第11話 重なり合う時
雪子と守屋が仕事の後待ち合わせをして、食事をする。今日守屋が選んだタイ料理の店は 職場からも離れていたから、雪子の気持ちが軽い。だから自然と笑顔の比率も多くなる。仕事の後の食事だけのデートでも、普段はあまり食べない料理に、雪子もすっかり女の子の顔になっている。
「パクチー、初めて食べたけど美味しかった」
そんな感想が自然と雪子の口から溢れる。
「良かったぁ。気に入ってくれて。食べログで評判が良い店だったからね」
食べ終わった皿を前に雪子がお水を一口飲むと、守屋が席から立ち上がりながら言った。
「ちょっと、トイレ行ってくるね」
そう言って、いつも会計を済ませてくるのが守屋だ。雪子が一人 席で待っていると、隣のテーブルに案内されて 一組のカップルが座る。
「俺初めてだなぁ、タイ料理」
「嘘ぉ?!ない?食べた事」
隣の若いカップルの会話が、雪子の耳に入り込む。
「なっちゃんのお薦めは?俺の好きそうなのチョイスしてよ」
「そうだなぁ・・・慎ちゃんの好きそうなのね・・・」
「ねぇ。俺の好み、分かってる?」
「分かってるよぉ。変わりもん好きでしょ?」
「何だよ、その言い方」
軽快な会話が、聞いている雪子の耳にも心地良い。思わずふっと笑ってしまう。すると、夏子がそれに気が付いて雪子の方へ顔を向けた。
「あ、ごめんなさい。うるさかったですね」
「いえいえ。ごめんなさい、こちらこそ」
慌てて雪子が頬を引き締めた。そこへ守屋が戻って来る。
「ユキはトイレ、平気?」
その会話を夏子の耳がキャッチする。再び夏子が雪子の顔をじっと見た。すると、その様子を察して 慎二も会話を一旦中断する。そして夏子が遠慮がちに雪子に声を掛けた。
「違ったら、ごめんなさい。もしかして・・・雪子ちゃん?」
驚いた雪子が夏子に釘付けになっている。
「え・・・」
「私、夏子。青柳夏子」
それを聞いて、雪子の目がまん丸くなっているのはもちろんの事、守屋までも驚いた顔で二人を見合わせている。慎二も当然、同じくだ。
「夏子ちゃん?!」
「やっぱり!雪子ちゃんでしょ?!」
二人は偶然の再会に感嘆の声を上げた。
「やだ~!こんな所で会うなんて~」
「ほんと。良く分かったね。私全然分からなかった」
雪子がそう言いながら、慌てて慎二の方へ頭を下げた。
「あ、はじめまして。夏子ちゃんの同級生の・・・」
雪子がそこまで言いかけて、最後の部分を慎二がかっさらった。
「雪子ちゃんでしょ?」
キョトンとしている雪子を見て、慎二が笑った。そして、夏子も守屋を見上げた。
「すみません、いきなり」
「いえ。夏子ちゃんの話は、彼女から聞いてましたから」
驚いているのは夏子だけで、慎二がそれに加わった。
「あ~、僕もです。雪子ちゃんの話、聞いてました」
四人は思わず声高らかに笑った。そしてその笑いが治まると、夏子が守屋を見ながら質問する。
「雪子ちゃんの彼氏?」
その質問に守屋が雪子の顔を見る。そして、薄っすら緊張気味な顔をして雪子が答えた。
「あ・・・うん」
「へぇ~、何だか随分大人」
それを聞いた慎二が、やはりそこに食い込んでくる。
「それ今、俺と比べたでしょ?」
「違うって~。そういう意味じゃないからぁ」
夏子の明るい返しに、場が和む。雪子もその勢いに乗って質問する。
「夏子ちゃんの彼?」
「そう。彼氏兼後輩」
「何だよ。“兼”って・・・」
「だって本当でしょ?」
続けて夏子が雪子達に質問をする。
「二人はどういう・・・」
それには守屋が答えた。
「同じ職場で」
それを聞いて雪子も付け足した。
