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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
18/30

第18話 深まる溝


 休みの前の晩、仕事帰りの夏子の車で、慎二はそのまま夏子の家に直行だ。泊まりの準備も万端にしてきている。最近はそれが習慣になりつつある。

 今日は夕飯用に牛丼を買って来て、夏子の家でそれを頬張る。食後のコーヒーをどちらが入れるか、恒例のじゃんけんが始まる。

「じゃんけんぽん!」

一発勝利で夏子に軍配が上がる。ガッツポーズをする夏子に対し、渋々立ち上がる慎二だ。

「なっちゃん、いっつも最初チョキ出すのに、今日違うじゃ~ん」

夏子がはははと笑った。

「そ。読まれてると思って、変えた」

「なんだよ~。気付いてたの?」

「先週位からね」

冗談交じりに舌打ちをする慎二が、慣れた手つきでコーヒーを入れる。そして、砂糖が切れている事に気付く。

「ねぇ、なっちゃん。砂糖ないよ。ストックある?」

「あると思ったけどな・・・。一番下の引き出し見てみて」

「え~?それも俺?」

夏子は床に寝転がったまま、慎二にピースしてみせた。

「だって、じゃんけん勝ったも~ん」

「はいはい、わかりましたよ」

そうブツブツ言いながら、慎二が言われた通りの下の引き出しを探す。すると、奥からは缶コーヒーがどっさりと出てくる。

「あるじゃ~ん!」

「やっぱ、あった~?」

呑気な声を上げている夏子だ。

「違うよ、缶コーヒーだよ。こんなにあんなら、これでよくね?」

「え?!」

夏子の記憶が巻き戻り、急に上体を起こした。

「ほら」

一本つまみあげて、慎二は夏子に見せた。その手にあるのは、村瀬の好きだった缶コーヒーだ。好きな銘柄が決まっていて、それがないと少し不機嫌になったりする。だから夏子は家にも買い置きを常に置いておいたのだ。村瀬の物を全て処分した時には忘れていたのだ。

 そのまま時が止まったかの様に固まった夏子に、慎二が不思議そうな声を出す。

「これ、そんなに好きなの?」

我に返って、慌てて取り繕う夏子だ。

「安売りしてた時にね」

「しかも缶って!」

「それより、砂糖あったの?」

「ない」

「ブラックでいいか?」

夏子がそう聞くと、慎二が缶をつまみあげてまじまじと見ている。

「俺、これ飲んでみていい?」

 慎二が夏子の目の前で、缶をプシュッと開けた。抵抗が無いと言えば嘘になる。いや、むしろ夏子の胸の隅にある良心が、尖って突いているみたいに痛い。しかし慎二はそんな事知らずに、

「う~ん、なかなか美味い」

等と感想なんか言ったりしている。一息ついた慎二の顔を見て、夏子も“あれをただの缶コーヒーと思おう”と自分をごまかす。すると、そこに慎二が少し身を乗り出して言った。

「ねぇ、なっちゃん」

真剣な顔で、わざわざそう呼び掛けるから、夏子の心臓が急に緊張する。

「この前店長に言った事って、本当?」

先日夏子の落とした爆弾の事だ。あれ以来何も触れてこないから、おかしいとは思っていたけれど、今このタイミングとは驚きだ。

「本当だよ」

「前から知ってたの?」

「ううん」

ついごまかしたくて沢山喋りそうになるが、そこは慎重に相槌を打つ夏子。

「なんで、あのタイミングで言ったの?」

「仕返し」

缶コーヒーに口を付けようとしたところで、慎二の動きが思わず止まる。

「仕返し?」

「あの日の朝、ちょっとイラッとして。だから、驚かせてやろうって」

納得しない慎二の質問がまだ続く。

「ああいうカミングアウトされたら、普通『え~っ!?』ってなるでしょ?そこから話が広がったりさ。でもさ、それがならなかったじゃない」

確かにそうだ。普通なら自分の嫁と部下が同級生だったと分かったら、その話題で持ちきりになる筈だ。盛り上がるに決まっている。しかし夏子は、それを『仕返し』と例え、村瀬も驚いただけでその話題には一切触れなかった。この不自然な流れに慎二が疑問を持っても、そりゃあおかしくない。

