかりに、安達が口を開いた。
「そうなんですよ。昨日もその事で星野さんと話したばっかりなんですけどね」
せき止められていたダムから水が溢れ出す様に、安達の口から守屋の知らない最近の雪子の様子がどんどんと零れてくる。
「ここ最近しょっちゅうですよ。異動願い出したから、近い所に移れると思って甘く考えてるのかしら?」
「でも・・・今までは遅刻なんてする様な子じゃなかったんですよね?」
「そうね・・・入社してから3年経つけど・・・無かったわね。中だるみかしら・・・」
安達は腕組みをして首を傾げた。
「まったく最近の若い子は、すぐ楽な方に楽な方に行きたがるから。だから昨日も、甘い!ってキツく指導しときました」
「・・・・・・」
「すみません、私の指導がなかなか届かなくて・・・」
「いや・・・もしかして、いじめとか・・・そういった人間関係でのトラブルが関係してる可能性はないですか?」
「いじめ?!」
「そういった心的ストレスが原因になる事もありますし、今は、色んなハラスメントが問題になる時代ですから」
暫く頭をひねった安達が、慎重に言葉を繋ぐ。
「厨房は・・・狭い世界ですから、そりゃ幾つか仲良しグループみたいなのはありますけど・・・」
安達が少し小さい声になる。
「確かに、星野さんは・・・特別どこのグループにも入ってないっていうか・・・。決していじめられてるとか、仲間外れにされてるとかではないんですけどね」
「そうですか・・・」
「ま、でもそれ言ったら、私もどこのグループとかないですから」
「異動したい理由が 本当は別にあるって事もあるので。こういう事から、水面下の 僕等には見えてこない実情が表面化する事もあるので、ちょっと注意して見ててもらえますか?」
「はい・・・。でも・・・考えすぎだと思いますよ」
守屋が食堂に行った時に 一瞬見えた厨房内の雪子の顔。帽子とマスクをしているから出ている部分は少ないが、いつもより顔色の悪さが気に掛かる。動きも鈍い。姿勢も猫背で覇気がない。守屋は嫌な胸騒ぎを覚え、仕事を終えると、真っ先に雪子に電話を掛けた。
「今日元気なかったけど、具合悪いの?」
「ううん」
「顔色、悪かった」
「・・・そう?」
雪子との会話だけでは何もその原因が分からないから、守屋はもう一歩突っ込んだ。
「安達さんに、厳しい事言われたんだって?」
「・・・・・・」
電話の向こうから、声すらしなくなる。
「仕事・・・楽しくない?」
「・・・・・・」
「何か、嫌な事あったら話してよ」
すると、雪子の今にも消え入りそうなか細い声が返って来る。
「私がいけないから・・・」
守屋はその後の言葉を黙って聞いた。
「朝 寝坊したり、電車乗り過ごして遅刻したり・・・。社会人としてやっちゃいけない事ばっかりしてるから・・・」
「でも、ユキ 今まではそんな事なかったでしょ?ごく最近でしょ?それって、何かやる気がなくなる様な事があったとか・・・嫌がらせとか・・・」
すると雪子が珍しく守屋の言葉の途中で遮った。
「これって、所長として聞いてるの?私に」
守屋の胸が急に冷たく沈む。
「・・・本当にそう思うの?だとしたら、寂しいよ」
「・・・・・・」
雪子の耳が、またぼわ~っとし始める。
「ごめん。何だか疲れちゃった。切ってもいい?」
「ユキ・・・」
返事はないが、そう呼び止められて待っていてくれているのを感じると、守屋が続きを話した。
「俺、本当にユキの事心配なんだよ。凄く、胸がザワザワする」
雪子の瞳から一すじだけ、涙が零れる。
「明日はちゃんと朝起きられると思うから・・・」
「ユキ・・・。俺そんな事心配してるんじゃないよ。ユキの気持ちが・・・大丈夫かなって」
