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満ちていく月 欠けていく月  作者: 長谷川るり
1/30

第1話 夏子

全30話の連載です

最後までお付き合い頂けたら幸いです


 夏子は慣れたハンドルさばきで車を駐車場に停めると、トランクを開けダイビングの荷物をドスンと下ろす。


 部屋の玄関を入ると、真っ先に電気のスイッチをつける。し~んと静まり返った真っ暗な部屋に、オレンジ色の暖かな光が灯る。留守中ポストに溜まっていた郵便物をテーブルにバサッと置く。風呂の自動湯張りのスイッチをピッと押すと、夏子はベッドに仰向けに倒れ込む。


 風呂から上がると、夏子は携帯を手に取った。未読のメッセージが10件以上にも上っている。それらを開くが、期待した相手からのメッセージはない。夏子はろくに未読のそれらを確認もせずに 無造作に携帯を置くと、ベッドに横たわった。


 夏子が4日間の連休明けの仕事に出ると、職場では仲間が笑顔で迎える。

「夏子さん、八丈島、どうでした?」

「最高―!お天気良かったし」

「写真、楽しみにしてます!」

「今回もいっぱい撮ってきたから」

夏子は都内のダイビングショップで働いている。入社して4年経つが、先輩も後輩も関係なく 皆仲が良い。お互い下の名前で呼び合うあたりも、そんな和気あいあいとした雰囲気を表している。

「春休みの学生が結構いたなぁ」

「仕事忘れて潜れるの、楽しかったでしょ」

皆が口々に夏子の八丈島での有給休暇の話題をつつき合う。

 そこへここの店長 村瀬海斗が出勤してくる。

「おはようございます」

明るい挨拶が飛び交う。その中の夏子を見つけて村瀬が言った。

「青柳、今日からか」

「はい」

「リフレッシュしてきた分、また頑張れよ」

「はい」

夏子に笑顔はない。


 有給休暇を取る2日前の事だ。仕事を終えた夏子が、職場から少し離れたコンビニの駐車場に車を停めて待つ。暫くして助手席の窓ガラスをコンコンとノックして、村瀬が助手席に乗り込む。二人にとっては、いつもの合流の仕方だ。

「どうした?」

言いながら、村瀬は鞄からサングラスを取り出してかける。そのいつものルーティーンを眺めながら、夏子が無表情に言った。

「私の事、避けてるでしょ?」

暫く無言の時を挟んで、村瀬が運転席の夏子を見る。

「いきなり、本題?」

ちょっと冗談めかして言う村瀬に乗らず、夏子はにこりともしない。その頑なな態度に村瀬がもう一言付け足した。

「料理でもさ、オードブルとか前菜とかあるでしょ。いきなりメインはキツイなぁ」

「ごまかさないで」

夏子は無表情のまま、そう言い放った。カーラジオも何も流れない密室で、村瀬は仕方なく足を組んで間をしのぐ。

「私と、もう終わりにしようと思ってるんなら、はっきりそう言って。何となく会わない様にしたり、連絡取らなくしたりって、卑怯だよ」

村瀬は軽くため息を吐いて、腕組みをした。

「そうだよ。もうこの関係をやめようかなと思ってる」

「・・・嫌」

村瀬が運転席の夏子を見る。

「何なんだよ」

「だから、嫌って言ったの。終わりにしたくない」

「お前だって、俺なんかと付き合ってたっていい事ないよ」

夏子はようやく助手席の村瀬に顔を向ける。

「それって、私の為を思って別れるって言ってるの?」

「・・・・・・」

「ほら。そういうとこ、ずるい」

村瀬は組んでいた腕をほどいて、今度はドアに肘をついて頬杖をつく。

「俺がずるい男だっていうの、わかってんだろ」

今度は夏子が黙る。村瀬はドリンクホルダーに置かれた缶コーヒーに手を伸ばす。

「これ、いい?」

車で待っている間に、いつも夏子が準備しておく村瀬の好きなコーヒーだ。だから、村瀬もそれが自分の為の物だと知っている。缶を開ける音だけが車内に響く。村瀬がコーヒーを一口飲むのを待ってから、夏子が口を開く。

