第10話 残り香
次の日、慎二がツアーの同行でいない。夏子は村瀬にメールを送った。
『明日、仕事が終わったらいつもの場所で待ってます』
そしていつもの様にコンビニの駐車場に停めて待っていると、助手席の窓をコンコンとノックする村瀬。
今までと何も変わらない様子で、車に乗り込んでサングラスをかけ、村瀬が言った。
「お疲れ~」
この前別れ話をしたにも関わらず、何事もなかったかの様に飄々としている村瀬に夏子は少し呆れて、それまで抱えてきた戦意を喪失する。
「変な感じ」
用意してきた言葉と違う言葉が夏子の口からこぼれる。
「え?!」
車に乗り込んだ時は怖い顔をしていた夏子が 今少し頬が緩んでいるから、村瀬も半分笑った様に聞き返す。
「私達、別れたんだよ」
「うん。知ってる」
「その上で、こうして呼びつけてるの」
「うん」
「それなのに、よくそんな感じで入って来られるね」
「そんな感じって?」
「だから・・・昔みたいに、普通に待ち合わせしたみたいに」
「そうだった?」
「そうだった」
「そうでもないと思うんだけど」
思わず夏子は声を上げて笑う。
「よく言うわよ」
村瀬は軽く伸びをして言った。
「ねぇ、飯食いに行かない?俺腹減っちゃった」
「・・・・・・」
「ねぇねぇ。前にさ、行った西荻にあるつけ麺屋、どこだっけ?あそこもう一回行きたくて探したんだけど、見つけらんなくて・・・。覚えてる?」
「そりゃ・・・覚えてるけど」
「良かったぁ。もう一回行ってみてよ。もう一回行けば、場所覚えられると思うからさ」
夏子はふうと小さく溜め息をついて、シートベルトをはめた。
車が西荻の店に向かう途中、助手席から村瀬が明るい声を上げる。
「そうそう、ここまでは前も分かったんだよ」
「次の目印はコンビニと薬局」
「薬局?!」
夏子の言ったコンビニと薬局の角に来ると、その間の道を曲がる時に村瀬が言った。
「このコンビニかぁ!俺、もうちょい先のと勘違いしてたわ」
「だから、薬局とセットで覚えてる」
そこを曲がると、車は道なりに進み 村瀬が声を上げた。
「あ~、ここまで来たら分かるわぁ!良かったぁ」
「じゃ、ここから降りて一人で行く?」
「またまたぁ。そういう意地悪言う」
村瀬は念願のつけ麺を食べられて満足気な顔で車に乗る。
「やっぱ旨かったなぁ」
それを聞いて、夏子が少しだけ寂しそうに言った。
「私って、いっつも欲望を満たす相手だね」
村瀬が運転席の夏子を見た。
「何、その言い方」
「だって・・・腹減れば、飯食う相手。寂しくなれば、デートする相手。イライラした時は八つ当たりする相手。奥さんに満たしてもらえない事を・・・満たす相手」
頭を掻く仕草をする村瀬に、夏子が言った。
「慎ちゃんに、何か言ったでしょ?私達の事」
「え~?!言ってないよ~」
その言い方に、少し呆れ気味に大袈裟に溜め息を吐く夏子。
「慎二と付き合ってんの?」
唐突な村瀬からの質問に、少々息をのむ。
「・・・関係ないでしょ」
「・・・冷たいなぁ」
「何言ってんのよ」
村瀬の少し甘えた口調にも、夏子はバッサリと冷たく言い放つ。しかしまだ村瀬は諦めない。
「知らない仲じゃないんだし」
「・・・まぁ・・・そうね」
「だろ?俺の後を任せる奴、知っておきたいし」
夏子は鼻でふっと笑う。
「そんな風に思ってないくせに」
「随分信用ないなぁ」
「あると思ってたの?」
村瀬があははははと笑うのにつられて、夏子も笑った。正直、この感じが懐かしい。夏子は心が緩んでいくのを感じ、慌てて自分にブレーキをかけた。
「どこで降ろす?」
