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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
17/30

第17話 欠けていく月


 次の朝雪子が出勤すると、岡田が意味深な笑みを浮かべて近付いてくる。

「昨日は楽しかった?」

昨日帰り際にからかわれた事など、その後の守屋とのデートで記憶が上書きされてしまっていたから、油断していた雪子が思わず固まる。

「何の事ですか?」

そう、ようやく絞り出すので精一杯だ。しかし岡田もはっきりは言わない。ふふふっと笑みを浮かべたまま、肘で軽く突いてくる。朝からこうだと、憂鬱な一日の始まりだ。重たい心の雨雲を吐き出す様に、雪子は野菜を取りに倉庫へと行きながら、ふうっと大きな溜め息を吐いた。


 職員の昼食の時間が始まる。以前はこの時間が雪子の楽しみだったのに、今ではその場から逃げてしまいたい位苦痛な時間だ。それだけで一日分の疲れがどっと押し寄せる。

 いつも一緒に食堂に来る事務の佐々木が食堂に姿を現すが、今日は守屋は一緒ではない。肩透かしを食らった様な、でもやはり少し寂しい様な気持ちになる雪子が視線を感じて目を向けると、岡田ら数人がごまかす様に目を逸らした。佐々木がトレイを下げにカウンターに来ると、言った。

「所長ね、さっき急病人が出て 病院に搬送される事になったんだけど、そのご家族との対応で今手が離せないの。時間過ぎちゃうかも。事務所に貰って行っとこうか?」

すると、責任者の安達がにっこり対応する。

「冷めちゃいますから、こちらでお取り置きしときますよ。時間が出来たらいらして下さい、とお伝え下さい」

 4時近くなった頃、ようやく守屋が食堂に姿を見せる。守屋の分に取り置いたトレイを安達が出す。

「今スープ温めて、お持ちします」

一旦火を止めた寸胴鍋に再び火を入れる。温まったスープを器によそい、安達が傍にいた雪子に声を掛けた。

「これ運んでくれる?」

安達はそういうゴシップには全く興味がないから、雪子もすっかり油断していたのだ。言われたまま、スープを守屋の元へ運ぶ雪子だ。どうせ厨房から野次馬達が見ていて、又あれこれ言いたい事を言うのだろう。そう思うと、雪子の足取りが重くなる。