「何でかなぁって・・・」

「何でかって、私に聞かれてもね・・・」

「じゃ、店長に聞いてみた方がいい?」

夏子の心臓がかなり心拍数を上げているのに、必死で冷静沈着な自分を演じる。

「・・・わざわざ聞く程の事でもなくない?きっと店長の事だから、意味なんてないよ」

慎二が缶をテーブルに置いて、あぐらを組み直す。

「どうせ、人の話適当に聞いてて 覚えてませ~んって、その程度でしょ」

「聞かれちゃマズいの?」

夏子は慎二と目を合わせて、気持ちを探る。

「・・・な訳ないし~。変な言いがかりやめて」

ちょっと不機嫌な顔をしてみせる。慎二がもうこれ以上突っ込めない為の防御線だ。しかし、今日の慎二は、いつもとは少し違っていた。

「なっちゃん。俺、最初は単なるやきもちで勘ぐったけど、今は・・・そうだったんならそうだったって言って欲しい」

「・・・・・・」

慎二があまりに落ち着いていて、且つ優しい口調で話すから、夏子の心が揺れる。

「なっちゃんが前の恋愛で、どんな風に傷ついて、どんな風に辛かったのか、俺知りたい。で、それも全部ひっくるめて愛したいと思ってる」

夏子の心が緩んで、同時に涙腺も緩くなる。じんわりと潤んだ夏子の瞳を見つめると、慎二がすっと腕を伸ばして抱き寄せた。夏子の気持ちは大きく揺れていた。慎二と付き合いだして、今初めて正直に話そうか迷っているのだ。

「店長なんでしょ?前の・・・彼氏」

耳元で囁く慎二の声に、夏子の胸は潰れてしまいそうだ。頭の中で色んな声が喧嘩しているみたいだ。しかしやはり、『元カレの顔を知ってるのはキツイ』『そこで働いてる限りずっとだもんね』そんな言葉達が、夏子の迷いを締めくくった。慎二の腕の中で首を横に振る夏子。暫くそのまま動かない慎二が、ぼそっとこぼす。

「俺、信用ないんだね」

腕をほどこうとした慎二を、夏子が止めた。

「どうして、店長って決めつけるの?」

「・・・分かるよ」

夏子には理由を説明されるより、一番怖い言葉だ。

「男と女の関係だったんだって・・・わかるよ」

夏子の呼吸が一瞬で止まる。慎二が続けた。

「それでも付き合ってないって言うんだったら・・・一回だけ、何かの勢いで、店長と寝たんだね」

それを聞いた途端、夏子は

「サイテー!」

と叫んで、慎二を両手で突き飛ばした。しかし、今度は慎二が夏子を床に押し倒した。覆いかぶさる様に夏子の目を捉えた慎二は、強引に唇を奪った。

「やだ!」

仰向けで抵抗する夏子の手を抑え、慎二がじっと目を見つめた。

「彼氏でもない店長とは出来て、付き合ってる俺の事は拒絶するの?」

悲しい色でいっぱいに染まった夏子の心が、それまで沢山頭にあった言葉を全て消し去っていった。気が付くと夏子の瞳から涙が溢れ、耳に雫が落ちる。

「慎ちゃん・・・嫌い」

無意識に夏子の口から そう零れ落ちると、放心状態の慎二が床に仰向けに転がった。解放された夏子が無言で起き上がると、さっき抵抗した時にぶつかってテーブルから落ちた缶コーヒーが、白いラグを汚していた。缶を拾ってテーブルに戻すと、夏子は部屋を出て行った。


      ******


 悲しい三日月を見ながら帰った夜、守屋から電話が掛かる。

「国分寺、厨房の空き ないって」

「・・・そう・・・」

やはり、かなりのがっかり感が雪子の胸を占拠する。

「でもね・・・」

雪子の耳が、もう一度希望を持てと訴える。

「立川では空きがあるって」

立川・・・。立川は以前に守屋が居た施設だ。しかも女性職員を妊娠させたと噂の立った施設だ。雪子が返事を出来ずにいると、守屋が言った。

「立川じゃ、ユキん家から今より遠くなっちゃうんじゃない?」

「・・・同じ位かな」

そうだ。朝が苦手だから近くの施設に異動願いを出したのに、遠い施設では理由が合わない。

「同じ位じゃ・・・異動の意味ないもんね。断っていいよね?」

「・・・・・・」

今日食堂で見た佐々木親子とのスリーショットが、どうしても雪子の頭から離れない。同じ施設じゃなければ、あんな光景も目にしないで済んだのに。雪子の気持ちが揺れる。今でもその噂だけが、施設に残っているのだろうか?そして、その相手の女性は今まだ そこで働いているのだろうか?雪子は賭けてみる事にした。