「なんで、私と別れたいって思ったの?」

「・・・・・・」

「私の事、もう嫌いになった?」

「・・・・・・」

車に乗り込んできた時の村瀬の様子から、自分から気持ちが離れたのではない事くらい 薄っすら感じ取っていたから、夏子は他に思い当たる理由を探してみる。

「私達の事・・・奥さんにバレちゃったの?」

「違うよ」

そこは否定するんだ・・・と頭の片隅で夏子が思う。そんな余計な事を考えている隙に、夏子の耳に飛び込んできた村瀬の言葉。

「もうすぐ子供が生まれる」

さすがに夏子も無表情ではいられない。とっさに助手席の村瀬へと顔が向く。口も開いたままだ。何か言おうと思ったのか、それとも、言いたい事はあるのに言葉にならないのか。そんな夏子の方を見向きもしないで、村瀬が続けた。

「だから、俺もそろそろちゃんとしなきゃなって思ったわけ」

村瀬が妻帯者だという事は知ってはいたけれど、あまり夫婦が上手くいっていないのだと思っていた夏子だった。もちろん二人の時に『かみさんと別れる』なんて事を言われた訳ではないけれど、職場の皆と居る時に話すプライベートな話題では よく『かみさんと喧嘩した』とか『2日間口きいてない』とか、そういった類の事を聞いていたから、夏子はいつかは自分にも順番が回ってきて、陰でコソコソ会わなくてもいい日が来る事を 密かに待っていたのだ。そんな風に思っていた夏子だから、村瀬の口から出た言葉が 悪い冗談でも言っている様にさえ感じてしまって、どうしても信じる事が出来ない。

「嘘でしょ・・・」

思わず、そう確認せずにはいられない。

「この状況で嘘言えるか?!」

そう答える村瀬の声のトーンが、夏子の心の中とはあまりに温度が違っていて、語尾にはっはっはっと笑い声まで聞こえてきそうな調子に、夏子は内心少しイラッとする。

「急にマイホームパパになろうって事だ?」

「・・・ま、そうかもね」

夏子がそんな風にけしかけても、それを否定しない辺りが村瀬らしい。

「子供なら・・・私だって産めるし」

これ以上言えば言う程、完全に負け犬の遠吠えとしか聞こえないと分かっていながら、夏子の悪あがきは止められない。

「そういう事言うなって。子供ってさ、本当神秘なんだよ。何億分の一の確率で精子と卵子が結合してさ、そこから10か月間細胞分裂を繰り返して人間の形になるんだよ。平たく言やぁ、人間の中に人間が出来るんだよ。それだけだって相当の奇跡なのにさ、そこから無事に生まれてくるって事もさ、また更なる奇跡だろ?」

聞きながら夏子は、村瀬が何を今熱弁するんだと 少々冷やかな気持ちになる。

「だから、簡単に子供産めるとか言うもんじゃないって」

夏子はわざと大きくため息を吐いてみせると、そこに村瀬の携帯がポケットの中で震えている音が割り込む。それを無視して、夏子は少し強めの言葉を口に乗せた。

「私・・・別れないから」

夏子の言葉を聞いているのかいないのか、村瀬はポケットから携帯を取り出す。暫くその内容を確認すると、それをもう一度ポケットにしまった。

「ごめん。俺もう帰るわ」

「・・・話、まだ終わってないんだけど」

ダメ元で食い下がってみる夏子。しかし村瀬は言った。

「ちょっと嫁さん、具合い悪いみたいだから。じゃ、また明日会社で」

バタンとドアを閉めた村瀬が駅の方へ走っていく後ろ姿がサイトミラーに映る。この車を降りた瞬間から、きっと頭の中には奥さんの事しかないんだろうな・・・と思うと、車に一人残された夏子は無性に悲しい気持ちになるのだった。


 その二日後から4日間の有給休暇を取った夏子に、休み明けの村瀬の第一声が、『青柳、今日からか』だ。いつから会社に出るのか、全く気にも掛けていなかったという事がありありと分かる。しかも『リフレッシュしてきた分、また頑張れよ』だ。リフレッシュ?皆が思っている様な有休消化の為のレジャーではないのに、あの言い方は何だ。夏子は憤る気持ちをぐっと堪え、『はい』と返事を返す事で精一杯だった。