「職場の上司」
夏子は少しドキッとする。ついこの間までは、自分と村瀬もそういう関係だったのだから。しかしそんな事を何も知らずに、慎二が明るく笑いながら言った。
「あ、僕等と一緒っすね」
その言葉で夏子は現実に戻って来る。
「一緒じゃないから。私、慎ちゃんの上司じゃないから」
「似た様なもんじゃ~ん」
「ただの先輩。上司なんて立派なもんじゃないから」
そんな二人のやり取りを見て、雪子がふっと笑った。
「夏子ちゃん、変わってない」
それを聞いて慎二が夏子をからかう。
「進歩してないって」
「あ、いえ。いい意味です」
雪子が慌てて訂正すると、今度は夏子がふっと笑った。
「そういうとこ。雪子ちゃんも変わってない」
そこへ守屋が入る。
「進歩してないって」
夏子は笑いながら、守屋を指差した。
「またまた~。いい意味ですってぇ」
こうして夏子の 誰とでもすぐに距離を縮められるところは、子供の頃から変わっていない。
店員が夏子達のテーブルのオーダーを取りに来る。
「お決まりでしたら、お伺いします」
メニューを広げたまま会話を弾ませた夏子が 慌てて何品か注文する。その隙に雪子がチラッと腕時計を見たのを、守屋は見逃してはいなかった。
「帰る?」
そう小声で聞いた会話を聞きつけて、夏子が言った。
「ごめんね、引き止めちゃって。雪子ちゃん、今度ゆっくりね」
急に寂しそうな顔になる雪子を見て、慎二が夏子に言った。
「今度、一緒にどっか行かない?」
思いつきで慎二が口走った提案が実現する日が、意外にも早く訪れる。夏子達のショップの定休日に、雪子達が休みを合わせた形だ。
今日は夏子一押しのシーフードレストランに二組のカップルが集まる。当店お薦めと言われる何品かを注文して、何となく四人がホッと一息つく。
「やっと実現したね」
夏子が雪子に笑顔を向けた。
「俺ら、おまけもついてきちゃったけど」
慎二がそう言って笑った。
「夏子ちゃんがあの時気が付いてくれなかったら、きっとまだ会えてないもんね」
雪子がそう ふふふと笑った。
それから二人はお互いに、中学の卒業後どう過ごしていたかの話題で盛り上がる。注文した料理をつつき合いながら、夏子が現在ダイビングのインストラクターをしているというところまで話が進むと、慎二がまた思いついた様に声を上げた。
「今度案内しますよ。是非一回潜ってみて下さい。人生観変わっちゃうから」
すると夏子も顔をぱぁっと明るくして、それに便乗した。
「そうだね。一回是非。二人でどうですか?」
そう振られた守屋が雪子と顔を見合わせてから言った。
「そんな簡単に、できるの?」
「初心者向けの体験ツアーもあるんで」
「ツアー・・・?」
「近場だと一泊二日からあるし、もう少し時間が取れるなら二泊三日とか三泊四日とか、色々。まぁ、最初は二泊三日位がお薦めですけど。二人での旅行の思い出にもなるし」
ニコニコ話す夏子に対して 話に乗ってこない雪子を察し、嫌な間が出来る前に守屋がやんわりと断りの方向へ話を向ける。
「僕の仕事柄、なかなか連休が取れないもんでね・・・」
「長期休暇とか、ないんですか?」
「そうだね。施設自体に休みがないからね」
「そっかぁ・・・。大変なお仕事ですね」
その話が一旦おしまいになりかけたところで、慎二が再び声を上げる。
「じゃ、これから海行かない?」
再び慎二の思いつきが実現に向かう。鎌倉の海に向かって、守屋の車に4人が乗り込み、進み始めた。4人乗るには夏子の車は少し小さい。守屋が運転して、助手席に雪子。後部座席に夏子と慎二が収まっている。