「立川は・・・どう?私に向いてると思う?」

「・・・ユキにとって、立川に異動するメリットって何?」

もちろん、答えられる筈がない。近くなる訳でも乗り換えが減る訳でもない。

「守屋さんが、前居た所でしょ?私が行っちゃ、マズい事があるの?」

自分のついた嘘がバレるのを恐れ、逆に攻撃してみたりする。卑怯な自分から雪子は目を背けた。

「なんで、そんな言い方になるの?それって、立川での俺の悪い噂を聞いたからでしょ?だったら、これから全部説明するよ」

「・・・・・・」

守屋の口調は乱れずに続く。

「ちゃんと聞いてくれたら、きっと誤解も解けると思う。前から話しておきたいと思ってたんだ。いい機会だから、全部話すよ」

今日食堂で見た光景に勝手に嫉妬して、勝手に自信を無くして、岡田にもからかわれて、もうこれ以上何か衝撃を受けたら 潰れてしまう気がした雪子は、話し始める前にストップをかけた。

「ごめん!」

「まだ駄目?」

「今日は・・・ごめん」

「今日はって・・・何かあったの?」

雪子は言葉に詰まる。

「ユキ・・・。俺に隠し事してる?」

心臓がドキッとしたのか、ぎゅっと収縮したのか分からない。でも一瞬で胸が痛く苦しくなる。『隠し事』・・・その罪深い響きが、やけに雪子を悲しくさせる。ただ大切な人を守りたいだけなのに、自分の態度がそんな風に映ってしまうなんて・・・雪子の全身から力が抜けていくのがわかる。

「私、守屋さんの事が好き。ずっとずっと一緒に居たいって思ってるのに、どうしてこうなっちゃうの?」

今度は守屋が黙る。

「ごめん。今日、もう切るね」

そう言って、雪子は電話を先に切った。


 本社での一日会議を終えた守屋が、帰り道 以前偶然に夏子と会ったガソリンスタンドで給油する。その後、敷地内の休憩所に立ち寄って、缶コーヒーを買う。椅子に浅く腰かけてタブを開けると、昨夜の雪子との電話を思い出す。気まずく終えた会話が、あれ以来 守屋の心を灰色に塗りつぶしている。携帯を取り出して雪子の電話番号を眺める。頭の中では、

『ごめんね、傷付けて』

とか、

『まだ怒ってる?』

とか、雪子のご機嫌をとる様な言葉が浮かんでくるが、どれもしっくり来ない。

 するとそこの自動ドアが開いて、目の前で人が立ち止まった。

「どうも」

守屋が顔を上げると、そこには夏子の姿があった。

「また、会っちゃいましたね」

「ほんと・・・」

そう言いかけて、夏子の目がいつもと違う事に気付く。

「夏子ちゃん、何かあった?」

意味ありげにふふふと苦笑いで返事をする夏子。

「不思議・・・」

夏子が守屋の隣の椅子に座った。

「もしかして守屋さんに会えたらって思って来てみたら・・・本当に居た」

そして夏子は、あははははとカラ元気に笑ってみせた。

 

 今あったばかりの出来事の一部始終を 夏子から一通り聞き終えた守屋は、う~んと唸って腕組みをした。

「男はね・・・信用されてない、頼られてないっていうのが、一番堪えるんだよね・・・」

「だって、聞いた後の慎ちゃんの気持ち考えたら、言えないよ!」

「そうなんだよ。そうなんだけどね・・・。じゃ、俺って君にとって何なの?って言いたくなっちゃうんだよね」

「好きだから、言わない選択したのに・・・」

「そうなんだよね・・・」

「守屋さんは、慎ちゃんの気持ちわかるの?同じ気持ち?」

守屋は慎重に答えを探す。

「本当の彼の気持ちは知らないけど・・・、彼が丸ごと夏子ちゃんを愛そうとした覚悟は分かってあげて欲しいなぁ」

夏子は思わず言葉を失う。

「今日のは、言うのが正解だったんだろうね・・・」

守屋にそう言われ、ますます夏子が俯いていく。

「この間俺も、言わない方がいいみたいな事言っちゃった責任があるな・・・」

すると、前回の会話を思い出した夏子が顔を上げた。

「守屋さんの方は?言えた?」

今度は守屋が苦笑いした。

「こっちも失敗した」

「失敗?」

今度は守屋からの話を聞いて、夏子が腕組みをした。

「雪子ちゃんも、いっぱいいっぱいなんだろうね・・・」

先日雪子から聞いた 職場で面白半分にからかわれている話を思い出して、夏子も複雑な気持ちになる。

「それに、異動願いってどういう事?やっぱり俺と一緒だと働きにくいって事でしょ?でもさ、それを話してくれても良いいんじゃない?『朝が苦手だから』なんて言い訳、俺にする必要ある?」