 仕事を終えた夏子に、同僚の由真と後輩の慎二が声を掛ける。

「飯でも行きませんか?」

 夏子の車に乗り合わせて、会社から15分程の所に新しく出来た焼き肉屋に入る。ロースにカルビ、タンと一通りを注文して、三人は一息つく。そこで由真が夏子に聞く。

「今回の八丈島、本当に一人で行ったの?」

「そうだよ。なんで?」

「彼氏とかと一緒じゃないの?」

「一人だって」

ウーロン茶をごくごく飲む夏子に、慎二が聞く。

「夏子さんて、彼氏いるんですか?」

こういう質問は正直毎回困る夏子だ。

「う~ん、微妙」

「微妙?!」

由真が当然の合いの手を入れる。

「終わりそうで・・・中途半端みたいな?」

自分の事なのに、夏子は最後の語尾を疑問形にする。

「夏子さんは、どういう男がタイプなんすか?」

夏子の頭の中には、村瀬の顔が浮かぶ。

「意外とダメ男を好きになっちゃうかも」

そこへ肉が運ばれてきて、慎二がせっせと網に乗せて焼き始める。ビールを飲みながら由真が夏子の顔をじっと見る。

「ダメ男って、どんな?例えば・・・ヒモみたいな?」

肉を焼きながら、慎二の目も時々夏子を見る。

「う~ん、上手く説明は出来ないけど、男運はないかも」

そう夏子は笑い飛ばして、割り箸をパチンと割った。

 丁度良い焼き加減のところで、慎二が二人の皿に肉を取り分ける。カルビをレモン汁に付けながら、夏子が言った。

「慎ちゃんは女の子に尽くすタイプでしょ?」

「あれ?ヒモタイプ?」

由真がからかう様に言った。慎二はすぐさまそれを否定する。

「俺、仕事してますから!」

あははははと由真が笑って、またごくりとビールで喉を潤す。

「ヒモ好き女と、ヒモ系男子でぴったりかと思ったんだけど」

「やめて~!そういう括り(くくり)」

夏子が白飯を頬張りながら突っ込む。


 帰り道の途中にある由真の最寄り駅で一旦車を停める。

「お疲れ~。また明日ね」

そう言って由真と手を振って別れた後、夏子が後部座席の慎二に声を掛ける。

「前、来る?」

さっきまで由真が座っていた助手席で慎二がシートベルトをする。

「家までナビって」

「家まで送ってくれるんすか?」

「さっき聞いた感じ、近そうだったし」

暫くの間はナビ要らずの直進で、慎二が運転席の夏子に聞く。

「よく一人で旅行とか行くんすか?」

「ダイビングはね。思い立って急に行ったりする」

赤信号で止まって、夏子が続きを喋り出す。

「天気予報見て 急に思い立ったり、テレビでどっかの海が綺麗に映ってたりすると、居ても立ってもいられなくなったりする。ない?そういうの」

信号が青に変わって 再び車が走り出すと、今度は慎二が答えた。

「行きたいなぁと思う事はあるけど、一人では・・・。まず一緒に行く友達探します」

「居なかったら?」

「行ける日調整します」

「え~!今行きたいって思ったら、今じゃない?一週間後とか一か月後になったら、気持ち変わっちゃってる事あるし」

「夏子さん、性格はっきりしてますねぇ」

そう指摘され、苦笑いを浮かべる夏子。

「だから駄目なのかな・・・」

助手席の慎二が鞄からミントのガムを取り出して、一つ夏子に差し出した。慎二も一つ自分の口に放り込むと、再び聞いた。

「昔っから、そうですか?」

夏子は首を少し傾げ、幼い頃からの記憶を引っ張り出す。そして遠慮がちな声で言った。

「そうかも・・・」

「夏子さん、どんな子供でした?」