 黙ってスープの器を守屋に差し出す雪子。それに気付いた守屋が、顔を上げてにっこり笑った。

「ありがとう」

お願い、今そういう顔しないで・・・雪子はそう心の中で叫びながら、黙って会釈を返した。厨房に戻ろうとする雪子を、守屋は呼び止めた。

「火傷の所、もう平気?」

「はい」

顔を強張らせ 目を合わそうとしない雪子を見て、守屋が小さい声で言った。

「ごめんね、話し掛けて」

お辞儀をして下がってきた雪子を待ち構えていたのは、やはり岡田達だ。

「何、話してたの?」

「・・・火傷大丈夫ですか?って」

それだけ言うと、雪子は夕食の仕込み作業の続きに戻る。しかし岡田等のひそひそは続く。続くどころか、更に増している様にさえ感じる。

「まさかのツーショット、見れたわ~」

「安達さん、ナイス!」

「所長もロリコンだよね~。ああ見えて、意外と凄い性癖あったりして~」

きゃははははと黄色い笑い声が一角から上がり、厨房の職員の視線が一瞬そちらに集まる。三人組は一瞬口をつぐむが、また暫くして岡田がその沈黙を突破する。

「実際、立川に居た時、やらかしてるしね」

「女好きなのかな。職員に手出さずにいられないんだね」

「いや~、最低」

そんなやり取りが雪子の耳を汚す。心が苦しくなって、今にもこの場から飛び出したい気持ちだ。

「何気にモテてるよね?どこがいいんだろう」

「・・・優しそうなとこ・・・?」

「金持ってるとこ?」

またきゃはははと笑い声が上がる。しかし今度は自分達で“しーっ”と自制する。

「金持ってるったって、役職手当でしょ?世間の年収1000万とかには到底及ばないでしょう」

「だねだね」

そこへ食べ終えた守屋がトレイを下げに来る。

「すみませんでした、遅くなっちゃって。しかも温かいの出してもらって、美味しかった。ありがとうございました」

安達が笑顔で対応する。

「い~え~、これ位当たり前の事ですから」

もう一度頭を下げると、今度は守屋の顔が仕事の顔に切り替わる。

「で、203の近藤ヨシさん、入院されたので今夜から食事ストップです」

「分かりました」

食堂を出て行く守屋の後ろ姿に、またさっきの噂話が続く。

「良い人っぽいところか?」

「直接、聞いてみればいいんじゃない?彼女に。すぐそこにいるんだし」

「どこに惚れたの?っつって」

「どうする?意外と『体の相性がいいんです』って言われたら」

「いや~、だとしたら、マジうけるわ~」

「キモイ、キモイ。同じ職場でやめて欲しいんだけど~」

わははははと傍から聞いたらやけに楽しそうな笑い声も、こんな下世話な話題、雪子には針のむしろでしかない。


 帰り道を駅まで歩きながら、雪子は思う。岡田達の噂話は、こちらに聞こえていないつもりで話していたのだろうか?それとも、わざと聞こえる様に話していたのだろうか?だとしたら、本当に辛い。少し前の噂話よりも確信を持っている様な話しぶりに、雪子の不安も高まる。ここを図太く聞こえないふりをしながら、気にせず働く事が出来るのだろうかと、雪子は真剣に自分に問うのだった。


 その晩、雪子は夏子に電話を掛けていた。今日の職場での出来事を話す為だ。相談するつもりが、それを聞くなり夏子の感情の針が振り切った声が 電話から飛び出してくる。

「私、そんなやからぶっ潰してやるから!」

大きな声に驚いた雪子は、思わず耳から電話を離した。

「私に任せといて。今度の休みの日、そっち行ってあげるから。そんで そいつらが二度とからかえない様に、きっちり話つけてきてあげる」

やはり小学生の時の頼りがいのある夏子は健在だった。そう嬉しくなる半面、雪子は待ったをかけた。

「ありがとう、夏子ちゃん。でもね・・・それじゃ私、小学生の時と同じだよね。何も成長してない」

話を聞いての興奮が、まだ冷めやらぬ夏子の鼻息だけ聞こえる様だ。

「違うって。これはもう、何とかハラスメントに値するレベルでしょ!」

「きっと、軽い気持ちなんだと思うし・・・」

「雪子ちゃん!あんな低俗な奴らに、同情なんてしなくていいんだよ」

「同情って訳じゃ・・・。でも人の噂話って・・・きっと面白くてエスカレートしちゃうんじゃないかな」

「何、人が良い事言ってるの?そういう奴らには、はっきり言ってやった方がいいんだよ。これはいじめだって。立派な人権侵害だって。なんなら出る所出たっていいんだってね」

「え?!そこまで・・・」

「その位の気概がなくちゃ、戦えないよ!そういう人達とは」

「・・・・・・」

「雪子ちゃん、一人でそこまで言い切れる?・・・言えないでしょ?だから、私が言ってあげる」

夏子の鼻の穴はまだきっと開いたままだ。興奮が冷めるのを待つ様に、雪子が少し時間を置いた。

「私ね・・・戦ったり、いざこざは起こしたくないけど・・・守屋さんが

悪く言われるのだけは嫌なの。守屋さんを守る為に、私が出来る事って何なんだろう・・・」

「う~ん・・・」

夏子のエンジンが少しクールダウンし始める。

「小学生の時も夏子ちゃんに助けてもらって、家では親に守られて生きてきて、守屋さんと出会ってからは、彼に守られて・・・。私も誰かを守れる人になりたい。自分の大切な人を守れる強い人になりたいの」

「じゃあ・・・直接直談判する?『こういう噂話やめて下さい』って。事実とは違うって事、はっきり言ってみる?」

雪子が弱気な声を出す。

「でも、付き合ってるって事は本当な訳で・・・。そこだけ隠して話すの、難しくない?」

夏子も頭をひねる。しかし、これといってとびきりの解決策は浮かばない。

「大事な人を守るために、言った方がいいのか悪いのか・・・。どっちなんだろう」

夏子もそう独り言の様に呟いた。


 次の日、雪子は遅番を終え着替えをしていると、倉庫の整理で残っていた安達がロッカーに現れる。

「お疲れ様。あれ?皆、もう帰っちゃった?」

「はい」

「皆、帰る時は早いね~」

冗談めかして笑う安達に、雪子が言った。

「私もモタモタしてたから遅くなっちゃって・・・」

否定しない安達だ。雪子は仕事は丁寧だが要領は良くない。だからテキパキと動く印象もない。それを知っている安達は、あえて社交辞令を言ったりしない。ただにっこりと笑うだけの相槌だ。そういうさっぱりした性格が、派閥を作らないで責任者をやっていける要素でもある。

