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第47話 最果ての海に蝶は舞う

 絶望の淵から生還した「大好きな仲間」であるディオンとアルベローゼ。

 その奇跡の再会に、エリカの感情は激しく揺さぶられました。  

 彼女にとって、沈黙した魔導生物兵器研究所は、大切な仲間を追い詰め、死の恐怖に晒した忌まわしき負の遺産でしかありません。


「――全部、焼き尽くしてやるわ!!」


 エリカが杖を突き立てると、彼女の魔力と怒りに呼応するように、足元から巨大な紅蓮の渦が巻き起こりました。  

 それは単なる火炎ではありません。

 かつて彼女を蝕んだ「魔王」に対する思いが全て載せられた浄化の極大猛火。  

 『ゾーネル・デスロイ・インフェーノ(紅蓮の終焉業火)』  

 炎は触手のように這い回り、冷徹な機械群を溶かし、培養槽の汚濁した高濃度魔導水を蒸発させ、壁面に張り巡らされた魔導回路を一本残らず焼き切っていきます。


 この火こそが、旧世界の終焉を告げる号砲となった


 施設全体が断末魔のような軋み声を上げる中、エリカの魔法は「出口」を隠していた欺瞞の隔壁をも焼き落としました。  

 炎に照らされて露わになったのは、もはや骨組みだけとなった施設の中心を貫く、巨大な『水槽内点検用螺旋階段』。

「あそこよ! あそこから上へ行ける!」  

 エリカの叫びに導かれ、一行は燃え盛る研究所を背に、驚くほど高いところにある大水槽の頂点へと駆け上がりました。


 辿り着いたそこには、瓶のコルク蓋のように嵌め込まれた、白く光る巨大な石がありました。  研究所のあらゆる機能を焼き払ったエリカの炎が、この最上部の封印を維持していた魔力をも限界まで弱めていました。

「……こいつが最後だ。どけ、俺が道を作ってやる!」  

 バハルが、全身の力を込めて大斧を振り抜きました。

 ガゴォォォォォン!!

という轟音と共に「コルクの蓋」が打ち抜かれたその先から、眩いばかりの光が溢れ出しました。


 光の向こう側に飛び出した一行が草原に降り立ったその時、世界は激しく震動しました。

 世界中で大規模な地盤沈下が発生したのです。

 特に、ディオンたちの故郷に近い広大な大砂漠は、地を割って押し寄せた海水に飲み込まれ、瞬く間に全てが青い海へと姿を変えていきました。


 ライナスとエリカは思いました。

(魔導生物兵器研究所は、あの忌まわしき地下都市の天井を支え続けていた柱の中でも、要の柱の役目もあった。そこが崩壊した事から、全ての柱がバランスを保てなくなって連鎖的に崩壊したのだ)


 傲慢な記憶を詰め込まれた「アニマ=ゼロ」と共に、あの狂った文明は永遠に地中深くへと没し、地図から消え去ったのでした。


 揺れが収まったあとに残ったのは、美しく澄み渡った空と、新しく生まれた海のささやきでした。

 彼らが立っていたのは、生まれ故郷アイナル村にある、あの古びた石碑の場所。

 実は、この石碑こそが地下都市の「出入り口」を封じる最後の一片だったのです。

 村の石碑の真下にはアニマ=ゼロの培養水槽があった事が判明したのでした。

 

