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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
15/30

第15話 火傷


 次の朝守屋が出勤して、日課通り各部署に顔を出して回る。そして厨房にも姿を現す。

「朝早くからご苦労様です。今日も宜しくお願いします」

守屋がさり気なく雪子の姿を探す。所長が挨拶に来ると、皆一旦手を止めてお辞儀をする その人の陰に隠れる様に立って頭を下げていた。

 守屋が立ち去った後で、やはり少しひそひそ聞こえてくる。

「見た?」

「やっぱり見てたよね?」

いつもはうるさい厨房の中も、皆が手を止めているから こんな会話も雪子の耳に届いてしまう。

 人参の皮を剥く作業を再開した雪子の隣に、大きなボウルを持って岡田が近付く。

「所長って、朝と帰り、必ず二回挨拶に来るよね?誰かお目当てがいるのかな?」

雪子は手を止めずに言った。

「他の部署も全部回ってるみたいですよ」

「へぇ~、詳しい」

「見た事ありますから」

マスクの下で、雪子の口がぎゅっと結ばる。


 こんな事でつい感情的になって動揺したから、その後の揚げ物の作業中に雪子は右手に火傷してしまう。医務室で処置をしてもらっていると、そこへ守屋が現れた。

「星野さん、大丈夫?」

「はい」

雪子は目を合わせずに、椅子から立ち上がった。看護師がにっこり状態を説明した。

「揚げ鍋に手の甲が当たってしまったみたいですね。でも、傷はそう大きくないので、ここ数日痛いの我慢すれば、跡は若いから残らないと思いますよ」

守屋の心配そうな顔が雪子に向く。

「かなり痛む?」

「大丈夫です。ご心配なく」

すると、看護師が再び言った。

「あ、これ労災使えると思うから・・・」

守屋が返事するより先に、雪子がそれを遮った。

「そんな・・・平気です。本当、すみませんでした」

実際、職場で守屋と会話を交わすのに抵抗のある雪子だ。どこにでもある様な所長と職員のやり取りでさえ、野次馬たちの勝手な脚色でどんなスクープにもなってしまう。しかも最近ではひそひそ囁かれているのを肌で感じるのだ。だから雪子は極力接点を持ちたくない。

「仕事に、戻ります」

そう言い残して雪子が頭を下げると、看護師が待ったをかける。

「出来る?その手で仕事」

「手袋してるので、大丈夫です」


 昼時、守屋が食堂に現れる。それに気付いた雪子は、また逃げる様に流しに移動する。すると岡田が言った。

「星野さん、手怪我してるから配膳の方がいいんじゃない?」

カウンターに出てくる雪子の顔は当然暗い。しかし守屋がトレイを受け取りながら、話し掛けてくる。

「仕事、大丈夫?」

「はい」

相変わらず俯き加減で目を合わせない雪子の右手を見た事務の佐々木が、守屋の隣で驚いた顔をしている。

「どうしたの?」

「ちょっと・・・火傷を・・・」

「あら~、大丈夫?気を付けて~」

「ありがとうございます」

この話の区切りで、どうかこのまま通り過ぎてくれと心の中で祈る雪子。守屋が目の前からいなくなると、岡田がいつの間にか寄ってきている。

「所長優しいよねぇ~。あれで女はコロッといっちゃうんだろうなぁ」

「・・・・・・」

「それとも星野さんだから、優しくするのかなぁ?」

「・・・関係ないと思いますけど」

「え~?!星野さんの事好きなんじゃない?」

「・・・違いますよ」

「星野さんのタイプじゃない?所長」

「・・・興味ありませんから」

必死の抵抗の後で、雪子にどっと疲れが押し寄せる。早番だから、終わりの時間まであと少しと 気力を何とか保つ雪子だ。しかしその前に、もう一つ越えなきゃいけない山場がある。トレイを下げに来る時だ。

 守屋と佐々木がカウンターに近付く。

「ご馳走様でした」

「ありがとうございました」

目を逸らしたまま そうボソボソっと答えた雪子に、守屋が立ち止まった。

「そうだ、星野さん。帰る時、事務所顔出して」

驚いて、思わず顔を上げてしまう雪子。雪子と守屋の噂話をしている周りの職員達も、それを聞きつけて皆が一斉に守屋に注目した。一瞬で空気が変わったのを感じた守屋が、急いで言葉を付け足した。

「労災の件で・・・」

「今日急いでるので・・・。あっ、それに、本当に大丈夫です。病院に掛かる程じゃないんで」


 家で夕飯を食べ終わると、部屋から雪子が守屋に電話を掛ける。

「どうしたの?」

「今・・・どこ?」

「家だけど・・・?」

「守屋さん家って・・・どこ?」

守屋が最寄り駅を言うと、雪子が少し遠慮がちに聞く。

「今から・・・行ってもいい?」

「俺、行くよ」

「ううん。私がそっちに行く。・・・駄目?」

「駄目じゃないけど・・・」

「・・・迷惑・・・かな?」

「そんな訳ないでしょ。会えて嬉しいけど・・・」


 勢いで守屋に電話して、勢いで電車に乗ってきたけれど、初めて降りる駅に少し緊張し始める雪子だ。外は雨が降り始めていた。守屋が指定した南口のポストを探すと、その横には もうスーツ姿じゃない守屋が立っている。思わず階段を駆け下りる。