「安達さん・・・ちょっとお話、いいですか?」


 食堂の端だけ電気をつけて、二人は向かい合って座った。

「異動の希望って・・・出せたりしますか?」

「異動?星野さん、異動したいの?」

「出来れば・・・」

「・・・どこに?」

「国分寺に・・・ありましたよね?」

「うん。そこ希望?」

「・・・出来れば」

安達はテーブルについていた肘を離し、背もたれに寄り掛かった。

「理由は?」

「・・・ここだと・・・家から少し遠くて・・・」

「どの位掛かってるんだっけ?」

「一時間・・・ちょっと・・・」

「まぁ、その位は皆仕方ないんじゃないかなぁ」

「・・・そうなんですけど・・・。国分寺だったら家から少し近いので・・・」

「国分寺の厨房に空きがあるか確認しないと何ともね。異動となれば、こっちにも人補充しないとならないからね」

「・・・勝手を言って、すみません」

「ちょっと時間ちょうだい。上に通してみるから」


 早速その晩だ。夜勤の守屋が合間を見て、雪子に電話をかける。

「ユキ、異動願い出した?さっき安達さんから聞いたんだけど」

「・・・うん」

「どうして?!」

守屋の声が少しいつもより大きくなる。

「・・・国分寺だと家から近いし・・・」

「違う。絶対違うでしょ?」

当たり前だ。安達に言った理由が、そのまま守屋に通用する筈がない。

「何か、あったの?」

「ううん」

電話の向こうから、守屋の溜め息が聞こえる。

「っていうかさ、どうして俺に一言も相談してくれないの?」

「・・・・・・」

「本当の理由、教えてよ」

言える訳がない。言ったら、一番傷つけたくない相手を傷つける事になるから。雪子は、耳に電話を当てたまま目をぎゅっと瞑った。

「原因・・・俺?」

雪子は心臓をぎゅっと掴まれた様に痛い。

「今日、夜勤でしょ?今どこで電話してるの?」

「車だよ」

そう答えた後に、守屋の大きな溜め息が聞こえる。

「そんなの今、どうでもいいでしょ?俺が今、どんな気持ちで電話しに来たか分かってる?」

その時外から車に向かって小走りに近付く夜勤のヘルパーの姿が見える。呼びに来たのをゼスチャーで伝えている。

「ごめん、もう行かなきゃ。また電話する」

電話を切った後で、雪子の耳に残る守屋の珍しく感情的な声。それが胸に突き刺さる。雪子はそれをシャットアウトする様に、布団をかぶった。


 次の日は早番だ。しかし雪子の体は布団から起き出す事が出来ない。なかなか起きて来ない雪子を心配して、母親がそっとドアをノックする。

「起きてる?間に合わなくなるよ」

返事のない部屋のドアを開けて、母がベッドの中で丸まっている雪子に声を掛けた。

「具合でも悪いの?もう時間だよ。遅刻しちゃう」

「今日・・・休む」

「どうしたの?具合悪いの?」

「うん・・・お腹痛い」


 仕事に来なかった雪子を心配して、夜勤明けの守屋が車を飛ばす。今朝守屋が掛けた電話にも出ない雪子だ。家の近くに到着するまでの間に、折り返しの電話もない。雪子の自宅が見える少し離れた場所に車を停めて、守屋はもう一度雪子に電話を掛けた。しかしただ呼び出すだけの電話は、さっきと全く同じ寂しさだけを残す。守屋はメールを打った。