「・・・守屋さんを傷つけたくなかったんじゃない?」

「傷つけるって・・・本当の事言われない方が傷つくよ」

夏子が首をしな垂れた。

「慎ちゃんに言われてるみたい・・・」

守屋が頷く。

「本当だ。お互い様にね」

夏子が少し考えてから、口を開いた。

「見え透いた嘘、やめてって事でしょ?」

守屋も黙る。夏子は、そんな守屋の様子を窺いながら、手探りで言葉を出す。

「二人の事、例えば・・・どっかで誰かに見られてて、噂になってるとか・・・からかわれてるとか・・・ないです?」

「職場では話さないし・・・」

「外で見られてるって事だってありますよ」

「でもそれは、誰と付き合っても同じ事でしょ?」

「そうなんだけど・・・その相手が同じ職場に居ると分かれば、いい野次馬の標的ですからねぇ。ちなみに女はそういう下らない話題、大好物ですから」

守屋の顔にピーンと緊張の糸が張り詰める。

「ユキが、誰かに嫌がらせされてるって事?」

「いやぁ・・・例えばですよ?あくまでも例えば」

それを言い終えたところに、夏子の電話が鳴る。

「・・・慎ちゃんかなぁ・・・どうしよう・・・」

恐る恐るポケットから取り出すと、呼び出しているのは雪子だった。

「雪子ちゃんだ・・・」

守屋と二人目を合わせる。守屋が小さく頷くと、夏子が電話を取った。

「夏子ちゃん・・・今話せる?」

夏子が雪子を受け入れると、思いつめた声の雪子が話し始める。

「私・・・守屋さんと、駄目かも・・・」

「どうして?!」

「守屋さんの事守りたくて・・・強くなりたくて・・・。でも、結局守屋さんを傷つけちゃった」

雪子から かいつまんだ話を聞くと、夏子は自分の話を始めた。

「実は私もさ、さっき慎ちゃんと大喧嘩しちゃって・・・今家出てきたとこなんだけどね」

「え?・・・大丈夫なの?」

「ん・・・。彼はね、私から本当の事を聞きたいって思ってたんだけど、私は、彼の為に言わない方がいいって思って・・・。でも、それで慎ちゃんキレちゃって」

「・・・守屋さんに言わなきゃ駄目?」

「・・・守屋さんも過去の話をしようとしてるんでしょ?だったら、きっと正直に話して欲しいと思ってる人だと思うよ」

「・・・あんな内容言えないよ・・・」

「そうだけど・・・。多分ね、嬉しい事も辛い事も分け合っていきたいって思ってるのかもね」

「・・・・・・」

相槌が聞こえなくなった電話に、夏子がはははと笑った。

「慎ちゃん怒らせて喧嘩中の私が言うのもおかしいけどね」

すると、雪子の声がまた聞こえてくる。

「慎二君が聞きたい本当の事って、どんな事なの?」

夏子がドキッとして返事に躊躇していると、その隙間に守屋の電話が着信音を響かせた。慌てた守屋が、電話を持って外に出る。しかし、それを聞き逃さなかった雪子だ。

「・・・夏子ちゃん、今誰かと一緒?」

「え?ううん・・・一人だよ」

「電話の音・・・した」

「・・・あぁ・・・近くに居た知らない人。ガソスタで休憩してたから」

「ふうん・・・」

引っ掛かる様な相槌の雪子が、まだうっすらドキドキしている夏子に言った。

「守屋さんの着信音と一緒だったから」

思わず言葉を失う夏子だ。こういう時は早く言葉を発しないと誤解を生むと分かっているのに、夏子の口が動かない。ごまかしたり嘘をついたり、そんな事何年もの村瀬との関係で慣れっこの筈なのに、今日は上手く言葉が出て来ない。