運転しながら、夏子はチラッと慎二を見た。

「想像してる通りよ」

少しして 慎二がくすくすっと笑うから、夏子がそんな慎二をたしなめる。

「どんな想像してるのよ」

肩を揺らして笑っていた慎二が、笑いを堪えながら答える。

「クラスでいじめられてる子をかばって、いじめてる男子に殴り込みに行ったり」

夏子が黙って聞いていると、慎二の想像がまだ続く。

「先生に注意されたら、その先生の落ち度を逆に指摘しちゃったり・・・」

「さすがにそれは無いわ・・・」

「へぇ~、外れてました?」

「でも最初のは、そこそこ当たってる・・・」

「やっぱり!」

慎二は片手で軽くガッツポーズなんかをしてみせる。クイズに正解した様に無邪気に喜ぶ後輩の姿が可愛く思えて、夏子は思わず気持ちを許して話し始めた。

「幼馴染にね『雪子ちゃん』って子がいたの。その子はね、凄く大人しくて色白な子だったの。ある時ね、男子の中で『雪女』ってあだ名で呼ばれて、その雪子ちゃん暫くじっと我慢してたんだけど、何日目かに泣き出しちゃって。だから私、もう頭にきて、からかった男子全員並べて説教しちゃったの。で雪子ちゃんの前で土下座させて謝らせちゃった」

「おお~、かなりの姉御っぷりっすねぇ」

「私、弟二人いて長女だからさ。なんかね、そうなっちゃうのよねぇ」

「なんすかね。正義感が強いんすかねぇ?」

慎二のその言葉が、夏子の胸に突き刺さる。正義感が強かったら、きっと妻帯者なんかと付き合ってはいない筈だ。

「正義感じゃ・・・ないんじゃない?」

そこで慎二が前方を指さした。

「次の信号、左っす」

「了解」

ウィンカーを出して、再び夏子が懐かしい記憶の糸を辿る。

「恥ずかしい話もあるけど、華々しい経歴もあるんだから」

「何すか?聞きたいっす」

「中学の時はソフトボール部のキャプテンだったし、大学時代はジャイアンツのマスコットガールやってた」

「マスコットガールって、試合の時にチアガールみたいな服着て踊って盛り上げる人達でしょ?」

「そうそう」

「へぇ~、すげえ。ダンスも出来んすか?」

「高校時代チア部だったからね」

そう話す夏子を 慎二は上から下まで舐める様に見る。その視線に気付き、夏子がジロッと慎二を見返す。

「何?嫌な感じ」

すると、すぐさま慎二が笑ってそれを否定した。

「いやいや。夏子さんって面白いなぁと思って。聞けば聞くだけ色んな事が出てくるっていうか・・・。飽きないっす」

そう言いながら、慎二が道の指示を出す。

「次のコインパーキング右で」

慎二のアパートの前に車を停めると、夏子がフロントガラスから建物を見上げた。

「ここの何階?」

「一階です。寄ってきますか?」

「え?!あ、そういう意味じゃないよ」

「いいっすよ。結構綺麗にしてるんで。今なら、送ってくれたお礼にスイーツお出しできます」

「スイーツ?」

ふふふと意味深に笑って、慎二が言った。

「有名店のスイーツっす」

夏子が返事に迷っていると、慎二が駐車場へと案内を始める。

「そのまんま一番奥まで入れちゃって下さい。来客用なんで」


 夏子は正直、少しドキドキしていた。村瀬と付き合う様になって、自宅に来る事はあっても、訪ねていく事は当然ない。ここ暫く男の一人暮らしの部屋には縁のない生活をしていたのだから、無理もない。もちろん後輩の部屋だから、間違いが起こる訳ではないけれど、勝手に心臓が緊張を伝える。