『昨日はつい感情的になって、ごめん。仕事休んでたから心配で、今家の近くに来ました。少しでいいから、話したい』

返信のないじりじりした時間が、守屋の背中を押す。雪子の家のインターホンを押せば中にはきっと本人がいるのに、もし母親が出てきたらという心配が、その決断を鈍らせる。

 守屋が車から出るに出られずにいると、玄関の扉が開いて、中から雪子が出てくる。慌てて車から降りて駆け寄る守屋に、雪子が言った。

「ズル休みしちゃった」

「・・・どうしたの?珍しい」

「・・・朝起きられなくて・・・」

それが一体本当なのか嘘なのか、守屋が雪子の顔をじっと見つめた。それを察した雪子が、明るい顔を向けた。

「夜勤明けで疲れてるのに、わざわざごめんね」

守屋は首を横に振った。

「異動の話、言わなくてごめんなさい」

「急に・・・一体・・・」

そう言いかけた守屋を遮って、雪子が話し始めた。

「毎回、今日みたいに朝起きるの苦手でね。早番とかもあるし。だけど、遅刻できないと思うと必死で、ちょっと疲れちゃったの。近ければ、もう少し朝も遅くていいし」

守屋のまだ信じていない顔を見て、雪子が続ける。

「こんな事話すの・・・恥ずかしいっていうか・・・格好悪いっていうか・・・。社会人にもなって朝が苦手なんて・・・言いにくかったの」

終始目を合わせない雪子をいぶかしく思う守屋だったが、あえてそれを正したりはしなかった。

「ユキ、ご飯食べに行かない?」


 近くのファミレスで注文を終えた守屋が、思い出した様に話題を出す。

「一昨日、食堂で話し掛けたりしてごめんね」

スープを運んだ時の事だ。

「近藤さんが急遽入院ってなって、ご家族への連絡とか病院の手配とか、そういうのでバタバタしてたから、食堂行った時は本当に一気に疲れが出ちゃって。そしたら温かいご飯出てきて、目の前にユキがいたから、ちょっと甘えたくなっちゃったんだと思う」

雪子の心臓が嬉しさで高鳴る。と同時に、意外な発見でもあった。きっと雪子がそんな気持ちのまんまの顔をしていたのだろう。恥ずかしそうに打ち明けた守屋の顔をじ~っと見ている雪子だ。

「何?」

「守屋さんも・・・甘えたい時があるんだね」

守屋が下を向いて笑った。

「そりゃあるよ。大人になればなる程、誰も“いい子いい子”してくれないからね」

「・・・・・・」

「本当は今も、凄く甘えたい」

雪子の目が一瞬見開く。

「何なら、ユキに膝枕してもらいたい」

頬杖をついた守屋がゆっくりと目を閉じると、そのまま言葉が消え眠ってしまいそうな勢いだ。

「・・・守屋・・・さん?」

遠慮気味にそう呼び掛けると、守屋がとろんとした目を薄っすら開けて微笑んだ。

「ユキに会えたら、安心して眠たくなっちゃった」

「帰り・・・車、大丈夫?」

「車で仮眠取ってから帰るわ」

責任を感じて、雪子の顔に心配の色が濃くなる。

「車じゃ、疲れ取れないよね・・・」

目を瞑ったまま笑顔を浮かべ首を横に振る守屋だ。

「私・・・ごめんね。守屋さんの役に一つも立てなくて」

その言葉に、守屋が瞑っていた目を開いた。

「甘えたい時に甘えさせてもあげられないし、眠たい時に寝かせてもあげられない。しかも、夜勤明けの守屋さんに、こんな所まで来させちゃって・・・。運転して送ってく事も出来ないし」

守屋がにっこり微笑んで言った。

「じゃ、後でちょっと付き合って」


 ファミレスから出た二人が車に乗り込むと、守屋が運転席のシートを少し倒す。

「15分だけ寝かして。その間、傍に居てくれる?」

「15分で平気なの?明けなのに」

「それ以上寝たら起きらんなくなっちゃうから」

スーツのジャケットを脱いで助手席の雪子に渡す。ネクタイも解いて、Yシャツの第一ボタンを外す。シートにもたれながら、守屋が言った。

「ユキも寝ていいよ。俺、アラームかけるから」

「平気。起こしてあげる」

守屋の顔に一気に花が咲く。横になって目を瞑った守屋が左手を雪子の方へと伸ばした。

「手、繋いでて」

その伸びた手にそっと雪子が手を重ねる。守屋は本当に一瞬で寝息を立て始めたから、雪子はその頬にそっとキスをした。眠っている守屋の顔をじっと眺めながら、雪子は思う。こんな幸せを この人と一緒にいたら、一生感じていられるんじゃないかと。守屋と一緒に居る事が、今はまだ喜びであって特別な事だけれど、これが生活になって、毎日お互いの色んな表情を見られたら、どんなに幸せだろうと思う。こうして疲れて帰ってきた守屋を癒したいと思う。いや、疲れて帰って来るのが、自分の所であって欲しいと思う雪子だった。