「一緒じゃ・・・ないよね?」

いつもポンポンと歯切れよく話す夏子が 珍しく口ごもるから、雪子の中での不安の塊が急に大きく膨らむ。

「一緒の訳ないでしょ。私、守屋さんの連絡先知らないし」

「そうだよね・・・」

雪子の語尾が弱々しくて、それがまだ納得できていない事を物語っている。

「夏子ちゃん、ごめんね。私、疑ぐり深くなっちゃってるみたい」

夏子は話題を切り替える為に、少しだけ元気な声を必死で絞り出した。

「私も雪子ちゃんも、正直に話してみない?」

その提案は夏子にとっても決して簡単な事ではなかったけれど、それ以上に雪子にはハードルが高かった。

「私・・・言えないよ」

夏子が頭をひねる。

「じゃ、雪子ちゃんはまず、守屋さんのその話を聞くところから始めたら?」

雪子は話す事と聞く事を心の中の天秤にかける。どちらも勇気がいるが、現実的なのは聞く方だと結論付く。お互いが励まし合って電話を切るが、切った途端現実に戻った夏子が、急にその重圧に首をうなだれた。

 そこへ電話を終えた守屋が戻ってくる。

「仕事に戻らなくちゃいけなくなって・・・」

「大変だぁ・・・」

力なく夏子が守屋を労う。

「ユキ・・・何か言ってた?」

「・・・まずは、守屋さんがしようとしてる話を聞いてみようって事になったから」

「そうか・・・。ありがとう」

「私も、慎ちゃんに正直に話すって雪子ちゃんと約束しちゃった」

「・・・家に、戻れる?」

「・・・戻ってみる・・・かな」

「慎二君は、まだいるのかな?」

「・・・居るんじゃないかな?電車で帰ったりはしないだろうし」

守屋が立ち上がって空き缶を捨てると、夏子がその後ろ姿に言った。

「守屋さん。連絡先聞いてもいい?そんなにしょっちゅうは連絡しないけど・・・保険で」

そう言って笑う夏子が痛々し気で、守屋は電話を取り出した。


 守屋が車にエンジンをかけたところで、雪子から着信が入る。

「今・・・まだ外?」

「今ガソリン入れて、ちょっと休憩してたとこ。でも、これから又仕事に行かなくちゃならなくなって」

「ガソリンスタンド?」

「うん。ちょうど出ようとしてたところ」

雪子の胸いっぱいに急に雨雲が広がる。

「じゃ・・・いい」

「ユキ・・・昨日はごめん。隠し事なんて言い方・・・傷付けたなって。ただ勝手に寂しくなって、あんな言葉になった。ごめんね」

「大丈夫。私も・・・ごめんなさい」

大丈夫な訳はないのに そう答える雪子に、守屋の胸は寂しさでいっぱいになる。お互いに言葉が途切れると、二人の心の距離が浮き彫りになる。

「今日、本社で会議じゃなかったの?」

雪子が聞く。

「会議だったよ。帰り道でさっき電話があって、311の佐藤富江さんの容体が急変したって連絡で、急遽向かう事になった」

説明をしながら、疑われている感じを受ける守屋だ。寂しさがまた少し増す。それをぐっと隠しながら、守屋が明るい声を出した。

「ユキ、明日は?」

「・・・遅番」

「俺、多分この時間から向こう行ったら、そのまま居ると思うから」

「わかった、電話はしない」

「そういう意味じゃないよ。明日、向こうで会えるねって事だよ」

「・・・・・・」

上手く噛み合わない心に、お互い虚しさを覚える。

「じゃ、気を付けてね」

昨日といい、今日といい、気まずさを残す終わり方に、電話を切った後で溜め息を吐く二人だった。


 夏子が駐車場に車を入れて止めると、やはり胸がドキドキする。さっきの別れ方を思い出すと、これから部屋に戻る決心が鈍る。慎二の顔を見たら、まず何て言えばいいのだろう。ごめんねか・・・。いや、一方的に謝るのに抵抗がある。しかし、その後でやはり本当の話をしなくてはならない事を思うと、謝っておいた方が無難な気がする。謝るというハードルと、村瀬との過去を打ち明けるという二つの大きなハードルが、夏子の上に無言の重圧をかける。大きく息を吸って決心を固めると、夏子は車を降りた。


 恐る恐る部屋のドアに手を掛けると、鍵が締まっている。夏子の胸がそわそわし出す。ドアを開けると、中は真っ暗だ。玄関の電気をそっとつけると、そこにあった筈の慎二の靴は無くなっていた。部屋の明かりをつけて見回すが、やはり姿はない。空になった缶だけが流しに下げられていた。テーブルの上には、何時間か前に慎二が入れてくれたコーヒーが、カップの中で悲しく冷めている。そして、抵抗した時にこぼしたコーヒーのシミが、薄茶色に残っていた。きっと慎二が拭いて帰ったのだろう。夏子が出て行く時よりも そのシミは薄くなっていたが、真っ白いお気に入りのラグに、村瀬の為に買い置きしたコーヒーの 慎二の飲み残してこぼした茶色のシミが、皮肉にも夏子の心を表している様だった。