「どうぞ~」

と玄関でスリッパをサッと出すあたり、若い男の子の割にちゃんとしている。ワンルームの部屋に入ると、慎二の言った通り小奇麗にしていて、それは夏子の想像以上だった。

「なんか・・・意外」

「そうっすか?」

「うん・・・。ちゃんとしてるわ・・・」

慎二ははははと大きな口を開けて笑った。

「お姉ちゃん目線ですね」

「そりゃそうよ。いや、もしかしたら母親目線かも」

「そこまでじゃないでしょう」

慎二が『適当に座って下さい』と言うから、夏子は窓際に近い床に遠慮がちに腰を下ろした。

「慎ちゃんって女兄弟いる?」

「姉貴が一人います」

「いくつ?」

「夏子さんより、一個上っす」

「24か・・・。じゃ、慎ちゃんと3つ違い?」

頷きながら、慎二が手に二つスイーツを持って床に座った。テーブルに置きながら慎二が言った。

「有名店のスイーツです。今日のお礼に」

目の前に出されたのは桔梗屋の信玄餅だった。

「あ~、これ私好き。懐かしい~」

「良かった。どうぞ、どうぞ」

『いただきます』と手を合わせて嬉しそうに包みを開ける夏子の顔は、子供の様に無邪気だ。開けながら夏子が聞く。

「誰かのお土産?」

「いや・・・実家から送ってきて・・・」

夏子は一旦手を止めて、慎二の顔を見た。

「慎ちゃんて、山梨なの?」

「はい」

信玄餅を食べ始めた頃、ふと夏子が顔を上げる。

「あ・・・こういうとこに急に彼女が来たりしたら、やばいよね?」

予定外にも急に部屋に上がる事になって、少し冷静になった夏子の顔が少し硬直しているのを見て、面白がる様に慎二が笑った。

「ですね~。修羅場っす」

「え~、どうしよう。来る可能性ある?」

急に落ち着かなくなる夏子を、更に面白がる慎二。

「さぁ」

「え~?!」

村瀬と居る時も、夏子はいつも何かに遠慮して、そしていつも何かに怯えて会っている。そんな ここ何年かでついた癖が、夏子には悲しい。

「私、これ、貰って帰るわ。家で続き頂く」

慎二があっはっはと、ついに声を上げて笑った。

「大丈夫ですよ、来ないから」

「そんなのわかんないじゃない」

包みを慌ててしまう夏子の腕を、慎二が軽く掴んだ。

「彼女なんて居ないから、来ようがないって事です」

「え・・・?!」

途端に緊張から解放された夏子の目には、安堵の色がじわじわと溢れ出す。急に涙目になった夏子に驚いたのは慎二の方だ。

「え・・・泣きます?ここで」

「悪い冗談やめてよ~」

「すいません・・・」

「本当、どんだけビビったと思ってんのよ~。人の事からかってぇ!」

あはははははと笑っている夏子の目にさっき一瞬で浮かんだ涙が、どうしても気になって、慎二が夏子をじっと見る。

「こういうシチュエーションに、嫌な思い出ありですか?」

黙々と再び信玄餅の包みを開ける夏子が、笑顔をしまって口をそっと開いた。

「経験はないけど・・・そういうのに敏感になっちゃってて・・・」

それを聞いた慎二の相槌はない。だから夏子が続けて喋った。

「かわいい後輩と言えども、やっぱこれからは、彼女いるかどうか確認してからのがいいね」

「もし聞かれてても、俺居ないから問題なかったでしょ?」

そう言われると、それはそれで『うん』とは頷けないものがあると夏子が思う。首を傾げる夏子を見て、慎二が立ち上がった。

「お茶、飲みますよね?」

きな粉で口の中がもさもさになった夏子の前に、グラスに入ったお茶が来る。少し慌てて食べている様にも見える夏子に、慎二が声を掛けた。

「きな粉でむせちゃうから、ゆっくり食べて下さい」

先に食べ終わった慎二が、空気を変えるべく違う話題を探し出す。

「夏子さんが今まで潜った海で、一番良かった所ってどこっすか?」

ダイビングの話になった途端、夏子の表情が生き返る。

「モルディブ。国内だったら、やっぱ沖縄だね」

いつも通りの元気な夏子に戻って、少し安心する慎二だった。

「ご馳走様」

手を合わせて夏子がそう言うと、ごみとグラスを持って立ち上がる。

「そのまま、置いといて下さい」

「いいって~。これ位洗ってくから」

玄関入ってすぐの小さなキッチンの流しにグラスを二つ下げて、手早く洗う夏子の後ろから、慎二が腕を回し抱きしめた。急な事に夏子は声を出せずにいるから、蛇口から流れっ放しになった水のジャーッという音だけがやけに大きく響いている。夏子の髪の毛に頬を近付けて、慎二が耳元で言った。