 だから、あの時エリカにアニマ=ゼロが取り憑いたのか。

 ライナスは、察しましたがエリカの手を強く握りしめ、何も言いませんでした。

 ライナスの視線に気がついたエリカは、ライナスの胸に顔を埋めて言います。

「大丈夫よ。私も同じ事思ってるから」

 ライナスは、エリカの顎をやさしく持ち、世界で一番優しいキスをします。

 エリカの頬にはとめどなく涙が流れていました。


 それは、長きにわたって彼女の心を縛り付けていた孤独な呪縛が、最愛の人の温もりによって静かに溶け出していく、魂の浄化の証でした。

  絶望の淵で見つめていた暗闇も、明日を疑う怯えも、その唇が触れた瞬間にすべてが過去という名の彼方へと押し流されていったのです。


「……帰ってきたんだ。本当に、僕たちの家に」

 蘇生したばかりで、ほぼ一糸まとわぬ姿だったディオンとアルベローゼ。

 二人は、バハルとライナスから借りた無骨なマントを肩から羽織っただけの姿でしたが、その表情は晴れやかでした。

 ふと、アルベローゼが自らのマントの端を、小さく持ち上げました。

 ディオンはただ静かにその内側へと応じます。   重なり合う無骨な布地は、二人だけの小さな聖域となりました。

 その優しい闇の中で、二人はお互いの命を確かめ合うように、草原に仲良く倒れ込みました。


 いずれ、彼らの帰還は村人から騎士団へ、騎士団から軍本部へ、そして女王エレオノーラの元へと届くでしょう。

 世界を救った英雄たちの知らせは大陸全土を駆け巡り、各地で盛大な祝典と、終わりのない酒宴が彼らを待ち受けているはずです。

「また、バカ騒ぎができるな、バハル」

 ディオンが空を見上げたまま、穏やかに笑いました。

「望むところさ、ディオン。……お前が戻ってこなかったら、誰とあんな馬鹿げた冒険ができるってんだ。今夜は付き合えよ。全員、生きてるんだからな!」

 バハルが照れ隠しに豪快に笑い、その横でリニが涙を湛えた瞳で優しく微笑みます。

「皆さん、本当にありがとうございます。」

「ありがとうじゃないわ。あなたこそが英雄の一人なのよ。」

 リニの頭を背伸びして撫でるエリカ。

 リニは褒められているネコみたいに目を細めます。

 少し離れた場所では、エリカが最愛の婚約者、ライナスの腕にしっかりと抱きついていました。 「エリカ。君たちと一緒だと本当に退屈しないな」

「当たり前でしょ、ライナス。……ねえ、私たちも、もう結婚しましょうよ。これからはずっと一緒にいたいの」

「もちろんだ。この旅を終えて、君を離す理由なんてどこにもない」

 その幸せな空気に包まれながら、アルベローゼはディオンの胸に顔を埋め、いたずらっぽく囁きました。

「ディオン、私はあなたのことが大好きなんだよ。知ってる?」

「……アルベローゼ、僕だってそうさ。言葉では足りないくらいにね」

「ガハハ! おいディオン、お熱いのは後でやれよ!すっぽんぽんだろ! マントの下がどうなってんのか、村の奴らに見られたら小っ恥ずかしいぜ!」

 バハルの野暮天な冷やかしが青空に響き渡り、六人は一斉に笑い出しました。

 かつての地下文明は地底に沈み、新しい平和が始まりました。


 世界を揺るがした地盤沈下から一年。


 かつて大砂漠と呼ばれた場所は、いまや生命の輝きを湛えた内海へと姿を変えていた。その辺境、地図にも記されていないような小さな半島の村に、六人の英雄たちの姿があった。