 次の日の休みに、夕方になっても慎二から夏子への連絡はない。夏子は思い切って車を走らせ、慎二のアパートに向かう。何度かインターホンを押すが、出て来ない。部屋の中も真っ暗だ。夏子は車に戻って、待ってみる事にする。すっかり陽も暮れて、空の色が深くなる。しかしなかなか慎二は戻って来ない。電話を取り出して、迷う夏子がいる。本当なら、今日は一緒に映画を観に行って、帰りには 部屋に置く雑貨を買いに行こうと約束していたのに、昨夜の喧嘩で全てがパアになってしまった。急に空いた時間を、慎二はどう過ごしているのだろう。そんな事を思いながら、もう少し待ってみる事にする。

 

車の時計が9時を回ったから、夏子は諦めてエンジンをかけた。ゆっくりと駐車場を出る車から吐き出されるガスは、まるで夏子の溜め息の様だった。


 次の日夏子が会社に出勤すると、いつもの様に慎二が先に来ていた。

「おはよう」

夏子がそう自分から声を掛けると、慎二も

「おはようございます」

と挨拶を返すが、目を合わせない。今日も長い一日になりそうな予感を胸に、夏子はデスクに向かった。

 仕事中、夏子はチラチラと慎二を見るが、にこりともしない顔でテキパキと仕事をこなしている。だから、不機嫌には見えない。その上、仕事を素早くこなすから、出来る男の様で少し格好いい。いつも明るくて、由真と三人で居る時はひょうきんな弟分的な役回りを甘んじてこなしているから、見えていなかった慎二の男っぽい部分だ。もしかしたら慎二は、本当はこんな風な人なのかもしれない。それを自分が、年下で可愛い男という型にはめようとしていたのかもしれない。夏子がそんな事をぼんやり考えていると、由真が椅子のキャスターを滑らせて、夏子の横にぴったりと近寄った。

「な~に、見とれてんの?」

気が付けば、夏子は慎二の事をじーっと見つめていたのだ。

「そんなんじゃないって」

慌てて我に返った自分を、仕事の頭に切り替える。そんなやり取りが慎二の耳にも届いて、チラッと二人の方を見るのだった。夏子はデスクに視線を落としているが、慎二と目が合った由真がにこっと笑ってみせた。

「夏子。今日お昼、どうする?」

「由真は?」

「買いに行こうかなぁ・・・。夏子は?」

「うん。私も」

もしかして慎二と仲直りできるかもしれないとの期待を込めて、お昼を買って来なかった夏子だ。すると由真が慎二に声を掛けた。

「慎ちゃん!今日お昼、買いに行く?」

慎二が一瞬だけ手を止めて由真の方を見る。

「朝、コンビニで買ってきちゃいました」

それを聞くと、やはり慎二に和解する気がないのがよく分かる。


 その日、仕事を終えると、慎二が真っ先に椅子から立ち上がった。

「お先失礼します。お疲れ様でした」

店長のデスクの前を通り過ぎるところで、慎二の視線が一旦止まる。そしてショップを出て行った。

 次々帰る中で、部屋に残ったのが村瀬と夏子の二人となる。それに気付いて、夏子は慌てて鞄を持って立ち上がった。

「お疲れ様です」

村瀬が帰りかけた夏子に言った。

「慎二と喧嘩でもしてんの?」

夏子の足が一瞬止まる。体は心より正直だ。

「店長には関係ありませんから」


 帰り道、夏子は再び慎二のアパートに寄る。インターホンを押すと、それ越しに声が聞こえる。

「夏子だけど・・・」

黙る慎二。切れているのか、聞いているのか分からない。夏子が暫く黙っていると、慎二の冷たい声がする。

「何?」

「一昨日はごめんなさいって言おうと思って、来た」

また、向こうではし~んとしている。だから、夏子は少し早口で締めくくる。

「それだけ言いに来ただけだから。ごめんね。じゃあ・・・おやすみ」

まだ慎二の戦闘態勢を感じて、夏子は駆け足で車に戻ると、急いでエンジンをかけてアクセルを踏んだ。

 今日一日降ったり止んだりを繰り返していた雨が、再び霧雨となってフロントガラスを濡らした。


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