後ろから夏子が前の二人に聞いた。
「海なんて、あんまり行かない?」
「暫く行ってない」
雪子が先に答える。
「守屋さんも?」
「そうだね・・・最近は。若い頃はボディボードやってみたりしたんだけど」
「え~?!若い頃っていくつ位の時ですか?・・・ってか、そもそも守屋さんておいくつなんですか?」
「38」
「お~、大人」
「夏子ちゃん達みたいに若い子から見たら、ただのおじさんだろうけどね」
「いや、40前だから、おっけーです」
夏子が冗談交じりに返す。
「何?30代と40代の間に境界線があるの?」
「いやぁ~、なんかイメージで」
「そっかぁ・・・やばいな。あと2年でタイムリミットが来るのか・・・」
それを傍らで聞きながら雪子は、前に事務の佐々木と話した時に感じた焦りがふと胸に蘇って、急にぎゅっと苦しくなる。しかし、そんな事お構いなしに車の中の会話は続く。
「でも守屋さんはおじさんぽくないから、例外かも」
夏子のその返しに、守屋がはははと笑う。
「ところで・・・」
こうして新しい話題を出すのも、大抵夏子だ。
「失礼な事聞きますけど・・・守屋さん、結婚は?」
「ん?・・・バツイチかって事?」
「それもそうだけど・・・奥さんとか子供とか、います?」
言葉を選ばず ずけずけと聞く夏子に、隣の慎二が袖を引っ張ってブレーキをかける。
「なっちゃん・・・!」
守屋も驚きを隠せない顔をしてから、少し笑って言った。
「いない、いない。結婚も離婚もした事ない」
「へぇ~そうなんだぁ。結婚に興味ないタイプだ?」
「そんな事ないよ。出来ればしたいと思ってるよ」
そんな会話の最中、雪子は妙に落ち着かない気持ちになる。気になってもなかなか聞けなかった事を、夏子はいとも簡単にサラッと聞いてしまう。こんな風に思った事を口にしていれば、色んな事はこじれていかないし、きっともっとスムーズに二人の関係が進むのだろうと感じる雪子だ。
「夏子ちゃん達は?もうどれ位付き合ってるの?」
守屋の質問に、夏子と慎二が顔を見合わせる。
「まだ、ついこの間」
「へぇ~。もっと長いのかと思った。ねぇ?」
守屋が雪子に同意を求めるから、顔を上げて頷く。それを見届けてから、夏子が言った。
「同じ職場だし、元々友達だったからかな」
そして今度は慎二が聞いた。
「お二人は、どの位ですか?」
守屋が雪子の方を見る。雪子は見られた理由が分からずキョトンとしていると、守屋が代わりに答えた。
「去年の年末から」
そして今度は慎二が言った。
「雪子ちゃんがキャッキャしてないから、二人見てても違和感まるでないっすね」
「そう?嬉しいねぇ」
守屋がそう言って、助手席の雪子へ顔を向けた。そしてもう一言付け足した。
「あんまり感情を見せてくれないから、たまに 一緒に居てもつまんないのかなぁって思う時もあるけど」
そんな本音を少しこぼす守屋に、慎二が声高らかに笑ってみせた。
「こっちは、いっつも感情全開ですよ。分かりやすいっちゃぁ 分かりやすいけど、それもそれで大変ですよ」
「何よ~!そんな風に思ってたの?」
夏子が当然のツッコミを入れる。車内がゲラゲラと笑いに包まれた後で、夏子が鞄から飴を取り出す。
「飴食べる?」
「何味?」
慎二にそう聞かれ、袋の中を覗きながら答える夏子。
「抹茶ミルクと・・・梅塩飴。あっ、あとスーパーミント」
「じゃ、俺スーパーミント」
慎二に飴を一つ手渡すと、前の二人にも聞く。
「お二人さんは?」
雪子が運転席の守屋を見る。
「じゃ・・・梅塩飴もらおうかな」
「私は・・・」