「どうしたの?急に」

「・・・会いたくて・・・」

守屋の顔がふっとほぐれる。

「会って・・・謝りたくて・・・」

「謝る?」

雪子はこくりと頷いた。

「今日、沢山心配してくれたのに、私・・・冷たくしてごめんなさい」

一気に安心した顔つきになる守屋だ。

「なんだ~、そんな事か。大丈夫だよ、分かってるから」

守屋の笑顔を見た途端、急に雪子の瞳にじわっと涙が溢れる。

「ほんと、気にしないで大丈夫だからぁ」

そう言って、雪子の頭にポンと軽く手を乗せた。不意の涙を慌てて拭う雪子の右手を、守屋がそっと手に取った。

「痛い?」

雪子は黙って頷いた。

「やっぱり~。火傷は痛いよね」

守屋がその包帯の巻かれた手を切なげに見つめると、雪子が鼻でふふっと笑った。

「また失敗しちゃった」

「でも、これ位で良かったよ。顔とか体とか 油被ったとかだったら、本当大変だから」

「うん」

守屋が雪子の右手を離すと、会話が一旦途切れる。

「それ、言いに来ただけだから」

「もう帰っちゃう?」

「・・・・・・」

「車持ってくるから待ってて。雨だから、送ってくよ」

雪子は首を横に振った。すると、守屋の心にふっと灰色の陰が落ちる。

「あ・・・家までじゃない方が良ければ、近くまで送るから」

雪子が更に大きく首を振った。

「車は・・・いい」

守屋が雪子の気持ちを待つ。

「守屋さん。時間・・・平気?」

「うん」

「少し・・・一緒に歩きたい」

守屋の顔が、さっきとは打って変わって明るくなる。

「どこ行こうか?」

「ねぇ、守屋さんは小さい頃からこの町?」

「小学生の頃から。両親が離婚して、母親と弟と三人で暮らし始めたのが この町」

「行ってみたい。守屋さんの小学校」


 小学校の方角へ歩き始めた二人には、傘がぶつからない程度の距離がある。

「小学校なんて、俺も行くの久し振り」

「ここから遠い?」

「そんなに遠くないよ。10分位かな?」

傘の中の雪子の顔が、少し寂し気になる。

「ねぇ。守屋さんって、子供の頃どんなだった?」

「ん~、普通。ごく普通」

「普通?スポーツが得意だったとか、勉強が出来たとか、学級委員長とか・・・目立つタイプだったとか・・・」

「ん~、どれでもない。本当、普通」

「じゃ、何委員やってた?」

「何だっけなぁ~。忘れちゃったよ。すっごい昔だもん」

「え~?じゃぁ・・・」

昔の守屋が想像できる様な質問を考える間に、雪子への質問が来る。

「ユキは?何委員?」

「私は図書委員だった」

「あ~、本好きだって言ってたもんね」

「ねぇ、守屋さんにも、凄く仲の良かった子いた?」

「いたよ」

ようやく守屋の口から、当時の思い出話が聞こえてくる。

「転校生だったから、皆寄ってきて話し掛けてくれたんだけど、中でも近所に住んでた子が、自分の入ってた少年野球チームに誘ってくれて。一緒に毎週末練習したなぁ。そこから友達が増えて、中学行っても、人にすぐに馴染めるようになった」

話しながら、学校が見えてくる。近所の文房具屋や駄菓子屋は、この時間シャッターが下りている。

「ここの駄菓子屋、よく友達と放課後遊びに来てた」

「へ~」

「くじ付きのガムがあってさ、当たりがめっちゃいっぱいあるの。5個に1個は当たり。それ無駄にいっぱい買ったりして」

笑いながら校門の前まで来ると、守屋が感慨深げに校舎を眺める。

「変わってない?」

「ん~、どうだったかなぁ?」

「覚えてないの?」

「だって、25年以上前だよ」

「・・・そうかぁ・・・」

暫く眺めた後で、守屋が遠くを見ながら言った。

「俺がここに通ってる頃、まだユキ生まれてないんだもんね」

「・・・変な感じ」

「・・・そうだね」

いつの間にか傘に当たる雨の音がしなくなっていて、雪子が傘は外して空を見上げた。

「あっ!雨止んだ」

守屋も空を仰ぎ見て、傘を閉じた。

「ねぇ。中学校は?」

「中学?」

目的地を今度は守屋の通っていた中学校に変えて、歩き出した。傘を閉じたから、さっきよりも少し守屋の近くを歩く雪子。横断歩道での信号待ち、雪子は右隣に立つ守屋の左手に そっと手を伸ばした。ふと左手に触れた雪子の指先をぎゅっと握ってから、守屋は慌てて手を離した。

