星空のルイ
右手には、きらきらと揺れる涙色のリング。
雫型にカットされたチャームがユラユラと泣いているように、僕を誘う。
これを身に付けていた女の子は、遠い昔、恋人から貰ったそれを捨てられずに悩んでいると言っていた。
『そんな物、売ってしまうか誰かにあげてしまえば良いのに』
何て簡単な悩みだろうかと、その女の子から半ば奪い取るように紙幣を一枚押し付けて、僕はそのリングを買い取ってあげた。
彼女は刹那、泣きそうな表情を浮かべたけれど『欲しいのなら、あげるわ』そう言って、渡した紙幣でカフェのお会計を済ませると、そのまま出て行ってしまった。
「こんな物、何時まで大事に取っているんだか・・・」
そう呟いた僕は、彼女がしていたようにそのリングを大事に掌に握りこむ。
目の前でパチパチと爆ぜるソーダを透かして見れば、まるで海の中のようで、あの日の事を鮮明に思い出させるから、僕はついつい流す予定の無かった涙をひとつ、ぽろりと落としてしまった。
何百年も昔、僕がまだ人に興味を持っていた頃、大切で愛おしかった君に渡した、大切なリング。
『いつか、また出会える日が来たなら、僕が君を探すから』
深い海の底に沈んでいく君に、助けられなかった僕が叫んだ言葉を君はずっと覚えていたのに、出会う度、僕の心は少しずつ擦り減っていく。
君は約束だけを覚えていて、僕を覚えていなかった。
出会う時は、必ず『初めまして』からで、愛を誓う時はあのリングを贈った。
ほんの欠片で良い。僕を思い出して欲しい。
それに疲れたのは、何時だっただろう。
ふと、僕は気付いてしまったのだ。僕が愛しているのは『今の』彼女では無くて『あの時の』彼女なんだと。
僕は死が訪れない存在だから、時間の流れが違う彼女と寄り添う事は出来ず、何度も何度も出会いと別れを繰り返す。
そうして僕は、彼女を諦めた。
それでも、繰り返して来た行動は変えられず、彼女の近くに居てしまう。
時には友人として、時には師として、時にはすれ違うだけの人間として。
その度に、彼女は誰かに何故あるのか分からない、けれども大事な指輪の話をするのだ。
今まで誰にも譲らなかった指輪が、今僕の掌の中にある。
強引とはいえ、取り戻したそれは、酷くちっぽけで儚い物に思えた。
「もう、こちらに来る事は無いだろうな」
カフェを出ると、僕は路地裏に入り、空に向かって駆けた。
薄墨を流したような空から、泣きながら歩く君が見える。
僕が勝手にしてしまった約束は、君を苦しめ続けていた。
初めて君を見つけた時、君は僕を覚えていなくて、それでも約束を覚えていたから、それからも何度も僕の元に帰って来てくれたのに。
僕は、最初の君しか愛せないで、それから先の君が僕を諦めるのを待ってしまった。
何て、愚かで弱虫だったんだろうか。
掌からリングを取り出すと、僕はゆらゆらと揺れるチャームを握り締め、力を込めた。
パキンという硬質な音が響くと、中から数滴の雫が空に広がった。
君が、何とか留めていた僕の記憶が、溢れて消えてしまうのを見届けると、今度こそ僕は下を見ずに空へと駆け上がって行った。
ぽたり。額に落ちて来た雫に、上を向くと、何故自分が泣いているのか分からなくなってしまった。
とても、悲しいはずなのに、何が悲しいのか分からなくなってしまった。
ふと、右手の薬指に付いた痕をぐるりと触ってみる。
確かに此処に嵌っていた筈なのに、今は無いそれが、とても愛おしいと感じる。
大きな何かを失った筈なのに、それに安堵する自分を酷い奴だと大声で罵りたくなる。それなのに、何故酷いのか、それすら思い出せない。
ふと、空を翔る一筋の星が目に入る。
その流れ星を見て、私は一粒、最後の涙を流した。
昔々、星になったばかりの神様がいました。
神様は、目まぐるしく変わる人間の世界がとても好きでした。
田畑を耕す者、海で魚を獲る者、人々をまとめ導く者。
そんな沢山の人で溢れる世界は、とても色鮮やかだったのです。
ある日、神様は美しい歌声を耳にします。
その歌声は、街の真ん中にある美しい塔の中から聞こえてきます。
そこで、一人の少女が歌を紡いでいました。
少女の歌声に惹かれた神様は、その少女に話しかけていました。
二人はたちまち惹かれあい、愛し合うようになりました。
幾日もの夜を越え、二人は星空の下愛を語り合ったのです。
そんなある日、少女は王様の開く海上のパーティーで歌を披露する事になりました。
神様は、少女にお守りとして自分の光を閉じ込めた指輪を贈りました。
どんなに離れていても、自分と繋がっていられるお守りだと。
その日は、薄い雲が煙のように星々を隠す夜でした。
少女が船の甲板で歌を披露するのを神様は雲の上から聞いていました。
歌が終わる、その時です。
突然、大きな悲鳴が響いてきました。
何かがぶつかるような音と、人々の悲鳴、そこに混じる少女ではない歌声。
その歌声を聴いて、神様は何が起こったのか悟ってしまったのです。
薄い雲が晴れて、ようやく星空が海を照らす頃、船の周りには人魚たちが手に手に武器を持ち、船を沈めている所でした。
人魚の姫より美しい少女の歌声を手に入れようと、人魚たちが、少女を船から落としてしまっていたのです。
少女と違う歌声も美しいものでしたが、それでも少女の歌声のほうが美しいものでした。
神様は、襲い来る人魚たちをかわしながら、少女の元に急ぎました。
しかし、少女はかろうじて船の破片に掴まっているだけで、冷え切った身体は今にも落ちてしまいそうです。
間に合ったのだと、手を伸ばした瞬間でした。
少女は神様に気付き、微笑みながら指輪の嵌った手を伸ばし、その手を掴もうとしていました。
しかし、その手は掴まれる事無く、少女のその身体は波に飲まれてしまったのです。
空に生きる神様は、海に入る事は出来ません。
少女を救うことが出来ず、神様は失った悲しみから青く青く瞬くようになったのでした。
それから、長い時が流れて、神様は少女に出会いました。
贈った指輪の中は、少女を失くす度に溢れる神様の涙で満たされるようになりました。
もう何人の少女と出会ったでしょうか。
神様は、今日も少女の側へと翔けていくのです。