そう雪子が言いかけて、夏子がその後の言葉を予想する。
「抹茶ミルク!でしょう?」
「え?どうしてわかった?」
「だって、ぽいも~ん」
飴を二つ受け取った雪子が、飴の包みごと守屋に差し出す。それを見ていた夏子が助手席のシートにかぶりつく様に雪子に近付いて言った。
「包みは開けてあげないと~」
「あ・・・ごめんなさい」
気の利かない自分を恥ずかしく思いながら、雪子が袋を開けて また戸惑う。それに気付いた夏子が、また助手席のシートに近付く。
「どうしたの?」
「このまま?」
開けた袋のまま差し出そうとしている雪子に、夏子がゆるいツッコミを入れている。
「それじゃ、取り出しにくいでしょう」
「え?だって、じゃ手でいいの?」
雪子は夏子に聞いたが、夏子は守屋の方を見てその反応を待つ。
「あ、もちろん。ありがとう」
親指と人差し指で飴を取り出すと、守屋が左手を差し出した。しかし、ここで慎二が待ったをかける。
「いやいや~、ここは、あ~んでしょう」
「え?!」
思わず雪子の驚きが声になる。面白半分にからかっている風なノリに、夏子も便乗する事にする。
「だね、だね~」
「え・・・」
夏子という味方もいなくなって、雪子が戸惑いの表情を顔いっぱいに広げている。そんな様子を察して、守屋がもう一度手を出した。
「いいよ。頂戴」
しかし、そこへ夏子の手が飛び出して、雪子の持つ飴をせき止めた。
「いや、守屋さん。ここは、雪子を大人にしてやって下さい」
「何、それ・・・」
雪子がそう漏らすが、夏子は更にあおる。
「ほら、守屋さんもしてもらいたいって」
守屋が雪子の様子を気にしながら、言った。
「じゃ、ちょっと待ってね。信号で止まったらね」
雪子は前をじっと見て信号を探す。すぐ前に見える信号が黄色に変わるのを見て、車の中に無言のカウントダウンの空気が流れる。車が停まっている時間は限られている。後部座席の二人の急く気持ちとは裏腹に、雪子がさっきの飴をもう一度包みにしまおうとする。
「停まったから、自分で・・・」
「そういう事言わないの!」
夏子が手を伸ばして、雪子の手元を遮った。慎二も信号を見ながら焦った声を出す。
「ほら、青に変わっちゃうよ」
「守屋さんも待ってるし、ね!」
夏子が強引に雪子の手に飴を出した。複雑な表情で待つ守屋だ。信号が青に変わり、前の車が動き出すのと同時くらいに、雪子が守屋の口に飴を入れる。
「ありがと」
大粒の飴で口の中がいっぱいになり、言いにくそうにお礼を言う守屋。すると、待ってましたとばかりに夏子が興奮した声を上げた。
「いや~、チューしてんの見るよりエロいかも」
すると、みるみる雪子の耳が真っ赤になって、両手で顔を覆った。その様子を斜め後ろから見て、慎二が言った。
「同級生に、普通そういう事言う?」
「だってぇ~、可愛いじゃ~ん!」
「確かに、この恥じらいは なっちゃんにはないよね」
「ひどっ!私にだって恥じらい位ありますっ!」
「ないよ~。だってこの前むき栗口に入れた時、あんな真っ赤になって恥ずかしがらなかったでしょう?」
むき栗と聞いて、急に夏子の脳裏に村瀬の顔が浮かぶ。村瀬と別れ、慎二と付き合う様になり、雪子達とタブルデートなんかを楽しんだりする今が なんて穏やかなんだろうと思う夏子だった。
駐車場に停めた車を下りると、運転していた守屋が伸びをしている。それを見て慎二が声を掛ける。
「帰り、運転替わりましょうか?」
「あぁ、ありがとう。でも大丈夫だよ。運転、好きだし」
そのやり取りを聞いて、夏子が雪子の肩を揉む素振りをしながら言った。
