愚かすぎてかわいくて
少し動けばじとっと汗をかくのに、イスに座ったままでの作業なら寒いくらいという梅雨独特の空気を冷静に受け止めイラッとした。そのことに気がつかなかったら、そういうものなんだとあっさり流せていたら、気持ちを波打たすこともなかったろうに。
「なんか元気ないですねえ」
自覚はある。後輩の子から声をかけられるくらいの元気のなさ。その子の声と表情の具合は、心配してるふうがあんまりない。それでいい。
それでも、ごはんはきちんと食べられている。自分でつくってもいる。複雑ではない、シンプルで、時間のかからない、それでいて、それなりには満たされるものを。ちゃあんと味もしている。何を食べても粘土のよう、なんて一時期おちいったときみたいなことはない。トマトはトマトの、にんじんはにんじんの、じゃがいもはじゃがいもの、それぞれの味を感じられている。十全と、とまではいかないかも。判別はできている。それでいい。
このところ、気がつくと旅館のことばかり考えている。特定の旅館ではなく、いままで泊まった場所でもない。かと言って奇抜でもなくやはりそこは旅館だ。もしかしたらそんな旅館はこの世にないのかもしれない、あるかもしれない、そういった旅館のことを。しかし、いくら思ってみてもそのなかに私の姿を見つけることはできない。自分の行きたい場所と自分の行ける場所との相違。ケーキ屋の話くらいなら小さな不満でも済ませられるのだけど。
「なんか最近、多いですねえ」
「え?」
「どうしました?」
のぞき込んでくる後輩ちゃんの背景からサイレンが聞こえている。あれは、救急車か。
「ううん。なんでも」
サイレンを鳴らすみっつのクルマ。パトカー、救急車、消防車。昔やんちゃだったという新入社員の青木くんは、そのうちふたつ、パトカーと救急車に乗ったことがあるのだと歓迎会の席で自らの過去を打ち明けた。タクシーの運転手とトラブルになり周囲の人に通報された。尿管結石で歩くのもままならなかった。恥ずかしさも交え、けれどどこかヒーローじみた部分もにじませて話すそのノリは男子学生を思わせ、先輩の男性社員たちからはおおいにウケ、女性陣からは幼く、下に見られるのに十分すぎるものだった。
「今度、消防車乗るんだって言ってましたね」
「ああ、青木くん?」
「なんかあの話聞いてからサイレン聞こえてくるたびアイツのこと思い出しちゃって」
「ふふ。ちょっと気になる?」
「どこがですか」
「そうよね」
実はもう、関係を持っている。そう言ったらこの子はどんな顔するんだろう。少年みたいでね、けどあれでいてけっこう激しめでね。教えてあげることはないんだろうな。
「戻りましたあ」
ひときわ大きな声がして青木くんが入ってくる。振り返り「お疲れさま」と伝えるたんなる事務的で無機質な私の言葉を青木くんはそれなりの意味を含んだものとして捉えてしまう。表情がそう言っている。意味なんてないのに。それこそ、あの夜のことにしたって……
「これ、お願いできますか?」
「うん。いいよう」
青木くんはいつも、となりの後輩ちゃんにものを頼む。そしてこそっと、こちらをうかがう。私は、顔の右半分でそれを感じる。
「さっき、また救急車とおってなかったですか?」
「ああ、ね」
「なんか、サイレンの音ってわくわくしません?」
「あのさ、不謹慎すぎるよ」
「ですよね。すいませえん」
そんなやり取りのあいだも、私を盗み見てくる青木くんが、愚かすぎてかわいく思える。後輩ちゃんと話してるとこ見せて、私のこと少しじらしてなんて、私を支配してるつもり? 彼が本格的に勘違いしちゃう前に終わりにするのがよさそうかな。心のほうはとっくに、準備できてるのだけど。
就業時間を三十分ほどすぎたころ、支度をして事務所を出る。また今度、合コンしましょうね。この夏はサイパンかなって思ってて。カメラの前で笑うのはいつも私に向かってなんですよ、どこにいてもですよ、すごくないですか? 駅までの途中、一方的に聞いてあげる後輩ちゃんの話はバラエティに富んでいる。私にはそこまでのチカラはもう、なくなってしまった。
「あ、また」
サイレンを忙しく響かせパトカーが走り抜けていく。あの顔が、浮かんで、消える。
「じゃあここで」
「うん。また明日ね」
ひとりになって、その余白を埋めるように着信がある。青木くんから。見られてるのかな、そんなタイミングに思うところは特にない。着信を拒否して、スマホの電源を落とす。ごめんね。でも遊びでもなかったよ。あれはあれで、そのときはいくらかでも本気だったんだけどね。言い訳を夜空に向かって放り出し、私は、自分の行きたい場所へと歩き出す。そこが、自分の行ける場所でしかないのかは、まだわからないのだけど。