「う~ん・・・夏子ん家」
「バカ!」
「だよね~。言ってみただけ」
「そういう事言うなら、この辺で降ろすよ」
「そんな怒んないでよ。冗談なんだから」
そう言って、村瀬が鞄の中から袋を取り出す。そして一つつまんで夏子の方へと差し出す。
「あ~ん」
村瀬がそう言うが、夏子は警戒して口を開けないままチラッと助手席を見た。
「ほら、夏子の好きな甘栗」
すると夏子が左手を出す。
「運転中。危ないから、ほら、あ~ん。口開けて」
村瀬が強引に自分のペースに持って行こうとするのを、頑なに口を閉じて阻止しようとする夏子だ。
「あ、要らないなら、俺食っちゃおう」
「え?!あっ、食べたい!」
「じゃ、ほら、あ~ん」
開けた口に甘栗が入ると、夏子の浅い記憶がうずく。それは先日慎二とデートした時の事だ。車の中で慎二の口にクッキーを入れて笑い合ったあの映像が、胸に迫る。夏子は栗を噛みしめながら、慎二の事を思い出すのだった。
村瀬をいつもの場所で降ろすと、夏子は携帯を手に取った。やはり慎二からメッセージが届いている。
『今日は帰り一人だから、寂しかった?』
2時間も前に来ていたメッセージだ。夏子は慌てて返信を打つ。
『大島は今日どうだった?』
それだけ送ると、夏子は車を発進させた。するとまもなく慎二から着信がある。しかし運転中で取れない。それに運転中だと言えば、どこに行っていたんだ?という質問は免れない。夕飯を食べに・・・一人で?という事になる。じゃ、誰と?となる事くらい簡単に想像ができる。夏子は、家に帰るまで着信に気が付かなかったふりをしてやり過ごす事にする。
「何してたの?」
玄関を入って電気をつけると同時に、夏子は慎二に電話をする。やはり・・・と思う質問が飛んでくる。
「今?」
「遅くない?どっか寄ってたの?」
まるで今帰ってきた事が見えているかの様な台詞だ。
「つけ麺食べて帰ってきた」
「つけ麺?誰と?」
「・・・一人で」
「一人で?」
「そう。たまに一人でも行くから」
納得したのかどうなのか、微妙な声の慎二に、夏子は必死で話をすり替えた。
「ところで、そっちはどうだったの?お天気良かった?大島」
「あぁ」
そう言いながら、慎二は先日の村瀬からの忠告を思い出す。
『青柳は天気が悪いと機嫌が悪くなる』
慎二が思い切って確かめてみる。
「なっちゃん、天気が悪いと機嫌悪くなるの?」
「何?それ」
「・・・店長が前に言ってた」
この一言を聞いての反応を慎二が見ている。それが分かるから、夏子も自分の反応如何によっては、また疑いが掛けられてしまうと思うとかなりのプレッシャーである。
「まったく・・・」
夏子がそうぼやく様に言って溜め息を吐くと、慎二が機嫌をとる。
「お土産買ってくから、待っててね」
そんな風に 本当は嬉しい言葉を慎二に言われているのに、夏子はどうしても村瀬の行動にイラッとしてしまって、そこに心が囚われてしまう。だから、自然と言葉が冷たくなる。
「そんな事より、しっかりと安全にガイドしてきてよ」
慎二が3日間のツアーから戻って、出勤してきた日の事だ。昼休みが近くなると、今日の昼の話題があちらこちらで生まれる。今日も保田が、まだ奥さんの愛妻弁当が復活しない村瀬に誘いをかける。
「店長、今日の昼、ラーメンどうですか?」
「ラーメン?!」
「旨い店、見つけたんですよ」
「何系?」
「こってり、ガッツリ系です」
「あ~、俺この間、そっち系のつけ麺食べたばっかだからなぁ」
「つけ麺ですか?」