「ほらほら、守屋さん癒してあげなよ~」
再び半ば強引に雪子の手を守屋の肩に乗せる夏子。そこまでして、夏子はパッとその場を離れ 慎二の隣へ寄ってしまうから、守屋の肩に残された手のやり場に困って、雪子は少し距離を置いて歩き始めた。慎二と夏子がケタケタと笑いながら歩くのを見て、守屋が雪子に話し掛けた。
「夏子ちゃん、話の通り 明るい子だね」
「うん」
雪子も夏子の方を見ながら、ふふふと笑って そう答えた。
駐車場から歩いてすぐに、海が見え始める。当然まだ遊泳禁止の時期だが、春の意外にも強い日差しに照らされた水面は、キラキラとして4人の心を自然と高揚させた。
「海、何年ぶりかな」
雪子がぽそっと呟く。いつの間にか並んで歩いていた4人の列から、海がもう目の前に見えて 砂浜に走り出す一人がいる。夏子だ。何となく、雪子もその後に続く。
「夏子ちゃんて、自由奔放?」
男同士になると、守屋が聞いた。
「いや。意外とそうでもないんですよね」
「へぇ~。無邪気な子供みたいだから、年下の慎二君の方がしっかりしてるのかと思った」
「いやいや。姉御肌ですよ。でも、実は弱い所もある。人には見せないけど」
慎二が少し静かな声で話すから、守屋もそれに合わせた。
「慎二君には見せるんだ?弱いところ」
「どうかな・・・?今まで二回だけ見た事あります。でも、付き合ってからはないかも」
そう言って慎二は笑ってみせた。すると、守屋もしんみりと言った。
「男がカッコつけたがる様に、女の子も多分あるんだよね」
それを聞いて、慎二が息を大きく吸い込んだ。
「年下って可愛いがられるのも嫌じゃないけど、やっぱ男として頼られたいとか、年下なのにコイツでかいなって思われたいとか、そういう背伸びしたい自分がめっちゃいるんですよね。でも、そんなのすぐ見透かされて かえってカッコ悪いんじゃないかって思う自分もいたりして」
守屋がはははと笑った。だから慎二も同じ様に笑って、質問した。
「いくつになったら、俺大人の男の貫禄が出るんだろうって。守屋さん、幾つ位からでした?やっぱ30とか35とか超えてからっすかね?」
守屋はさっきよりも大きな口を開けて、更に笑った。
「慎二君位の時に見てた30代後半の人ってもっと大人だと思ってた。だけど実際自分がその歳になってみると、いかにまだまだ子供で、いかに成長してないかが分かる」
守屋が一度、慎二の方を見てから続けた。
「この間もね、ユキが同年代位の若い男の子と楽しそうに話してるの見て、馬鹿みたいにやきもち焼く自分がいるんだよね。ちょっと油断したら『アイツ誰なの?』とか『俺と居る時より楽しそうだった』とか、嫌味まで言いそうになる」
「え?守屋さんでも?」
守屋は笑いながら何度も大きく頷いた。
「でも、そんな事大人の男は言わないだろうなって思うから、自分にブレーキ掛ける。相手が俺に求めてるのは、きっと包容力とか大人の余裕だろうから、それを供えた大人の男になろうって必死だよ」
「意外だな・・・」
「ごめんね、夢壊す様な事言って」
「男は一生子供のままって事っすか?」
「もちろん、もっとちゃんとした大人の男もいるんだろうけどね。でも、38なんて、慎二君達が思ってるよりずっとずっと子供だよ。変わった事って言えば・・・」
その言葉の後に期待している様子が、慎二の目の奥から伝わる。
「多少色んな事を経験した分だけ、些細な事で驚かなくなるかな」
「それが、器がでかいって事なんじゃないっすか?」
真剣な慎二に対し、守屋が又笑った。
「瞬発的に驚く体力が無くなってるだけかな」
