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第75話 追憶の断章 逃走

 二十歳。

 魔導士として円熟期を迎え、さらなる昇進も確実視されていたエリカは、周囲の期待を裏切るように一通の辞表を提出した。

 理由は「父母の体調不良による看護」。

 事前に帰郷を伝えた際、実家の両親は何も聞かなかった。

 ただ最前線から戻り、食事中にふと視線を虚空へ彷徨わせる娘の瞳に宿る、隠しきれない疲弊と「何か」への恐怖を察し、静かに頷いてくれた。 

 彼らだけは、エリカが背負わされた運命の重さを、言葉にせずとも理解していた。


「……本当にいいのか、エリカ。君がいなくなれば、この部隊の戦力は半減する」  

 上官の切実な引き止めを、エリカは静かに、けれど断固として断った。

「戦うことはもう……十分にいたしました」  

 最前線に溢れるヴィルヘルの魔気は、エリカの中にある魔王の血を激しく刺激し、殺意を暴走させる。

 このまま戦い続ければ、自分という個を保てない。  

 実家に戻り、静かに教師として暮らそう。

 幸い、魔導学園の卒業生には教師の資格がある。

 血の匂いも、漆黒のサーベルも必要ない場所へ――エリカは、自分を蝕む衝動から逃れるように、軍服を脱ぐ決意をした。


 退役を目前にしたある日、特務魔導中隊の重苦しい駐屯所に二人の来客があった。  

 一等魔導巡士となったセレナとファミール。

 治安維持第一大隊の「赤」を纏い、ハットには青みがかった飾り羽を揺らす彼女たちが、この「黒」に塗り潰された場所に足を踏み入れることがどれほど異質か。

 それでも、彼女たちはやってきた。

「辞めないで、エリカ! 私たち、やっと一等巡士になれたのよ。必死に追いつくから、また三人で並べるって……そう信じてきたのに!」  

 セレナが声を荒らげ、エリカの肩を掴んだ。

 ファミールも、潤んだ瞳で訴える。

「そうよ、エリカ。あなたのいない魔法師団なんて考えられないわ。私たち、あのお風呂に入りながら、次はエリカも一緒にってずっと話していたのよ?」

 エリカは、二人のハットに揺れる誇り高き羽を見つめ、静かに嘘を吐いた。

「……ごめんね。両親の体調が思わしくなくて。」

「……そんな。嘘よ、エリカ……」  

 家族を想う親友たちは、それ以上何も言えなくなってしまった。

(……ごめんね。私の大好きな、大切な親友たち)  

 二人の輝かしい「赤」が眩しすぎて、直視できない。

 愛すれば愛するほど、その美しい喉元に指を掛けたくなる。

 この悍ましい「闇」の性から彼女たちを守るには、もう二度と会わない場所へ消えるしかなかった。


 実家に戻ったエリカは、かつて自分が教えを請うた、大好きだったイゾルデ先生の跡を継ぎ、子供たちの教師となった。

「明日から、よろしくお願いします」  

 小さな机が並ぶ教室。

 戦場の爆音もヴィルヘルの断末魔もここにはない。

 子供たちに基礎を教えるだけなら、高度な魔法を使う必要はない。

 魔力を練らなければ、あの殺意も芽生えないはずだ。

(ここなら……あの夢を見ずに済むかしら。子供たちの笑顔に囲まれていれば、私の中の魔王も、眠りについてくれる……?)  

 エリカは、かつての恩師が座っていた椅子に深く腰掛け、そっと目を閉じた。    

 窓から差し込む柔らかな光。

 だが、彼女の指先は無意識に、もう帯びていないはずの漆黒のサーベルの感触を求めて、虚空をなぞっていた。

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