0-1 ゲート・オン
行宗家の地下室は物置小屋になっており、鎧や盾などが散雑に放置されているずいぶん埃っぽい場所だ。
普段なら滅多に足を運ぶこともないその地下室に、行宗家が代々使っている異世界へのゲートがある。
もちろんその事は他の誰にも秘密だ。ときどき近所のおじさんが訪ねてきて、「ちょっくら異世界行くから通しておくれ」なんてことは絶対に無い。
「―――ゲート、オン。」
古びた本棚をどかし、壁にある紫色の模様を母さんが指でなぞる。
「うわ、なんか気持ち悪っ!何これ!」
マーブルアイスのようにねじ曲がった次元の裂け目に、俺は一瞬吐き気をもよおす。
「―――さてと、晴彦。ちゃんと着替えは持った?歯ブラシは?あとお金は、」
「母さん・・こっちのお金を持って行ったって使えないよ。」
俺はすかさずツッコんだ。
アルヴィスは俺のスポーツバッグの上で丸まっている。こんな日でも通常運転、まったくケダモノは呑気で羨ましい。
「いい?ゲートをくぐったら、すぐにこの人の所へ行きなさい。」
母さんがいつも通り忙しない様子で、俺に小さなメモ書きを手渡してきた。
「その人は昔お母さんと一緒にダンジョンを回っていた人でね、今は街で飲食店をやっているはずだから、きっと力になってくれると思うわ。お金もその人に預けてあるから。」
「分かった。ありがとう。」
俺はそのメモをちらっと見たあと、ポケットにしまった。
「それにしても・・・どうせなら聖騎士学校とかにすればよかったのに。幻獣学だなんて、なんだかオタクっぽいわね。」
「母さん、その話はもういいだろ?俺は無類のドラゴン好きさ。」
(―――本当は剣の鍛錬が嫌いなだけだが。)
「それにアルヴィスもいるしね。あの学校に行けば、こいつの不抜けた根性を叩き直す術が見つかるかもってね。」
「・・・そう?・・・でもねぇ。」
母さんはまだ納得がいかないといった様子で首を捻っていた。
「心配すんなって。もし退学とか留年する事になったら、潔くちゃんと家業を継いで旅に出るから。」
(――――本当は死んでも出たくないけど。)
「兄ちゃん、頑張ってね。早く帰ってきてね。」
母さんに手を引かれここまで見送りに来ていたのは、弟の日向。まだ先月11歳になったばかりの、我が家の期待の星だ。
才能の方は兄よりも劣ると言われ育ってきたが、何よりこいつは真面目だった。
剣術の訓練も魔法学の勉強も、文句ひとつ言わず言われた以上の事をテキパキとやる。
将来はこのよくできた弟がきっと家業を継いでくれるさ。
俺はそんな淡い期待を、まだ年端もゆかぬ幼い弟に密かに抱いていた。
「――――さて、それじゃあもう行くから。あー、ドキドキワクワクが止まらねー」
棒読み。今すぐ家に戻って眠りたいなあ・・それが俺の本心だ。
「あ、あっちじゃ名前・・・名乗っちゃダメよ、絶対に。」
「分かってるよ。このゲートを抜ければ、俺は異世界人ハルだ。異世界入門第一章、基本だろ。」
どうせならもっと男らしくてカッコイイ名前にすればよかったが、いかんせん時間がなかった。
異世界で本当の名を名乗り暮らしていると、一年と経たずこっちの世界の記憶を失くし帰って来れなくなるらしい。気をつけなければ。
「じゃあ、行ってきます。」
不安げな表情の二人をよそに、俺はゲートをくぐった。
ぬるっと生温かい・・これが異次元の感触か。
ここでひとつ説明しておくが、俺の名前は行宗晴彦。
ちょっとだけ特殊で、ちょっとだけ勇者な一族の末裔だ。
そんな俺は今日、異世界へ進学する。
もちろん家業を継がない事への多少の後ろめたさはあった。だが、それでもやっぱりやりたくないものはやりたくない。
俺は勇者になどなりたくはないのだ。
しかし、降りかかる伝統としきたりは300年続く絶対的なもの。
世界を救う屈強な勇者達を送り出してきたこの行宗家に、俺のような怠け者が生まれてしまったことはもはや何かの呪いか奇跡としか言いようがなかった。
掟に従い育ててきたアルヴィスも、飼い主に似てほとんど寝ているだけの珍獣だ。
魔女には黒猫、勇者にはドラゴンとよく言ったものだが、もはやトカゲの姿をしたただの家猫を育てている気分だった。
そもそも俺は、ずっと前から普通の高校への進学を希望していた。だが、当然母さんはそれをよしとはしない。
絶え間ないほどの親子論争を繰り返し、なんとか「異世界への進学」という折衷案で話にケリはついた。何度死にかけたことか・・・
そして俺は、体中を流れる勇者一族の血を無理やり奮い立たせ、異世界への進学を決めた。
焦りと半分はノリでテキトーに決めたその学校で、自分のやりたい何かが見つかればと思う。
見つからなければ命がけの勇者家業が待っているのだ。見つけてやるさ。
「さあ、行こうアルヴィス。」