はははははと笑う守屋に、慎二も開き直った。
「俺がなっちゃんの元カレにやきもち焼くのも、仕方ないんすね」
慎二は、空を仰ぎ見て両手を広げ 深呼吸した。
「ま、俺を参考にしたら、この歳まで結婚できないかもね」
守屋のその言葉で、慎二が手を下ろして真顔になる。
「それは嫌だなぁ」
「随分はっきり言うねぇ」
ゲラゲラと笑う二人の声が、抜ける様な青空に響いた。
夏子の後を追って歩いていた雪子が、ようやく追いつく。水際のぎりぎり濡れない辺りを歩きながら、夏子が言った。
「守屋さん、良い人だね。優しいし。雪子ちゃんの事凄く好きだって見てて分かる。雪子ちゃん、幸せだね」
「夏子ちゃんだって。慎二君と羨ましい位仲がいい」
「ははは。そうかな」
夏子は少し複雑な気持ちを隠す様に笑った。
「実はさ、この間実家に帰った時、近所で雪子ちゃん家のおばさんに会ったの。おばさん、雪子ちゃんの事心配してたから。守屋さんの事、紹介してないの?」
「うん・・・」
「どうして?誠実だし、きっと親にも印象いいと思うけどな」
「・・・歳が離れてるから・・・どう思われるか分かんなくて」
「紹介しないと、かえって変な心配掛けちゃうんじゃない?」
雪子が少し黙ったまま歩くから、夏子も少しの間待ってみる事にする。すると、雪子がぽそっと話し出した。
「今日夏子ちゃんが守屋さんに『結婚は?』って聞いたでしょ?私もあぁやって思った事サラッと聞けたらいいんだけど、いつも聞きたい事聞けなくて。実際ついこの間まで私自身も これ不倫だったらどうしようって悩んでたの」
「え?!何も知らないでつき合ったの?」
「う~ん、知らないって言えば知らないかな。歳が歳だから 結婚してたらどうしようとか、バツイチで子供が居たりするのかな?とか、そういう事どういう風に聞いたらいいのか分からなくて。でも時間が経てば経つほど聞きにくくなって」
実際夏子は 思った事はすぐ口に出してしまう方だから、こんなじりじりとした気持ちは分からない。しかし雪子が心配していた その不倫を実際ついこの間までズルズルと何年間も続けてきていたのだから、その後ろめたさは良く分かるのだった。
「今もね・・・実は聞けないまんまの事が一つあって・・・」
雪子の口調が深刻だったから、夏子はもう少し雪子との距離を縮めて歩いた。
「同じ職場の人からの話なんだけど・・・」
雪子は一回周りを見回して、守屋達が離れている事を確認してから再び話し始めた。
「守屋さん、前の施設で職員の女の子妊娠させちゃって、それで今の所に異動してきたんだって・・・」
「えーっ?!嘘でしょーっ?!」
思わず夏子がそう叫ぶ。雪子が慌てて夏子の腕を引っ張って、再びキョロキョロする。夏子も自分で自分の口を抑えながら、今度は小声で雪子に聞いた。
「そんな噂がある人なの?」
「噂って言うか・・・一人の人から聞いただけだけど・・・」
「な~んだ。じゃ、その人が二人の仲を壊そうとして企んだって事も考えられる訳だ?」
雪子は首を傾げながら言った。
「私達の事は内緒にしてるから、多分・・・誰も知らないと思うんだけど・・・」
「あっ、そうなんだ。うちらも一緒。同じ職場はなかなか言えないよね。色んな目があるし、仕事に障るのも嫌だし」
「夏子ちゃん達も内緒にしてるの?あんなに仲良いのに、バレない?」
夏子はハハハと笑った。
「もともと仲良い友達だからね」
言いながら村瀬の顔が頭の隅をかすめる。
「上司にはちょっと疑われてるけど」
そう言いながら、夏子はその話題を締めくくる様に雪子の袖を引っ張った。