「・・・・・・」
「顔見たいよ。これから行ってもいい?」
「もう・・・寝るから」
「じゃ、明日の朝迎えに行く」
「ちゃんと起きて行くから」
しかし次の朝、アラームが鳴っているのに体が言う事を聞かない。消しても消しても鳴るアラームから逃れる様に、雪子は布団を被る。暫くして、母親がドアをノックする。
「起きないと、遅刻するわよ」
何度呼んでも返事のない部屋を開けて 母が中に入ると、ベッドの中でうずくまっているのが、布団が小さく盛り上がっている様子から分かる。
「具合でも悪いの?」
机の上には薬を飲んだ跡がある。しかも一粒ではなく何粒かだ。
「薬飲んだの?どこか具合悪いの?」
すると布団の中からようやく声がする。
「頭痛かったから・・・」
「今も?」
「今日・・・休む」
「熱は?」
「お母さん・・・仕事場に電話しておいて」
雪子が次に目を覚ましたのは、午後の2時を回った頃だ。またやってしまったという自己嫌悪感に苛まれ、当然目覚めも悪い。起き上がって机の上の薬の残骸を見て、昨夜眠れず二回も睡眠導入剤を飲んだ記憶が蘇る。アラームを止めた時に床に落ちたままになっている電話を手に取ると、そこには守屋からの着信が何回も残っていた。
夜の9時過ぎに、再び守屋から電話がかかる。
「家の近くに来てるんだけど、出て来られる?」
「・・・お母さんもいるし・・・無理」
諦めた守屋がそのまま会話を続けた。
「具合い・・・今はどう?」
「うん・・・明日は行くから」
「それって・・・良くなったって事?」
「・・・うん」
「薬・・・飲んだの?」
その“薬”という響きに、雪子が過剰に反応した。
「何日か眠れなかったから・・・ちょっと多めに飲んだだけ!」
それを聞いた守屋の様子が一変して、少し強い口調になる。
「何?ユキ、何の薬飲んだの?」
「・・・・・・」
「眠れなかったって?・・・夜眠れてないの?」
守屋の胸のざわつきは増していく。
「眠剤・・・飲んでるの?」
渋々雪子が答え始める。
「ここ最近眠れなかったから・・・仕事にも穴空けたり、寝不足だと仕事中ぼーっとしちゃうし・・・。だから、病院で薬貰って来たの。それ、昨日は飲んだだけ」
「この間の病院も・・・それ?」
雪子の返事はない。
「いつから、眠れないの?」
「・・・・・・」
守屋が目を瞑って頭を掻くと、思わず大きな溜め息が漏れる。そして大きく息を吸い直して言った。
「ユキ・・・このまんまじゃ駄目だよ」
「・・・分かってる。明日は行くから」
「そうじゃない。俺が言ってるのは、ちゃんとしろって事じゃない」
守屋が息を整えて、もう一言言った。
「お願い。顔見せてよ・・・」
泣いているんじゃないかと思う程悲痛な声が、雪子の胸に刺さる。しかし雪子は少し笑って言った。
「パジャマだし、すっぴんだもん」
「いいよ」
「やだ」
「じゃ、着替えて化粧してきて。何時間でも待ってるから」
「・・・お母さん起きてるし・・・」
「寝るまで待ってるから」
雪子の瞳から、また一粒零れ落ちた。
「今日は・・・会いたくない」
「なんで・・・」
独り言の様に呟くと、守屋は手で目を覆った。
次の朝、再び起きてこない雪子を起こしに母親が部屋を訪れる。
「今日も休む。電話しといて」
「まだ頭痛いの?」
「うん・・・」
「病院に行った方がいいわよ。一人で歩いて行けそう?」
「・・・・・・」
「お母さん、仕事早く上がってきて・・・一緒に行こうか?」
「大丈夫、一人で」
「熱はないんでしょ?でも食欲もないし・・・吐き気は?大きな病気だと嫌だから、絶対病院行くのよ」