「あっ、ごめん」

そう言って、守屋は雪子の左隣に回った。そして雪子の左手をすくい上げて握った。

「右手、痛かった?」

雪子は首を横に振ったのと同時に、信号が青に変わって歩き出す。

「守屋さんのこっち側、変な感じ」

いつもと違う景色に、違和感を感じるからなのか、それともドキドキしているからなのか、雪子は落ち着かない。

「守屋さん、中学の制服って学ラン?」

「ううん。ブレザー」

「ふ~ん」

「ユキは?セーラー服?」

「ううん。ブレザー」

二人は声を上げて笑った。

「守屋さん、部活は?」

「剣道部」

「え~!格好いい!」

「そう?規律に厳しい顧問だったなぁ」

「それは覚えてるんだ?」

手を繋いだだけで、自然と心の柵が取れる様だ。心がぴったりくっついているみたいで、会話も弾む。

 色んな中学時代のエピソードを話しながら、校門の前に辿り着く。

「久々に来たなぁ~」

少し嬉しそうな顔の守屋を、隣で感じる雪子だ。

「中学、楽しかった?」

「うん」

「・・・好きな子、いた?」

守屋が急に言葉を詰まらせて、雪子へ顔を向けた。黙っているから、雪子はもう一度聞いた。

「ねぇ、いた?」

「いた・・・かなぁ?」

言葉を濁す守屋を、雪子がからかう。

「いたでしょ?」

「・・・聞く?そういうの」

「うん。聞きたい」

「嫌じゃないの?」

「・・・今でも好きって言われたら嫌だけど・・・」

「今でも好きな訳ないでしょ」

「じゃ、平気」

守屋が、まだ雪子の顔をじっと見つめているから、それが納得出来ていないのが伝わる。

「ねぇ、守屋さん、モテた?」

「モテないよ」

「バレンタインにチョコ、貰った?」

「友達の事好きな女の子がチョコ渡すの、手伝った事ある」

「へぇ。もしかしてその子の事、守屋さん好きだったの?」

「んん・・・ちょっと」

「や~、切ない」

その時、ぽつっと頭に小さな雨粒が落ちる。空を見上げると、外灯に照らされ たまに落ちる細かい雫がキラキラと反射していた。

「また、降ってきたね」

「うん・・・」

守屋が手をすっと解いて、傘をさす。広げられた傘が雪子の方に傾いて雨をよけてくれているけれど、雪子の顔は沈んだままだ。

「ユキ、雨嫌い?」

「ううん」

「じゃ、どうしたの?」

「傘さすと・・・手繋げない」

「あ!」

守屋は先程解いた右手を見て、そう叫んだ。そして傘を左手に持ち替えて、慌てて右手で雪子の手を握った。

「いいよ、傘」

「だって、濡れたら風邪ひいちゃうよ」

「まだ、平気」

そう聞くと、守屋は右手を繋いだまま 片手で傘を閉じた。

「今度 夏子ちゃん達のショップに行って、ダイビングツアー予約しようね」

「行けるの?一緒に」

雪子が思わず守屋から目が離せなくなったのは言うまでもない。

「思い切って連休取るよ。でも・・・一泊二日でもいい?それ以上は、ちょっと難しいかなぁ・・・」

「うん!・・・嬉しい」

「近場かな?・・・どういう所があるんだろうね」

「伊豆とか・・・大島とか?かなぁ・・・」

守屋が、隣の雪子の顔をじーっと見つめて言った。

「その時は、パジャマですっぴん、見られても平気?」

目を見開いて、口を半開きで固まる雪子。それを見て、守屋がはははと笑った。


 再び雨が止んだから、守屋が校門に背を向けた。

「他に、どっか行きたい所ある?」

「守屋さんの思い出の場所とか・・・そういう所行ってみたい」

守屋が歩きだすと、静かに話し始めた。

「ユキに、聞いてもらいたい話がある」

さっきまでとは少し声のトーンが違っていたから、雪子も身構える。

「前の職場での事なんだけどね」

そう話し始めると、雪子は握った手にぎゅっと力を込めた。

「守屋さん。それ・・・大丈夫」

守屋が見つめる雪子の顔は、急に強張っていた。

「ユキにとって、嫌な話ではないと思うんだけど・・・」

繋がれた雪子の手には、力がこもったままだ。それが『大好き』の表現でない事くらい、すぐに伝わる。亀が外敵から身を守る為に甲羅に全てをしまった状態と一緒だ。

「わかった。やめよう、この話」

両手の拳をぎゅっとしたまま俯いている雪子を、守屋は道の端でそっと抱きしめた。

「ごめん、急に。安心してもらいたくって・・・焦ったのかな」

守屋の腕の中に包まれた雪子の体の強張りは なかなか解けない。

「ユキが心を開いてくれてるって思って、つい嬉しくなっちゃったんだね。俺、本当馬鹿だわ」

守屋の腕の中で雪子が小さく首を横に振る。空気を変える様に、守屋が明るい声を出した。

「子供の頃試合の時に使ってた野球場があるんだけど、そこ行こ!」


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