「それよりさ、さっきの話。守屋さんに直接聞いてみた方がいいよ。だって、もし本当だったとしたらだよ。その後どういう対応したか気にならない?その子認知したのかとか、別れて知らんぷりとかさ。人間性が見えるチャンスじゃない!」
そう言われても 口の中でもぞもぞしている雪子に、夏子が奮起する。
「よし!分かった。私が代わりに聞いてきてあげる」
そう言って急に後ろを向いて守屋の方へ走り出す夏子を、雪子はその後を追って必死に止めた。
「待って!夏子ちゃん。待ってってば!」
立ち止まった夏子のエンジンは、まだふかし続けたままだ。だから、雪子が無理やりに腕を引っ張った。
「お願い。もうちょっと聞いて」
そう言われて、ようやく夏子は少し自分をクールダウンさせた。
「初めは私もびっくりして・・・凄く不安になっちゃったけど、今は目の前の守屋さんを信じてみようかなって思ってる。聞いたところで、まだ私、どんな答えが返ってきても受け止められない気がするから・・・」
腑に落ちない顔の夏子が、少し口を尖らせる。
「聞いたらきっと、正直に答えてくれると思うんだけどな・・・」
「うん。私もそう思う。でも、だから怖いのかも」
その言葉にこもる雪子の想いを感じ取ろうと夏子は目を閉じた。そして大きく深呼吸をしたところで、立ち止まったままの二人の場所まで、守屋と慎二が追いつく。
「随分、楽しそうだね」
慎二が二人に言った。夏子の視線が守屋を捉えているのを、雪子はハラハラとした気持ちで見つめるのだった。そして、夏子は慎二に掴まりながら片足を上げ 靴を片方脱いだ。
「走ったら、靴に砂が入っちゃった」
逆さまにした靴からは、砂がササーッとかなりの量落ちる。
「雪子ちゃんは?平気?」
聞かれた雪子がはっきりしない返事を返す。その様子を見て、守屋が近付いた。
「つかまる?」
雪子は首を横に振った。
「ううん。大丈夫」
気が付くと、もう夏子と慎二は水辺に近付いてキャッキャ言ってじゃれている。打ち寄せる波に足が浸からない様に逃げる 定番のアレだ。ゲラゲラとした笑い声が日が傾きかけた広い空に響いて、まるで青春映画の様だ。守屋が雪子に聞いた。
「行く?あっち」
水際を指差す守屋に、雪子は首を振った。
「夏子ちゃんと会えて、良かったね」
守屋が会話を繋ぐ。そんな二人の周りに、追いかけっこをして走り回る夏子達がすり抜けていく。慎二に掴まった夏子は息をハアハア上げながら、手を繋いでようやく静かに歩きだす。
「慎ちゃん、本気過ぎ!」
「そりゃ、そうでしょ。本気でやらなきゃ面白くないでしょ」
そんな風に言いたい事を言いながら歩く夏子達の後を、雪子は少し伏目がちに歩く。
「もうすぐ陽が落ちるね」
守屋が遠くの水平線の彼方へ視線を飛ばしながら言った。東の空には白い月が薄っすらと浮かんでいる。
「あ、今日満月かな」
雪子も空を仰ぎ見て、月を探す。
「本当だ」
心なしか、雪子の頬が和らいだ様に見える。そして、少し前を歩く夏子達が 相変わらずケタケタと笑いながら、くっついたり離れたりしている。じゃれ合って離れても、又どちらからともなく お互いにすっと手を繋ぐ。それがとても自然で、しかも夕焼け色に染まりかけているから、まるで映画のワンシーンの様に映る。
雪子はそっと守屋の手に触れてみる。歩調に合わせて振られた守屋の指先に、ふっと雪子の遠慮がちな指先がぶつかる。しかしその一瞬の雪子の勇気の欠片を、守屋はしっかりと受け止めた。指を絡ませて歩く二人の長い影が、砂浜に伸びた。