昨夜から車で一夜を明かした守屋が、朝9時を過ぎた頃雪子に電話をかける。暫く呼び出した後、雪子は電話を取った。
「おはよう」
守屋が明るくそう声を掛ける。
「ほら、着替えて化粧して出てきて。外で待ってるから」
しかし雪子は、警戒心丸出しで返事をした。
「仕事に連れてこうとしてるの?」
「違うよ~。会いたいから、昨日からずっと待ってたんだよ」
「・・・・・・嘘でしょ・・・?」
「嘘じゃないよ。何時間でも待つって言ったでしょ?昨日」
「・・・守屋さん、今日仕事は?」
「夜勤」
「・・・・・・」
「外で待ってるからね。準備して来てよ」
それから暫く経って、雪子が家を出る。車に近付いてくるのが、バックミラーで確認できる。恐る恐る遠慮がちに助手席に乗り込んだ雪子に、守屋が明るい挨拶をした。
「おはよう」
「・・・おはよう・・・」
「来てくれてありがとう」
すぐに車を動かし始める守屋に、雪子が再び警戒した顔つきになる。
「どこに行くの?」
「静かで・・・ゆっくりできるところ」
それを聞いて、少し雪子の肩の強張りが薄らぐ。フロントガラスから照らされる太陽の光に、二人は目をすぼめた。
「今日は天気がいいみたいだね」
「うん・・・」
公園の縁に立つ大きな木の陰になる様に、守屋は車を停めた。停まった途端、無音の空間が際立つ。守屋はすぐに小さなボリュームで音楽を流した。そして、助手席に座る雪子の目をじっと見た。一瞬だけ合わせた雪子の目の表情をみて、守屋が急に涙目になった。そして雪子をそっと抱きしめた。
「出て来てくれて、ありがとう」
雪子が無言で首を振る。静かな空間に、守屋が鼻をすする音が聞こえる。
「・・・守屋さん・・・?」
「・・・ごめん・・・」
そう言って、暫くして腕をほどく。そして守屋が静かに聞いた。
「いつから眠れてないの?」
「・・・先週位から・・・」
「・・・昨日は?眠れた?」
雪子は首を横に振った。
「薬飲まなかったの?」
頷く雪子。
「ご飯、食べてないの?」
「・・・食欲、なかったから」
「俺のせいだね・・・。俺がユキに酷い事言ったから」
「違う・・・」
雪子は首を強く振るった。
「よく知ってる、いいお医者さんがいる。・・・行ってみない?」
「お医者・・・さん?」
「そう。・・・弟のかかりつけの先生」
雪子は再び黙って下を向いてしまう。
「軽いうちに診てもらった方が、早く良くなるって」
「・・・いい」
「ユキがこれ以上壊れていくの・・・見てられないよ」
「・・・壊れていく・・・?」
不安そうな瞳で守屋を見つめる雪子を、もう一度抱きしめた。
「お願い。一緒に行こう」
「・・・・・・」
「何でもなければ、それでいいんだし」
雪子はそっと守屋を押し離すと、首を横に振った。
「ごめんなさい。守屋さんの気持ちは嬉しいんだけど・・・」
「どうして?何も怖くないよ。問診して・・・薬出してくれるだけ。心配な事は全部聞いてくれるし」
雪子は俯いたまま もう一度ゆっくり首を振ると、ドアに手を掛けた。
「ごめんなさい・・・」
慌てて守屋が雪子の右腕を掴んで引き止めた。
「ごめん。分かった。やめよう。行かない。行かないから・・・降りないで。お願い」
まだ雪子の体の向きがドアの方に向いたままだ。守屋は必死に思いつくままを喋った。
「どっか・・・行こう。自然がある所・・・。気分が少し変わる様な所に行こう」
雪子の表情は変わらない。守屋は必死にアイデアを絞り出す。
「例えば・・・山とか・・・海とか・・・川とか・・・」
言いながら、雪子の表情を見る。
「人があんまりいない様な、静かな所でのんびりしよう」
そこで雪子の気持ちが少し動く。
「守屋さん・・・仕事・・・」