その単語に、慎二の動きが止まる。明らかに村瀬に釘付けになっている。それをハラハラした心地でそれとなく気に掛けている夏子だ。二人の会話が続く。
「何日か前に、青柳とね。食いに行った」
夏子も耳を疑ったが、当然慎二が夏子へ視線を移してくる。村瀬と安田のつけ麺の話は それで終わったが、慎二の無言の圧が凄い。きっと今にも夏子に詰め寄りたい位の気持ちなのだろう。
夏子にとっては恐怖の、仕事の定時が近付いている。するとそこへ、慎二からメッセージが届く。
『お土産も渡したいから、一緒に帰ろうよ』
夏子に断る理由はない。
仕事が終わり、ちらほら帰り始めた社内で 慎二が夏子に声を掛ける。
「夏子さん、じゃ帰りますか」
村瀬の耳がその言葉をキャッチしているのが分かる。慎二もあえてそれを聞こえる様に言っている様で、宣戦布告みたいで落ち着かない夏子だ。
「お先、失礼します」
サラッと言って、ススーッと帰りたい。そんな思いで夏子は村瀬のデスクの前を通り過ぎた。
慎二と夏子が駐車場まで無言で来る。助手席に乗り込むなり、慎二が椅子を直しながら言った。
「これ、誰か乗せたでしょ?」
「え?」
「椅子の位置、変わってる・・・」
村瀬だ。体は慎二の方が大きいからシートを少し後ろにしているが、背もたれを村瀬は倒し気味にする。いつもの定位置に戻しながら、慎二が聞いた。
「つけ麺、店長と行ったの?」
とりあえずエンジンをかけて、夏子は少し考えた挙句に返事をした。
「うん」
「じゃ、どうしてそう言ってくれなかったの?一人で行ったなんて嘘、言う事なくない?」
「店長との事、この間からやけに疑うから、嫌だったの。又色々思われるの」
「・・・・・・」
「店長だって、もしやましい気持ちがあったら、あんな皆の前で聞こえる様に話したりしないでしょ?」
納得しているのかいないのか、無表情のまま慎二が口を開く。
「店長と二人で行ったの?」
「そう・・・」
「どうして?どっちから誘ったの?」
小さい溜め息を口から吐き出して、夏子は説明をした。
「昔に行ったつけ麺屋の場所が分からなくなったからって。私、道覚えてたし、そしたら案内してって。ただそれだけ」
それを聞いても 何の相槌も聞こえてこない。だから夏子は息をいっぱい吸い込んで、思い切った。
「慎ちゃん、私・・・こういうのあんまり好きじゃない。やきもちとか、不安とか、そりゃ好きなら湧いてくる気持ちだし 分かるけど・・・凄く窮屈だよ」
それを夏子が言い終える寸前で、慎二は運転席に被さる様にキスをした。半ば強引に慎二の右腕で夏子の首から頭を羽交い絞めにされた様なキスだ。夏子はそんな慎二をはねのけた。
「会社の駐車場だよ、ここ」
車の中は最悪の空気のまま、夏子は車を発進させた。
慎二の家の前に着くまで、ろくな会話はない。
「これじゃ、私ただの運転手だね」
嫌味の一つも言いたくなって、夏子はアパートの前で車を停めた。
「・・・上がってってよ」
この状況で部屋に誘う慎二を理解できないまま、夏子はあっさりと断った。
「今日は、いいや」
「お土産、渡したいから」
「・・・・・・」
夏子は少し悩んだ挙句、言葉を探しながら言った。
「せっかくだけど・・・ごめん」
慎二は夏子の手にそっと自分の手を重ねた。
「なっちゃん・・・ごめん」
慎二の顔を見て、夏子も謝る。
「私も・・・ごめん」
慎二がふとシートから背中を離したのを察し、夏子が言葉を続けた。
「でもね、今日は・・・帰るね」
無言で見つめる慎二の視線が、夏子には痛い。
「慎ちゃんからお土産もらって、ありがとうって楽しくお喋りする気分には、正直今日はなれないんだよね」
