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贖いは夕暮れに溶けて

作者: 神納傑

 おれは麻里の手を引く。引っ張って急かせば、それだけ歩みが速くなる。

 半歩だけ彼女より先をいく歩みはゆっくりとしたもので、今はもう日課となった社会復帰活動リハビリテーション、その一環として行う小一時間ほどの散歩。毎度おなじみの河川敷を一周するだけの簡単なものだ。

 麻里の足がもつれる。細くて、今にも折れてしまいそうなほど華奢な彼女の身体がおれの背中にぶつかり、慌ててその体を支えた。自分の力で立ち上がっていることが奇跡だというのに、躓いてしまっては命取り。何しろ受け身を取ることもできない。いや、しないというべきか。

 夕暮れ時。おれは少し疲れていたこともあって、そのままコンクリートの階段を下り、空を流れていく早い雲を見上げた。階段の右側に座り、ぼんやりとした目でおれを見据える彼女に、隣の空間を手で叩いて示す。

 麻里は座った。スカートがめくれないよう、楚々とした仕草で。

 彼女が、このように痴呆めいた状態になったのには、もちろん事由がある。

 なれば、四ヶ月前のあの日のことを話さねばならないだろう。

 向坂真理との出会いは、小学校五年生の体育の授業で済ませていた。それから小中高と一緒に学び、大学一年生になって、当てが外れた大学生活を営んでいたある日。

 自国は午後九時。大学からの帰り道に、頭から血を流して倒れている女性を見つけた。

 やや短く切られた髪から見分けが付きにくかったものの、それは向坂真理だった。高校を卒業してから、自慢の長い髪をばっさりと切っていたのは知らなかったのだ。

 救急車で最寄りの病院へと搬送された彼女がベッドに横たわっているのを見て、なんとなく、おれが面倒を見てやろうと思った。

 人生に意味がないとか、理由がないとぼやく人々を、おれは愚かしいと思う。毎日を無為に過ごすだけのおれがこんなに偉そうな物言いをするのも、おれなりにひとつの持論と、見解を持っているから。

 意味や理由なんてものは、そこらへんに転がっている。砂場の中に砂が詰まっているようなものだ。意味は千差万別で有象無象。誰の目にも明らかで、自分の目にもしかと映っている。なのに理由や意味がないと感じるのは、逆にありすぎるからだ。どんなことでも、生きる理由、人生の目的になりうる。そこに自分の価値観で優劣をつけてしまっているだけ。

 なるほど、確かに砂場の中から、自分の好みの形をした砂粒を拾い上げるのは、ほとんど不可能といっていいほどの難題だ。

 おれの場合、何でもない容姿と性格を持つ彼女に、何かしてやりたいと思い立ったのも、いい加減に誰かのために生きるということをしてみたかったからかもしれない。

 だが、ひとつだけ未知の要素が入り込んでいた。

 ひどく頭を打ちすえられていた彼女は、後遺症として記憶の一切を失ってしまったのだ。

「ここはどこ、わたしはだれ?」などと口にしているうちは、必ず記憶が戻る。おれはそう思った。だが、彼女の場合は魂が抜けてしまったようで、空虚で虚ろな瞳がゆっくりと世界を眺めまわし、腹が減ったから食べる、眠いから寝るといった、人間の根本欲求に従う行動以外はしなくなった。

 記憶とは、人格の証明である。

 言うまでもなく、人間は十人十色。優しい人から怖い人まで、総理大臣からおれのようないち市民に至るまで様々な立場があって、数十億もの人格が存在する。

 おれたちは、今の人格が自分だと、当然のように受け入れている。だがおれは、彼女の黒い、井戸の底めいた瞳に見据えられた時、そんな保証はどこにもないのだと気付いた。自分は、自分だけで保証できるほど確かなものではない。他人から「お前はお前だ」と言われるか、自分で「おれはおれだ」と主張するか。どちらにも、真の意味で第三者的な客観性は存在しない。

 なら、なぜおれたちは自分を認識できるか。

 それは記憶があるからだ。

 苦しみ、悲しみ、嬉しさ、楽しさ……そういった人格の上にふつふつと浮かび上がる泡沫うたかたのような感情を、記憶が証明する。昨日までの自分ならこうするはずだ、そうした比較を得ることで、人間は自分を持てる。魂や命という概念ではない。その上に上書きされてきたはずの「自分」が漂白されるのだ。