「大丈夫。夜だから。ユキだってそれまでには帰らないと、お母さん戻ってきちゃうでしょ?」
ようやく雪子の左手がドアから離れると、守屋がエンジンをかけた。キーにぶら下げられた高尾山のキーホルダーが揺れる。
車が走るにつれ、窓の外の景色が次第に広がっていく。視界が開けてきて、遠くには秩父の山々が薄っすら見えてくる。守屋が運転席の窓を開けた。ふわっと入り込んだ風は意外にも湿度が無くさらっとしていた。
「風、気持ちいいね。ユキも窓、開けたら?」
ゆっくりとした動作で、パワーウィンドウを下ろす。舞い込んだ風が雪子の髪をひらりと泳がせた。
「もうすぐ、夏だね・・・」
守屋が話し掛ける。
「うん・・・」
「梅雨、もうすぐ明けるかな」
「・・・うん」
辛うじてキャッチボールになる会話を綱渡りの様に繋いで、守屋が言った。
「眠たくなったら、寝てていいよ。着いたら起こしてあげるから」
「・・・大丈夫」
車を大きな川の河川敷近くに停める。土手から眺める川は ゆったりとして見え、陽が南の空に高く昇りかけていて、水面がキラキラとその光を反射していた。
表情を失った雪子の手を守屋が優しく握る。
「近くまで下りてみる?」
「・・・うん」
弟の時と同じ様に、心に何も響かなくなってしまった雪子に守屋は、胸に悲しい色の影を落とした。それでも守屋は、手と言葉を繋ぐ。
「今日、お天気良くてよかったね」
遠くで釣りをしている人が見える。
「へぇ~、何か釣れるのかなぁ」
殆ど独り言に近い会話が繰り返される。川の淵まで下りてくると、水を覗き込む雪子。
「意外と澄んでるね・・・」
雪子からの会話に、守屋の顔がぱあっと明るくなる。
「本当だね」
川下の方を見つめて、雪子が言った。
「これずっと流れていくと、東京湾に出るの?」
「そうだね」
「昔、アザラシだかが迷って来ちゃったってニュース、あったよね?」
「うん」
雪子と会話が続く事が嬉しい。守屋がそう感じながら、雪子の横顔を見つめる。
「私も・・・流されたら、どこに行くんだろう・・・」
急に遠い目をした雪子を 現実に引き戻す様に、守屋が雪子の手を引っ張った。
「あっちの芝生に行こう」
綺麗に整備され青々とした足元の芝生を見て、雪子が言った。
「芝生の色が綺麗。もうすぐ夏だね・・・」
守屋が繋いだ手と反対の手で、遠くの土手を指差した。
「あそこから見たら、もっと綺麗かもね」
土手に昇って二人は腰を下ろした。
「昨日雨降ってないから、芝生が湿ってなくて良かった」
守屋が笑顔を向ける。しかし、雪子の顔はまだほぐれない。そして暫く黙って座っていると、雪子が大きく息を吸ったのが分かる。
「守屋さんの・・・話、聞かせて」
「俺の話?」
「・・・前に・・・言ってた話」
守屋が目を丸くする。
「・・・今?」
「・・・うん」
「・・・・・・」
守屋が躊躇する。
「どうしたの?急に」
雪子は膝を抱えて俯きながら言った。
「夏子ちゃんと約束したから」
「・・・・・・」
「守屋さんの話を、まずちゃんと聞いて受け止めるって」
その声に張りはない。
「もう少し、ユキが元気になってからにしない?」
「・・・・・・」
雪子の背中が固まっている様に動かない。
「ユキの心の準備が出来たって事だよね?ありがとう」
守屋は一言一言、手探りで話す。
「でもさ、今はユキの心がちょっと弱ってる時だと思うんだ。それに、今日ずっと一緒には居られないし・・・。言いっ放しで仕事に行くのは・・・ちょっと・・・」
雪子は小さな肩を更に落とした。
「私・・・駄目だね。ごめんなさい」
守屋は慌てて補足した。
「今度、お休みの日に・・・ね」