慎二は、ゆっくりと夏子の手を離した。
「じゃ、明日寄ってってよ」
「私、明後日からツアーだから、それ帰ってきてからね」
夏子が実家に顔を出す。仕事の休みの日、午前中にふらっと寄る。
「一年に2回位しか顔出さなかった人が、最近珍しいわね」
母にそう言われ、夏子が首をすくめる。
先日のツアーで行った伊豆のオレンジゼリーを、母と一つずつ開ける。
「今日はゆっくりしていけるの?」
「ううん。もうこれ食べたら帰る」
「忙しいのね」
母がスプーンですくったゼリーを一口食べて、呑気な声を上げる。
「あ~、おいし」
そんな母の顔を見ながら、夏子が聞いた。
「最近、雪子ちゃん見掛けた?」
「雪子ちゃん?!う~ん、会ってないなぁ」
「そっか・・・。久々に会いたいねって連絡取ってるんだけど、なかなかお休みが合わなくてさ」
すると母が思い出した様に、スプーンを置いて言った。
「そういえば、山崎さんとこ、お孫ちゃん生まれたんだって」
「山崎さん?!」
「そう。あれ?山崎さんとこの娘さん、あんたと同級生じゃなかったっけ?」
そう言われ、夏子は昔の記憶から“山崎”を探す。
「あ~、歩実ちゃん?中学ん時の」
「そうそう。歩実ちゃん、女の子産んだんだって」
「へぇ~。結婚してたんだ」
「山崎さんとこね、歩実ちゃんのお姉ちゃんが何回も流産しちゃったりで なかなかお孫さんに恵まれなかったのよ。だから、今回歩実ちゃんの所に無事女の子が生まれて、そりゃあもう大喜びでね」
母の話を聞きながら、いつか村瀬が車の中で 命が生まれてくる事の神秘や奇跡について話していた事を思い出す夏子。
「今、産後で里帰りしてんだって。赤ちゃん見に行っちゃおうかなって思ってんだけど、今日一緒に行く?」
「今日?!今日は時間ないや」
今日の午後は慎二との約束がある。
帰りに近所のコンビニでお茶を買って車に戻る途中、夏子が懐かしい顔を見掛ける。思わず夏子が近寄る。
「おばさん・・・?」
「あ~ら、夏子ちゃん!お家に帰ってきたの?」
雪子の母だ。
「うちの弟の春樹が 何度か雪子ちゃんとバッタリ会ったらしいんですけど、元気にしてますか?」
「お陰様でね。夏子ちゃんは、今どこに住んでるの?」
「阿佐ヶ谷です」
そんな世間話の合間に雪子の母の手元に視線を走らせると、重たそうな買い物袋を提げている。
「おばさん、荷物重たそうだから、お家まで送りますよ。車だから」
助手席に乗って、雪子の母は少し笑う。
「もうこうやって自分で車運転する歳になったんだものねぇ」
「雪子ちゃんは、車運転しないですか?」
「あの子、そういうのには全然興味ないみたい。一回も言った事ないわね」
雪子の母が、そう言いながら何かを思い出した顔をする。
「この前ね、仕事の後随分帰りが遅かったのよ。家の前で車が停まる音がしたから出てみたら、会社の上司だって人に送って頂いてたんだけど。その人ね、かなり年上っぽいのよね~。なんだか心配」
「どんな心配ですか?」
母は数日前の記憶を辿る。
「そりゃぁ・・・もしかして不倫とか、そういうのだったら困っちゃうじゃない?」
母のその言葉に、夏子が固まる。
「雪子に聞いても、ただの上司だって言うんだけど、仕事の後11時過ぎまで一緒に居て 車で送ってくる?」
夏子の表情が少し硬いまま、首を傾げる。
「年上だっていうだけで、あんまりそう決めつけない方が・・・」
「まぁ、そうなんだけど・・・」
母は気を許して、まだ不安を口にする。
「隠さなくてもいい関係なら、あの時紹介してくれればいいじゃない?」
「まぁ・・・」