 豪華な王宮の祭壇ではなく、潮風にさらされて木肌の剥げた、小さな村の教会。

 そこには着飾った貴族も、鳴り響く祝砲もない。

 ただ、村の老神父が静かに控える中、新郎であるライナスが前へ進み出た。

 ライナスが静かに、最愛の人を見つめて口を開く。

「……エリカ」

 その一言だけで、全てが通じていた。

 純白のドレスに身を包んだエリカは、ライナスの腕に、そっと、けれど確かな力を込めて手を添えた。

 かつて彼女の精神を蝕んでいた「アニマ=ゼロ」という名の呪いも、戦闘のたびに湧き上がっていた暗い殺意も、いまはもう微塵も存在しない。

 ただ、愛する人の呼ぶ声と、この静寂だけが、彼女を優しく包んでいた。

 エリカはライナスの瞳を真っ直ぐに見据え、ただ短く、微笑んで答えた。

「……ええ」

 その背後では、仲間たちがそれぞれの距離で見守っていた。

 バハルは、大きな体を小さく丸めるようにして、その太い腕に一人の赤ん坊を抱いていた。

 リニとの間に授かった、生後11ヶ月になる娘だ。

「おい、よしよし……。今日はエリカ姉ちゃんの晴れ舞台なんだ、静かに見てような……」

 かつて巨大な魔物を一撃で粉砕したその手が、壊れ物を扱うように繊細に赤ん坊をあやしている。

 娘はバハルの髭を小さな手で掴んで楽しげに声を上げ、隣でリニが慈愛に満ちた目で見守りながら、そっと夫の肩に寄り添っていた。


 一方、アルベローゼはといえば、教会の隅で「ふむふむ」と真剣な顔をして、宙に古代魔導エルフ文字をいくつも書き連ねていた。

 淡い緑色の輝きを放つ文字たちが、彼女の指先の動きに合わせて空中に静かに並んでいく。

「アル、何をしているんだい?」

 ディオンが小声で尋ねると、彼女は得意げにウィンクをした。

「内緒。せっかくの式なんだから、聖都の偉いおじさんたちがやるような古臭い儀式じゃなくて、私の最高傑作を見せてあげようと思ってね」


 式は静かに始まった。老神父の掠れた声が、静寂の中に響く。

「……如何なる時も、共に歩むことを誓いますか?」

「誓います」

 ライナスの声は、かつてないほど澄んでいた。

 エリカはその言葉を聞いた瞬間、長年の旅で負った心の傷が、完全に癒えて消えていくのを感じた。

「私も、誓います。……死が二人を分かつまで、いえ、分かたれてもまた見つけ出すって、約束するわ」

 エリカの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。

 それは悲しみではなく、全ての重荷から解放された、純粋な歓喜の雫だった。

 指輪を交換し、二人が静かに唇を重ねたその刹那。

「――今だよ!」

 アルベローゼが指をパチンと鳴らした。

 書き連ねられた古代文字が弾け、教会の天井をすり抜けて、数千の「光の蝶」が舞い上がった。

 それは彼女が編み出した、攻撃性の全くない純粋な光の精霊魔法。

 蝶たちは教会の外へと溢れ出し、新しく生まれた青い海の上を、キラキラと輝きながらどこまでも飛んでいく。

「わあ……綺麗……」

 エリカが顔を上げると、バハルの腕の中にいる11ヶ月の娘が、光の蝶を追いかけるように小さな手を伸ばしてキャッキャと笑っていた。

 それを見たバハルが、ついに堪えきれずに「ううっ」と鼻を鳴らして泣き出した。

「おい、バハル。主役より先に泣くなよ」

 ディオンが笑いながら彼の肩を叩く。


 教会の外に出ると、半島の先には黄金色に輝く海が広がっていた。

 かつては常に魔物の影を警戒し、剣を手放せなかった野外の散策も、今ではただの穏やかな風景の一部だ。

 地底に沈んだ忌まわしい文明と共に魔の気配は完全に拭い去られ、今や子供たちが草原を駆け回っても、ただ蝶が舞うだけ。

 新しい潮風が、芽吹いたばかりの草原をどこまでも優しく揺らしている。


 のちに歴史家たちは、この一連の出来事をこう記すことになる。

「彼ら六人が歴史の表舞台にいた時間は短かった。しかし、彼らが魔の根源を断ったことで、人類は2000年に及ぶ『魔物に怯え、捕食され続ける暗黒の日々』から真に脱却したのである。」


 壁の中に震えて閉じこもる時代は終わり、人は初めて、空と海の広さを自らのものとしたのだ」


 



  


 ディオンはアルベローゼの肩を抱き、バハルは赤ん坊を高く掲げ、リニがそれを支える。

 そしてライナスが、慈しみを込めてエリカを優しく抱き寄せた。

 六人の英雄たちが歩んできた血と涙の道は、いま、この穏やかな村の昼下がりに辿り着いた。

 彼らが救った世界は、これからゆっくりと、けれど確実に、この海のように美しく再生していくだろう。

 遠くで響く波の音と、仲間たちの笑い声。

 それは、これから数百年、数千年と歴史の教科書に残り、人々の口端に登り続ける「伝説」の、もっとも愛おしく、もっともささやかな真実の姿だった。



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