空気を変える為、守屋が芝生に寝転がる。眩しい太陽に手をかざして片目を閉じた。
「ユキも寝てごらん。芝生、温かいよ」
言われるままに寝転ぶと、両手で顔を覆った。
「眩しい」
守屋が手をかざして、雪子の顔に日陰を作る。
「ほら。目開けてごらん」
恐る恐る覆っていた手をどけて目を開けた。
「守屋さんは?眩しくないの?」
当然眩しそうな顔をしている守屋の顔の上に、雪子も手をかざして日陰を作る。あははははと笑う守屋を見て、雪子がボソッと言った。
「私も、本当は守屋さんの役に立ちたい。いっつも守ってもらうばっかりじゃ、嫌」
「ユキ・・・」
そう言って守屋が一回起き上がった。そしてにこっと笑って言った。
「膝枕して」
雪子が膝を折り曲げた上に、守屋が頭をそっと乗せる。
「ユキ・・・温かい」
暫く黙っていると、守屋の寝息が聞こえてくる。この間車の中で雪子が感じた、あの安心感と同じだ。雪子がそっと守屋の髪の毛を撫でる。守屋の髪の毛に触れるのは多分初めてだ。少し硬い。耳もこんなに間近で見た事はない。耳たぶが少しふっくらしている。昨日から車の中で夜を明かした守屋の頬や顎の辺りには、薄っすらと髭が伸び始めている。その時、サアーッと東から風が吹いたから、雪子は来ていたカーディガンを脱いで守屋に掛けた。掛けてみると、守屋のベルトまでも届かない雪子のカーディガンが小さく見えて、同時に守屋がとても大きく感じる。ワイシャツ一枚で寝ている守屋が、少し肩をすぼめた。
「・・・寒い?」
ゆっくりと雪子の声に反応して目を開いた守屋が、肩に掛かったカーディガンを見て、またにっこり笑った。
「ユキの匂いがする」
慌ててカーディガンを鼻に近付ける雪子。
「柔軟剤の匂い・・・」
「この匂い・・・安心する」
言ってからハッと気が付いて、守屋が急に上を向いた。
「ユキ寒いでしょ?」
「大丈夫」
起き上がった守屋は、掛かっていたカーディガンを雪子の肩に掛けた。
「起こしちゃったね。せっかく気持ち良さそうに寝てたのに。ごめんね」
来た時よりも、雪子の顔に色が差した様に感じる守屋だ。
「ユキも昨日寝てないんだから、少しは体休めないと」
そう言ってさっき肩に掛けたカーディガンを取って、今度は雪子の前に掛けた。背中を土手につけ横になった雪子の傍に、守屋も同じ様に体を倒した。
土や草のほっとする香り、そして肌に心地いい気温が、風と共に二人の上を通り抜けていく。頭の後ろに枕代わりに手をやって、守屋が目を瞑ったまま雪子に話し掛けた。
「何も考えないで眠ればいいよ。ずっとここにいてあげるから」
小さく『うん』と聞こえた気もするが、はっきりとしない。その位か細い声の相槌だ。
ふと守屋が目を覚まし、隣を見る。こちらに向けた背中を丸めている雪子の姿がある。肩がゆっくりと上下して、呼吸を感じる。少しでも眠れた雪子に安心した守屋は、起き上がって伸びをした。川の向こう岸にある大きな運動場ではジャージ姿の学生達が活発に動き回る。芝生の間に出来た細い道には、三輪車に乗る子供と散歩をする親子の姿。遊具のある公園では、幼い子供達のはしゃぐ声が遠くの空に心地良く響いている。日常を忘れてしまいそうな程 のどかで穏やかな時の流れの中に身を置いて、今雪子の背中を見つめると、朝見た 今にも壊れていきそうな雪子の顔が嘘の様に思える守屋だ。あれは悪い夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。
守屋が時計を見ると 2時半を過ぎていて、もう少ししたら日が傾いて薄っすら肌寒くなる時間だ。そんな事を心配していると、雪子が寝返りを打ってこちらに向きを変えた。その時、雪子の目からは涙が伝って落ちた。どんな夢を見ているのだろう。胸が刺さる様に痛むのを堪え、守屋はそっと雪子の髪を撫でた。