「それに、相手の方も 自分の名前は名乗ったけど、お付き合いしてますとかって挨拶もしないのよ。・・・怪しいでしょう?」
とうとう夏子の相槌もなくなる。
「もし夏子ちゃんに何か話してきたら、教えてね。で、不倫とかだったら、止めてやってちょうだいね」
「あ・・・はい」
雪子の母を送り届けると、夏子は再び車を発進させた。運転しながら、先日実家で弟達が冗談めかして話していた 雪子の年上の彼氏の事を思い出す。その時といい、今日といい、本当に皆が言っている様に あの雪子が秘密の恋をしているとしたら、と思うと複雑な心境になる。自分もついこの間まで外れていた人の道を、雪子も同じ様に通っているとしたら・・・。そして娘のそんな許されない恋愛を心配する雪子の母親の顔が、夏子の胸に迫る。
夏子の車が慎二のアパートの前に着く。連絡を入れるとすぐに出てきて、車に乗り込む慎二。
「思ったより早かったね。ま、俺は嬉しいけど」
「ちょっと実家に顔出しただけだから」
会話は一見普通の様だが、夏子のテンションが少し低い。慎二はそれを気にして、昨日までのツアーガイドの話を出す。
「伊豆、どうだった?」
「暖かかったぁ」
ようやく夏子の頬が緩む。
「3日間天国だったなぁ。こっち帰ってきたら、途端に現実」
それを聞いて、すかさず慎二がツッコミを入れる。
「俺に会えなくて寂しくなかったの?」
「あ、そういう意味じゃないよ。明日からまた仕事だし。あ~、ず~っとツアーのガイドだけして暮らしたい」
「毎日潜れるもんね」
「うん。最高」
想像している顔が本当に幸せそうで、慎二がそれを見て言った。
「なっちゃんは、人魚みたいだね」
「え~、嬉しい!私、リトルマーメイド好きだし」
嬉しそうに笑う夏子の横顔を、少し寂し気に慎二が見つめた。
「もし本当に人魚になっちゃったら、陸の上の俺の存在なんか忘れちゃうんだろうなぁ・・・」
その物悲し気な声にハッとして、夏子が助手席の慎二を気に掛ける。
「ま、実際、人魚じゃないからね」
はははと軽く笑い飛ばしてみせる夏子の隣で、慎二が二人の座席の間のポケットにある袋に手を伸ばした。
「栗、好きなの?」
そこには先日村瀬が置いていった甘栗の食べ掛けの袋がある。
「あ・・・うん」
必死で何もなかった様に取り繕う夏子だ。
「これ、むいてあるから食べやすいよね」
村瀬の置いていった物とも知らず、呑気な声を出す慎二。
「一個、貰ってもいい?」
「え・・・あ・・・うん」
こういう場合、無理やりにでも理由を付けてあげない方が良かったのか、それともこれが正解なのか、まるで分からない。慎二が一粒栗を口へ放り込んで、夏子にも一粒つまんで見せた。
「なっちゃんもいる?」
「あ・・・いいや、私は」
「何で?好きなんでしょ?あ、運転中だから?いいよ、俺この前みたいにあ~んってしてあげる」
「いい、いい!」
それだけは駄目だと、必死でそれを食い止めようとする夏子だが、慎二にはそれが伝わらない。照れていると思われている。
「なんで~?美味しいよ。ほら、口開けて」
先日の村瀬のあ~んが夏子の頭をよぎる。
「分かった、食べるから。自分で大丈夫」
そう言って、夏子は左手の平を上に向けて、慎二の方へ差し出した。しかしその手は慎二に握られハンドルに戻されてしまう。
「はい、あ~ん」
口元までむき栗が近付くから、夏子も口を開けない訳にはいかなくなる。口の中へ入った一粒の甘栗は、村瀬と一緒の時に食べた物と同じ筈なのに、まるで違う味に感じてしまう。栗を噛みしめながら、同時に罪悪感で胸がいっぱいになる夏子だった。