(まるで妖精の悪戯だ)

 無論、妖精ではなく、どこかの犯罪者が彼女を殴ったに違いないのだが。

 おれは彼女と肩を並べて座りながら、なんとなく、川面から彼女へと視線を移した。

 夕暮れに朱色に染まった彼女の横顔から、伸び始めた黒髪を見やる。おれが見ていることに気付いた彼女は、こちらを振り返り、問いかけるように小首を傾げた。

「なんでもないよ。見てただけだ」

「だけ?」

「うん、だけ」

 まだ幼い声色の残る彼女の掠れた言葉に、他愛ない返事を返す。

 河川敷をススキが繁茂している。黄金色の穂が彼女の頬と同じ色に染まり、風に靡いて波を生む。おれはしばしその光景に見とれ、明日の大学のカリキュラムを頭の中で反芻しながら、いよいよ地平線に沈んでいく太陽を見送った。

「わあ」隣りから感嘆の声が聞こえる。おれが知る限り、記憶を失った彼女が初めて笑みを浮かべていた。視線の先には燃える太陽と、ススキの海。河川敷を吹き渡る風も心地いい。

「ここ、気に入った?」

 目を細めながら、太陽から目を離さずに問うと、彼女の頭が上下に傾くのがわかった。

「そっか。じゃあ、今度からはここで休むことにしよう」

「うん。ねえ」

「どうかした?」

「ありがとう」

 まったく、まったくの不意打ち。驚いて振り返ると、そこには微かな微笑みと共に太陽を眺める彼女の顔がある。

 笑みを浮かべかけたその時、胃の底から押し上げられる声にならない喜びが暗澹とした何かに変貌し、次いで猛烈な吐き気が込み上げて来た。弾けるように階段を駆け下りて、まっさらな土の地面に突っ伏し、胃の中が空になるまですべてを吐き出す。

 見た。見てしまった。

 こんなことがあり得るか?

 涙が頬を伝って流れ落ち、胃の中が空になっても嘔吐は止まらない。吐瀉物のにおいが鼻をつき、なんとか立ち上がれるようになるまでしばらく時間がかかった。

 口元を拭いながら、ふらりと後ろを向くと、麻里が立っていた。階段からこちらへと追いかけて来たらしい。少しだけ眉を潜めて、おれの目を真正面から見据える。

「だいじょうぶ?」

 おれは何も答えられない。膝から力が抜けていき、向坂真理の白いスカートへと縋る。見上げれば、夕暮れを背景にした彼女が不思議そうにおれを見つめ、胸の奥底に凝縮していた何かがとめどなく目尻から溢れて来た。

 妖精が彼女の記憶を抜き取った。それは違う。絶対に違う。

 彼女から記憶を抜き取ったのは、おれだ。おれが彼女を殴った。

 夜。今なら鮮明に思い出せる。街灯の下で激しく彼女と言い争い、その末の凶行。理由までは覚えていない。ただ、彼女へ対する激しい怒りが、自己嫌悪とないまぜになって吐き気を誘う。