「辛い恋愛、もうおしまいにしましょうよ」

正直、夏子の胸にその言葉が突き刺さる。泡の付いた手の行き場に困る夏子に、慎二がもう一言続けた。

「俺、夏子さんの事・・・」

そこまで聞いて、夏子は泡の付いた手で 自分の前に回された慎二の腕を掴んだ。

「悪い冗談、もうおしまい。仕事仲間なんだから、私達」

そんな理由、矛盾している事くらい夏子にも分かっている。仕事仲間・・・これは村瀬にだって言える事だ。夏子はそう言った勢いで蛇口を閉めると、泡の付いた手のまま鞄を持って、慌てて玄関を飛び出していった。


 夏子の出て行った玄関に残された慎二は、さっき掴まれた時に濡れた袖を手に感じながら、乱雑に脱ぎ捨てられたスリッパを見て 溜め息と共に壁に寄り掛かる慎二だった。


 次の日仕事場に夏子が出勤すると、もう既に慎二が来ている。

「おはようございます」

慎二の方から そう挨拶をする。顔を見ないで挨拶を返す夏子から、昨日の気まずさを引きずっている事がありありと分かる。

「昨日・・・」

そう言いかけた慎二の言葉を遮る様に、夏子がデスクの上の書類の束を慎二に突き出す。

「悪い。これ、急ぎで確認してもらえる?確認内容、全部付箋に書いてあるから」

「了解っす」

そこへ由真が出勤してくる。

「おはよう」

デスクに鞄を置くなり、由真が胃の辺りを摩りながら喋る。

「昨日遅くに食べ過ぎたのかさぁ、今朝まで胃もたれしちゃって・・・」

ふふふと笑う夏子に、体調の悪そうな顔の由真が聞く。

「夏子、平気?」

「うん。全然」

「慎ちゃんは?」

「問題ないっす」

「まぁ、若いからね~」

くすくす笑いながら夏子が言った。

「胃薬あるけど、飲む?」

「大丈夫。家で飲んできた」

由真がデスクの椅子に座るが、だるくて仕事を始められないでいる。その間を持て余して、口だけが良く動く。

「昨日、慎ちゃん家まで送ったの?」

『慎ちゃん』というフレーズに耳が反応するも、夏子は顔を上げないまま相槌だけ返す。

「へぇ~、近いんだ?」

どっちに質問したかが分からず、二人が由真の顔を見る。その一瞬の空気を読んで、慎二が返事をする。

「まぁ、割と」

その流れに乗って、何とかいつも通りの関係を取り戻したい慎二が夏子に聞く。

「帰り、道迷いませんでした?」

その質問の内容から、完全に自分へ話し掛けていると気付いた夏子が、目は合わせないまま返事を返す。

「全然。一回通ったら大抵覚えちゃうから」

「へぇ。方向感覚良いんすねぇ」

何もなかったみたいな態度で接する慎二に対して、まだまだ夏子の気持ちは落ち着かない。村瀬と何年も秘密の関係を続けてきたのに、それに比べて昨日の慎二の部屋での出来事は そう取り立てて騒ぐ程の事でもない。そう分かっているのに、やはり夏子の頭の中は正常運転ではない。