その感触で目を覚ました雪子は、頬に伝った涙を拭うと、守屋を見た。
「おはよう。少し眠れた?」
雪子は濡れた頬を隠す様に、起き上がって膝に顔を埋めた。『うん』とだけ返事をした後は またずっと黙っているから、守屋が優しく背中を摩った。
「怖い夢でも見たの?」
雪子は無言で首を横に振った。
その時、雪子の鞄の中で携帯が鳴っている。着信の主は母親だ。
「具合、どう?病院行った?」
仕事の合間に心配して掛けてきた様子が伝わる。電話を切ると、雪子の顔が曇っている。
「お母さん、早めに帰るって・・・」
帰りの車で、再び雪子の表情が重い。さっき守屋がコンビニで買ってきた サンドイッチと飲み物を雪子に手渡す。
「何か少し食べないと、元気出ないよ」
なかなか開けない雪子。囲われた小さな空間に、守屋の声が静かに響く。
「仕事、また行けそう?」
「・・・行かなくちゃ・・・」
「眠れなくなった原因って・・・俺?」
俯いていた顔をゆっくり上げて、運転席に向ける雪子。そして軽く左右に振った。
「職場で・・・嫌な事、あるの?」
雪子は更に大きく首を振った。
「仕事、暫く休むって方法もあるよ」
「そんな事したら、仕事なくなっちゃうもん」
手元のコンビニの袋の手を、無意味に結んだり解いたりしながら話す雪子。
「私の仕事なんて 誰だって代わりのいる仕事だから、休職扱いになんてしてもらえないよ」
「大丈夫。そうなった時は、また一緒に考えればいいよ」
「再就職なんて難しそうだし、何カ月も収入がなくなったら困る・・・」
「ユキん家は、まだご両親もお元気なんだし・・・俺だっているし」
最後の所で、雪子が守屋の顔を見る。
「・・・どういう意味?」
赤信号で止まっていた車が再び走り出して、守屋が視線を前に移した。
「俺だって・・・少しは力になれる事もあると思う。例えば・・・欠員が出てる施設 調べられるし、紹介もできる」
雪子の顔がみるみる曇っていく。そしてボソッとこぼす。
「仕事もできなくなったら、守屋さんとは付き合えない・・・」
驚いて、思わず守屋が助手席に顔を向けた。
「どうして?」
「だって・・・ううん」
言いかけて、やはりやめる雪子。問い正したい守屋は、気持ちをぐっと堪えた。そして守屋が頭を掻くと、すうっと鼻から息を大きく吸い込んだ。
「仕事辞めたら、丁度良いよ。俺、ユキと結婚する」
し~んとした妙な空気が立ち込めた車内で、お互いにお互いの顔を見られずにいる。破裂しそうな雰囲気を、雪子があえて破った。
「守屋さん、そんな事言っちゃ駄目だよ。私なんか・・・駄目」
「私なんかって、言わないでよ。ユキだから、俺言ってるのに」
「駄目、駄目。ごめんね」
言葉とは裏腹に、雪子の瞳から一粒二粒零れ落ちる涙を、慌てて手の平でごまかした。
「ごめんね。俺も・・・こんな運転しながら話す事でもないんだけど。あんまり、考えすぎないで」
近くのコンビニに停まると、雪子が下りる間際に守屋が言った。
「夜、眠れない時は、俺付き合うよ。だから・・・薬にあんまり頼っちゃ駄目だよ。朝も、電話してあげようか?」
雪子は力なく笑った。
「私・・・守屋さんの子供みたいだね」
その言葉が守屋の胸に刺さり、口を塞がれた思いだ。降りる後ろ姿に、必死で守屋が言葉を絞り出した。
「違うよ。一緒に頑張ろうって思ってるだけだよ」
雪子が振り返って 一言『ありがとう』と言うと、再び無気力に家への道を歩いて行った。西に傾いた橙色の陽が、雪子の背中を照らしていた。