こんな穏やかで心まで包まれている様な心地良い時間が永遠に続けばいいのにと思う雪子だ。しかしそこへ、守屋のポケットの中から電話の着信がその存在を主張している。名残惜しそうに手を離すと、守屋がその電話に出る。
「お疲れ様」
そう守屋が言ったのを聞いて、雪子は瞬間的に距離を空けた。そして急に心臓がドキドキし始める。そんな時、タイミング良く 前を歩いていた二人が振り向いて手招きをした。
「雪子ちゃ~ん!ちょっとちょっと」
丁度良い逃げ場を得た雪子は、二人の元へ駆け寄った。
「なっちゃんて、子供の頃モテてた?」
慎二からの質問だ。
「う~ん・・・モテてたってより・・・男の子を従えてた」
それを聞いた途端ゲラゲラ笑う慎二。
「やっぱね~」
すると夏子が反撃に出る。
「小学校の時はそうだったけど、中学に入ってからは 少し大人しくなったんだからぁ」
しかしそんな言い訳、慎二の耳を素通りする。
「ねぇ。雪子ちゃんから見ても、俺なっちゃんに従えられてる感じする?」
そこで雪子はオーバーリアクションで否定した。
「全然。お互い素のままで、凄く居心地が良さそう」
すかさず慎二が聞いた。
「雪子ちゃんは?守屋さんとそうじゃないの?」
「そうなりたいけど・・・」
そう言いかけたところに、電話を終えた守屋が追いつく。
「ごめんね。仕事の電話入っちゃって」
「お休みの日も仕事の電話が掛かるんだぁ。大変なお仕事ですね」
夏子が労う。
慎二が今にも沈んでいく夕日を指差した。
「あ~、今日も終わりだぁ」
「名残惜しいけど、帰りますか」
四人は都内に向かう高速に乗る。行きと同じ様に守屋が運転して、その助手席に雪子が座る。後部座席に夏子と慎二だ。
「思い切って海行って良かったよ」
守屋が言うと、夏子が身を乗り出した。
「でしょでしょ~?!海は癒しだからね~」
「ユキともこの前丁度、『海見に行こうね』って言ってたんだよね?」
「え~?!そうなの?」
夏子の相槌は雪子より早い。
都内に着いたのは、もうすっかり満月が綺麗に空に輝いている時間だ。夏子達とも別れ、守屋の車で家まで送ってもらう途中で、雪子が言った。
「ちょっと買いたい物があるから、今日は近くのコンビニ迄で大丈夫」
守屋の顔が少し曇る。
「・・・分かった」
コンビニに車を停めて、守屋が雪子の顔を見る。
「ここで平気?暗いけど」
「うん。全然。いつもの道だし」
「・・・ごめんね、送れなくて」
その言い方に、思わず雪子が守屋の顔を見る。そして雪子が俯き気味に言葉を発した。
「私・・・守屋さんとダイビング行きたいな」
暫く無言で守屋がじっと見つめるから、雪子はドアに手を掛けた。
「じゃあね」
「待って」
隣に止まっていた車がバックで出て行くと、守屋がシートベルトをカチャッと外す音がして、雪子の方へ体を向けた。車内がし~んと静まり返るから、雪子は思わず身構えてごくりと唾を飲み込んだ。それからはスローモーションで時が流れる様に、守屋の唇が雪子に重なった。守屋の背中がシートに戻ると、何の音もない空間に耐えかねて、雪子は照れを隠す様に軽く咳払いをする。すると守屋の静かな声が、無音の空間に広がった。
「今日、飴を口に入れてくれた時も、海でユキから手繋いでくれた時も、何回も今日はキスしたいって思った」
照れ臭いが、そう言葉で言われるとやはり嬉しい。素直にそう感じた雪子の顔から笑みが零れると、守屋が言った。
「もう一回、いい?」
そして二人の影が再び重なった。守屋が今日一日で雪子にキスしたいと思った分だけ唇を合わせる。
夕方海から見えた白い満月は、今は空高くに昇って 金星と共に二人の車の真上で輝いていた。