 ダイビングショップはカウンターでの接客業務があるから、昼休みは交代で取る。

「お昼どうする?」

夏子がそう由真に尋ねるが、顔が『パス』と物語っている。

「だよね~」

村瀬は既にお弁当をつついている。この間夏子に別れ話的なのをして以来、愛妻弁当なんか持って来ていたりする。それを社員が時々面白がってからかったりする。

「店長、いいですね~。今日も愛妻弁当ですか」

「昼飯代節約だよ。出産費用かかるし」

「出産?!店長、子供生まれるんですか?」

そこに居た何人かが一斉に村瀬の方を見る。

「まあね」

そう答える村瀬の顔がやけに嬉しそうで、夏子はそこを立ち去った。

 夏子がカウンターに出ると、接客を終えたばかりの慎二と目が合う。

「夏子さん、昼どうしますか?」

「あ、先いいよ。私こっち入るから」

相変わらず目を合わせないやり取りが続く。慎二がもう一つ聞く。

「何か買って来ましょうか?」

「ううん。平気。ありがと」

カウンターで別の接客を終えた由真が、そのやり取りを見て言った。

「夏子も調子悪いの?」

「え?全然」

そう答えた夏子を、由真がじーっと見つめる。

「じゃあ・・・慎ちゃんと何かあった?」

「え?!・・・何で?」

「だって、いつもなら『これ買ってきて~』とか『あれ食べたいから、一緒に行こうよ』とか、でしょ?昨日あれから、喧嘩でもした?」

「しないって」

「じゃあ・・・そういう関係になっちゃったとか?」

「やめてよ。なる訳ないでしょうが!」

そんな二人のやり取りをしている所へ慎二がふっと現れる。最後の方の会話が 慎二に聞こえていたと思われる顔を見て、由真がその話題を切り上げた。

「だね」

カウンターのある店頭に姿を現した慎二が、会話の切れたのを見計らって夏子に話し掛けた。

「夏子さん。南原さんが30分早めてカウンター交替しますって」

「あ、了解」

意外と勘の鋭い由真の前で、夏子は慎二とのやり取りに気を遣う。無意味に用の無いファイルを開ける素振りをして、慎二と目を合わせない正当な理由を作る。

「じゃ、お昼行ってきま~す」

いつも通りのテンションで、慎二が二人の前を後にした。


 仕事が終わると、それぞれが『飯食い行くか』とか『ちょっと飲んでかない?』等の相談が交差する。村瀬は、夏子の方を見向きもせずに鞄を手に持って皆に言った。

「じゃ、お先。お疲れーっす」

「店長、一緒にどうですか?」

そう声を掛けたのは、ベテラン社員の保田慶吾だ。実質、村瀬の片腕の様な存在だ。

「悪りぃ。嫁さんに、今日早く帰るって言っちゃってるから」

「意外に愛妻家ですね~」

急に『嫁さん』『嫁さん』って・・・そんな事を内心夏子は思いながら、悲しくなる心に蓋をする。村瀬が退社した後、由真が夏子に話し掛けた。

「ねぇ知ってた?店長んち、5月に子供生まれるんだって」

夏子は首を横に振った。

「私さ、実は結婚してるって事すら忘れてたんだけど」

小声でそう囁く由真の後ろには、慎二がいる。

「確かに。生活感無いっすよね、店長って」

後ろを振り返りながら、由真が話を広げた。

「結婚するならマイホームパパタイプがいいけど、でも結局さ、ああいうのに惹かれちゃうんだよねぇ」

はははははと笑う慎二を見てから、由真がまた夏子に振る。

「ねぇ?そうじゃない?」

夏子は必死で無表情を装って、首を傾げてみせる。

「そうかなぁ」

「あっ、夏子は男の趣味が悪いんだったわ」

軽い冗談のつもりの由真だけが、あっはっはと笑い飛ばしていて、慎二も夏子の表情を窺っていたりする。

「ま、どうせ そうですけど。って事で、私もお先で~す」


 会社の駐車場まで来て、夏子はほんの1ミリの期待を胸に携帯をチェックする。今までなら、村瀬から『いつもの場所で』と入っているメッセージも、やはり今日もない。『嫁さんに早く帰るって言ったから』と説明していた あの話は事実だったんだなと、ぼんやり考える。夏子は運転席に座ってから、メッセージを打った。

『これから、ちょっとだけでいいから会える?』

メッセージはすぐに既読になるが、なかなか返事は来ない。諦めかけて、車のキーを差し込んでエンジンをかけると、そこへ村瀬から返信が来る。

『さっきも言ったけど、今日は早く帰らないといけないから』

『なんで、そんなに急いでるの?』

また、既読になるが返事が来ない。夏子は溜め息を吐いて、車をゆっくりと動かした。その日、村瀬からそれ以上のメッセージは届かなかった。


 次の日まで、夏子のモヤモヤした気持ちは引きずっていて、村瀬の出社を見届けると、そっと夏子がメッセージを送る。

『今日仕事の後、時間作って』

デスクの椅子に寄り掛かって、村瀬が携帯を眺めているのをそっと確認する。夏子は返事を期待して、何度も何度も合間を見ては携帯を確認するが、なかなか返信はない。昼休みを過ぎても何の返事もよこさない村瀬にしびれを切らした夏子は、終業まで1時間を切った頃、村瀬のデスクへと向かった。