 次の日、職場に顔を出すのに気が重たい。しかし、あんな噂話にビクビクしてるようじゃ彼を守れない・・・そう思って、雪子は自分を奮い立たせる。

「おはようございます。昨日はすみませんでした」

そう言って、色んな人に頭を下げて回る雪子。するとやはり岡田の所ですっとはいかない。

「今日の星野さん、何だかすっごく肌ツヤがいいね~。何かいい事あった?」

「いえ。具合が良くなっただけです」

作業中にいつものひそひそが聞こえる。騒音の厨房内でマスクを着用していても聞こえてくるのだから、わざと雪子に聞こえる様に言っている感が否めない。どうやら夜勤明けの守屋と共に過ごす為に休んだとにらんでいる様だ。そもそもズル休みをした自分が悪いんだと、我が身を戒める雪子だ。


 朝の事務所に、佐々木が小6の息子を連れて出勤する。

「すみません。今日コブ付きで」

「どうしたの?」

守屋が聞く。

「今日からこの子のクラスが学級閉鎖になっちゃって・・・。一日家に置いておけないから、連れてきちゃいました。仕事の邪魔はしませんので、どうかお許しを」

そのオーバーリアクションで場が和む。大人しいその息子は、小さな声で挨拶をすると、借りてきた猫の様に、母親に端っこに用意された椅子に座って、鞄から取り出したゲームを始める。

「何年生?」

守屋が話し掛ける。

「小6です」

「名前は?」

玲次れいじです」

「へぇ、格好いい名前だね」

「午前零時に生まれたから、だそうです」

「本当?!」

「冗談だと思いたいけど、本当です」

「もしかして、漢字も一緒?」

「その悲劇はギリ免れました」

思わずそのひょうきんな言い回しに、守屋達事務所にいた人間がわっはっはっと笑った。


 昼が近付いて、ふと守屋が佐々木に聞いた。

「玲次君って、昼どうするの?」

「お弁当持ってきました」

そう言って、今度は息子に言った。

「お腹減ったら、好きな時に食べなさいよ」

それを見て、守屋が口を挟む。

「ここで一人じゃ食べにくいでしょう。少し待てるんなら、一緒に食堂に行って食べようよ。お茶も貰えるし」

佐々木が手を振って答える。

「いいですって。放っといて大丈夫ですから。仕事の邪魔しない様に、ちゃんと言ってきてありますから」

すると守屋が玲次に言った。

「邪魔なんかじゃないよ。皆と一緒の方がいいよね?」

息子はやはり母の顔を窺う。そして母が言った。

「ま・・・どっちでもいいけど・・・」

「ほら。OK出た。じゃ、後で一緒に行こう」


 職員の昼食の時間になっても、今日は佐々木がなかなか手が空かない。すると守屋が佐々木に言った。

「先、昼飯行っててもいい?彼、お腹空いちゃうでしょ?」

母親から承諾を得て、少し玲次も嬉しそうにゲームをしまうと、椅子から立ち上がった。


 食堂に行くと、カウンターで 見慣れない小学生を連れた守屋に安達が言った。

「あら、その子・・・守屋さんのお子さん?」

その台詞を聞きつけ、奥に居た岡田らが耳ざとく聞きつけ振り返る。雪子も急に心臓がきゅっと縮まって思わず手が止まるが、振り返る事もできず耳だけが大きく傾く。

「いやいや。佐々木さんのとこの息子さん。今日学校が休みなんだって」

守屋が今日のトレイに乗ったお椀を見て、玲次に聞いた。

「味噌汁好きか?」

「はい」

そう聞いて、守屋が安達に言った。

「味噌汁だけ、一つ余分にもらえますか?」

「もちろん」

玲次の分の受け取ったお椀を守屋は自分のトレイに乗せて、声を掛けた。

「さ、行こう。どこでも好きな所座っていいよ」


 後から来る佐々木の席と三人分の席を取って座る。一緒に手を合わせて『いただきます』をすると、弁当箱の蓋を取って食べ始める玲次を見ながら守屋が聞いた。

「腹減ったろう?」

黙って頷く玲次。

「ごめんな」

その食べっぷりを微笑みやかに眺めながら、守屋が言った。

「今食べ盛りだろ?いっぱい食えよ。もし弁当だけで足りなかったら、ご飯も味噌汁もおかわり貰ってあげるから。あ、漬物も食うか?」

そう言って、自分の所に乗っている漬物の小皿を玲次の前に差し出した。

「弁当、旨いか?」

「うん」

それをしげしげと見ながら、守屋が言った。

「お母さん、偉いよなぁ。仕事しながらちゃんとお弁当作ったり、母親業やるんだから」

むしゃむしゃとひたすら食べる玲次に、守屋が話し続ける。

「お母さんに感謝するんだぞ」

玲次はちらっと守屋の顔を見てから、小さく返事をした。守屋がおかずに箸を付けながら、話し始める。

「おじさん家もさ、お父さんが居なかったから、お母さんが働きながら育ててくれて。弁当に箸入れ忘れたり、家の中ぐちゃぐちゃだったりしたけど、一生懸命育ててくれたんだなって、今では本当に感謝してる」