 反吐が出る。滑稽だ。まったくもって滑稽。おれが今まで、優しさだと思っていた自分の行いは、なんだったのか。

 記憶は自分を証明する。新たな記憶がおれの頭の中で蘇った。新たに、”おれ”という存在が証明しなおされる。最悪の糞野郎へと。

 妖精が奪ったのはおれの記憶だったのだ。

「ねえ」

 彼女は粘り強く、紫色の帳が覆い始めた空の下で言う。

 おれは立ち上がり、逃げようと思った。何度も何度も逃げようと思ったけど、彼女の次の言葉で、心臓まで止まるかと思った。

「むかしはむかし。いまは、いま」

 何とか声を絞りだせたのは、きっと、何分も後のことだったと思う。

「覚えてたのか。おれは忘れてたのに」

 こくりと、彼女は頷く。黒い瞳に何かを湛えて。

 何故、という問いに、彼女は答えた。

「わたしがお願いしたの。あなたの悪い夢をなくしてあげてって」

 彼女の両手が伸びる。そのまま首を絞められても文句は言えなかっただろうが、その細い掌がおれの両頬を挟んだ。

「誰に」やっとの思いで、おれは立ち上がり、彼女の手を解いた。「誰にお願いしたんだ?」

「わかんない。あの、ホラ」

 傍に生えているススキを引っこ抜き、麻里は「ふわふわ」と言った。重くしな垂れかかったススキの穂がたわわに実っている様子は、確かに浮遊感がある。

 彼女はおれを許しているのだろうか。胃液の苦い味を噛み締めながら、背を向ける。

 どうするべきなのだろう。走り去ることもできる。いっそのこと、車道へ身を投げて終わりにしようかとも考えた。様々な考えが頭に浮かび、互いに文句を言い合って縄張りを主張する。

 おれは許されたいとは願っていない。

 自分で自分が許せると愚考してもいない。

「麻里は、どう思う」

 だから、彼女に聞くしかなかった。汚い手だ。彼女は、もう以前の彼女ではないのだし、それを彼女の両親の次にわかっている自分が問うているのだから。

 向坂真理は、おれの背中を軽くつかんだ。

「前のわたしは、きっととても怒っていたと思うけれど、今は夢のように思うの。きっと、夢の中で誰かに酷いことをされたら、その人を憎むと思う。けど、心からじゃないよ」

「でも、事実だ」涙が出るほど悲しく、馬鹿馬鹿しいほどに、事実だ。

「うん、そうだね」一生懸命に、麻里は言葉を紡いだ。

 おれはようやく振り返る。正直に言えば、彼女の黒い瞳に、これ以上耐えられる気がしなかった。

 だが、そんな我儘を言う権利こそ無いのだと、自分に言い聞かせる。

「償おうにも償いきれない。おれは……どうすればいいんだろう」

「誰でも間違えるよ」

「そうだな。けど、そんな簡単に片づけられる問題じゃない。そうだろ?」

「いまじゃなくていい」

 麻里は踵を返し、いつも通りの、ふらふらとした足取りで階段を上り始めた。

 おれは後に従う。何か、これ以上ないくらいの重りを背負って。

「今でさえ、自己嫌悪で潰れそうなんだ」そんなことを言ってなんになるのか。「元も子もないけど、それが今のおれの気持ちだ」

 階段の最上段で、麻里は回れ右をしておれを見下ろした。たった三段、彼女の方が上にいるだけなのに、とても高い場所から見下ろされているように感じる。

「ぜんぶこれから。いい?」

「それは……おれには決められないよ」

「なら、そういうこと」

 麻里は両手を差し出した。おんぶ、という意味だ。疲れて歩きたくない時に限り、彼女はこのジェスチャーをする。

 少し逡巡した後、おれは彼女の隣りまで階段を上りきり、腰を下ろして背中を晒した。麻里はいつも通り、首に手を回して体重を預けてくる。

 彼女は軽い。だけど、重い。それはおれが背負うべき罪の十字架だろうか。

 河川敷を、ふたりで帰る。いつもみたいに。

 だが今日は少し様相が違う。頭の上の方から、彼女の上機嫌な歌が聞こえて来た。

「わたしの心は遠くて、長いあいだ閉じこもっていた繭のよう。羽化しようにも固くて、息が詰まりそうなわたしの繭に、いつかあなたがやってくる」

 同じフレーズを、何度も、何度も歌い続ける。どこで思い出したのか、それとも新しく覚えたのか、その掠れた声に、おれはしばし聞き入った。

 違う。違うんだよ、麻里。そう叫びたくて、だけど流れるのは涙だけで、唇を血が滲むほど強く噛み締めながら、おれは歩き続ける。

 夕暮れが過ぎ去った河川敷。彼女の歌がおれの罪を溶かしていく。

 四ヶ月前。新たに目覚めた彼女にとって、おれという存在はどのように映っていたのだろうか。ただ、彼女のために献身的な介護を続ける、ただの好青年だったのだろうか。それとも、おれがそうであってほしいと心の底から望んでいるように、以前の自分を殺した、憎い仇でしかなかったのか。

「また来ようね」

 麻里が言う。おれは頷く。

 次にこの河川敷へ来るときまで、彼女のために何ができるのかを考えようと決めた。

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