「先日の件、どうなりましたか?」

村瀬が少し驚いた顔をしている。夏子は内心 少し意地悪な気持ちでその顔を眺める。

「まだ、調整中」

それでも食い下がるのが夏子だ。

「いつ、お返事頂けますか?」

一瞬、周りの様子を気にしたのが、村瀬の目の動きから分かる。

「今日中に確認します」

「お願いします」

デスクに戻ると、由真がひそひそ声で夏子に近付く。

「何の話?」

こういう質問も夏子の中では想定内だ。

「お客様からのクレームの件」

「クレーム?あったっけ?」

「あ、小さいやつね」

納得したのか『ふ~ん』と由真が言った事で、おしまいとなる。


 仕事帰り、いつものコンビニの駐車場で夏子が待っていると、村瀬が助手席の窓をノックする。助手席に乗り込みサングラスをかけるのを見届けると、夏子が口を開くその一歩手前で村瀬が言った。

「どうしたの?」

「この前の話、途中だったから」

「・・・・・・」

村瀬が黙るのも分かる。しかし夏子はこの沈黙に負けたりはしなかった。

「急に愛妻弁当持って来たり、奥さんの話してみたり・・・何の真似?私への当てつけ?」

「違うよ~」

また軽く笑い飛ばして終わりにしようとしている。そんな雰囲気を察して、夏子はキリリとした顔をしてみせる。

「生まれてくる子供の為にちゃんと父親らしくしようっていうの分かるけど、だからってそんなに急に、気持ち変えられるもの?ついこの間までは私に『愛してる』って言っといて、今度は嫁さん嫁さんって。それとも、何?私の事愛してるって言ってたの、噓だったの?こう言っとけば、こいつは機嫌がいいから・・・的な?」

夏子は、息継ぎもせずに一気に吐き出した様に思う。すると、一拍置いて村瀬が言った。

「随分まくし立てるね~」

さっきの夏子との温度差が激しすぎて、かえって彼女の気持ちをあおる。

「いっつもそう。私が気持ちぶつけたって、いつも他人事みたいにしらっとしてて。そういうとこ・・・ずるい」

『嫌い』と言いそうになって、直前で『ずるい』に変える夏子。窓に肘を乗せて頬杖をつく村瀬が、深いため息を吐く。

「ごめん」

そう言われると、かえって夏子の胸に寒々しい風が流れ込む。

「謝って欲しいんじゃない。むしろ、謝ってなんて欲しくない。ごめんってどういう意味?私の事好きじゃなかったって事?」

「そうじゃないよ。好きだけど、傷付けてごめんって事だよ」

夏子の耳が『好きだけど』をキャッチする。『好きだったけど』ではないのだ。現在形だ。それを聞いた途端、あれだけまくし立て責めていた気持ちが嘘の様にすっと消えて、夏子の胸に急に穏やかな風が吹く。

「今でも・・・私の事、好き?」

助手席の村瀬が夏子の方へ顔を向ける。

「言わせないでよ。夏子だってずるいだろ?」

村瀬の瞳の奥に、少し甘えた様な 少年の様な可愛らしさを感じ、夏子は悪戯っぽく口を尖らせてみせた。

「言葉では言えないんだったら、態度で見せてよ」

夏子がじっと隣の村瀬を見つめると、どちらからともなく唇を重ねた。

 フロントガラスからは、空高くに満月が覗いていた。


 次の日、職場で村瀬の顔を見ても、夏子の心は穏やかだ。いわゆる精神安定剤みたいな物だ。昼休み、保田が村瀬をからかう様に声を掛けた。

「店長、今日も愛妻弁当ですか?」

「いや、今日は違う」

「へぇ~」

からかい甲斐が無くて、少しつまらなさそうな顔をする保田の後ろから、夏子が村瀬に言った。

「店長、何か買ってきますか?」

「おお頼むわ。何でもいいから。任せる」

夏子は『なんでもいい』と言われても平気だ。村瀬の好みを良く知っているから。きっと村瀬も、自分の好みを知っている夏子だから、そんな頼み方をしたのだろう。そう思うと、夏子はまた勝手に心がほっこりするのだった。


第一話、お読み頂きありがとうございました

今後気になる所、もっとこうした方が良いというアドバイスやダメ出し、何でも結構です

より良い作品を書く為に勉強中ですので、遠慮なくご指摘頂けたら嬉しいです


そして第二話もお読み頂けたら、なお嬉しいです

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