玲次は、お弁当を頬張りながら上目遣いで、話す守屋に時々目をやった。

「玲次君は、兄弟いるんだっけ?」

「お姉ちゃん、二人」

「そうかぁ。いいなぁ。仲良いか?皆」

「う~ん・・・」

首を傾げてから、玲次が答えた。

「時々ゲームして喧嘩するけど、結構よく喋る」

笑顔で頷きながら守屋が聞いているところへ、佐々木が駆けてくる。

「すみません、ありがとうございました」

玲次の隣に取っておいた席に荷物を置くと、カウンターにトレイをもらいに走る佐々木。そこで安達が言った。

「可愛い息子さんですね」

「いやぁ。学級閉鎖でね。家に一日一人で置いておけないから、連れてきちゃった。迷惑掛けてないですか?」

「ぜ~んぜん」

そう言って安達が守屋と玲次の方を指差した。

「所長が、よく面倒見ていらっしゃいます」

「本当、助かっちゃって・・・」

「ああやって見てると、本当の親子みたいですよ」

「え~?!そりゃあ所長に失礼よ」

「いやぁ、案外いいかもしれないですよ~。息子さんも懐いてるみたいだし」

そう言われ、暫く二人の様子を遠巻きに見た佐々木が笑って言い返した。

「私は全然いいけど、戸籍が綺麗な所長に、私みたいなバツイチこぶ付きは失礼よ~」

はははははと大きな口を開けて笑い飛ばすと、佐々木はトレイを持って席へと向かった。


 雪子は 下げられた食器類をまとめるふりをして、食堂の守屋に目をやる。安達が何気なく言っていた通り、守屋と佐々木とその息子の三人が自然と家族に見える。見えてしまう。きっと自分と居る時より、自然に釣り合って見える様な気がしてしまう。昨日仮眠を取る守屋を見て、このままずっと一緒に居たいと思った気持ちを両手でまるめてギュウっと握りつぶして、自分でも気が付かない所にしまってしまいたい気持ちになる雪子だ。


 食べ終えた守屋達三人がトレイを下げに来る。雪子は当然背中でそれを感じながら、見えないバリアを張る。

「ご馳走様でした」

「美味しかった?」

安達が玲次に聞く。

「はい」

来た時より元気な笑顔で返事をする玲次に、皆が同時に笑顔になる。

「息子にまでお味噌汁頂いちゃって、すみませんでしたぁ」

佐々木が深々と頭を下げる。その脇で満足げな笑みを浮かべた守屋が、玲次の頭に手を乗せた。また玲次も、嬉しそうな顔をして守屋を見上げた。その様子を見て、安達が二人を指差し 佐々木へにやけた顔を向けた。

「やめてよ~」

からかう安達を 佐々木が戒める。その脇で守屋が腰をトントンと叩く素振りをしてみせた。

「あら、所長。腰痛ですか?」

「あぁ・・・ちょっと疲れて・・・」

「気を付けて下さいよ」

「俺も歳だなぁ」

守屋が食堂を出て行った後で、岡田が雪子の近くにすり寄って言った。

「あんまり無理させちゃ駄目よ~」

「・・・何の事ですか?」

「またまたぁ~。そこまで言わせる~?星野さん意外にSっ気あるんじゃない?」

そう言い残してスーッと離れていった岡田。黙々と作業を続けながら、堪えても堪えても雪子の瞳から涙が零れ、頬を伝った。帽子もマスクもして俯いた作業をしている事で救われる。しかし、ここで泣いたら小学生の時と同じだ。あの時夏子ちゃんが助けてくれたみたいに、スーパーマンは現れないのだ。こんな事へっちゃらに 冗談でも言って返せる位の度胸がなくちゃ、大切な人なんか守れない。そう雪子は必死で自分に言い聞かせるのだった。


 帰り道、雪子は空を見上げる。数日前よりもっと細い三日月だ。やはり小学校の時と同じだ。『雪女』とからかわれて泣いた日の帰り道で見たのも、減っていく月だった。そして数日前の守屋の誕生日の夜に見えた綺麗な三日月も、あれも減っていく月だったんだと思うと、無性に悲しくなるのだった。


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